第13話

 助手席側の窓ガラスの向こう側に、さっき別れたばかりの翠が見える。辺りを見回すが、菖子の姿はない。藤花は、何事かと窓を開けた。


「どうしたの? 忘れ物でもした?」

「違います。ちょっと話したいことがあって。時間、大丈夫ですか?」

「時間はいいけど、とりあえず乗って話したら」


 藤花は、体を伸ばして助手席のドアを開ける。しかし、翠は「ここでいいです」と言って乗り込んでこない。

 窓の向こうにいる翠には、愛想というものが欠けていた。ここで押し問答をしたところで、車に乗り込んでくることはなさそうに見える。藤花は仕方がないと車を降りて、翠がいる助手席側へと向かう。


「話って?」


 外は、太陽が傾いているとはいえ暑い。七月の初め、予定よりも早くやってきた真夏の温度に汗が出そうになる。

 藤花は恨めしそうに空をにらんでから、翠を見る。制服の袖から伸びた腕がやけに白くて眩しい。自分にもこんな頃があったなとしなやかな腕に目を奪われていると、穏やかではない言葉が聞こえてくる。


「高校生、かどわかすのやめてくれませんか?」


 菖子がいないせいなのか、冷たい声で単刀直入に告げられる。


「さすが、泉野高校。難しい言葉知ってるね」

「馬鹿にしないで下さい」

「馬鹿にはしてないよ。ちょっと人聞きが悪いなって思っただけ。私、高校生をかどわかした覚えないから」


 翠が言う高校生というのは、菖子に間違いなかった。しかし、藤花は菖子を騙した覚えも、力ずくで連れ去った覚えもない。むしろ、菖子の方が力業で藤花を手に入れようとしてきたのだから、翠の言葉は言いがかりとしか言いようがなかった。


「じゃあ、訂正します。菖子と会うの、やめてください」

「なんで、って聞いてもいい?」

「菖子、川上さんに会ってから前世の話ばかりするんです。もともとそういう話が多かったんですけど、最近は学校もどうでも良さそうで」

「真面目にやってないの?」

「元から、そんなに真面目じゃないです」


 翠が表情を変えずに言い、視線を落とす。そして、ほんの少し考えてから、一気に心の中に溜め込んでいたであろう言葉を吐き出した。


「菖子はあの髪のせいで、学校でも問題児扱いです。今はテストの点で誤魔化してますけど、前世のことばかりになってそっちも適当になったら退学ってこともあるかもしれません。だから、もう菖子と会わないでください」


 藤花は翠の言葉に、初めて菖子に会った日を思い出す。

 灰色のビルの屋上、菖子は手すりの向こう側でこの世界との繋がりを絶とうとしていた。彼女は“及川菖子”という人間をいとも容易く手放してしまえるほど、前世に囚われている。“過去に淡藤だった人間”が手に入れば、それで良いと思っている。


 菖子にとっては学校など些細なもので、それほど大きな意味を持っていないように見える。しかし、翠は、命を捨ててまで淡藤だった人間に会おうとするほど、菖子が現世に執着がないことを知らないはずだ。

 今なら、それを目の前の少女に伝えることができる。だが、藤花は伝えることが良いことだとは思えなかった。


「約束できないって言ったら?」

「約束してもらいます」

「今の菖子にとって、必要なものだよ。前世って」


 取り上げれば、どうなるかわからない。

 そもそも、取り上げることができるのかどうかわからない。

 藤花が距離を置けば、菖子はそれこそ学校を辞めてでも関係を修復しようとするはずだ。


「……川上さんは、菖子の言う前世を信じてるんですか? 本当は信じてないんじゃないですか?」


 翠が探るように言う。


「それ、村瀬さんは信じてないみたいに聞こえるけど」

「わたしは……。疑ってるだけです。夢が前世を再現してるなんてことがあるのかって。菖子のことは信じてますけど」


 翠の声は、信じているという言葉とは裏腹に力がない。二つ向こうの車から聞こえてくるエンジン音にすら、かき消されてしまいそうなものだった。


「私は信じてるよ。半分くらいは」


 夏の匂いがする風が吹く。

 長い髪がさらわれるように揺らされ、藤花は目を細めた。


「今日の前世の話、あれは本当?」

「夢を見たのは本当です」


 翠が感情を置き去りにした声で、淀みなく答える。

 その答えが事実かどうかはわからない。もし、翠の言葉が事実で夢を見たことがあるのだとしたら、菖子から前世の話を繰り返し聞いている彼女の夢は、脳にすり込まれた記憶が眠っている間に再生されていただけだった可能性が高いように思える。塔内部の色すらわからないのだから、翠の夢はただの夢で、菖子の記憶をなぞっただけだと考える方が自然だ。


 そもそも、夢を見るだけなら誰でもできる。

 しかし、その夢の真偽を確かめる術はない。

 藤花や菖子と話したところでそれは確認作業でしかなく、語った前世が現実にあったと証明することはできない。前世が真実であったと断言するためには、タイムマシンにでも乗って前世があった過去に戻るしかないだろう。


 藤花も、菖子も、翠も。

 妄想のように前世を語っているに過ぎない。

 だが、それでも藤花にとって菖子の話は魅力的だった。翠ほど、冷めた目で前世を見ることができない。


「もう一つ、聞いてもいい?」


 藤花が静かに尋ねると、翠が「どうぞ」と頷く。


「今日の話したかったことって、前世のことじゃなくてこの話?」

「そうです」

「なるほどね」


 褒めたくはないが、藤花に噛みついてきていることは翠なりに菖子のことを考えての行動だとわかる。

 翠にとって菖子が盲目的に信じている前世はさほど重要なものではなく、菖子が学校に留まっていることこそが大切なことなのだろう。

 おそらくそれさえ叶えば、前世の真偽は大きな問題ではない。藤花にはそんな風に見えた。


「菖子には、真面目にやるように言っておく。たぶん、私が言えば少しはちゃんとすると思うから」


 藤花は、正確には淡藤が言えば、と心の中で付け加える。


「……」


 翠が何か言いたげに口を開く。だが、すぐに眉根を寄せ、唇を噛んだ。瞳には、敵意とまではいかないが威嚇するような光が宿っている。

 藤花にとって、問題は避けるものだ。敵もわざわざ作るものでもないが、いがぐりのように針に包まれている翠をつついたら、中から何が出てくるのか興味が湧いてくる。しかし、それは大人げない興味で、行動に移せば面倒なことにしかならないことは明白だ。藤花は好奇心を押さえつけ、翠に告げる。


「私は、菖子じゃなくて前世に興味があるだけ。友達、取ったりしないから心配しないで」

「そういうのじゃないです」

「どういうのでもいいけどさ、菖子のことをかどわかすつもりも、誘惑するつもりないから。もちろん、村瀬さんのことも」

「当たり前です。とにかく、菖子に余計なことしないでください」

「善処する」


 軽い気持ちで口にしたわけではないが、翠が僅かに表情を変える。だが、あからさまに藤花を拒絶するつもりはないらしく、「お願いします」と感情のこもらない声で返してくる。

 未だに温度を下げようとしない太陽の下、翠の額には汗が浮いていた。藤花は、日に焼けそうだと場違いなことを考えながら翠に声をかける。


「菖子も近くにいるなら、一緒に目的地まで送るよ」

「結構です」


 藤花の誘いをあっさりと断ると、針鼠のような少女は立てた針で人を傷つけることも厭わない勢いで背を向ける。そして、カツンと靴音が鳴りそうなほどの力強さで、藤花の前から去って行った。

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