第28話
午前十一時を少し過ぎた頃、部屋着から着替えて家を出る。空を見るまでもなく、体に纏わり付く空気で鬱陶しいほどに太陽が光り輝いていることがわかる。
藤花は急ぎ足で駐車場へ向かう。
ほんの数分、外気に触れただけなのに汗が流れる。七月の終わり、真夏日の太陽が藤花の気力を奪っていく。
「なんでこんなに暑いの」
思わず文句が口に出る。
こんな日は涼しい部屋に引きこもっていたいが、それは許されない。藤花は己の意思とは関係なく作られた予定をこなすため、車に乗り込んだ。
エンジンをかけて、エアコンのスイッチを入れる。
吹き出る熱風に顔を顰め、藤花はもう一度「暑い」と呟いた。車内にいても、Tシャツの袖から伸びた腕が太陽に焼かれて熱を持つ。
藤花は日陰のない街を睨むと、泉野高校へ向かう。
目的地を決めたのは、菖子だ。
迎えに来いと言われて、断ることができなかった。おかげで、藤花は菖子が補習を終える時間に合わせて車を走らせることになっている。
気が乗らないが、会いたくないわけではない。むしろ、会いたいと思う。菖子の存在は、藤花の中で日に日に大きくなっている。そして、それを認めたくないと思う自分がいる。
感情を上手く制御できない。
藤花は、アクセルを踏む足に力を入れた。
夏休みというものは学生の特権で、社会人にはないに等しい。盆休みという名の短い休みがあるだけだ。去年の夏は、藤花も学生を羨みながら働いていた。
フロントガラスの向こう側に見える街を歩く人は少ない。道も混んでいることがなく、泉野高校の少し手前で菖子の姿が見えてくる。
藤花はハザードランプを付けると、車を歩道に寄せた。
「お待たせ」
助手席の窓を開け、菖子に声をかける。膝よりも長い紺色のスカートに、白い上着。爽やかなセーラー服に目を細めていると、ドアが開く。
「遅い」
真面目としか言い様のない制服の着こなしに対して、不真面目としか言い様のない髪色をした少女が文句を言いながら車に乗り込んでくる。
「そっちが早いんだよ」
約束の時間は守った。
文句を言われる筋合いはないと言葉を返して、藤花は車を出す。
「村瀬さんは帰ったの?」
待ち合わせの場所にいなかったが、いてもおかしくはない人物の名を口にする。
「翠は塾があるって」
「補習に塾か。大変そうだ」
夏休みの予定が勉強で埋まっているなど、自分なら御免だと藤花は思う。しかし、翠の姿がなかったことに安堵もしていた。今日の予定に彼女の名は組み込まれていなかったが、菖子が気まぐれに連れてくる可能性もあった。
「で、これからどこ行く? うちに来る?」
藤花が尋ねると、菖子の胃が「ぐう」と低く返事をする。
「いい音だね。とりあえずお昼にしようか。何か食べたいものある?」
「何でも良いの?」
「……私が無職だってことを考えてくれると嬉しい」
大人らしく何でも良いと答えたいところだが、上限を設けずに使えるほど裕福なわけではない。リクエストが控え目ならありがたいと思いながら、藤花は菖子の答えを待つ。
来た道を戻るように走る車の中で、菖子がうーんと小さく唸って考える。ランチというよりもデザートと言うべきものが並べられ、ジャンクフードの名がいくつか口から飛び出てくる。最終的には財布の中身を考えたリクエストとしてハンバーガーが告げられ、藤花はファーストフード店へ向かった。
「デートみたいだよね」
車を走らせて五分ほどの場所にあった赤と黄色の看板が目印の店内、菖子が浮かれたように言う。
「デートじゃないから。相談するためでしょ、相談。話しするの、ここでいい?」
黒紅に会うか、会わないか。
それを決めるために呼び出され、菖子を迎えに来たはずで、デートをするためにこの場所にいるわけではなかった。そもそも話し合いをしたところで、答えは変わらない。藤花は菖子を連れて黒紅に会うつもりはないし、自分一人で行くと決めている。
「えー、どこか行きたい」
「あのねえ」
「食べたら、どこか連れてってよ」
菖子がテーブルに置いたハンバーガー、ポテト、ドリンクのセットから、ハンバーガーを一つ手に取る。そして、包み紙を剥がすと大きな口で噛みついた。
「大体、どこかってどこ」
「夜景が綺麗なところ」
ハンバーガーをもう一口食べる前に菖子が答える。
「暗くなる前に送り届けるから」
素っ気なく言って、藤花はほっそりとしたポテトを一本つまむ。ジャガイモのなれの果てを口に押し込み、咀嚼する。向かい側では、諦めるつもりのない菖子がドライブでもいいからとねだっていた。
時間なら腐るほどある。
対して、しなければならないことはそれほどない。藤花が毎日していることと言えば、前世について調べることくらいのものだ。ときどき仕事を探してはいるが、自分が必要とされる仕事は見つかっていなかった。
積極的に働きたいわけではない。
しかし、仕事をしていないということには不安がある。以前のように、好きではなくても嫌いではない適当な仕事に就くべきだと思い始めている。
「菖子は楽しそうだよね」
藤花はハンバーガーを胃に落とし、ため息交じりに愚痴をこぼす。
「藤花は楽しいことないの?」
「あまり」
「あたしといても楽しくない?」
店内のざわめきに消えてしまいそうな声が聞こえる。
目の前の少女を見れば、楽しそうにデートだと言っていたときのような明るい表情は消えていた。雲がかかったように、瞳から光が失われている。
「そうだなあ」
楽しい、と答えれば良いことはわかっている。
だが、藤花の口は余計な言葉をつけ加えた。
「楽しいか、楽しくないかで言えば楽しい」
「こういうときは、嘘でも楽しいって言うべきじゃない?」
菖子があからさまに不機嫌な声を出す。
藤花も社交辞令というものくらい知っている。だから、菖子の言葉に頷くべきだと思う。しかし、藤花は彼女を追い詰めるような台詞を口にした。
「嘘、言われたい?」
問いかけた言葉には、丸めたハンバーガーの包み紙が投げて返される。
「ゴミはゴミ箱へって習わなかった?」
藤花は眉根を寄せて、胸元目がけて投げられた包み紙をテーブルの上に戻す。
「藤花が捨てて」
我が儘なお嬢様は扱いが難しい。
自分の言葉を棚に上げて、藤花はそんなことを考える。
「わかった」
藤花は短く答えて、ハンバーガーをかじりながら投げつけられたゴミをトレイの上に載せる。菖子を見ると、ポテトを口に運んでいた。
お昼時らしく混雑した店内は、人の声があちらこちらから聞こえてきて少しくらいの沈黙なら気にならない。黙って食事をすることが目的ではないが、話すべきことを口にしても菖子には届きそうになかった。
静かに食事をすれば、目の前にあるものはあっという間に消えていく。ハンバーガーとポテトを平らげてドリンクを半分ほど飲むと、菖子が「どこか連れて行ってよ」とまた言った。
夜景を見るつもりはないが、暗くなるにはまだ早い。
家に戻らなければ、話しができないわけでもない。
藤花は、菖子を乗せた車で山道を走る。彼女の機嫌を損ねたからというわけではなく、大人げなかった自分に後悔をした結果だ。罪滅ぼしに菖子の願いを叶えようと三十分ほどドライブをして、高台にある公園で車を止めた。
駐車場から少し歩いた展望台で、眼下に広がる街を見る。
「おー、眺めが良い」
弾んだとまではいかないが、多少は気分が良くなったのか楽しそうに菖子が言う。
「夜景じゃないけど、良いでしょ」
藤花は隣に立つ少女に向かって、微笑みかける。
「今度は夜に来たいな」
「高校卒業したらね」
「高校卒業しても会ってくれるんだ?」
「菖子が良い子にしていてくれたらね」
「結構な無理難題なんだけど」
はあ、とため息をついて、菖子が「早く大人になりたい」と呟く。
「大人になったら、学生に戻りたくなるから」
藤花があははと笑って菖子の背中をぽんと叩くと、見下ろす街では感じなかった風が吹いた。
屋上で初めて菖子を見たときのように、紺色のスカートが翻る。赤にも紫にも見える髪も揺れ、意識が六月に引き戻される。
藤花は足元が不確かに感じられ、体がふらつく。あのとき、空を飛ぼうとしていた少女の腕を掴む。
「藤花?」
名前を呼ばれて、菖子を見る。
彼女は手すりの向こう側ではなく隣にいる。藤花は、白い制服から伸びた腕の柔らかな感触に小さく息を吐いた。
「ごめん。ちょっと疲れたのかも」
掴んだ腕を放して、ベンチに座る。
山とは言え、夏は暑い。
街にいるよりは涼しいものの、汗が流れる。炎天下、公園に来るような物好きは少ないようで、周りを見ても藤花たち以外に人はいない。涼しい場所ではないが、目的を果たすには十分な場所だと藤花は思う。
「黒紅のことだけど――」
口を開くが、言葉は最後まで紡ぐことができなかった。
「会わないで」
菖子が藤花の台詞を奪うように言って、隣に座る。
「一緒に会いに行くつもりじゃなかったの?」
昨日、黒紅に会って話したいと告げられたと話したら「あたしも行く」と言ったのは菖子だ。来るなと言った藤花に「絶対ついてく」とも言った。だが今、菖子が口にしたのはそのどれとも違う言葉だ。
「どうしても藤花が会いに行くっていうなら、ついて行くけど……。本当は黒紅に会って欲しくない」
「前世、知りたいって言ってたのに?」
藤花は、淡藤のアカウントを作ったときのことを思い出す。今、黒紅に会うことに否定的な菖子は、仲間をきっかけに前世に関することを思い出すかもしれないと乗り気だったはずだ。前世のことをもっと知りたいとも言っていた。
それを考えると、前世の仲間かもしれない黒紅に会いたいと駄々をこねることは理解できても、会って欲しくないと言う理由がわからない。
「知りたいけど、淡藤以外のことはそれほど知りたいわけじゃない。黒紅とかどうでもいい」
菖子が真っ直ぐな瞳で藤花を見る。その目は嘘を言っているようには見えない。揺るぎない目に、藤花は菖子がずっと本心を隠していたことを知る。
それでも、藤花は前世の手がかりを逃すつもりにはなれない。迷ってはいるが、会いたいという気持ちが消えたわけではなかった。
「じゃあ、私だけで会おうかな。まだ決めたわけじゃないけど、もし会うことになって淡藤のことで何かわかったら後から知らせるし、それでいいんじゃない?」
「よくない。藤花も会わないで」
即座に返ってきた問いかけへの答えには、菖子の願いが括り付けられていた。だが、藤花は結ばれた紐を解き、彼女の願いを地に落とす。
「菖子が会いたくないならそれでかまわないけど、私は会いたくないわけじゃない。だから、もし会うことに決まったら、私だけで会えば丸く収まるでしょ」
「収まらない。黒紅と会って、二人の間になにかあったらやだもん」
ベンチに置いた藤花の手に菖子の手が重なり、ぎゅっと握られる。触れ合った部分が降り注ぐ太陽の光よりも熱く、藤花は菖子の手を振りほどこうとするが、磁石のようにくっついた手は離れない。
流れ込んでくる体温が心を波立たせる。
風が吹けば、と藤花は空を見上げるが、高台は空気の流れが停滞していた。
「なにかあったらって、そんなの何もないに決まってるでしょ。あるわけないから」
強く握られた手を菖子に預けたまま、藤花は小さな子供に言い聞かせるように告げる。しかし、菖子は何か言うでもなく黙り込む。沈黙が続き、藤花が隣に視線をやると菖子が立ち上がった。
「藤花ってさ、あたしのことどんな人間だと思ってるの?」
「どういう意味?」
脈絡のない言葉に問い返す。
「あたし、淡藤が見つからないからって、死のうとするくらい弱い人間だよ? 前世の仲間探すの手伝ってるけど、新しい仲間が見つかったら、藤花がその人のこと好きになるかもしれないって不安になる。年も離れてるし、こんな子どものあたしのことなんてどうでもいいんじゃないかっていつも思ってる」
藤花に背を向けたまま、遠くに見える街の方を向いたまま菖子が言葉を紡いだ。
表情は見えないが、青い空とは対照的な顔をしているはずだと藤花は思う。
八つ下の高校生は、大人を大人とも思わない態度で、傍若無人に見えることもあった。生意気で、強引で、年下とは思えないほど強い人間に見えていた。だが、それは正しくて間違っている。
藤花は、目に見ているものがすべてではないということを忘れていた。八つ歳が離れた嵐のような少女は、中学を卒業したばかりの子どもなのだと今さらながら気がつく。
「どうでも良くなんかないよ」
喉に詰まりそうになりながら、藤花は声を出す。
菖子という存在は、藤花の心を乱す。
知り合って間もない高校生のことばかり考えている。
その振る舞いにいつも振り回されている。
どうでもいいと頭の片隅に追いやり、いらない記憶だと封をすることはできない。
「でも、好きじゃないよね。あたし、藤花の言葉にまったく傷つかないわけじゃないよ」
菖子がくるりと振り向き、藤花を見た。
「それに、自分のしたことを後悔しないわけじゃない。やりすぎたかなとか、強引すぎたかなって反省するし。嫌われたらやだなって思ったりもする。藤花があたしのこと好きじゃないのにキスするの、ずるいって思ったりもするもん」
ぐらり、と風景が揺れる。
ほんの数日前の出来事が藤花の胸を刺す。
唇に、菖子の熱は残っていない。だが、柔らかな感触は忘れていない。簡単に脳裏に浮かべることができる。
藤花は、強引で人の気持ちを考えていないのは自分だと強く自覚する。
「藤花が好きだから、好きなってもらえるようにしたいのに上手くいかない。あたしにとって藤花は特別で、同じように藤花の特別になりたいのに」
水槽の中に閉じ込められたように、苦しげな声が聞こえてくる。菖子が泣いているのではないかと彼女の目を見るが、そこに涙はなかった。
「ごめん」
藤花は、菖子の温もりが残る手を握りしめる。
ジリジリと肌を焦がす太陽の熱を奪うように風が吹く。
「謝らなくていいから、もっと優しくしてよ」
静かに、風に消えてしまいそうな声で菖子が言った。
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