第9話
あれから藤花は、何事もなく静かに暮らしていた。
朝起きて、会社へ行き、仕事をする。菖子の戯言を忘れるように、彼女と会う前と同じ日々を繰り返す。昼は同僚と過ごし、家へ帰れば家族と過ごす。ただ一つ違うことがあるとすれば、灰色のビルのてっぺんに足を運ぶことがなくなったことだ。
あの場所には、おそらく菖子がいる。二度目に会ったあの日に本人が言ったように、藤花を待っているはずだ。
もう、彼女に会ってはいけない。
感情が、日常が乱される。
藤花は、躊躇いとともに頭の片隅に残り続けている夢を押し潰す。
選ぶべきものは、平穏だ。
現状に満足することはなくても、すべてなかったことにしてしまえばそれなりに幸せに暮らすことができる。自分である必要がない仕事を続けていきたくないと辞表を出したが、結局のところ、これまでと同じような人生を選ぶことが一番無難なのだと藤花は知っていた。
次の仕事を探して、好きであってもなくてもそれを続けていく。多少の不満はあっても、そうした生き方を多くの人が選び、受け入れている。
六月ももう終わる。
残すは有給の消化のみで、今日が終われば出勤することはない。
仕事をして、挨拶をして、着替えて、真っ直ぐに家へ帰る。こんなことは子どもにもできる簡単なことで、さして難しいことではない。藤花は、三階よりも上へ行く必要はないことを学んでいる。
最後の一日はあっという間に過ぎ、引き継ぎを終える。
藤花はロッカールームで制服からジーンズに着替え、味気ない灰色が広がる天井を見上げた。
扉を開ける音やたわいもないお喋りに混じり、この上のもっと上、空に近い場所から藤花を呼ぶ声が聞こえる気がする。
馬鹿馬鹿しい。
藤花は小さく息を吐き出し、ロッカールームを後にすると、エレベーターの前で三角形が描かれたボタンをにらむ。
屋上へ向かう三角と、家へ向かう三角。
藤花は、少し迷ってから二つの三角から上を選ぶ。
菖子が待っているかもしれないが、それは確定した事項ではない。彼女はいるかもしれないし、いないかもしれない。それは、藤花が屋上へ行くまで定まらない。待っている可能性が高いが、待つことに飽きてしまっていることも考えられる。
藤花は、心の中に言い訳を並べ続ける。
初めて菖子に会った日は、偶然だった。
二度目も、偶然にすることができる。
今日も、偶然が起きるとは限らない。
最後に、通い慣れた屋上に別れを告げに行く。それくらいのことをするくらいにはビルのてっぺんに愛着があり、気に入っていた。だから、藤花はエレベーターを降りて屋上への階段を上る。
偶然は、三回も続かない。
三回続けば、それはもう必然だ。
だが、そんなことはそうそうないと信じて、藤花は重たい扉を開けた。
ギギギと嫌な音とともに、屋上への封印が解かれる。
視界を奪う空とビル。
青と灰色の間、菖蒲色が舞っていた。
「運命だね。絶対にまた来るって、思ってた」
藤花の特等席である屋上の真ん中から先客がやってきて、鮮やかに笑う。
「いるとは思わなかった」
「いるって思ってたくせに。今日は、あたしに会いに来たんでしょ」
「今日が最後の日だから、屋上にお別れを言いにきただけ」
藤花が心の中に並べておいた言い訳を取り出して口にすると、「じゃあ、そういうことにしておく」と吹けば飛ぶ紙一枚よりも軽い調子で受け流された。
不機嫌に眉根を寄せて、屋上の真ん中へ行く。鞄を投げ出し、昼休みと同じようにコンクリートの上に腰を下ろすと、置き去りにしてきたはずの菖子が当然のように並んで座った。
予想できた出来事に抗うことができなかった藤花は、空を仰ぐ。
「淡藤なら、絶対に会いに来てくれるって思ってた」
揺るぎない声で菖子が言う。
「本当に、ずっとここで待ってたの?」
「待ってたよ、毎日」
「待ってるより、探した方が早そうだけど」
「そんなことしたら、あたしのこと嫌うでしょ」
「ここで待ってるだけでも、嫌う理由になると思う」
隣にいることが当たり前のように続く会話は思っていたよりも心地が良く、それを受け入れまいとした心が言葉にため息を混ぜる。しかし、深い意味があるわけでもない吐息は、そこにいることがあらかじめ決められていたことのように存在する菖子に刺さったようだった。
「……嫌ってるの?」
ぼそりと聞こえた小さな声に、菖子を見る。
どこからやってきたのかわからない自信を纏い、余裕のある態度で藤花に接してきた菖子の瞳には、不安の色が浮かんでいた。初めて見る表情はセーラー服に馴染んでいて、菖子が高校生だと言うことを藤花に思い出させる。
「そういう顔、するんだ?」
「見た目、前と違うし、性格も菖蒲とは違うから。不安がないわけじゃない」
弱々しくも聞こえる声はすぐに風にかき消され、ぽろりとこぼれた本音がころころと転がり、屋上から落ちていく。藤花は何の抵抗もなく背中を丸める菖子に手を伸ばしかけて、慌てて引き戻すと、ここへ来たのは屋上に別れを告げるためだと自分に言い聞かせた。
だが、そんなことは無駄な抵抗でしかなく、小さくなっていた菖子が背筋を伸ばし、藤花の手を取る。
「でも、三回同じ場所で会ったら運命だよ。今はあたしのこと嫌いでも、きっと藤花はあたしのことを好きになる。もう、遠慮しないから」
「……遠慮してたの? これで?」
「してたよ」
ほんの少しの本音とともに弱気の虫もビルの下へ消えたらしく、菖子がにこりと微笑む。握られた手に力が込められ、藤花は躊躇いなく奪われた手を取り戻した。
「二度あったことが三度あっただけで、そんなの運命じゃないから。もっと遠慮して」
三回続けば必然。
藤花は、しまっておいた心の引き出しから這い出してきそうな言葉を元あった場所へと押し込む。しかし、はみ出た尻尾を掴もうとする言葉が頭の中に流れ込んでくる。
『やだ』
脳内に響いた台詞が誰のものかは、聞くまでもなかった。
「ちゃんと口でいいなって、そういうの」
藤花は冷たく言い放つと、隣に座る菖子を睨んだ。だが、苦情は受け付けられず、代わりに質問が投げつけられる。
「そうだ。あたしの声、聞こえた? ここから、テレパシーで藤花のことずっと呼んでたんだけど」
「聞こえなかった」
考える間もなく答える。
菖子が持つ力が送り込んでくる声は、耳で聞くものとは違う。直接頭にねじ込まれるような声は、ここ以外では聞いていない。
「菖子の力って、かなり強いの?」
ロッカールームで声を聞いたような気がしたが、あれは実際に力を受けたときとは明らかに違った。だから、気のせいに過ぎないと思いたいが、微かに力を感じ取ったとも考えられる。
分類するならば、藤花自身の力は弱い方になる。夢で見た淡藤も、藤花と同じく力が弱いようだった。前世での記憶や力が現世に引き継がれているのなら、菖子もそれほど強い力を持っているとは思えなかった。
屋上から三階までは、それなりの距離がある。そこまで言葉を飛ばすことができる力があるとは考えにくい。
藤花が答えを促すように菖子を見ると、うーん、という唸り声が聞こえてくる。
「自分から四歩か、五歩分くらいかな。声を飛ばせる範囲」
「じゃあ、ビルの中にいる私に聞こえるわけないでしょ」
「まあ、力の種類も強さも、前世とそんなに変わらないみたいだから、聞こえないだろうね」
「じゃあ、なんで聞こえたか聞いたの?」
「聞こえたらいいなって思ったから」
朝の挨拶よりも軽い口調に、藤花の体から力が抜ける。菖子の希望的観測に大きく息を吐き出すと、隣から「本当は」と柔らかな声が聞こえてきた。
「藤花も、何か力が使えるんでしょ?」
問いかけられて、藤花は行儀悪くごろりと寝転ぶ。夏の前、機嫌の良い太陽に温められたコンクリートがじわりと背中に熱を伝えてくる。
「何の役にも立たないけどね」
空に向かって、過去についた嘘を取り消す。
「役に立ったよ。リボン、飛んでいかなかった」
「普段は使い道ないよ。あんな力」
「こういう力、いらないの?」
「いらないでしょ。大体、二十四にもなって、前世だとか超能力だとか子どもみたいなこと言ってたら、人から白い目で見られる」
「二十四歳なんだ?」
「そこ、反応するところ?」
「するところ。八歳違いだね」
菖子が年相応の笑顔を藤花に向ける。
「……高校一年生?」
「そう」
地元では有名な進学校のセーラー服を着ているのだから、高校生だということは知っていた。しかし、改めて年の差を耳にすると、藤花の体から力が抜ける。八つも年が違う少女に振り回されていたのかと思うと、頭が痛くなりそうだった。
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