記憶の欠片-反省室-

第25話

 反省室に送られるほどのことをしたのか。


 淡藤は、自問自答する。

 ベッドが一つ置かれただけの狭苦しい部屋に閉じ込められることになったきっかけは、管理官の蛍に告げた言葉だ。


『塔からしばらく出して欲しい。出してくれないなら、逃げ出してやる』


 十日前にそう言った。

 そして、反省室に送られた。

 解せない、と淡藤は思う。


 実際に脱出しようとしたのなら、反省室に閉じ込められても仕方がない。だが、淡藤は宣言をしただけだ。まだ咎められるような悪いことはしていない。


 淡藤は、枕を白い壁に投げつける。

 窓すらない部屋は、味気なく酷くつまらない。


 清潔さしか取り柄のないこの空間でできることは、眠ることと食べること。そして、本を読むことだけだ。しかし、一日中眠っているわけにもいかなければ、食事は決まった時間にしか出てこない。持ち込みが許された本は、すべて読んでしまった。


 淡藤は、床に落ちた枕を拾ってベッドに寝転がる。

 暇を潰す方法もなく、目を閉じる。

 視界が黒く塗り潰されるが、睡魔は訪れない。


 眠りすぎて目が冴えている。

 最低限の衣食住が保障されていても他に許されていることがなければ、生きていることが自体が拷問に近い。淡藤は、塔からよりも一刻も早くこの部屋から出して欲しいと願う。


「ああああっ!」


 目を開けて、天井に声をぶつける。

 壊れることなどないとわかっているが、この空間を壊したくて声を張り上げる。だが、自分の声が響くばかりで反省室に変化は訪れない。


 淡藤は、ため息をつく。

 起き上がって、何度も読んだ本を手に取る。ぺらぺらとページをめくっていると、トントン、と小さな音が聞こえて扉を注視した。


 食事の配給口は開かない。

 当たり前だと淡藤は思う。

 記憶を辿るまでもなく、食事は出てきたばかりで次の食事にはまだ早い。だが、そうなると、淡藤には扉をノックされる理由が思い浮かばない。


 十日間、訪ねてくる人はいなかった。

 十日間、ドアが開くことがなかった。


 しかし、今日は違った。

 カチャリ、という音とともにドアノブが動き、一生開くことがないかと思われたドアが開く。


「久しぶり。迎えに来た」


 声とともに、リボンで髪を結んだ菖蒲が反省室に入ってくる。


「部屋に戻っていいって」


 菖蒲がにこりと笑う。

 久々に聞いた自分以外の声に、手から本が落ちる。だが、淡藤は落とした本を拾うよりも先に菖蒲に飛びついた。


「そんなに部屋に戻れるのが嬉しいの?」

「嬉しいよ! ここで死ぬかと思った」


 淡藤は弾んだ声で言い、背中に回した手に力を入れて菖蒲をぎゅっと抱きしめる。


「大げさすぎる。食事は出てたんでしょ?」

「出てたけど。何もすることがないから、退屈で死にそうだった」

「死ぬ前に迎えに来られて良かった」


 菖蒲がくすくすと笑いながら言う。

 優等生でもないが問題児でもない菖蒲は、反省室がどのようなものか知らない。淡藤はそれは幸せなことだと思うが、何もない空間がどれほど辛いものか知ってもらうべく、大げさではないと告げる。だが、反省室での十日間を語って聞かせる前に、菖蒲が淡藤の背中を叩いた。


「歩きながら話そう」


 そう言って、菖蒲が潔癖なほど白い廊下へ出る。淡藤は反省室を後にして、菖蒲の隣を歩く。


「脱走しようとしたんだって? 淡藤が逃げだそうとしたって、みんな大騒ぎしてるよ」


 楽しそうな声を廊下に響かせ、菖蒲が好奇心に満ちた顔を淡藤に向ける。


「違う。脱走しようとなんてしてない。宣言しただけ」

「宣言?」

「そう。ここから出さなきゃ逃げてやるって蛍に言った」

「なにそれ。脱走を予告する人なんて、初めて見た」

「予告じゃない。脅しただけ。少しでも良いから塔の外に出してくれたら、逃げたりしないし」


 塔から解放してくれと頼んだわけではない。

 外へ出たら二度と戻って来ないなどと言うつもりもない。淡藤は、半日、いや一時間でも良いから塔の外へ出たいと願っただけだ。しかし、願いは叶えられるどころか、反省室への監禁に変わった。


「脅しになってない」

「そうだけど」


 脱走が脅しになるわけがないことは、淡藤も理解している。それでも、自分ができる範囲で塔に害を与える行為といって思いついたものが脱走だったのだから仕方がない。


「そんなにここから出たいの?」

「出たいよ。友達に会いたいし、遊びにも行きたい。こんな自由がないところ、もう飽きた」


 塔の中は不自由だ。

 反省室に比べれば、自由に行動ができる。衣食住に困ることもないが、好きな服を着て、好きな物を好きな時間に食べ、好きに部屋を飾ることは許されていない。塔の外で生活していた頃に比べるとすべてが不自由で、淡藤は限られた世界に息苦しさを感じていた。


「自由か。そこそこある方だよ」


 菖蒲が静かに言う。


「ないよ」


 即座に菖蒲の言葉を否定すると、彼女はぴたりと足を止めた。


「淡藤の部屋、行ってもいい?」


 ふわりと笑って、淡藤を見る。


「いいけど。突然なに?」

「ちょっと話したいことがある」


 どんな話かと聞く間もなく、菖蒲が白だけが目に入る廊下を歩き出す。淡藤は彼女を追うようにして反省室がある管理区を出て、部屋がある居住区に向かう。途中、塔に住んでいる何人かの能力者に声をかけられ、脱走騒ぎの真相を問われ、反省室の居心地を尋ねられる。そのたび、菖蒲がくすくすと笑い、淡藤は不機嫌に説明をすることになった。


 いくつかの障害を越え、部屋に辿り着くと、菖蒲がベッドに腰掛けてにこやかに口を開いた。


「さっき、淡藤は自由がないって言ったけど、恋をする自由くらいはあるよ」

「恋? この中で?」


 噂話に興味がない淡藤は、塔内の事情に疎い。


 誰かと誰かが付き合っている。

 誰かと誰かが別れた。


 そういった類いの話は、塔の外にいた頃からほとんど耳にすることはなかった。そのせいか、菖蒲の言葉がピンとこない。


「そう。付き合ってる子、それなりにいるけど」

「そうなんだ。知らなかった」


 淡藤が素直に答えて菖蒲を見ると、じっと見つめ返される。


 意図したわけでいないが、視線が合う。

 会話が途切れ、淡藤は他人の部屋にいるような気まずさを感じる。それまで存在を感じなかった空気が重く肩にのしかかり、立ち上がろうとするが、引き留めるように菖蒲が言った。


「淡藤。あたしのこと、嫌い?」


 声は柔らかく、言葉自体に不快感はない。

 しかし、前後のつながりがまったくない言葉に、淡藤は尋ね返さずにはいられなかった。


「菖蒲のことは好きだけど。……どうして?」


 視線をそらし、白い壁を見る。

 ベッドに置いた手に、温かなものが触れる。

 確かめる必要はなかった。

 淡藤には、それが菖蒲の手だとわかる。


「じゃあ、付き合おうよ」


 投げかけられた言葉には、淡藤の疑問に対する返答は含まれていなかった。


「そういう意味で好きって言ったわけじゃないんだけど」


 穏やかだが強引さを感じる声に、淡藤は反論する。

 しかし、話をかみ合わせるつもりがないのか、菖蒲が己の考えのみを押しつけてくる。


「ただの暇つぶしだと思ってくれていいから。深く考えないで」 


 淡藤の頭の中で、付き合うという言葉と暇つぶしという言葉が結びつかない。少なくとも十八年生きてきた中で、暇つぶしに付き合ってくれと言われたことはなかった。

 だから、結びつき合う言葉を繋ぎ合わせて、一つの答えを導き出すことになる。


「――菖蒲って、私のことが好きなの?」


 淡藤は、白い壁から赤みがかった紫色の髪を持つ菖蒲へ視線を移す。


「好きだよ。一年経ってもここから出ようとしてるなんて面白い人、他にいないもん」


 菖蒲が何でもないことのように言い、淡藤の肩に手を置いた。その手に力が入り、淡藤は「どうしたの?」と聞こうとした。だが、言葉を口にする前にベッドへ押し倒されてしまう。


「菖蒲?」


 柔らかいとは言い難いベッドの上、疑問を含んだ視線を投げかける。


「ちょっとした暇つぶし」


 菖蒲が鮮やかに笑い、淡藤は目を奪われる。

 一瞬で視界が菖蒲色に染まり、気がつけば二十歳まで着用を義務づけられているブレザーのボタンを外されていた。


 紺色の制服は洗練されているとは言えないが、野暮ったいという程でもない。支給されているものだと思えば、“その程度のもの”で片付けられる代物だ。


 しかし、淡藤にとって制服は、記憶の底に埋めようとしている“外の世界の思い出”を引きずり出す嫌がらせのようなものだ。着用せずにすむならそうしたいと思っている。

 と言っても、この場で制服を脱がされたいわけではなかった。


「暇つぶしにしては、少し過激じゃない?」


 白いブラウスのボタンにかけられた手を引き剥がし、菖蒲を見る。


「気持ち良いことは嫌い?」

「私、まださっきの返事してないんだけど」


 淡藤は、意図的にそらされていく会話を修正する。すると、催促するように菖蒲が言った。


「じゃあ、今して」


 考える時間を与えるつもりはないらしく、体勢が変わることはない。淡藤の体の上には、相変わらず菖蒲がいた。


 淡藤は、ふう、と息を吐く。


 塔に来てから一年。

 行動を共にしてきた菖蒲は、淡藤にとって好ましい人物だ。今、こうして触れられていることに嫌悪感もない。この先に興味がないわけでもなかった。だが、好ましいからといって、嫌悪感がないからといって、彼女を恋人として認めるのは早計だとも思う。


「仮の恋人ってことにしといて」


 この場での返事を強要された結果、結論は曖昧なものになる。


「いつ仮が取れるの?」

「ちゃんと暇つぶしになったら」

「わかった。今は仮でいいよ」


 菖蒲が不明瞭な提案をあっさりと受け入れる。

 塔内の恋愛事情はわからないが、これが普通ではないことくらいは淡藤にもわかる。しかし、反省室に閉じ込められて退屈をしていたせいか、不自由な世界にはこれくらいの刺激が必要だとも思えた。


「目、閉じて」


 短く乞われて、淡藤はそれに応える。

 菖蒲の姿が消え、世界が黒くなり、唇に柔らかなものが触れる。

 何の感慨もないが、キスをしたという事実に淡藤の胸が高鳴った。


「初めてキスした」


 目を開けると、菖蒲がやけに神妙な顔で告げた。


「私も」


 そう言って、淡藤は唇に触れてみる。

 指先の熱を感じるが、それは菖蒲から伝わってきた熱とはまったく違う。淡藤は熱を確かめるように、今度は自分から菖蒲の唇に触れた。


 二度目のキスの後、菖蒲の手が再びブラウスのボタンを外し始める。


「電気、消してよ」


 煌々と自らを照らす光に文句を言うが、菖蒲の手は止まらない。


「淡藤のこと、見てたい」

「恥ずかしいからやだ」


 淡藤は体を起こそうとするが、菖蒲に肩を押さえつけられ、唇を塞がれる。

 ブラウスのボタンがすべて外され、下着が露わになる。


 耳に唇が這う。

 舌先が押し当てられ、声が漏れた。

 首筋を指先が走る。


「淡藤、ここから逃げたりしないで。ずっとここにいて」


 耳元で囁かれて、淡藤は菖蒲の背に腕を回した。


「もう反省室に送られたりしないようにする」


 逃げない。


 そう答えるべきだとは思ったが、できない約束を口に出すほど不誠実にはなれない。そして、今も胸に残る外の世界への未練に逆らうこともできなかった。


「一緒にいれば、きっとここの生活も楽しいよ」

「そうだね」


 淡藤が答えると、胸元にキスが落とされた。

 ブラウスが脱がされ、胸を覆っていた下着も取り払われる。

 スカートの中に手が入り込み、太ももを撫で上げる。


 肌を這う手は、心地が良かった。

 呼吸が浅く短くなる。

 淡藤は、体を照らす明かりから逃げるように目を閉じた。

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