第14話

 藤花はスマートフォンを手に取り、ベッドに寝転がる。流れ作業のようにチャットアプリを起動して文字を打ち込むと、送信する前にそれを全て消した。

 翠とのやりとりを思い出す。

 前世と夢に齟齬があること自体は仕方がない。寝ている間に見る夢に、一つや二つ話が合わない部分があっても疑う理由にはならないはずだ。


 ただ、ファミリーレストランでの翠の態度に違和感を覚えた。夢を見たという話が嘘なら、その違和感の正体に説明が付く。嘘を隠すために、言動が不自然なものになることは珍しいことではない。

 そして、初めて会った藤花ですら気がつく違和感に、菖子が気づかないとは思えなかった。


 藤花は、それを菖子に尋ねるべきか迷っている。

 そして、駐車場での出来事を菖子に話すべきか迷っている。

 結局、ドライブはしなかった。寄り道をせずに家へ帰ってきてから、どうすることが正解なのか考えているが答えはでない。


 頭の中が翠のことで埋められ、思いのほか多く詰め込んでしまった夕飯で重くなった胃が思考を鈍らせる。まとまらない考えをまとめようとするが、無理に固めた考えはすぐにヒビが入ってしまう。おかげで藤花は、チャットアプリに文字を打ち込んでは消すという作業を続けることになっている。


「……面倒だな」


 翠の態度も、言葉も。

 菖子が何を考えているのかも。

 すべてがわずらわしく思えてくる。

 一歩引いて、面倒なことは見なかったことにしておけば楽だと藤花は思う。前世のことは知りたいが、厄介事に首を突っ込みたくはない。菖子と関わるということは、翠とも関わるということで、それは厄介なことに巻き込まれるということだ。


 藤花は大きなため息を一つついて、チャットアプリを閉じる。だが、同時にチャットアプリが音声通話の着信を知らせる。画面には、菖子の名前が表示されていた。

 藤花は、一呼吸置いてから電話に出る。


「どうしたの?」

「今日のお礼、言いたくて」

「わざわざいいのに」

「翠に会ってくれて、ありがとう」

「面白かったから、気にしなくていいよ」


 翠に会ったことを後悔している。

 そんなことをわざわざ口にするほど大人げない真似をするつもりもなく、藤花は心にもないことを滑らかに口する。今、高校生とのひとときが面白かったかどうかは関係ない。言うべきか迷ってはいたが、話したいことは他にあった。


「村瀬さんって、前に菖子が言ってた能力のことを知ってる子?」

「そうだよ。最初は疑ってたみたいだけど、今は信じてくれてる」


 藤花の問いに、すぐに答えが返ってくる。

 わざわざ面倒なことが起こりそうな方向へ進んでいく必要はない。そして、藤花はそうした道を選ばずに生きていた。

 しかし、菖子の言葉が灰色の雲を呼び寄せ、視界を奪っていく。濃く、重く立ちこめる重苦しい雲が、藤花の進むべき道を覆い隠してしまう。一歩下がるはずの足は一歩前へと踏みだし、藤花は書いては消した言葉の一端を唇にのせた。


「村瀬さんが言ってたこと、信じてもいいの?」

「どういうこと?」

「菖子、村瀬さんが最初は疑ってたって言ったけど、それって、そのときは前世の記憶がなかったってことだよね?」

「あたしと話しているうちに思い出したって感じかな。最初はただ同じクラスってだけで、そう親しくもなかったし」

「親しくなったら、前世のことを思い出したってこと?」

「そうみたい」

「それって、菖子が話したことをそのまま夢に見てるだけじゃないの?」


 藤花は、疑問の一つを菖子にぶつける。

 翠は、菖子に執着していた。菖子が藤花に向ける想いと同等の重さを持っているのかはわからないが、藤花が菖子に会うことを止めるほどに執心している。菖子の気持ちを縛ることを目的に、前世を利用していたとしてもおかしくはない。


「……藤花は、翠のこと疑ってるってこと?」


 菖子の声が低くなる。

 しかし、それでも冷たくはない。

 探るように、確かめるように静かな声だった。


「菖子は村瀬さんのこと、疑ったことないの?」

「もしかして、塔の中の色がわからなかったから? だから、翠が嘘を言ってるって言いたいの?」


 藤花の疑問には、疑問が返される。だが、その声から静けさは消えていた。侵入者に森の木々がざわめくように、警戒心を露わにしている。

 それだけで、菖子にとって翠という人物が重要な位置にいることがわかり、鉄の塊が括り付けられたかのように藤花の心が重くなる。


 相手は女の子だ。しかも、高校生の。

 今まで自分だけを見ていた菖子の頭の中に翠がいる。

 それだけで、憂鬱な気持ちになるなど滑稽な話だ。

 藤花は、菖子に自分だけを見ていてくれとでも言うつもりなのかと自分自身に問いかけて、小さく息を吐く。底が見えない沼に沈んでいこうとする気持ちから目をそらし、取り繕うような言葉を口にする。


「一つわからないことがあったからって、嘘だとは思わないよ」

「あたしだって、間違ってることがあるかもしれないしね」

「そう、誰だって間違うことくらいある。でも、答えられない事があるってことは、嘘だって可能性も考えられる。……って思っただけ」

「でも、嘘だったとしても、それが嘘かどうかは確かめられないでしょ。だったら、あたしは翠のことを信じたい」


 菖子から、確かめようのない夢の真偽を決める方法が示される。それは、酷く頼りなく正確性に欠ける方法で、藤花の納得のいくものではなかった。

 しかし、信じる、信じないの話であれば、藤花がここで何を言っても菖子が受け入れることはないだろう。

 自説を無理に押し通す意味もない。

 翠を疑い続けたところで前世を知ることができるわけでもなく、藤花は意見を翻す。


「私も菖子のことと同じように、村瀬さんのことも信じたいと思ってる」

「それって、今は信じてないってことだよね?」

「今はね。でも、信じるつもりだよ」


 藤花は菖子の疑うような声を受け流し、質問を一つする。


「菖子は、どうして村瀬さんのことを信じてるの?」

「……翠があたしを信じてくれたように、あたしも翠を信じたいから」


 予想された答えだったが、意外でもあった。

 藤花が知っている菖子は、相手の都合も考えず、押してばかりで引くことを知らない少女だ。ストーカーのごとく屋上で藤花を待ち伏せし、前世を押しつけ、藤花が淡藤であると決めつけた。その強引すぎる少女に、連絡先まで奪われている。


 藤花に纏わり付いていた灰色の雲が激しく雨を降らし、その雨が体を濡らす。奪われた視界で心の中を覗き込めば、菖子が翠を気遣っているなど納得することができないと呟いている自分が見えて、藤花は頭をぶんっと振った。


「そっか。変なこと言ってごめんね。でも、そんな大事な友達がいるのに、あのとき、どうして死のうとしてたの?」


 努めて明るく言葉を紡いで、話を変える。

 ベッドの上、体を起こして壁に寄りかかる。

 藤花は枕をぼすんと殴ると、心の底に溜まった澱のようなものから目をそらした。


「そんなの決まってる。翠は大事だけど、それよりももっと大事な人がいたからだよ」

「そうなんだ」


 聞かずとも、答えは知っている。だから、藤花はそれは誰かと問わなかった。しかし、菖子が催促するように言う。


「誰って聞かないの?」

「聞いて欲しい?」


 藤花が尋ねると、菖子が問われてもいない答えを口にした。


「藤花だよ。あたしには、藤花がいればいい。他はいらない」


 藤花は、淡藤でしょ、と心の中で呟く。それでも菖子の言葉に、落ちていく気持ちが引き上げられる。

 初めて会ったときは、前世のために死を選ぶ菖子を普通ではないと思った。藤花は今も菖子のことを普通ではないと思っているが、彼女に心を許しつつある。


 高校生の一言に一喜一憂するなど、馬鹿らしい。

 そう思いながらも、菖子の言葉に感情が左右される。

 藤花は、もう一度枕をぼすんと殴る。


「村瀬さんはいいの?」

「選ばなきゃいけないなら、藤花を選ぶ」

「……それ、村瀬さんには言わない方がいいよ」

「言わないよ」


 菖子があっさりと言い、「ねえ、藤花」と探るように続けた。


「なに?」

「翠、藤花に会いに行ったでしょ。二人でなに話したの?」

「村瀬さんが会いに来たの、気づいてたんだ」

「そりゃあね。忘れ物を取りに行くって言ってたけど、翠って忘れ物するタイプじゃないから」

「なるほどね。まあ、話はしたけど、たいしたことじゃないかな。菖子が不真面目で困ってるからどうにかしてくれって、それだけ」


 藤花は嘘は付かずに、翠の話から一部分だけを切り取って菖子に告げる。


「翠、わざわざ戻ってまでそんなことを話したの? それ、ほんと?」


 菖子が不審に思ってというよりは、驚いたような声を出した。

 藤花には、菖子がどんな話を想定していたのかはわからない。しかし、翠が嘘をついてまで藤花としたかった話にしては軽い内容だと思っていることが伝わってくる。


「ほんと。そんなことをわざわざ言いに来るほど、菖子のことを心配してたってことみたい」


 村瀬翠という人間にあまり良い印象はないが、彼女たちの友情にヒビを入れることは藤花の本意ではない。そして、全てを告げれば厄介なことになることも予想できる。となれば、藤花が選ぶべき道は一つで、菖子に翠の意思をある程度取り入れてもらうしかない。


「退学にならない程度に真面目にやりなよ」

「学校なんてどうでも良いんだけどな」


 菖子がやる気のない声で言い、小さなため息をつく。

 学校にまったく気がないことが伝わってくる口調に、藤花もため息をついた。

 菖子が真面目であろうとなかろうと、それは藤花にとってそれほど重要なことではない。だが、翠の手前、菖子を放っておくわけにもいかなかった。


「良くない。私と会って成績が落ちたとか、そういうの困るからちゃんとして」

「藤花が言うなら頑張るけどさ」

「よろしい。しっかり学校行きなよ」

「行くし、真面目に勉強するよ。そのかわり、藤花とまた会いたい」


 交換条件を出されることは考えていなかったが、会うと約束しなくても前世という繋がりを保とうと思っている限り菖子とはまた会うことになる。だから、藤花はあっさりと提案を受け入れた。

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