記憶にない恋人は覚えのない過去を語る

羽田宇佐

風に舞うセーラー服

第1話

 五階建ての細長いビルは、お世辞にもお洒落とは言えない灰色で覆われている。屋内も殺風景な外観と運命を共にするべく、灰色の壁に支配されていた。


 川上藤花かわかみとうかは三階からエレベーターで五階まで行き、情緒の欠けた空間に降り立つ。

 屋上へと続く階段は照明が付いてはいるが、薄暗いせいで重苦しい雰囲気に包まれている。ビルの中にはまだたくさんの人がいるはずなのに、階段は喧噪から隔離されたように静かだった。


「屋上までエレベーターで行けるようにしといてよ」


 藤花はぶつぶつと文句を言いながら、壁よりもやや薄い灰色の階段に足裏を叩きつけるようにして上っていく。一段上るたびに赤いスニーカーがべたん、べたんと情けない音を立てる。


 藤花が出した辞表は、受理された。

 月末には、自由の身だ。しかし、自由になることが目的で仕事を辞めるわけではない。仕事に問題があったわけでも、人間関係に問題があったわけでもなかった。


 残業はほどほどで、給料はそこそこ。

 手に入る報酬は多いとは言えないが、実家から通う分には困らない。


 辞表を出した理由は、二十四歳になった人間が口にするにはあまりにもくだらないものだった。嫌いではないが、好きでもない仕事を続けていくことに疑問を持っていた。ただそれだけだ。


 私である必要がない仕事。


 そういったものを続けていく自信がなかった。だから、夢見がちな学生のように、目的もなく続けていたことを投げ出した。


 藤花はしばらく働かずに暮らせるくらいの蓄えが出来たのだから、それくらいは許されるだろうと言い訳をしながら階段を上る。

 屋上へ近づくたびに、体に纏わり付く空気が重くなっていく。


 やりたいことも、やるべきことも見つからないまま、仕事を辞めることに罪悪感がないわけではない。手に入れた自由は、見えない鉄格子に囲われた窮屈なものに思える。


 藤花は、この世界の終焉を願う。

 死にたいと思ったことはないが、自分という存在が必要とされているのかされていないのかわからない世界は、早く終わってしまうべきだと思っている。

 能動的ではなく、受動的な自殺願望。


『世界が終われば、私も終わる』


 地獄に投げ捨てた方が良いような馬鹿馬鹿しい思いに取り憑かれていた。


 藤花が階段を上りきって重い扉を開くと、風に長い髪がなびく。ギギギギと扉が鳴らす錆びた音を聞きながら、ジーンズにブラウスという軽装で屋上へ出る。


 空を赤く染める太陽の下、藤花の目に先客の姿が映る。いや、正確に言うならば、それは先客ではなく、能動的な自殺志願者の姿だった。

 死を間近に感じて、藤花の息が一瞬止まる。


 午後六時過ぎ、手すりの向こう側。

 なにもないガランとした屋上には不釣り合いな白いセーラー服が立っていた。


 紺色のスカートが風に翻り、今にもビルから落ちてしまいそうで心臓がどくんと強く脈打つ。六月の初めだとは思えない生ぬるい空気が頬を撫でるが、背筋に寒気が走る。


「ちょっと、ここで死ぬつもり?」


 他人にそれほど興味はないが、見てしまった以上放っておくこともできずに大きな声で呼びかける。そして、慎重に一歩、また一歩と少女に近づいていく。

 藤花は、辞表を出した日に目の前で人が死ぬなどという印象深い出来事は御免だと思う。


 しかし、声が聞こえているはずの少女は微動だにしない。赤にも紫にも見える色をした長い髪を一つに結ぶ紺色の細いリボンとセーラー服が風に舞い、その存在を主張していた。


「ねえ、聞こえてる?」


 手を伸ばしても少女には届かないが、声を張らずとも聞こえるであろう距離で問いかける。しかし、返事はなかった。


「そこ、あぶないからこっちに来なよ」


 藤花は少女に確実に届くように、先ほどよりも大きな声で告げたが状況は変わらない。セーラー服は、手すりの向こう側ではためいている。


 ぴんっと伸びた少女の背中には、悲壮な想いを感じない。それどころか、一種のすがすがしさが宿っていた。


 死の淵にいるはずの少女は、死とは縁遠い姿をしている。

 いじめか、家庭環境か。それとも、もっと別の何かか。

 藤花は、言葉を発することもせず、こちらを見もしない少女が自殺に至る理由を考える。


 校則に違反しているであろう少女の髪は、いじめられる側の人間には見えない。ならば、黒ではない髪は、落第生の烙印を押された証なのかもしれないと考える。しかし、すぐにそれらを追い出す。


 今、するべきことは理由を考えることではなく、少女をこちら側へと引き戻すことに他ならない。藤花は、もう一歩だけ少女に近づく。


「死ぬなら、せめて私が帰ってからにして」


 思わずオブラートに包むことなく本音を口にすると、背中だけしか見えなかったセーラー服が藤花の方へと向いた。


 キラキラと光るガラスを閉じ込めた黒い瞳に、意志の強さを感じさせる眉。血管まで透けて見えそうな白い肌は健康的とは言えなかったが、少なくない数の人間が可愛いと評価するであろう甘い顔立ちのせいかそれも少女の魅力の一つに見える。

 胸元では、紺色のスカーフが風に揺れていた。


「あたしがここで死んでも、あなたに関係ないでしょ。遺書もあるし、あなたがあたしを突き落としたなんて誰も思わない」


 辺りを冬に変えるような冷たい声が、未だに死を選ぼうとしていることを宣言する。


「そういうことを心配して言ってるんじゃない。ただ、目の前で人に死なれるのは良い気分じゃないから」


 藤花は、身勝手な理由を押しつける。だが、少女は怯まない。藤花を睨むと背を向けて、錆びた手すりを掴んでいる指を離そうとする。無意識のうちに、藤花は少女に向かって駆け出す。


 引き留める方法。

 何か、何か浮かべ。


 藤花は、祈るように心の中で唱える。

 風が、あちら側に行きかけたセーラー服の背中を押すように強く吹く。

 少女の長い髪を結ぶリボンが揺れて、藤花の髪も舞う。視界が一瞬遮られて次の瞬間、少女のリボンが飛ぶ。


 風に乗る紺色のリボンにつられるように彼女も空を飛びそうに見えて、藤花は強く、強く念じた。


『こっちに来い』


 頭の奥底、深い部分で自分にだけ聞こえる声を発する。


 風に乗って逃げようとする薄い布を視線で縛る。

 さらに強く念じると、リボンが世界の理に反する。

 流れる風に逆らい、糸で引っ張られるように藤花の元へと向かう。


 少女が動きを止める。

 藤花はリボンに手を伸ばし、捕まえ、一緒に少女の腕を掴む。

 その瞬間、静電気が発生したときのような痛みとともに、視界が赤みがかった紫色に染まった。


 記憶をえぐるように差し込まれる白い空間に、人影。


 目眩がする。

 意識の中に、見たことのない誰かを感じる。

 穏やかな声が頭の中に響く。

 知らないはずなのに、どれも知っているような気がして、こめかみの辺りがキリキリと痛む。


 スニーカーが足元のコンクリートに飲み込まれるような不安定さに体がぐらりと揺れて、少女の腕を掴んでいたはずの手が離れる。覚えがないはずなのに、覚えのある記憶を追い出すように目をぎゅっと閉じて開くと、少女が呆然と立っていた。


 手すりの向こう側、いつの間にかこちらを向いていた少女が藤花を見る。

 少女と目が合う。

 キラキラと光る黒い瞳が、輝きを増していた。


「あ、わふじ」


 掠れた声が聞こえ、現実の色が濃くなる。泥のように頼りなかったコンクリートは硬さを取り戻し、藤花の意識を屋上へと固定する。


淡藤あわふじ!」


 少女が一際大きな声で、誰のものかわからない名前を叫んだ。

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