第23話
約束の時間の十分前、藤花の前には私服姿の菖子がいた。
菖蒲色の髪はポニーテールに、見慣れたセーラー服はTシャツとショートパンツに変わっている。いつもよりも明るく健康的な姿は、藤花の中にある菖子と重ならない。しかし、似合っていないわけではなかった。見たことのない菖子の姿は新鮮で、藤花は視線をそらすことができない。
「どうしたの?」
菖子に問いかけられ、彼女を玄関に招き入れたまま微動だにしなかった藤花の肩がびくりと震える。
「あ、ごめん。私服、初めて見たなーと思って」
取り繕うような言葉の後、「上がって」と告げて背を向ける。
「部屋で待ってて。何か持ってくるから」
藤花はスリッパをパタパタと鳴らして、キッチンへ向かう。
夏休みだと頭ではわかっていたが、保存されていた菖子の姿はセーラー服のままだった。制服で訪ねてくるとは思っていなかったが、制服ではないことに驚いた。そして、菖子という人間の情報を書き換えた結果、胸の辺りがざわざわとしている。
藤花は、食器棚からグラスを二つ取り出す。
冷蔵庫から、アイスコーヒーを出してグラスに注ぐ。ミルクも取り出し、グラスとクッキーと一緒にトレイへのせる。
あまりにいつもと違うと予定が狂う。
藤花が菖子を呼んだのは、下心があったからだ。
前世の夢を見るきっかけ。
それが欲しかっただけなのに、このままでは別の意味を生み出しそうな気がする。
行儀が悪いと思いながらも、クッキーを取って口に運ぶ。気持ちを落ち着かせるようにゆっくりと咀嚼して、小麦粉のなれの果てを飲み込んだ。
藤花は、トレイを持って部屋へ向かう。
扉を開けると、菖子が制服姿でこの部屋へ来たときと同じようにベッドの向かい側に座っていた。
「寒くない?」
太陽にじりじりと焼かれている窓の外は、酷く暑そうで見ているだけで汗が噴き出そうになる。しかし、室内は暑さなど感じようがないほどに冷やされていて、ショートパンツにTシャツという出で立ちの菖子には涼しすぎるように思えた。
「ちょっと」
申し訳なさそうに言う菖子に「わかった」と答え、藤花はグラスとクッキーを小さなテーブルに置く。そして、エアコンの温度を上げた。
「休みに入ったら、会いたいって言い出すと思ってたのに」
藤花はそう言ってベッドを背にして座ると、グラスを手に取る。ひんやりとしたガラスは、うっすらと濡れていて水滴がべたりと付く。アイスコーヒーを一口飲んでグラスをテーブルの上へ戻すと、カランと氷が音を立てた。
「会いたかったけど、補習があったから。夏休みって言っても、勉強ばっかりでつまんない」
「真面目に補習受けてたんだ?」
「真面目にやれって言ったの、藤花でしょ」
進学校らしく補習に追い立てられているらしい菖子が眉間に皺をよせ、不満げに言う。
サボることを選ばず、補習を受けることを選んだことは褒めても良いが、会いたいとすら言わないことに違和感があった。少し前の菖子なら、会えないことがわかっていても会いたいと言いそうだ。だが、何故と菖子に尋ねるつもりはない。藤花はかわりに、当たり障りのない言葉を口にする。
「今日は?」
「午前中で終わった。藤花は、あたしに早く会いたかった?」
菖子が期待を込めた目で藤花を見た。
「別に」
「あたしは会いたかったけど」
「じゃあ、そういうメッセージの一つでも送ってくればいいでしょ」
思ったよりも強い口調になり、藤花は慌ててアイスコーヒーを胃に流し込む。濡れたグラスが気持ちが悪くて手のひらを拭うと、楽しそうに菖子が言った。
「文句を言うくらい会いたいって思ってくれてたんだ」
「思ってない」
「あたしは藤花に会いたいって思って欲しかったから、何も言わなかったんだけど」
菖子が隠されていた宝物を見つけたように、にやりと笑う。
彼女が望んだとおりの行動をしていたということは、藤花にとってあまり気分の良いものではなかった。高校生に良いように扱われているようで、癪に障る。藤花は髪をくしゃくしゃとかき上げ、小さく息を吐く。クッキーを口に運ぶと、菖子がアイスコーヒーにミルクを入れながら言った。
「それで、今日の用事って何なの? もしかして、本当にあたしに会いたくて呼んだとか?」
本気で思っているわけではないのか、菖子の声はからかうような軽やかな声だった。
藤花は、小さく息を吸う。
菖子のペースに乗せられてはいけないと静かに息を吐き出し、考えておいた理由を口にした。
「前世の夢って、どうしたら見られるのかなって」
藤花は、クッキーに手を伸ばす菖子をじっと見る。
「この前も話したけど、見る方法なんてないんじゃない? あたしも、今まできっかけっぽいものなかったし。藤花はあるの?」
「んー、ないかな」
問いかけに短く答えを返すと、静寂が訪れる。
エアコンが冷たい風を吹き出す音が聞こえ、自分の部屋が落ち着かない空間に変わる。藤花はクッキーを噛み砕く菖子から視線を外し、ベッドに背中を預けた。
「そう言えば、前世の情報なにか見つかった?」
菖子の声が聞こえてくる。
「なにも」
「じゃあ、あれから夢見た?」
「見てない。菖子は?」
「同じく見てない」
短い言葉のやりとりは、すぐに途切れる。
今日、菖子をこの部屋に呼んだ理由は、何でもないことのように頭の片隅に転がしておいた。だが、それが黒い染みとなり、藤花の頭の中に広がっていく。
夢は、どうしても見なければいけないものではない。
トリガーを無理に探す必要もない。
放っておいても、夢を見ることはできるだろう。
そう考えれば、このままくだらない話を続けるというのも悪くないことで、そうすべきだとも藤花は思う。だが、唇は善良な大人である藤花の意思を無視して言葉を紡ぎ出す。
「菖子。隣、来る?」
良識的な大人が口にすべき台詞ではない。菖子も、藤花が口にしそうにない言葉に怪訝そうな顔をしていた。
「……急にどうしたの?」
「来たくない?」
試すように誘っておきながら、藤花はこういったやり方はずるいと思う。しかし、菖子は黙って隣にやってくる。
「今日の用事って?」
少し前に聞いた台詞を菖子が繰り返し、ベッドを背もたれにした。
藤花は逡巡する。
愛だとか恋だとか相手を想う気持ちがなければ、口づけという行為をしてはいけない。そういった高尚な思想を持っているわけではないが、相手の年齢を考えれば気軽に行って良い行為だとは思えなかった。
「私とキスしたいんだよね?」
これからしようとしていることは、相手の唇に自分の唇をつけるだけのことで子どもでもできることだ。
それでも、藤花は言い訳になるものが欲しかった。
それを今、菖子の口から聞きたかった。
「わざわざ聞かなくても、したいって知ってるよね」
予想通りの答えに、藤花は免罪符を得る。
太陽に照らされ続けている窓の外に目をやってから、菖子の手に自分の手を重ねて握る。名前を小さく呼ぶと、菖子が藤花を見た。
ポニーテールにしているせいか、いつもは髪に隠れている首筋がよく見える。
白い肌はガラスの向こう側よりも眩しくて、藤花は握った手に力を込めた。
「変なことしないで、って言ったのは藤花だよ」
「覚えてない」
短く答えて、ゆっくりと顔を近づける。
一瞬、驚いたように菖子が体を逃がす。
だが、すぐに目を閉じた。
唇が引き合うように重なる。
どくん、と藤花の心臓が鳴る。
それは軽い接触で、ほんの少しお互いの唇が触れ合うだけのものだった。しかし、そうなることが遠い昔から決められていたかのように重なって離れる。
キスは特別なものではない。
人によっては、挨拶のようなものだ。
藤花にとっても、重く考えるほどのものではなかった。
ただ、それにしては心臓がうるさいくらいに音を鳴らしている。冷やされた部屋にいるはずなのに、頬が熱い。そして、菖子にもっと触れたいという思いが頭の中を支配している。
――何故。
唇が触れたことで菖子の想いに感染したのか、それとも自分の中にいる淡藤に引っ張られたのか。もしかして、自分自身がそう感じているのか、と考えて、頭に浮かんだ言葉を否定する。藤花は、自分自身が菖子に触れたいと感じているとは思いたくない。
「今までキスしようとしてもさせてくれなかったのに。なんで?」
菖子の声に、藤花は心の中に潜りかけていた意識を引き戻す。目の前の少女を見ると、頬が薄く染まっているが、納得していないという表情をしていた。
「あたしのこと好きになった、ってわけじゃないよね?」
問いかけられて、藤花は握っていた手を離そうとする。だが、菖子がそれを許さず、手を掴まれる。
「何か思い出すきっかけになるかもしれないから」
嘘をつくという選択もできたが、藤花は罪悪感から真実を口にする。落ち着きをなくしていた心臓は、何本もの針が突き立てられたかのように痛み、ぎゅっと締め付けられていた。
「ごめん」
「別にきっかけでもいいよ。そのかわり、もう一度して」
酷い言葉を口にしたはずだった。
だが、藤花を断罪すべき唇は藤花を許し、口づけをねだる。
菖子は、藤花が思っているよりも純粋で白い。まっさらなキャンパスが絵の具で塗り潰されていくように、淡藤という存在に塗り潰されることを望んでいるように見える。
藤花は逆らうことなく、菖子の願いを叶えるために動く。罪の意識もあったが、それ以上に自分の心の中を覗きたくて体が動いた。
一度目のキスのように、自分自身に変化があるのか。
それが知りたい。
藤花は、菖子に唇を寄せる。
整った顔立ち。
閉じられた目。
視界が菖子によって埋められ、心臓が強く鳴る。
藤花は、そっと彼女の唇に触れた。
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