第10話

「学校にその力のこと、知っている人いる?」


 藤花はきりきりと痛み出しそうなこめかみを押さえて、尋ねる。


「いる。一人だけ」

「変な目で見られたりしない?」

「その子はそんなことしないかな。でも、あたし、髪がこんなだし、基本的にその友達以外からは変な目で見られてるから」

「なるほどね」


 制服を着崩すことなく、街で騒ぐこともない品行方正な子ども達が大多数を占める学校で菖子の髪は目立ちすぎる。関わり合いたくないと思う生徒に、異質なものを見る目を向けられても仕方のないことだと藤花は思う。

 救いは、一人であっても理解者がいることだ。

 その友人がいなければ、菖蒲色に染めた髪を黒く戻していたのかもしれない。藤花には理解できない自信の源も、友人から与えたものと考えることもできる。


「藤花は? 力のこと、知ってる人いる?」


 コンクリートに寝転がったままの藤花の髪を菖子がすくう。

 藤花は、菖子の指先に絡まった髪を取り戻そうとして手を止める。

 悪い気はしない。

 半袖から伸びるしなやかな腕がやけに眩しく見えて、目を閉じる。視界を遮断すると、藤花は髪の先にまで神経が通っているような気がした。


「いないよ。言ったところで信じないし。そもそも、いい年した大人がそんなこと言い出したら、絶対にヤバイ奴だって思われる。たとえ力を見せても、手品くらいにしか思われないでしょ。それを超能力だなんて言い張ったら、会社で変な噂になる。絶対に。……まあ、会社辞めたから今は関係ないけど」


 藤花はそこまで一気に喋ると、目を開ける。

 赤に浸食されつつある空が視界を奪う。

 夏がそこまでやってきているせいか、空を近く感じる。


「まあ、とにかく。前世とか超能力なんてものを信じて面白おかしく騒げるのは、小学生くらいのものでしょ。それでも高学年あたりになったら、ちょっとおかしな子扱いだよ」


 吐き捨てるように言って、藤花は空に手を伸ばす。だが、いくら近く見えても空を掴むことはできず、行き場のない腕がぱたりとコンクリートの上に着地する。

 日は傾いていても、暑い。

 真夏になるまでにはまだ時間があるはずなのに、背中に汗をかいていた。それでも寝転がったまま空を見ていると、菖子が指先に絡めていた髪を解放する。


「大人だからって、大人らしくする必要あるの?」


 ぺたりと灰色の屋上に手をつけて、静かに、けれど強い響きを持って菖子が言う。


「大人が前世の話とか、超能力の話したっていいでしょ。いい年だからとか関係ない」

「大人は、そんなに簡単じゃないんだよ」

「大人は、難しく考えすぎなんだよ」


 藤花よりも八つ下の少女が、子どもらしく無鉄砲に告げる。

 セーラー服を着ることができる短い時間だからこそ、言える言葉だと藤花は思う。そして、そんな菖子を羨ましく感じていた。制服を着ていた頃は、藤花も今よりずっと無責任で怖い物知らずだったはずだ。

 もっと自由に、やりたいように、生きられたら。

 そうすることができたら、自分という存在を必要としているのかわからない世界の終わりを望むよりは建設的だと思える。


「今の藤花は、夢の中と同じで塔の中に閉じ込められているみたい。ここには塔なんかないんだから、自分がしたいようにすればいいと思う。淡藤は、塔に閉じ込められてるの嫌だって言ってたよ」

「私、淡藤のことはよく知らないから」

「あたしが教えてあげる」


 菖子の手が藤花の肩を掴む。

 視界から空の青が消え、菖蒲色に染まる。

 菖子の目が藤花を捕らえる。

 近すぎる、と藤花は思う。背中に感じる熱を別のものと勘違いしてしまいそうだった。


「夢のこと、気にならないの?」

「……気になるに決まってるでしょ」


 心の奥底にしまっていた言葉を引き出して、菖子に渡す。そして、すぐに「どいて」と彼女を押しのけて立ち上がる。

 一歩、二歩と歩いて振り返ると、菖子が追いかけるように言った。


「あたしと一緒ならあの夢のこと、もっとわかるよ」


 セーラー服を着た菖子が眩しいくらいに笑う。

 藤花は、無条件に自分の持つ力を信じ、聞き分けの良い大人である必要はないと言ってくれる存在を求めていた。自分という存在を必要としてくれる誰かを探していた。


 たかが高校生の言葉だと、切って捨てることもできる。だが、菖子の自信に満ちた笑顔は、何者でもない自分を何か意味のある自分に変えてくれるのではないかと藤花に思わせる。意味のない力に、意味を与えてくれるのではないかと信じたくなる。

 藤花は、仕事を辞めたくらいで必要とされる何かになれるわけではないと知っている。


 自分を変えるきっかけになるものが欲しい。

 窮屈な自由から連れ出してくれる相手が欲しい。

 それが菖子に違いないと思いたい。


 藤花は、非現実的な前世を受け入れたいという衝動に抗えそうになかった。

 屋上の真ん中、座ったままの菖子が手を伸ばす。

 藤花が吸い寄せられるようにその手を掴むと菖子が立ち上がり、憎たらしいくらいに爽やかな笑顔で藤花を見えない檻から引っ張り出す。


「絶対にこうなるって思ってた」


 スキップでもしそうな弾んだ声が聞こえる。


「ねえ、藤花」

「なに?」

「あたしのことも気になるよね?」


 菖子が当然といった口調で言い、自分を指さした。


「気にならない」

「恋人同士だったのに?」

「そんな感じじゃなかった」

「あたしが見た夢だとキスもそれ以上のこともしてたし、絶対に恋人同士だよ。藤花の夢には出てこなかった?」


 菖子の言葉には、疑いの欠片もなかった。それが正しいと思っている人間の言葉に他ならず、藤花に肯定することを迫っている。


「出てきてない」


 夢の中の出来事を思い出しながら、藤花は夢を否定する。しかし、菖子は藤花を信じようとはしなかった。


「藤花の嘘つき」


 太陽を背に、光を味方に付けた菖子が正義は自分にあると主張するように言う。

 日が落ちかけた世界、全てを茜色に塗り潰そうとする光が菖子の髪も染めていく。藤花は握った手を離すと、空を掴むように大きく伸びをする。ふう、と息を吐き出すと、菖子が口を開いた。


「まあ、いいや。連絡先、教えてよ。もうここに来ないんでしょ?」

「嫌だって言ったら?」

「許さない」

「偉そうな高校生」

「教えてくれるんでしょ?」


 その声が拗ねているようにも聞こえて、藤花は投げ出したままになっていた鞄からスマートフォンを取り出す。


「……スマホ、出して。持ってないなんて言わないよね?」

「鞄、取ってくる」


 そう言って菖子が屋上の出入り口へ向かう。扉の横から黒い学生鞄を掴んで戻ってくると、催促するようにスマートフォンを見せてくる。

 高校生と連絡先を交換することになる日がくるとは思わなかったとため息が一つ出るが、藤花は約束を果たす。しかし、菖子はチャットアプリの連絡先を交換しただけでは満足しない。「電話番号も」と催促され、藤花は仕方がないとリクエストに応えた。


 一緒にエレベーターに乗り、ビルを出て、その先は別々のルートを辿る。知り合いと言うには濃く、友人と言うには薄い菖子との関係に思いを巡らせているうちに、家に着く。

 いつものようににゃあこを撫でていると、昨日とそう変わらない生活が戻ってくる。藤花は日常に埋もれてしまう前に、SNSへ『前世の夢と塔からの脱出』と書き込んだ。

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