第22話

 期待をしていた。

 菖子と会ったことが、前世の話をしたことが、夢を見るトリガーになっているわけではないと知っていたのに期待をしていた。


 今晩、夢を見るのではないか。


 眠る前に、そう思ってしまった。

 だから、藤花は今、落胆している。


 目を閉じた世界に前世が現れることはなく、胸が苦しくてうなされて目を覚ませば、布団の上にはにゃあこが鎮座していた。


「重い」


 ぼそりと呟いて、胸の辺りにいるにゃあこごと体を起こそうとすると、キジトラ模様の猫は軽やかにベッドの下へ飛び降りた。藤花がのそのそとカーテンを開けると、薄暗い部屋に日の光が入り込む。青いカーテンが太陽に照らされる海のように見えて、吸い込まれそうになる。


 頭を軽く振って時計を見れば、会社へ行けそうなくらい早い時間で欠伸が一つ出た。

 窓の外に目をやると、制服を着た高校生が群れをなして歩いている。ガラスの向こう側、日陰の少ない街は朝から暑そうで、藤花はエアコンのスイッチを入れた。


 ぺたりと体に張り付くパジャマに顔を顰めながら、ベッドから降りる。机に向かい、ノートパソコンの電源を入れる。日課になっているSNSのチェックをするが、結果は芳しいものではなかった。


 藤花は小さく息を吐く。


 菖子と初めて会った日、強く否定した前世を今は信じている。

 運命の人との出会いを待つ少女のように、前世が夢に現れることを望んでいる。


 今、信じていることを手にするためにできること。


 藤花は、淡藤のアカウントに前日見た夢と菖子から聞いた夢の情報を書き加えていく。

 世界中の呟きが乱雑に放り込まれ、煮詰められている鍋のようなSNSに前世を投げ入れたところで、目当ての人物に届く可能性は低い。もちろん、自分で見つけ出すことも難しい。


 それでも知りうる情報を打ち込み、藤花はエンターキーを叩く。ノートパソコンの電源を切って卓上カレンダーを見ると、六月の初めに菖子と出会ってから一ヶ月以上経っていた。


 八つ下の高校生は、今は藤花と切り離すことができない存在になりつつある。菖子が藤花に抱く気持ちと同じ気持ちがあるとは言えないが、心の大半を占めている。それは、前世が藤花と菖子を繋いでいるからだ。もしも、前世という鎖がなかったとしたら、八つも下の少女と連絡を取り合う仲になることはなかっただろう。


 椅子から立ち上がって大きく伸びをすると、枕元に置きっぱなしになっているスマートフォンから着信音を聞こえてくる。どさりとベッドに腰掛け、スマートフォンの画面を見ると菖子からメッセージが届いていた。


『夢、見た?』


 前世とは書いていないが、菖子が言う夢は前世の夢で間違いない。藤花は『見なかった』と書いて、送信する。


 朝食に昼食、家族での夕食。

 合間に菖子とのメッセージのやりとりが挟まるが、食べる以外には大したことをせずに一日が終わる。


 真夜中、藤花はベッドに潜り込む。

 無為とも言える怠惰な日常の中で、夢を期待する一瞬は胸が高鳴る。だが、期待通りに事は運ばない。次の日も、その次の日も、何日も、何日も前世の夢を見ることはなかった。藤花の望む夢は、期待すればするほど逃げ水のように遠ざかっていくようだった。


 のんびりと毎日を過ごしているのに、時はそれほどのんびりとは進まない。気がつけば、七月の終わりが近かった。


 エアコンの効いた室内、椅子に腰掛け、蝉が鳴いていそうな外を見ながら藤花は考える。


 菖子は、大きなきっかけなどなしに前世の夢を見ているようだった。しかし、藤花の前世は、簡単には掘り起こせないような深い部分に眠っているようで、夢を待っているだけでは見ることができない。


 自分には、トリガーが必要なのかもしれないと藤花は思う。それくらい前世は脳の奥底に用心深く隠されているようで、きっかけなしには夢を見られないのではないかと感じる。


 夢は、これまでに二回見ている。

 そこに共通するものがあれば、それが夢を見るきっかけになっていると考えられそうだ。


 藤花は、記憶を辿っていく。

 一度目の夢は、菖子が屋上から飛び降りようとしているところを見た夜に見た。

 二度目の夢は、菖子に押し倒された夜に見た。


 共通点を無理矢理にでも探すなら、菖子が関わることで刺激的な状況が作り出された日と言えそうだ。感情が大きく動いた日と言ってもいい。菖子との間にそんな時間を作り出すことができれば、前世の夢を見る可能性が高まるのではないか。


 藤花はそう考えて、目を閉じる。

 問題は、そうした状況を作り出す方法だ。


 菖子の行動をなぞっても良いが、飛び降り自殺の真似事をしても意味はないだろうし、菖子を押し倒すというのも気が進まない。

 手に触れるくらいならすぐにでもできそうだが、それくらいのことで感情が動くとも思えなかった。


 藤花はうーんと唸って、背もたれに寄りかかる。


 押し倒すつもりもなければ、その先へ進むことも考えられないが、キスくらいならできそうな気がする。軽く唇に触れるだけなら学生時代のじゃれ合いの延長みたいなものだが、感情がまったく動かないということもないだろうと藤花は思う。おそらく、菖子に拒否されることもない。


 多少の罪悪感はある。

 だが、何らかのきっかけが欲しい。


 藤花は目を開けると、机の上からスマートフォンを手に取ってチャットアプリを立ち上げる。菖子を呼び出す理由を考えながら画面を見ると、過去に彼女から送られてきたメッセージが目に入った。


 菖子は会えば積極的だが、送られてくるメッセージは淡泊と言えるものばかりだ。もう夏休みに入っているが、会いたいとすら言ってこない。一日に何度もメッセージが送られてくるが、味気ない言葉の交換に終始している。


 ――菖子の方から誘ってくれたら。


 罪の意識が和らぐのに、と思いながら藤花は「明日、暇?」と打ち込み、メッセージを送る。返事は、待つという言葉を使うことがおこがましい程のスピードでやってきて、すぐに明日の午後に会うことが決まった。


 くるりと椅子を回転させ、スマートフォンをノートパソコンの横に置く。扉をカリカリとひっかく音が聞こえて、部屋の外で待ち構えていたにゃあこを招き入れる。一直線にベッドへ飛び乗ったにゃあこを追いかけるように、藤花は淡い青紫色のシーツに体を横たえた。


 これまでに、菖子からキスをされそうになったことが何度かあった。

 藤花は、それを断った。

 今さら、自分勝手な理由で彼女の唇を奪おうと考えていることに気持ちが重くなる。


「にゃあ」


 にゃあこが遠慮することなく体の上に乗り、鳴き声を上げる。藤花がにゃあこを捕まえて額に唇を押しつけると、大人しい猫は嫌がりもせずにそれを受け入れた。そして、撫でろというように手に体を擦り付けてくる。


「話を聞くだけでもいいしね」


 藤花はにゃあこを撫でながら、言い訳のように呟く。


 難しく考える必要はない。

 前世の話をして、それで終わり。

 そういう時間の過ごし方でも問題はないのだ。


 夢を見るきっかけが欲しいだけで、キスがしたいわけではない。唇に触れる以外にも、夢のトリガーになるものが見つかる可能性もある。だから、キスは方法の一つで結論ではない。


 カーテンを開け放った窓ガラスの向こうから、刺すような光が入り込み肌を焼く。青い空に視線をやれば、大きな雲が所在なく浮かんでいる。藤花は、退屈そうな雲を吹き飛ばすように大きく息を吐いた。

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