第24話
あるべきものがあるべき場所に収まるように、決められていたことのように唇が重なった。
鼓動が早い。
どくどくと心臓の音がうるさい。
藤花は、軽く触れた唇が熱くてすぐに離れようとした。だが、触れ合った唇が離れる前に、静電気が発生したときのような痛みがこめかみの辺りに走る。瞼の裏が赤みがかった紫色に染まり、闇色だったはずの世界に人影が見えた。
記憶をえぐるように差し込まれる菖蒲色の髪。
頭の中に、誰のものかわからない意識を感じる。
穏やかな声が耳に響く。
藤花は目眩がして、唇を離した。
キリキリとこめかみの辺りが痛くて、眉間に皺が寄る。体がふわふわとして雲の上にでもいるように頼りない。気持ちを紛らわせるように強くこめかみを押さえると、ぐらりと体が揺れた。
「藤花、大丈夫?」
「ええ? ああ、うん」
腕を掴まれて、声の主が菖子であることに気がつく。だが、頭がすっきりとせず、あやふやな言葉を発することしかできない。藤花は目をぎゅっと閉じて、瞼の裏に写った人影を思い出す。
鮮やかな髪色をした人物。
それは、菖蒲だとしか思えない。
しかし、頭の中に感じた意識は誰のものかわからなかった。
「ごめん。ちょっと頭が痛くなって。菖子は大丈夫?」
指先でぐりぐりとこめかみを押しながら、並んで座っている菖子を見る。
今、藤花の身に起こったこと。
前世の夢を見るように、それと同じことが菖子の身に起こっていたとしてもおかしくない。
「あたしは平気だけど。……頭が痛いのって、もしかして今のキスのせい? するの嫌だった?」
「え?」
「キスしたら、様子がおかしくなったから」
菖子の声は、いつもと変わりがなかった。だが、Tシャツから伸びる白い腕が酷く頼りなさそうに見えて、藤花は菖子に肩をぶつける。
よく冷えた部屋にいるせいか、布越しに伝わってくる体温が心地良い。
菖子を安心させるため。
そう言い訳をして、藤花は菖子の手を握る。触れ合う場所が増えると、こめかみを締め上げていた痛みが和らいだ。
「キスは関係ないから。ちょっと何か見えて」
柔らかく言って、ベッドを背もたれにする。
「見えたって、何が?」
「菖蒲っぽい人が見えた」
「あたし、何も見えなかったよ」
「じゃあ、見えたのって私だけか」
もしかしたら菖子も、という予想は外れていた。前世に繋がる人影が見えたのは藤花だけで、菖子の身には何も起こっていない。記憶を掘り起こせば、藤花には過去にも同じことがあった。
「そう言えば、初めて会ったとき。飛んでったリボンを捕まえて菖子の腕を掴んだときにも、同じようなことがあったんだよね」
あのときは、深く考えなかった。
考えている暇もなかった。
藤花は菖子という波に呑まれ、余裕がなくなっていた。
「屋上で菖子に触れた瞬間、視界が紫色っぽくなって、次に白い空間に人影が見えて、声が聞こえた」
「視界が紫っぽくなったって、もしかして見えたのは菖蒲?」
「わからない。はっきりとは見えなかったから」
記憶が曖昧なわけではない。
あの日、見たもの自体がぼやけていた。
繋ぎ合わせた記憶の前で目をこらす。だが、焦点の合っていない記憶がはっきりと見えることはなかった。
藤花は握っていた手を離し、アイスコーヒーに口を付ける。冷えた液体が喉を通り胃に落ちていく感覚に、残っていた頭の痛みが完全に消える。
「声は? なんて言ってたの?」
「それもわからない。あと、自分の中に自分じゃない誰かがいるみたいになって」
「それって、淡藤?」
「誰かはわからなかったけど、その可能性はあると思う」
初めて会った日と今日。
頭の中に、自分ではない意識があった。しかし、藤花にとってそれは嫌悪感を覚えるようなものではなかった。
菖蒲色を感じる影とともに現れたことを考えれば、感じた“意識”は淡藤のものである可能性が高い。
藤花は、涼しいが寒くはない部屋で背筋にひんやりとしたものを感じる。手先が冷たくなったような気がして、指先を掴む。自分の中に自分ではない誰かがいるなど、あまり良い気分がしない。
藤花は、淡藤という存在を体の中から追い出すように息を細く吐く。すると、何でもないことのように菖子が言った。
「あたしも初めて藤花に会った日、同じタイミングで同じようなことがあったよ」
「え?」
聞いたことのない話に、藤花の視線が菖子に釘付けになる。
「藤花に腕を掴まれたとき、淡藤が見えたんだよね。だから、藤花が淡藤だって思った。今は見えなかったけどね」
あの日、覚えがないはずなのに覚えのある記憶を見た藤花の前で菖子が呆然と立っていた理由がわかる。ただ、それを口にしなかった理由はわからない。
「今、初めて聞いた。なんで言ってくれなかったの」
「藤花だって、教えてくれなかったじゃん」
「あの日、色々あったせいで忘れてたんだよ」
「あたしだって、いろんなことがありすぎて忘れてた」
お互い様だと言って菖子が笑い、藤花もそれに釣られる。ひとしきり笑い合った後、菖子が藤花の腕を掴んだ。
「一回目も何か見えた?」
「見えなかった」
「……もう一回、してみる?」
唇を合わせることには、まったく抵抗がない。それどころか、菖子の唇に触れることを望んでいる。藤花は言葉に引っ張られるように、菖子の頬に触れる。だが、指先から彼女の体温が流れ込んでくると、藤花は自分のしていることが急に怖くなってくる。
今、キスを望んだのは本当に自分なのか。
自信がなかった。
藤花は、慌てて菖子から手を離す。
自分のどこかに封じ込められている淡藤が姿を現そうとしているようで、この場所から逃げ出したくなる。だが、藤花が立ち上がる前に明るい声が聞こえてきた。
「冗談だから」
ついさっき口にした言葉を打ち消すように、菖子が笑う。そして、取って付けたように尋ねる。
「夢、見られそう?」
「わかんない」
「もし、見られたらまたキスしてよ」
「ん」
藤花が曖昧に返事をすると、菖子が元いた場所へと戻っていく。八つも下の少女に気遣われ、藤花は苦笑する。
それからは、当たり障りのない話しかしなかった。
小難しいことを考える気力もなく、日が陰るまで数時間を怠惰に過ごし、高校生を送り届けることになる。
「菖子、忘れ物ない?」
「ない」
返事を聞いて、藤花は玄関へ向かう。菖子が追いかけるように後をついてくる。先に靴を履き、鍵を開けようとドアノブに向かって手を伸ばす。しかし、藤花の手はドアノブに着地することなく、菖子に捕まってしまう。
今日、何度か触れた手は心地良く、菖子の手を振り払うことができない。
『大好き』
頭の中に言葉が放り込まれ、体に声が響く。
藤花は斜め後ろ、菖子に視線を向ける。
耳に聞こえる声ではなく、能力で想いを伝えられることは初めてではない。だが、こんなことを繰り返されれば洗脳されてしまいそうだと藤花は思う。だから、こういうことはしないでと伝えようとしたが、口を開く前に鍵がカチャリと回される音がする。藤花はびくりと肩を震わせて、くっついていた手を引き剥がした。
「うわっ、お姉ちゃん!?」
ドアが開くと同時に、柚葉が声を上げる。
「おかえり」
「こんなところにいたら、びっくりするじゃん」
「こっちだって、急にドアが開いたら驚く」
「あれ? お客さん?」
藤花の後ろ、菖子の姿に気がついた柚葉が好奇心をたっぷり乗せて問いかける。
「そう。でも、今から車で家まで送るところ。お母さんが帰ってきたら、ちょっと出てるって言っといて」
「了解」
柚葉が芝居がかった敬礼付きで返事して、リビングへと向かう。
「今の人、妹?」
藤花は菖子の問いにそうだと答えて、玄関を出る。夕方だというのにサウナにでもいるような蒸し暑さの中、駐車場に向かって車に乗り込む。なかなか涼しい風がでないエアコンに文句を言いながら菖子を送り届けて家に戻ってくると、待ってましたとばかりに柚葉が部屋に入ってくる。
「さっきの子、なに? 高校生くらいじゃなかった?」
「くらいじゃなくて、高校生」
「え、なんで高校生と知り合いなの? どういう関係?」
今日あったことを思い返す間もなく、質問攻めにされる。
一人でいると前世が大きくなり、思考も行動も支配されそうな気がしていた。だから、今の藤花にとって柚葉は丁度良い存在だ。話をしていれば気が紛れる。だが、同時にうるさくもあり、藤花は勉強を教えていると答えて柚葉を追い返した。
やれやれと溜息をついて、ノートパソコンの電源を入れる。椅子に座ってSNSを開くと、淡藤のアカウントにメッセージが届いていた。
心臓が早鐘を打つ。
息が苦しくて、胸を押さえる。
胃も締め上げられるようにキリキリと痛かった。
藤花は内容を確認するためにメッセージアイコンをクリックしようとするが、指先が震える。
すうっと息を吸い込んで、ゆっくりと吐く。
気持ちが落ち着いたわけではないが息苦しさが収まって、アイコンをクリックすると、送信者名の“黒紅”が目に入った。
『前世のことでお話したいことがあります』
一行のメッセージ。
それは、藤花が待ち望んでいたものだった。
女か、男か。
超能力者なのか、管理官なのか。
淡藤や菖蒲に近しい人物なのか。
名前とメッセージからは何もわからない。
アカウントにも、投稿が一つもない。
わかることは、色にちなんだ名前であることだけ。
聞きたいことはたくさんある。
今すぐ質問攻めにしたいくらいだが、何から聞くべきかわからない。そもそも、いきなり質問するのは失礼かもしれない。
まとまらない思考が藤花の頭の中をぐるぐると回る。
なんと返事を書くべきか散々迷ってから、キーボードを打つ。
『塔の仲間ですか? ぜひ、お話を聞かせて下さい』
送信ボタンを押して、藤花は立ち上がる。
ノートパソコンの電源を落とそうとして、SNSをチェックする。すぐに返事がくるわけがないとわかってはいるが、何度も画面を見てしまう。
落ち着かない。
檻の中に押し込められた熊のように、うろうろとする。
右へ左へ歩いて、ベッドに腰掛け、立ち上がる。
何度も同じことを繰り返してから、藤花は思い出したようにスマートフォンを手に取って菖子にメッセージを送った。
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