第3話
「ただいま」
クリーム色のマンションの四階、藤花は玄関の扉を開けながら家族に声をかける。中から返事はないが、聞こえていないことがわかっているから気にはしない。靴を脱いで、玄関から一番近い部屋に鞄を放り投げる。そして、リビングへ向かう。
「にゃあこ」
廊下で待ち構えている茶色の毛玉を呼んで抱き上げると、「にゃあ」と愛らしい鳴き声が聞こえてくる。ぺたりと肩に前足をのせたキジトラ模様の猫を抱えてリビングへ入り、中を見る。しかし、三人いるべき部屋には二人しかいなかった。
「お母さん、お父さんは?」
「今日は遅くなるって。お父さんに何か用事?」
カウンターキッチンから明るい声が聞こえて、藤花は咳払いを一つする。だが、言うべきことは喉につかえて出てこない。海の底にでも沈められたように息苦しくて、無理矢理に深く息を吸って肺へと空気を送り込む。
いつもとは藤花の様子が違うことに気がついたのか、にゃあこが胸元で暴れ出す。藤花は、ぱたぱたと手足を動かす毛玉を床へ離して、キッチンを見る。
「用って言うか。会社、辞めた」
藤花は、詰まって出てこようとしない言葉を強引に吐き出す。すると、母親の
「えっ。お姉ちゃん、会社辞めたの?」
「そう、辞めた。月末までは行くけど」
「ちょっと、藤花。本当なの、それ?」
キッチンから姿を現した菫に問いかけられ、藤花は静かに答える。
「本当。勝手に決めてごめん」
「もう。さすがに、そういう大事なことは相談しなさいよ」
藤花は「ごめん」と謝罪の言葉をもう一度口にして、菫を見た。
「相談するほどのことじゃないと思ったから。辞表はもう出したし、少し休んだら次の仕事探す」
「会社で何かあったの?」
「そういうわけじゃないけど」
「まあ、どういうわけでも良いけど、辞めるなら次の仕事を決めてからの方が良かったでしょ。何も、そんなに慌てて辞めなくても。……もしかして、パワハラとか、セクハラとかあったんじゃないの?」
菫は、口うるさい方ではない。何かをやりたいと言って止められたことはほとんどないし、何かをやれと強要されたこともなかった。放任主義と言っても良い菫に、自由に育てられた。
しかし、目的もなく仕事を続けていくことが嫌になったと正直に答えたら、さすがに叱られるのではないかと思う。かといって、親を納得させられるような明確な答えも持っていない。
藤花が今さらながら、菫の疑問を解消する手段を探して思考を巡らせていると、ソファーの上から助け船がやってくる。
「まあまあ、お母さん。いいじゃん、どんな理由で辞めたって。次の仕事、探すって言ってるんだしさ。ねえ、お姉ちゃん」
「柚葉、あんたは本当にいい加減なことばかり。大学でも適当にやってるんでしょ」
「そんなことないって。真面目にやってる」
柚葉が軽い笑いを付け加えながら、立ち上がる。ふらふらと藤花の隣にやってくると、菫には聞こえないような声で「なんで辞めたの?」と尋ねた。
「飽きた」
本音の四分の一ほどをぼそりと告げると、柚葉が「やっぱり」とにやつく。藤花が口角を上げた柚葉の背中をばしんと叩くと、菫が言った。
「藤花、ご飯は?」
「食べる」
そう答えて、柚葉とともにキッチンに入る。
二人で菫を手伝い、テーブルの上に夕食を並べる。
食事中は、仕事の話はしなかった。
いつものように料理を咀嚼し、飲み込む。
それほど時間をかけずに食事を終え、食器を洗う。
すべてを片付けてしまうと、テレビから笑い声が聞こえてくる。藤花はにゃあこを一撫でしてから、部屋へと戻った。
「超能力、か」
ベッドにごろりと横になり、屋上で会った自殺志願者のことを思い出す。藤花にとって、菖子が使った能力はあまり良い思い出がない力だった。
見ても、体験しても、種があるのではないかと疑わずにはいられない能力。それが藤花にとっての超能力だ。
ベッドの上から起き上がり、放り投げられた鞄の中からハンカチを取り出す。藤花は枕の上にハンカチを置くと、じっと水色の布きれを見つめた。
脳の奥のもっと奥、深く潜った奥底で「動け」と声を発して、布きれを視線で射る。
手をかざし、強く、強く念じると、指先から見えない糸が出てハンカチに纏わり付く。そして、動くはずのないハンカチがふわりと三センチほど浮き上がり、形を変える。
布きれの端と端、互いがくっつき、ハンカチが二つに折り畳まれていく。
念力。念動力とも言う力。
物体を意思の力だけで動かすことができる。
菖子という少女が使っていた能力とは違う種類の力だが、同じ超能力に分類される能力だ。ただ、藤花の能力では小さなもの、軽いものをほんの少し動かす程度のことしかできない。
「何の役にも立たない力だよね」
呟きとともに、折り畳まれた布きれが枕の上に落ちる。
藤花はハンカチを掴んで、自らの手で四つに折って鞄にしまう。どんなものも能力を使うより、手を使った方がはるかに早くことが済む。
「あの子、どれくらいの力があるんだろ」
同じ異能の力を持つ少女を思い浮かべる。
もしかしたら、本当に前世で繋がっているのかもしれない。そんなことを考えて、藤花は立ち上がる。
机の前に座り、ノートパソコンを開く。
電源を入れて、ブラウザに“生まれ変わり”“前世”と打ち込む。
『前世は存在するのか。生まれ変わりの実例』
『生まれ変わり、前世の記憶を持つ子ども』
『生まれ変わりの期間、回数と前世の記憶』
ディスプレイに並んだ怪しげな検索結果を読み、藤花は椅子の背に体を預ける。
超能力よりもありえない。
この目で確かめることも、この体で体験することもできないことをどうやって信じるのか。
記憶は不確かで、簡単に自分にとって都合の良いものに書き換えることができる。何度も妄想をしているうちに、それが現実と混じり合い、自分が作り出したものと区別が付かなくなってしまう。そんなことがあっても不思議ではない。
一度見た夢が現実に入り込み、記憶を塗り替えていく。
そうして、できあがったものが菖子が語った世界。
前世というもの。
そう考えれば納得がいく。
藤花は前世など夢のようなものだと結論付けて、机の上に置いているにゃあこによく似た猫の置物に触れる。陶器でできたそれを何度か撫でると、気持ちが落ち着く。
今日は、早くお風呂に入って寝てしまおう。
藤花はブラウザを閉じて、ノートパソコンの電源を切ろうとする。だが、もう一度ブラウザを開いて、SNSにログインした。
『自殺志願者は前世の夢を見るか?』
深い意味があるわけではない。今日の記録として、くだらない一文を書き込む。
藤花には、未だにSNSの面白さがわからない。面倒なだけのツールとしか思えないが、世の中の大半がこうしたものに囚われている以上、何もしないというわけにはいかなかった。上辺だけでも世間にあわせていなければ、生きていきにくい。
藤花はノートパソコンの電源を切って、立ち上がる。
人は、自分とは異なるものを簡単に輪から弾き出す。藤花は輪から離れて一人でいられるほど強くはないし、強くなろうとも思えない。自分である必要がないことに我慢ができないくせに、自分でなければならないものになる勇気がない。
異なるものであり続け、他にはない何かになることができない藤花は、タンスから着替えを取り出す。
前世の自分はどんな存在だったのか。
そんなことが気になりかけるが、部屋の電気とともにいらない思考を消す。藤花は闇に覆われた部屋を出て、バスルームへと向かった。
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