第2話
「あたし、
ピンポン球のように勢いよく弾んだ声を押しつけられ、藤花は思わず身を引く。だが、菖蒲と名乗った少女はそれを許さない。藤花の腕を掴み、引き寄せる。
「淡藤でしょ?」
問われて、藤花は即座に否定した。
「違うから」
「嘘」
「私、女子高生に知り合いいないし。初対面だって」
「初めてじゃない。覚えてないの?」
熱のこもった声で少女が尋ねる。
夜空を映したような闇色の瞳からは、嘘偽りを感じない。だからこそ、怖いと藤花は思う。己が語る言葉が全て真実であると本気で信じている少女に、自分の言葉が届くはずがなかった。それでも、差し出された言葉を受け入れるわけにはいかず、藤花は強い口調で告げる。
「私、淡藤って人じゃないから。離して」
「なんで? 淡藤だよ。あたしにはわかる」
「違うから」
そう言って、少女の手を振り払おうとする。しかし、すぐに彼女が立っている場所を思い出す。
藤花と少女は、二人の世界がはっきりと分かれているように手すりに分断されている。藤花が腕に張り付いている手を無理に払えば、少女の足はコンクリートから離れて落ちていく。
「とりあえず、こっち側来て。そこにいられると怖いから」
これ以上、目の前のセーラー服に関わることは本意ではないが、己の手で誰かを死に追いやるというのは寝覚めが悪い。気乗りがしないまま少女の手を引っ張ると、彼女は自ら手すりを乗り越えて藤花の世界へとやってくる。
死に引っ張られるように風に乗って消えようとしていた命が呆気ないほど簡単に生きることを選び、藤花はため息を一つつく。風から取り返した紺色のリボンを少女に手渡すと、あるべき場所にそれが収まる。
「淡藤じゃないなら、誰なの? 名前教えてよ」
手すりを背にした少女に問いかけられるが、藤花は答えることを躊躇う。
これ以上、関わりたくないという思いが強い。名前を教えてしまえば、面倒なことに巻き込まれそうで気が進まなかった。だが、少女がこのまま黙って帰してくれるとも思えない。
「……とうか」
懇切丁寧に名字まで教えるつもりはなく、名前だけをぼそりと呟くように教える。
「とう、か?」
「そう。淡藤じゃない」
少女の目を見て、きっぱりと答える。
視線が絡み合い、信じられないというように少女が何度か瞬きをした。白い肌はさらに色を失い、セーラー服と同じくらい白く見える。
「私、もう行くから」
藤花は黙り込んだ少女に背を向けようとするが、ブラウスを掴まれる。
「待って。それ、今の名前だよね? あたしが言ってるのは、前世の名前」
「いや、わけわかんないから。なに、前世って」
思わず聞き返して、藤花はいらない言葉を口にしたと眉根を寄せた。だが、一度外に出てしまった言葉を飲み込むことはできない。夕暮れの空の下、漂う言葉に少女が飛びつく。
「今よりも、ずっと前のあたしたち」
「意味わかんないって」
「相思相愛」
「え?」
「覚えてない? 淡藤とあたし、前世で付き合ってた。恋人だったの」
少女が頭を抱えたくなるような言葉を口にする。
前世だけでも信じられないのに、おまけに“恋人”だという単語までついてきて、藤花は長い髪をくしゃくしゃとかき上げた。
頭の中で“前世”と“恋人”という単語を転がして、小さく息を吐く。藤花は苛々とする気持ちを隠すことなく少女に奪われたブラウスの一部分を取り戻すと、冷たく言い放った。
「さっきから言ってるけど、私は淡藤じゃない。だから、あなたの恋人でもない。仮に淡藤だったとしても、前世のことなんて覚えてるわけないでしょ」
「あたしは覚えてる。今が何回目のあたしたちなのかわからないけど、あのときのあたしたちだって、あたしにはわかる」
イカれている、と藤花は思う。
頭のネジが一本、いや五本ほど外れているように見える。
安っぽいクリームに縁取られたケーキというよりも、上品なチョコレートといった外見に似つかわしくない常軌を逸脱した発言は、藤花の頭をギリギリと締め上げ、脳内に張り付いて剥がれない。
制服をよく見れば、スカートが膝よりも長い古風なタイプのセーラー服で、地元では有名な進学校のものだった。梅雨のじめじめとした空気も跳ね返すような白の上着に、紺色のスカートという出で立ちに憧れている中学生も多い。冬は上下共に紺と言うよりは黒に近い重苦しい雰囲気のセーラー服だが、それも人気があるらしかった。
決められた通りに制服を着て、街で目に余るような行為をすることもない良くできた子どもが通う学校だ。そんな高校に、非現実的なことを言い出すような生徒がいるとは思えない。
だが、現実は想像とは違う。藤花の目の前には、妄言としか思えない言葉を口にする少女がいる。
「本当に覚えてないの?」
畳み掛けるように少女に問いかけられて、藤花は眉間に皺を寄せた。そして、取り合うつもりはないが、疑問を一つ口にする。
「どっちが男?」
「どっちも女」
恋人が異性である必要はない。
そういったことが当たり前になりつつあるが、藤花はこれまで同性を恋愛の相手として見たことはなかった。そんな自分が前世というくらい遠い昔であっても、同性に恋をしたことがあるとは思えない。例えあったとしても、今生きている藤花には記憶が欠片も残っていなかった。
「ずっと、ずっと淡藤に会いたかった。この髪だって、淡藤がわかるように染めてるんだよ」
少女が自分の髪に触れる。
空を燃やす太陽に透けて、赤と紫が混じったような色をした髪が赤に傾く。長い髪が夕焼けに溶けてしまいそうで、少女から目を離すことができない。
本当にあるかどうかわかりもしない過去が、藤花の心を強く引っ張る。
ちくり、と鋭く尖った棘のようなものが胸の奥を刺す。
藤花は少女の髪に手を伸ばしかけて、すぐにその手を引き戻した。
「ごめん。私、もう帰るから」
このままここに留まり続けるのは危険だ。そう感じて、藤花は少女に背を向けて歩き出す。しかし、頭の中に「待って」という声が割り込んできて足が止まる。
耳には何も届いていなかった。
声は、脳内に直接響いていた。
藤花は振り向き、少女を見る。
「……今のなに?」
「私の力、覚えてない?」
少女がゆっくりと確かめるように言う。
藤花の顔から血の気が引き、固まったはずの足元がドロドロとした頼りないものに変わる。
声に出さずとも言葉を伝える力に、心当たりがあった。
藤花の視界がぐらぐらと揺れる。体を支える何かを探して手を伸ばすと、少女に抱きしめられる。
「覚えてるんだ」
春の日差しを思わせる明るい声が聞こえてくる。
藤花は、その力を覚えてはいない。その能力に覚えがあるだけだ。
『超能力』
心底馬鹿げていて、酷く子供だましの能力。
でも、それは確かに存在している。
少女の力をそれに当てはめると、言語や表情などに頼らずに心の内容を直接他人に伝えることができる精神感応、もっとわかりやすく言えば“テレパシー”に分類されるはずだ。
「あたし、淡藤に会うために死のうとしてたんだよ?」
耳元で囁かれ、藤花は少女の体を押しのける。
「死んで、生まれ変わったら、淡藤に会えるかもしれないでしょ? もし、会えなかったらまた死んで、生まれ変わったら会えるかもしれない。何度も繰り返していれば、いつか淡藤に会えると思ってた」
淡々と、けれど確信を持って少女が言った。
凪いだ海のような穏やかな物言いとは裏腹に、紡ぎ出された不穏な言葉に藤花は後ずさる。
軽々しく扱われる死は、到底受け入れられるものではない。そして、その死の到着点が自分だということは、考えたくもなかった。だが、少女は流れる水のように、心の中にしまっていたであろうものを吐き出し続ける。
「あれから、何度か死んで。また会えなかったから、もう一度やり直そうと思ってたんだけど、今度は会えた。この方法、間違ってなかったね」
当然のように言って、少女が柔らかに笑う。だが、藤花は向けられた笑顔に吐き気を覚える。
「間違ってる。間違ってるでしょ。だって私、淡藤じゃないって何度も言ってる」
「ううん、淡藤だよ。あたしにはわかる」
「だったとしても、死ぬ必要なんかない。前世と今は関係ない」
藤花は少女と自分の間に線を引くようにきっぱりと言い切って、もう一歩後ろへ下がろうとした。しかし、少女はそれを許さない。藤花の手を取り、吐息が混じり合う距離にまで近づく。
「淡藤に会えないなら、生きてる意味なんてない」
藤花の頭は、明瞭に聞こえた言葉を閉め出した。
彼女はまともじゃない。
常識という部分に線が繋がっていないか、スイッチが切れている。いや、元々常識というものが存在しないのかもしれなかった。
藤花は息を小さく吐いて、ゆっくりと吸う。これ以上、関わってはいけないと、脳内に鳴り響くサイレンが告げていた。意思の力に逆らわずに、握られた手を取り返す。藤花は、少女の目を見ずに背を向けた。
「淡藤。ここに、また来る?」
聞こえてきた名前は、自分のものではない。
藤花は黙って、歩き出す。
「藤花」
強く呼ばれて、足が止まる。
数秒考えてから、振り返らずに断言した。
「もう、来ない」
「なんで?」
「今日、辞表だしたから。会社辞めたし、ここにはもう来られない」
藤花は、歪曲した事実を告げる。
もうしばらくこのビルに来ることになっているが、少女と会うつもりがないのだから、わざわざそれを伝える必要はない。
「あたし、今の名前は
菖子と名乗った少女は、強引なセールスマンのように名前を売りつけようとする。だが、藤花にはそれを買うつもりがなかった。
「だから、もうここでは会えないんだって。それに、会いたくない」
さようなら、と告げる代わりに手を振って、屋上を後にする。
階段を下りて、エレベーターで一階まで行き、夕陽に照らされた街を歩く。振り返れば、灰色で覆われた細長いビルも赤く染まっていた。殺風景な風景を塗り替える色に、菖子の真面目とは言えない髪が浮かぶ。
藤花は、こびりついて取れない汚れに似た記憶を削り落とすように頭を振った。
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