第5話

三三



「横須賀TAITAN族」のヘッド、ロビンJr.が、二人のお供を連れ、再び稔彦の前に現れたのは、稔彦が、神谷藍を伴い横須賀の総合病院の正面玄関の前だった。


稔彦は、ロビンJr.がどうして自分がここにいることを知ったのか、どこで調べたのか疑問に思いながら、相対した。


ロビンJr.は、相変わらずテカテカのオールバックで、鏡みたいに黒光りするサングラスをつけ、大型のハーレーダビッドソンに跨がりガムを噛んでいる。


稔彦は神谷藍に、外は寒いから、中のロビーで待っているように告げ、神谷藍が再び病院の中へ戻ったのを確かめてから、ロビンJr.に近づいた。


距離は2メートルほど。

いきなり攻撃されても充分に対処できる間合いだ。


彼の左右に立つ二人の少年たちも長身で、金髪を短く刈り上げ、やはり同様のサングラスを掛けながら互いのハーレーダビッドソンに横座りしている。


稔彦に向かって身を屈め、いつでも跳びかかれる体勢だ。

その右側の少年は、左側頭部にブルーのメッシュを入れている。


稔彦は飄然とした顔で、喧嘩の続きをやりに来たのかと、ロビンJr.に投げかけた。


ロビンJr.は、太い唇を左右に吊り上げてから眉毛を八の字に歪め、病院の中へ入った神谷藍を顎で指差し、小指を立て笑った。


その瞬間、稔彦の顔に険が走った。

同時に内面から憤怒の気が溢れ、そのせいで稔彦の身体が大きく膨れた。


稔彦が素早く一本前へ足を進め、ロビンJr.との間合いを詰める。

大型のハーレーダビッドソンに跨がるロビンJr.は、咄嗟の攻撃には対応できない。

やるなら今だ。


ロビンJr.が、神谷藍に向かい、小指を立てたのがいけなかった。

稔彦は、神谷藍を侮辱する行為を何より嫌った。

神谷藍を守るためなら、いつでも誰が相手でも、全力で撃破するつもりでいる。


稔彦の突然の豹変に驚いたロビンJr.は、一瞬首を竦め、何をそんなに怒っているんだい、そう言わんばかりにその場を茶化したが、すぐ左横のメッシュ少年を親指で指差し、聞き取りにくい日本語でこう言った。

「コイツ、マイケルJr.」


「マイケル……」

稔彦は、口の中で何度か反芻してから、思い出したようにその少年をみた。

彼を、成田空港の国際線ロビーで一度だけ見かけたことがある。あの時はロングヘアーだった。


稔彦が高一の時に、横須賀駅前で神谷藍にちょっかいを出した、三人組みの巨人米兵がいた。

毛むくじゃらな巨人兵ことカール・ロビン。ニグロの黒人、そして赤ら顔のマイケル・スミス。


マイケル・スミスは、昨年の空手道選手権大会で稔彦に敗れて負傷し、今でもリハビリ生活を送っているカール・ロビンの復讐を果たすため、三浦海岸駅前通りで、稔彦を、護身用の小型拳銃で撃った男だ。


後日稔彦は、マイケル・スミスが早朝の便で米国へ逃亡する情報を入手し、撃たれたことに対するけじめをつけるため、成田空港の国際線ロビーで待ち伏せし、マイケル・スミスを一撃で倒した。


この時稔彦が使用した技は、中立て一本拳。

中指の第二関節を立て、マイケル・スミスの人中(鼻と唇の間の溝)を突き貫いた。

このためマイケル・スミス一家は、意識を失った父親の回復を待つため、帰国時間を夜の便に変更せざるを得なかった。


あの時、マイケル・スミスの妻の隣で震えていた少年が、このマイケルJr.だった。


ロビンJr.が、稔彦にプレッシャーをかけてきた。

「オマエ、マイケル、タイマン、ハルネ」


今、ここでやるのか、と稔彦が返す。

「ホスピタル、マズイ。ジャパニーズポリス、ウルサイネ。ヨコスカフトウデマツ」

「いつ?」

「サタデー、ヨアケマエ」

「わかったよ。必ず、行く」

「ニゲルナヨ」

「逃げる? 誰に向かって言ってんだか」


稔彦は、かつて横須賀埠頭の約束時間に遅れた理由を、まだロビンJr.に説明していなかったが、話すつもりもない。

「マッテル、ゼ」

「チーム総動員して、待ってろよ」


ロビンJr.がハーレーのエンジンを始動させると、マイケルJr.ともう一人もハーレーに跨がりエンジンをかけた。

それからアクセルを三回空吹かし、重く腹に響くハーレー独特の排気音を残し走り去っていった。


マイケルJr.は、背は高いが、細身で、顔つきもまだ幼い。

まだ高一くらいかな、稔彦は勝手にそう判断して、喧嘩の相手としては役不足だなと思った。


この時、マイケルJr.は、まだ一四歳だった。

そのことを知っているのは、「横須賀TAITAN族」の中でも、ロビンJr.を除いた一部の幹部だけだ。


稔彦は、マイケルJr.が、横須賀埠頭へ一人でやって来るとは考えていない。

最初はタイマンでも、すぐに大勢の兵隊が集結してくるはずだ。

「横須賀TAITAN族」は、総勢八〇名。

八〇対一。

やるには、作戦が必要だ。

稔彦は、自分でも気づかない内に、両手の拳を握りしめていた。


稔彦は、ロビンJr.たちが視界から消えたのを確かめ、病院のロビーで待つ神谷藍を迎えに中へ入った。


それから神谷藍を、駐車場に停めた単車の後部席に乗せ、走りだした。


海から吹き込む晩秋の風は冷たくて、稔彦は、自分が着ていたジャンパーを神谷藍の腹に巻きつけ単車を走らせた。


国道16号線を南下しながら、数日前に神谷藍から聞かされた妊娠の話しを思い出していた。

出産予定日は来年の五月だと言われたが、その時はまだ、事の重大性に気づいていなかった。


妊娠三か月目。

三か月目だと聞いても、それがどんな状態なのか想像もつかないし、考えたこともない。


神谷藍は、三崎口の父親にも相談はしていない。

まだ時間はあるから、産んでいいのか、中絶するのか、稔彦にそのボールを預けたつもりだ。


歳上の自分が、まだ高校生の稔彦に結論を託したのは、今日までの生活を鑑み、これからの将来を稔彦に託してよいのかを見極めるためだ。

と言うよりは、稔彦の本心を知りたかった。本心が判れば、自分の覚悟が定まる。


今日、横須賀の病院で、腹部のエコーを見せられ、神谷藍は、自分のお腹に宿る小さな生命に感動して眼を潤ませた。

親指ほどの小さなその命は、大きく心臓を鼓動させ、力強く生きていた。


稔彦は、ただ呆然とモニターの画面でうごめく小さな影を眺めていた。

そうして眺めているうちに、神谷藍の身にとんでもないことが起きていると言う意識が芽生え、その責任が自分にあることを自覚した。


同時に、何か自分の力の及ばない世界へ引きずり込まれていくような、得体の知れない不安感を抱いた。


土曜日、稔彦は陽の出の一時間ほど早く、横須賀埠頭へ到着した。

ロビンJr.との約束時刻は夜明け前だが、「横須賀TAITAN族」の人数と武器を確かめておきたかった。


昨夜、神谷藍には、仙道道場の朝稽古に参加することを伝えておいた。

体のいい嘘だが、そのまま午後の稽古まで残ると言ったことは、事実だった。


稔彦が横須賀埠頭に到着したのは午前五時ころ。

そしてロビンJr.率いる「横須賀TAITAN族」が爆音を鳴らして結集し始めたのは、まだ埠頭が薄暗い午前六時前。


稔彦は、埠頭の反対側にある倉庫の陰からから、「横須賀TAITAN族」の動きを確かめた。


集まってきたのは、総勢五名。

予想以上に少ない人数なので、稔彦は首を傾げたが、始まってしまえば、そんな事はどうでも良かった。

目標は五人だろうが八〇人だろうが、全員を倒すつもりで来た。


稔彦が見ると、木刀を持つ者、チェーンを振り回す者、そして手の保護のためか全員が革製の手袋をつけている。

この瞬間、相手は全員でやる気だと確信した。


稔彦は、ロビンJr.とマイケルJr.以外の三人に見覚えはなかったが、彼らは、仙道道場が間借りしているビルの一階で稔彦を待ち伏せしていた男たちだ。


この三人は、子供の保護者からの通報を受け、様子を見に来た仙道にこっぴどく仕置きされ、逃げ帰って行った。


ロビンJr.は、一通り辺りを見回し、稔彦がまだ来ていないことを確認した後、その場の雰囲気に緊張するマイケルJr.をリラックスさせるため、笑いかけ、それから耳打ちした。


マイケルJr.は緊張気味に何度も頷き、それから自分の胸を拳で叩き、頷き返した。


その様子を確かめた稔彦は、倉庫の背後へ回り、よこすか海岸通りへ向かって走った。

五人の他に、新たな勢力が潜んでいないか確かめるためだ。


よこすか海岸通りには、三台の配送車が往来するだけで、辺りに人影は見あたらない。


刻は来た。


稔彦は、自分自身にそう叫んだ。

急いで倉庫の裏手へ走り戻り、単車に跨がりエンジンを始動した。


稔彦はスピードをつけたまま、五人の輪の真ん中へ突っ込んだ。


いきなり滑り込んできた稔彦に戸惑う五人は、体勢を整えるのに一瞬遅れた。

全員がまだ単車に跨がったままだ。


稔彦は、単車のシートを蹴って跳び上がり、マイケルJr.が跨がるハーレーダビッドソンのガソリンタンクに跳び乗った。


静止すること一秒。


マイケルJr.が、タンクの上に立つ稔彦を見上げる。

同時にロビンJr.が叫んだ。

「ニゲロ、マイケル!」


稔彦の右足、シューズの爪先がマイケルJr.の顎を蹴り上げたのはこの時だ。

稔彦は手加減しない。


強烈な一撃を浴び、一言も発せず、マイケルJr.が後頭部から地面にひっくり返った。

マイケルJr.の顎が、陥没している。


次の瞬間、稔彦はその場にいない。

隣の男のハーレーに跳び移り、驚いて動けないでいる男の顎を、同じように蹴り上げた。


残りの一人が、意味不明な台詞を喚きながら、稔彦の右脚を木刀で殴った。


稔彦が脛で受け、はね返す。


その男の木刀が二つに折れてふっ飛んだ。


稔彦はまだタンクの上。

タンクの上から、男の首元へローキックを刈り込む。


もう一人が、自転車のチェーンを、稔彦の顔面を狙って振り回した。

稔彦はチェーンの先端を右掌で受け止め、握ったまま空中へ跳んだ。


男の頭上から、無防備な男の顔面を目がけ、靴底で五連発、蹴り込む。

男は顔面血だらけになり、膝から崩れ落ちた。


地上へ着地した稔彦の眼前に、チューインガムを噛んだままのロビンJr.が、立ちはだかる。


稔彦はゆっくり起ち上がり、ロビンJr.のサングラスを指差して言った。

「それ、喧嘩の最中は外した方が良いよ。夜はなおさらね。おいらの攻撃はハンパじゃないから、見えないよ」


ロビンJr.が不敵に唇の右端を吊り上げ、尻のポケットからジャックナイフを抜いた。

これでもおまえは平気なのかと脅す。


飄然とした顔で稔彦が応える。

「そんなものは、おいらに通用しないよ。嘘だと思うなら試してみなよ」


ロビンJr.が腰を屈め、左手に握ったジャックナイフを前へ差し出し、左右に振りながら、稔彦との距離を縮めてゆく。


稔彦は両腕をだらんと垂らし、直立したまま動かない。

この時、ロビンJr.のジャックナイフを見ていない。

稔彦が注視しているのは、ロビンJr.の左肩の動きだ。刃先が動く前に、肩が動く。


逆に稔彦が、ロビンJr.を誘うように一歩前へ詰めた。

互いが手を伸ばせば届く間合いに入った。


ロビンJr.が腰を沈める。

稔彦がその動きにつられ、ロビンJr.のジャックナイフに視線を移した。


次の瞬間、いきなりロビンJr.肩から突っ込んできた。アメフトのショルダータックル。


ジャックナイフで来るものだとばかり予測していたから、さすがに稔彦も虚を突かれた。


その戸惑いに、ロビンJr.のショルダーアタックを躱すのに遅れ、正面から受け止めるため前屈姿勢になる。


二人がぶつかり合う瞬間、ロビンJr.が、ジャックナイフを稔彦の脇腹へ刺し込もうとした。


稔彦はジャックナイフの峰の部位を左掌で押さえて下げ、強烈な右裏拳で、ロビンJr.の顔面を、その黒光りするサングラスごと打ち砕いた。


ロビンJr.の眼前に火花が飛び散り、意識が遠ざかる。

膝が崩れ落ちそうになるのを何とか踏ん張り、力任せにジャックナイフを右へ薙いだ。


稔彦は顔をのけ反り、ジャックナイフの切っ先を躱そうとしたが、僅かに左頬を掠めた。


頬が切れ、紅い線が浮くのも気づかず、倒れかかるロビンJr.の左顎へ、止めのローキックを刈り込んだ。


ロビンJr.が、稔彦の靴先を舐めるように、稔彦の足下に突っ伏した。


それからもう一度、倒れているロビンJr.と他の四人の状態を確かめた。

自力で帰れそうだと判断した稔彦は、単車を抱き起こすとすぐにエンジンを始動し、その場から離れた。


辺りが白み始めたよこすか海岸通りを、猛スピードで北上し、市内にある仙道空手道場へ向かう。


単車を走らせながら稔彦の脳裡に、歳下のマイケルJr.に、加減しなかったのはやり過ぎだろうかという疑問が過ぎる。


ただ、翔太たち後輩に対しても加減したことはなかった。

ましてあれは喧嘩だ。

喧嘩の相手に加減は必要ない、やはり、それが稔彦自身の結論だった。



三四



神谷藍から、報告を受けた大城みゆきは、ある種のショックを覚えたが、いつまでも尾を引く性格でなかったから、神谷藍を全面的に擁護すると宣言した。


稔彦は、師走に入る頃、日に日にお腹が大きくなってゆく神谷藍を間近で眺め、やがて生まれてくる子供をどうしたらいいのか、漠然と考えるようになっていた。


ただ、この時期を境に稔彦は、仙道空手道場の選任指導員として登録することになり、休日の少年部の稽古は元より、夜に行われる青年部の指導も任された。


もちろん、アルバイト代を受け取ることになり、そのお金はすべて神谷藍に渡していた。


神谷藍は、日常生活に必要な生活費は、店の売上げからの分配でまかなえていたから、稔彦のアルバイト代はすべて将来のために貯金した。

ただ、そうした稔彦の行為が嬉しく思えた。

稔彦の口から、結婚する話はまだなかったが、心のどこかで、三つ歳下の稔彦に守られているような心境になる。


稔彦の性格だから、自分の内面ではっきり決めたら、ちゃんとした形として示してくれるはずだと、神谷藍は信じている。


この時期、仙道空手道場では異変が起こっていた。

秋の大会で優勝した高校生が、横須賀の空手道場で子供たちを指導しているとマスコミが騒ぎ、子供を通わせている保護者が、自分のブログにアップしたものだから、一気に拡散してしまった。


ただ、そのお陰で、仙道道場は入門者が増えた。

増えたのは良かったが、狭い道場に子供たちが溢れかえり、稽古にならない状態が続いた。


稔彦の提案で、休日の少年部の稽古を、午前と午後の二回行うことになった。

指導に当たるのは仙道明人と稔彦が分担したが、仙道が会合のため不在の場合は、稔彦が両方を担当した。


三浦海岸駅前商工会理事会でも、異変は起きていた。


神谷藍の妊娠を知った理事役員メンバーが、梢が遺してくれたこの店をこれからいかにして守るか、それを酒の肴に盛りあがった。


つまり、若い二人が同居していたら、いつかはこうなると予測していながら、何の手もうってこなかった大人たちにも責任はあるから、この件を大事にせず、可能な限り内密に見守ろうと言うことになった。


学校に知れたら稔彦が退学になる可能性があるから、来年の三月の卒業まで何とか穏便に済ませようと話し合った。


出産予定日は五月。何とか間に合いそうだ。


店内で繰り広がる理事役員メンバーの気遣いが、そしてその雰囲気が、無頓着な稔彦に、大人としての責任感を教えてくれた。


自分が何をすべきかを考える時間が増え、自分以外に、守らなければならない存在が増えたことを自覚し始めた。


そうして最大の異変は、太子堂高校空手愛好会で起きた。


愛好会の歴代主将とOBたちが、地元に集まり始めたことだ。

年末に、段田剛二と稔彦が相見えるとした情報が、愛好会のOBだけが加入するSNSで流された。

流されたが、誰が流したのかは判らない。


現役大学生の鬼頭三郎や梶川大悟は、大学の冬休みに地元へ帰郷すればそれで済むが、ブラジルの格闘技を学ぶため、高校卒業と同時に留学した四代目門馬勝美や、ハワイで起業している二代目新城良は、そう簡単には帰国できなかった。


二人は、稔彦の活躍に関する情報は把握しているが、一度も面識はなかった。

新城良が帰国を決意した理由は、やはり、久しぶりに段田剛二の顔を見たくなったからだが、門場勝美の場合は、また別に目的があった。



三五



クリスマスイブの午後。


朝から重い雲が立ち込め、昼を過ぎても気温は上がらない。

厚く立ち込む雲の表面に凸凹はなく、羽布団を広げたように白く平坦な雲が広がっている。


今にも一降り被りそうな雲行きの下、太子堂坂、三番空き地。


赤錆に覆われたドラム缶を、両腕を組んだ長身の男が立って見下ろしている。


頭髪を短く刈り上げ、肩幅が広く、陽焼けした精悍な顔に三白眼が印象的なその男に、背後から近づいてきたもう一人の男が、話しかけた。

「おい、門場。やっぱりここにいたんだな。帰国したって聞いたから、ずっと探してたんだぞ。連絡ぐらいくれたっていいじゃんかよ」


門場勝美、空手愛好会四代目主将。


門場は、ドラム缶の拳穴を眺めたまま、振り向きもせず応えた。

「三条か。久しいな。なあに、先に用事を済ませてから、連絡しようと思っていたんだ」

そう言うなり、意味ありげに唇の右端を吊り上げてみせる。


振り向きもせず、自分に対して話しだした門場勝美の態度を見た三条は、相変わらず高校時代のままだと思った。


卒業して三年が経つと言うのに、まだ門場から相手にされていない自分を再確認したような気がして、少し落ち込んだ。


それでも三条は、久しぶりの門場の肩を叩いて、その筋肉の厚みと固さに驚いた。

さすがに、ブラジルへ修行に行っただけの成果はある。


この時、三条はある事に気づいて門場の顔を覗き込んだ。

「おい、その用事ってのは、まさか、まさかの話じゃないよな」

「その、まさかのまさか、だよ」

「段田さんの前にやるつもりか」

「先にやったのは、おまえの方だぜ」

「た、確かに、そうだが。ただ俺の場合は」

「で、どうだった? この、巨大な拳穴をあけたお方の実力はよ」


門場は、稔彦が秋の大会に優勝した事を知って三条に訊いている。

外界の噂より、実際にやり合った相手の言葉の方がよりリアルに聞ける。


ドラム缶の左から順に、歴代主将たちが卒部の証に拳であけた六つの拳穴が並んでいる。

最後の七つ目の拳穴は、前の六つの穴の倍以上の大きさだ。


門場が続けて語る。

「引き手の反動を使わず、両手の拳であけるには、それなりのスピードとタイミングが必要だ。やってやれないことはないが、両拳でやるって言う発想がおもしろい」

「確かに、普通は考えないな」

「三条、だからどうだったんだよ、七代目の実力はよ」

「ああ、そのことだが、パワーもスピードも想像以上だよ。現役時代の門場を超えていた。と言うよりは、段田さんに近いものを感じた。そして極めつけは、あいつの手足が石みたいに固いってことだ」

「石みたいに固いとは」

「攻撃してもはね返され、攻撃したこっちの部位が破壊されてしまうんだ」

「ほう、そう言うことか。そいつは大したもんだな。全身これ凶器ってやつだ」

「そうそう、拳も肘も脛も、固い凶器みたいだった。とにかく、突いても蹴っても痛いんだ。受けがそのまま攻撃に繋がっている」

「三条、人間、その気になって鍛えたら、人指し指だけで人を殺せるんだぜ。ただ俺は思うんだが、戦国時代の忍者じゃあるまいし、今どき、そっちの方向へ向かって、いったい何になりたいんだろうなってことだ」


その時、坂下から潮風が吹き上がり、三条の眼前を白い綿菓子みたいなものが舞い踊った。

門場はまだドラム缶の拳穴を見つめたままだ。


三条が空を見上げてはしゃいだ。

「門場、雪だ。雪が降ってきたぞ。朝からずっと寒い寒いと思っていたんだ。こりゃあ初雪だな。おい、門場、ホワイトクリスマスイブだ」


舞い散る牡丹雪の、一粒一粒を正拳突きで弾きながらはしゃぐ三条をよそに、門場は、組んでいた両腕を解くと稔彦があけた拳穴に自分の両拳を合わせて入れてみた。

拳の大きさは変わらない。


門場はドラム缶の反対側に回り、もう一度両拳を合わせ、胸元へ引きつけた。

それを見た三条が慌てて叫んだ。

「おい門場、何をやるつもりだ」


次の瞬間、門場の口から太い気合いが発せられた。

同時に、鉄板を叩く鈍い音が、舞降る雪の結晶を打ち砕かんばかりに鳴り響く。


「門場!」

堪らず三条が門場勝美の傍へ走り寄る。

そして眼をむき出し、呆然と立ち竦んだ。


門場勝美の両拳は、ドラム缶の表面にめり込んではいたが、それは半分ほどで止まっていた。

つまり、打ち抜けていなかった。


門場は、拳の皮膚を傷つけないよう、ゆっくり引き戻しながら破顔した。

「まあ、こんなもんだろうよ。だがよ、何でもありの試合なら、負ける気はしない」

「それって、あっちの格闘技を使えばってことか」

「ああそうだよ。もちろん、立ち技だけじゃない。関節も絞めも使えば、の話だ。空手は、寝転んだら終わりだからな」

「俺にはどっちが強いのか判らないが、草薙は、柔道の高段者とガチで試合い、勝ったって話だぞ」

「その相手は誰だ」

「名前は知らないが、何でもインターハイで上位入賞するほどの実力者らしい」


門場は、ふん、と鼻を鳴らし、しばらく、風に踊る雪を見上げながら何かを考え込んでいたが、やがて三条に顔を戻し、いきなり破顔してみせ、

「三条、おまえ、相変わらず雪が好きだよなあ。おまえの好きな雪でも眺めながら、久しぶりに一杯やろうぜ。日本の雪見酒をよ」


門場の誘いに、三条が手を叩いて喜んだ。

「賛成だ。まだ時間は早いが、坂下の三浦屋に頼めば、酒くらいだしてくれるはずだ。行こう、行こう、雪が止まないうちに早く行こう」


三条は、門場勝美と肩を並べて太子堂坂を下りながら、更に大粒になった牡丹雪を見上げ、稔彦が、今頃この雪を眺め、いったい何を思っているのだろうかと考えた。



三六



年内、少年部最後の、二回目の稽古が終了した午後、稔彦は仙道明人を相手に組手稽古を始めていた。


この頃になると、今の仙道では、稔彦の相手は務まらなくなっていた。


組手稽古の最中に、物足りなさそうな稔彦の顔を見た仙道は、ちゃんと相手も務まらない、今の自分の衰えを恥じた。

そして稔彦の成長の早さに驚いている。

さりとてこの道場に、稔彦の相手ができる者は存在しない。


仙道との組手稽古が終わり、稔彦は、更衣室にの奥でシャワーを浴びている。

店が終わった深夜に風呂に入る時間がもったいないので、仙道道場で稽古をした日は、なるべくここでシャワーを済ませてから帰宅することにした。


仙道は、道場の隅に吊したサンドバッグに軽く額を触れながら、稔彦の今後の組手相手をどうしたものか思案していた。

相手がどうしても思い浮かばない。


この時、突然、道場の玄関から風が吹いて、思わず仙道は振り向いた。


仙道がそっちに顔を向けると、長身痩躯の男が何の警戒心も持たず入ってきた。

その顔に見覚えはない。


痩せ型だが筋肉質で、身体全体は引き締まっている。身長は稔彦より5、6cmは高い。


男は、瞳が透けて見える程度の小さな色つきメガネを、鼻の上に乗せている。

その風貌から、どう見ても普通のサラリーマンには思えない。


男は仙道の眼前で足を止め、自分の名を新城と名乗り、稔彦に会いに来たことを告げた。


仙道は、新城の頭髪が金髪なのと、他人ひとをおちょくったような縁無しメガネを少し不愉快に感じながら、稔彦に会いに来た目的を訊ねた。


新城は、その外見に似合わない、丁寧な口調でこう応えた。

「段田剛二の伝言を、草薙稔彦に伝えるためです。この時間は、ここで子供たちを教えていると聞きましたのでやって来ました」


段田剛二、その名前を口の中で反芻しながら、仙道は、昨年の全国大会で飛び入り参加し、南條士郎五段を倒した記憶を、頭の中で再現した。


御手洗大介四段と稔彦の決勝戦が終了した後で、段田剛二がいきなり試合会場のマットに上がり、三国海道審判長に試合を申し込んだ。


三国海道は老齢を理由に、南條士郎を代役に指名した。

現役を引退して数年になるが、かつて世界大会の覇者、南條士郎が、どこの馬の骨とも判らない相手に負けるとは、関係者の誰も思わなかった。

仙道も同じだった。


稔彦は、準決勝戦で伊達幸司の「仏殺し」、決勝戦で御手洗大介から「抱き落とし」の、大会では禁止されている禁じ手を、二度ほど浴びせられていた。


段田剛二は、南條士郎との試合で、この二つの禁じ手をやってのけ、南條士郎を倒した。


決勝戦で敗退した稔彦の仇を討ったことになるが、マットから降りた直後、迎えた稔彦の肩を叩き、

「これで許してやれ」

そう言って太い笑顔を残して去って行った。


仙道は稔彦のセコンド席で、段田剛二が稔彦に言った、その言葉を聞いていた。

それで段田剛二が飛び入り参加した理由を理解した。

この時、仙道は、段田剛二にある種の好感を抱いていたのだった。


仙道が、新城良に、その段田剛二の伝言の内容を訊こうとした時、更衣室から稔彦が現れた。


新城が、鋭い視線を稔彦に浴びせる。

稔彦は歩を止め、いつもの飄然とした顔で新城の視線を受け流した。


仙道が稔彦に新城を紹介し、突然やって来た要件を説明した。


新城は、更衣室の前で立ち止まる稔彦へ近づき、改めて自己紹介を始めた。

「君は草薙稔彦だな。ひと目見ただけでわかったよ。凄いな。驚いたよ。俺は新城良。七代目に、段田剛二の伝言を伝えに来たんだ」

「段田先輩の? おす。失礼しました。新城先輩ですか、初めてお目にかかります、草薙稔彦です」

「七代目の活躍は、遠くハワイまで聞こえているよ。俺は今、あっちでアクセサリーの専門店を開業してる。卒業してすぐ移ったんだ。空手? 空手は卒業と同時に引退したよ。だから段田さんは、俺に伝言板を頼んだんだろうな。だってよ、まだ現役でやってるやつらは、七代目と試合がしたくてしようがないはずだからな」

そう言って高らかに笑いだした。


他意のないその純粋な笑い方に興味を抱いた仙道は、一八歳で単身ハワイへ乗り込み、独自の店を構える度胸と大らかさが、この男の持ち味なのだと思った。


稔彦は、

「おす。新城先輩。段田先輩はお元気ですか、昨年の秋以来、会っていませんが」

「ああ元気だよ。草薙、あの男に元気かと訊くのは間違いだ。なぜなら一年中元気なんだから。何を食べたら、あんな風に生きていられるのか、こっちが教えてもらいたいくらいだ」

「確かにそうでした。おいらが間違っていました。新城先輩、その段田先輩からの伝言って、何ですか?」

「そうそう、肝心なことを言い忘れるところだった。大晦日の晩、坂下の三浦屋で、忘年会を兼ねた段田剛二を囲む会を執り行うことになった。まあ、愛好会創部八年目ってことで、歴代主将やOBたちが集まってわいわいやろうって言うことだ。だが、その酒宴の前に、余興をやるんだ。草薙、想像がつくだろ。そうだよ、おまえと段田剛二の試合だ」

「おす」

「おす、て、おまえ。緊張するとか断るとかしないのか? 相手はあの段田剛二だぞ」

「おす。緊張はしますが、拒否はしません。せっかくですから」

「せっかく、かよ。段田剛二を相手に、せっかくだとぬかしやがった。まだ高校生のくせに、大した玉だよ、おまえは」

再び新城が、天井に顔を向け豪快に笑い声をあげた。


二人の会話を興味深く聞いていた仙道明人の眼が輝いている。

今年の秋の全国大会で優勝した稔彦と、世界大会優勝者に一本勝ちした段田剛二との試合、こんな楽しいイベントが他にあるはずもない。


仙道は堪らず新城に懇願した。

「新城君。二人の会話に横から介入して申し訳ないが、その試合、私もぜひ見学させてもらえないだろうか。草薙君の一関係者として、二人の闘いを見とどけておきたいんだよ」

「草薙の、二度のセコンドについてくれた仙道さんの功績には、段田先輩も感謝しているみたいですよ。どうぞ、ご参加下さい」

「そう言ってもらえると嬉しいよ」

「ただ、もしかしたらですが、段田先輩と草薙がやる前に、余興の前菜として、OBの誰かが、草薙と試合うかもしれません。まあ、こればかりは、当日になってみないと、何が起こるかわかりませんが。実は、歴代の主将全員の性格と動向を把握しているのは、段田剛二だけなのです。つまり、歴代の誰が誰とやりたがっているか、てなことです」

「了解した。それはそれで楽しみだよ」

「草薙。段田先輩の伝言、確かに伝えたぜ」

「おす。確かに受け取りました」

「よし。時間と場所は後でまた伝える。たぶん太子堂の柔道場か、それがだめなら、津久井浜海岸だな。ハワイと違い、真冬の浜は寒くて気が乗らないが、段田先輩がやるって言ったら、無条件で従うしかない。柔道場の使用許可は、今、学校側に申請中だ。ただ、今も昔も、愛好会は素行が悪いから、まして大晦日だし、そう簡単に許可はおりないかもな。段田先輩は、勝手に開けて入っちまえばいいとか目茶苦茶な事を言ってるが、そんな事をしたら、おまえたち現役に迷惑がかかる。あの男、相変わらず大人げないんだ。草薙、あと四日後だ。風邪なんぞひいて、皆をがっかりさせるなよ」

「おす。ご心配、ありがとうございます」

「よっしゃ、これで俺の役目は済んだ。帰るよ。草薙、何かあったら、このメモの番号に連絡してくれ。それから仙道さん、稽古中にお邪魔して申し訳ありませんでした。大晦日の当日、お待ちしております」

「ああ、よろしく頼むよ」

「仙道さん、草薙、また後ほど、お会いしましょう」

「おす、新城先輩。失礼します」


稔彦は仙道の隣から、長身をくゆらせながら玄関に向かって歩いてゆく新城良の背中を見送りながら、その姿とは対照的な、段田剛二の豪快な顔を思い浮かべた。


あの男とやり合って大丈夫なのか、と言った不安はない。

我が身の心配はないが、段田剛二に勝てる自信もない。

ただあるのは、試合えると言った自覚だけだ。


高一で空手愛好会に入部して以来、何度も何度も叩きのめされてきた。

その恐怖心が、心の奥底に根づいているようであれば、勝てないだろう。


今の自分に、あの時の恐怖がまだ残っているだろうか。稔彦は考えてみたが判らなかった。

それは、実際、段田剛二の眼前に立った時に判ることかもしれない。


段田剛二は、逃げずに立ち向かってくる者に対して好意を抱く男だ。

怖れて腰が退ける者は徹底的に叩く。

好意を持つからと言って手加減するわけではない。逃げる者以上に全力で潰しにかかるから始末が悪い。


新城は、OB会の余興だと笑うが、誰もそうだとは考えていない。ガチの真剣勝負になるはずだ。


そんな稔彦の心境を知ってか仙道が、稔彦の肩を叩いて諭すような口調で話しかけてきた。

「秋の大会で優勝した実績を誇りに思ったらいいよ。段田君は確かに強いが、草薙君、君も負けず劣らず、強い。私が保証する。勝負は、負けると思った方が負ける。最初から勝つ気でやるんだ」

「おす。仙道さん、ありがとうございます」


稔彦は仙道に頭を下げ、更衣室に戻ると自分のバックを担いだ。

それからもう一度仙道の前に立ち、挨拶した。


年内の、仙道空手道場の稽古納めは、本日、午後六時から始まる青年の部の稽古で最後になる。

稔彦は、忘年会の予約で店が繁忙のため、夜の稽古には出れない。


店は、大学が冬休みに入った中谷真理子が手伝いとして住み込み、神谷藍と大城みゆきと一緒に切り盛りしていた。

まだ中谷真理子は、神谷藍の身体のことは知らない。


稔彦の出番は少なくなっていたが、神谷藍の身体の心配もあり、可能な限り店に顔を出そうと思っている。


稔彦は、仙道に一年間の礼を述べ、大晦日にまた会えることを楽しみにしていることを告げた。


それから玄関の前で振り返り、道場の中へ向かって胸の前でクロスさせた両腕を切りながら同時に頭を下げた。


「おす」

その言葉には、一年間世話になった仙道空手道場に対する、稔彦なりの、礼節の思いが込められていた。



三七



愛好会創部八年目を迎えてのOB会の会場は、地元の民宿三浦屋に決まった。

倒れるまで飲むつもりでいるのか、ほとんどのOBたちは、宿泊するための部屋まで予約している。


そのOB会の余興として行われる、初代主将段田剛二と七代目草薙稔彦の試合会場は、学校側の条件付きで太子堂高校の柔道場に決定した。


稔彦が、新城良から連絡を受けたのは大晦日の前日のことで、仙道明人へは、当日の時間と場所をメールで報告した。


冬季休暇中の柔道場の使用を許可した学校側の条件とは、その場に、村石校長と三崎署の河田警部補、その他数名の警察官が立ち合うこと、そして関係者以外の立ち入りはいっさい禁止、だった。


見物人不要を提案したのは河田警部補だ。

彼は、学校側の要請で、夏に行われた「追い出し稽古」の警備に当たったが、もの凄い数の見物人の整理に加え、子供の世話や客同士のトラブルに巻き込まれ、散々な目にあっていた。


その当人である草薙稔彦と伝説の鬼神段田剛二が試合うとなれば、それが例え忙しい大晦日であろうとも、何千人、何万人の見物人たちが県内外から集まり、混雑やトラブルの数は前回の比ではない。


そうなれば手狭の警察官だけでは治安維持は守れず、県に機動隊の出動を要請しなければならなくなる。

河田警部補は、この条件だけは何としてでも愛好会側にのんでもらうよう、村石校長に強制したのだった。


新城良は、段田剛二に内緒で学校側からの条件を承諾した。


教師と警察が大嫌いで、おまけに我の強い段田剛二に相談したら、あれやこれやで話が頓挫するからだ。

ここまでまとめてきて、再考はあり得ないし、OBたちが一同に集合できる機会もない。


空手愛好会は柔道場で始まり、柔道場で終わる、それでいいではないか、新城良は何が起ころうと責任は全て自分がとるつもりで学校側に了承したのだ。

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