第4話
三〇
横須賀埠頭で起きた抗争事件は、その日の深夜放送から翌日にかけ、テレビの全国放送やSNSで拡散された。
たた映像に乱闘シーンまでは流れておらず、祭りの跡の残像ばかりが目立っていたのは、騒ぎを知り、終盤になってから慌てて駆けつけてきた野次馬たちが、携帯で撮影した画像や動画を、SNSサイトで拡散させたからだった。
横須賀と油壷の暴走族の乱闘に、通りかかった住民から通報を受けた警察が、途中から介入し、多くの少年たちが補導された。
その中に、逆光を浴びて黒光りするサングラスをかけたロビンJr.と、坊主頭から血を流す黒田善次郎が映っていた。
ただ、二つの勢力に関与していた、草薙稔彦の映像はなかった。
その日、稔彦は、空手道大会の度重なる延長戦に加え、横須賀埠頭へ向かう途中の国道16号線で、事故渋滞に引っ掛かってしまった。
ロビンJr.との約束時間を大幅に遅れ、埠頭に到着した頃には、所轄警察の現場処理が終了しており、数名の警察官が残っていただけだった。
頭数でも圧倒的に劣る黒田善次郎が、いかなる理由で、「横須賀TAITAN族」に挑んだのか、稔彦にその理由は判らない。
黒田善次郎率いる「NEO紫煙」が、今回の事件で解散に追い込まれることになるのかは予想できないが、横須賀米軍基地の治外法権的特権に保護されているロビンJr.たちが、早々に釈放されるのは間違いなかった。
すべては朝になれば判明することだと思い、稔彦は、再び単車を走らせ、16号線を南下して三浦海岸へ帰って行った。
夜半近くに戻った稔彦の、無事を確認した神谷藍と大城みゆきは、互いに顔を見合わせながら、ほっと胸を撫で下ろした。
店は、三〇分ほど前に、レンタカーを借りて東京から送り届けてくれた鬼頭三郎たちが帰った後だった。
他に客はいない。
鬼頭三郎は、行方不明になった稔彦を酒の肴にして盛りあがっていたが、内心では、神谷藍たちと同様に気が気でならなかった。
どう考えても、稔彦のとった行動は異常だった。
梶川大悟も同様に、あれこれ心配して気を揉んでいた。
あの大会で高校生が優勝したんだ、倉田の台詞ではないが、これは前代未聞のことだ。
表彰台に立ち、優勝杯を抱きながら記念撮影に応じても、バチは当たらない。それなのに、稔彦は、表彰台にも立たず、しかも所在さえ判らないでいた。
梶川大悟は、最近、稔彦の考えていることが判らなくなっていた。
以前はすぐ手の届く所にいて、こちらから訊かなくても、稔彦が次にどんな行動をとるのか、手に取るように理解できた。
それが今では、随分遠く離れた世界へ行ってしまったような気がして、得体の知れぬ索漠感を覚えていた。
昨年、三沢高校の空手部との間に起きたトラブルについて思い出した。
逗子にある三沢高校空手部から、太子堂高校に親善試合の申し入れがあった。
三沢高校空手部は、大勢の部員数を誇り、ちゃんとした空手部の道場を構えていた。
当時、六代目主将だった梶川大悟は、その調整役に稔彦を任命し、試合ルールの取り決めなど、稔彦を単身先方へ派遣した。
最終的なルールについて、お互いの合意が得られず、結局、稔彦が先方と一人で試合うことになった。
最終的に出した三沢高校側の試合ルールは、三沢高校側は寸止め、フルコンタクトは認めるが、三沢高校側の判断で、危険技と認められた場合は反則負けにすると言うものだ。
圧倒的に不利な状況の中で、稔彦は、それを受け入れた。
稔彦は、その事を誰にも話さず、三沢高校の空手部と試合うため、単身逗子まで単車を走らせた。
その当時、稔彦の異変を感じ取った梶川大悟は、急いで稔彦の後を追いかけ、逗子へ向かった。
稔彦は、完全なるアウェイである三沢高校の群衆の中で、たった一人、大将田神信明と試合った。
田神信明は、県大会で上位入賞する、三沢高校空手部の英雄だ。
その彼を、稔彦は、試合開始一秒、跳び込みながらの左上段廻し蹴りで、秒殺した。
呆気にとられている大衆から逃れる稔彦を、空手道場の外で待っていたのが、梶川大悟だった。
親善試合を壊してしまった責任を、自分一人で取ろうとする、稔彦の俠気を、梶川大悟は事前に感じ取っていた。
三沢高校空手道場の玄関前で待ち構えていたら、自分を見つけた稔彦の、あの人懐っこく破顔した顔を、梶川大悟は今でも覚えている。
それが今では、稔彦のやることなすことが、まったく予測できないでいる。
あの時の、自分を慕って追いかけてきた稔彦はもういない。
今の稔彦は、こちらの予想以上の事を平然とやってのける。梶川大悟は、稔彦が、何となく、あの段田剛二に似てきたなと思う。
この夜は、稔彦の優勝を祝い、鬼頭三郎も梶川大悟も酒を飲んだから、帰りの運転は倉田信行が担った。
大城みゆきはワインを飲んでいたが、神谷藍は、体調をいたわり、温かい紅茶にした。
夜遅く帰ってきた稔彦に、神谷藍は、なぜ表彰式にでなかったのか、今までどこにいたのか、その理由を問いたかったが、稔彦は挨拶もそこそこに、二階へ駆け上がってしまった。
とても優勝を祝う雰囲気になれないが、明日になれば稔彦の疲れもとれ、素直な返答が聞けるだろうと思い、稔彦の好きなようにさせた。
この夜、稔彦は風呂に入らず、食事もとらず、そのまま二階の自室で布団に潜り込んだ。
三日間、試合の連続で疲れているはずなのに、なかなか寝付けない。
寝付けないのは、約束した時間に間に合わず、そればかりか警察に補導されてしまったロビンJr.に対する、負い目を感じていたからだ。
この夏、海岸通り沿いにある民宿「三浦屋」の駐車場に、突然現れたロビンJr.の、陽焼けした勇ましい顔が思い浮かんだ。
頭髪をテカテカのオールバックに固め、鏡のように黒光りするサングラスをかけ、黒の革ジャンを羽織りながら、巨大なハーレーダビッドソンに跨がるその姿に、稔彦はなぜか嫌悪感を抱かなかった。それどころか親近感さえ覚えた。
その時稔彦は、初対面のロビンJr.に、自分と同じ臭いを感じていた。
翌早朝、稔彦は朝食も食べず、神谷藍に、横須賀の仙道道場に挨拶してから学校へ向かう内容の嘘メールを送り、ロビンJr.が収監されている横須賀警察署へ向かった。
二階の窓から、稔彦が一人で単車を走らせる姿を見送りながら、神谷藍は、稔彦が何かの事件に巻き込まれているような気がして不安になった。
神谷藍は、稔彦が走り去ったのを確かめ、それから窓を開けた。
ひんやりした風が顔を薙いだが、それはそれで気持ちよかった。
黄赤色に広がる晩秋の朝空を見上げ、大きく深呼吸する。
それから無意識に下腹に掌を当てている自分に気づいて、小さなため息をもらした。
自分と稔彦の年齢を考え、稔彦とこの店の将来を考えたら、どうしても不安な気分になる。
考えてみても応えは見つからないし、相談する相手もいない。
ただ、一つだけ、やらなければならないことがある。
身体に起こった異変を、早急に確かめることだ。
同居している大城みゆきが気づくのも時間の問題だろう。
稔彦に相談するのは、それからでも遅くはない。
神谷藍は、少し憂鬱な気分を感じながら、間もなく起きてくるだろう大城みゆきの朝食を作るため、階下へ降りて行った。
稔彦が、巨大なコンクリートの箱を思わせるような横須賀警察署の正門の前で待っていると、大勢の警察官に付き添われた、「横須賀TAITAN族」のメンバーたちが姿を見せた。
ロビンJr.は、その集団の最後に現れた。
相変わらず黒いサングラスをかけたままだ。
稔彦は単車に跨がり、両腕を組みながら、ロビンJr.の動向に視線を向けた。
一瞬、ロビンJr.が顔を上げ、稔彦に気づき、顔を向けた。
稔彦も真っ正面から、ロビンJr.の視線を受けた。
次の瞬間、ロビンJr.が、そっけないような仕草で顔をそむけた。サングラスをかけているから、眼の動きは判らない。
それからロビンJr.は、警察官に誘導されながら、横須賀警察署の駐車場の奥へ消えて行った。
稔彦は、遠ざかるロビンJr.の背中に向け、単車のエンジンを全開で三度吹かし、それからよこすか海岸通りを急発進した。
三一
学食で、珍しく先に来ていた藤井新之助が、カレーライスを頬張りながら、後からやって来た稔彦に笑いかけた。
藤井新之助は、カツ丼の大盛りを三杯お代わりするのが常だが、今日はなぜかカレーライスを食べていることに、稔彦は首を傾げた。
そのことを藤井新之助に問うたら、
「たまにはよ、おまえと同じ飯を喰ってみようなんて思ってな。お、稔彦、珍しく今日は、一杯目から超大盛りじゃん」
「昨夜から何も食べてなかったから、さすがに腹ぺこなんだ。おいら、新之助がここのカレーライスを食べるの、初めて見たよ。で、味はどう?」
「なかなか、うまい方だ。ただ、おれは辛口派だから、こいつはちょっと、お子ちゃまカレーだな。おまえに似合ってるよ。ところで、おい、稔彦、おまえ、またやったな」
「何を」
「しらばっくれるな。横須賀の一件だよ。横須賀と油壷の両方に関わり合っているのは、おまえだけだからな。米兵のガキたちは午前中に釈放されたが、油壷の連中はまだ絞られているみたいだ」
そうか、釈放されたのか、稔彦はそう呟いて、ロビンJr.の、少し不機嫌そうだった今朝の顔を思い浮かべた。
「なんだか、嬉しそうだな。珍しいじゃん。族嫌いのおまえが、横須賀の肩を持つなんてよ」
「別に特別な意味はないよ。それにしても、頭数の少ないNEO紫煙がどうして、あの横須賀とやり合ったんだろうか」
「詳しくは知らねぇが、当時、なぜか横須賀も小部隊だったみたいだ。油壷の連中は、今なら勝てると思ったんじゃねぇの。横須賀の頭もいたらしいから、潰すなら今だと考えてもおかしくはないさ。そんなことより、稔彦、おまえ、大学進学を諦めちまったみたいだな。母ちゃんが生きていたらきっと悲しんだぞ。ホントにそれでいいのか」
「新之助、おいら、もう決めたんだ。それに、梢ちゃんが生きて、それを聞いたとしても、別に悲しまないよ。そんなことより、新之助、自分の受験の心配をしろよ。本命は、安全圏内、ぎりぎりなんだろ」
「まあな。偏差値だけで言うと、ちょっとヤバイってところだ。一応、滑り止めも受けることにした」
「全部で何校受けるの?」
「一二だ」
「一二。受験料だけでも大変だなあ」
「別に俺が払うわけじゃねぇから、どうでもいいよ。それに今回は、オヤジの方が入れ込んでいるから、文句は言ってこない。俺の仕事は、受験に合格することだ」
藤井新之助は、そう言ってにやけた笑みを浮かべてみせ、それからカレーライスのお代わりをしに、学食のカウンターへ向かった。
藤井新之助が席を離れた瞬間、稔彦の前に、一人の女子生徒が立ち止まった。
細身で背が高く、栗色のショートカットで、校服ではなく私服だった。稔彦は、その娘に見覚えはない。
その娘は、いきなり稔彦の前に座り込み、肘立てした両手に細い顎をのせ、まるで顔見知りのようこう言った。
「くさなぎ主将、空手部に入れてくださいな」
いきなり何を言うのかと驚き、もう一度その顔を覗き込んだ。
瞳も髪の毛と同じ栗色をしている。
稔彦は、何となく、その娘に異国のにおいを感じた。
「君は、何年生?」
「今日、転校してきたばかり。三年八組の教室に行ったら、くさなぎなら、昼休みは、いつもここでカレーライスを食べているって」
質問と応えに食い違いがあり、稔彦は違和感を覚えた。
「愛好会に入りたいの?」
「愛好会? 愛好会って、なあに」
「愛好会は愛好会だよ。まあ空手が好きなやつらが集まって作るサークルみたいなやつかな。うちは、まだ正式な部活として認められていないんだ。まあ、部でも愛好会でも、部員の、やる気の問題だけどね」
「ワタシもどっちでもいいよ。だって、やる気の問題でしょ」
「簡単で良いから、自己紹介してくれないかな。まず名前から」
「ワタシ、モモコ。桜木モモコ。一年三組。身長170、体重56、バストとヒップは」
「あ、そこまでで良いよ。それ以上は話さなくて良いよ。で、なんでうちに入りたいの」
ここで初めて、モモコが、ちょっとだけ、はにかんだ仕草を見せた。稔彦には、意図的にそうしているように見えた。
モモコは、視線を食べ終わった稔彦のカレーライスの皿に落とし、その雰囲気には似合わないようなか細い声で、
「くさなぎ主将に憧れたから。他に理由はないよ」
そう言って顔を上げ、栗色の瞳を潤ませ、稔彦の眼を直視する。
モモコの直球を受け、今度は稔彦が照れた。女子からこんな風に告白されたのは、初めてだ。
「ワタシ、大の格闘技ファンなの。この前行われた空手の大会を観戦して、優勝した人がまだ高校生で、調べたら、今度転校する学校の生徒だって。驚いちゃった。それで今朝、クラスの子に訊いたのね」
この時モモコは、そのクラスの女子生徒から、草薙稔彦は危険人物だから近づかない方がいい、そうアドバイスされたことは話さなかった。
稔彦が、自分はまだ愛好会に在籍してはいるが、現在の主将は二年の三浦翔太であることを話そうとした時、カレーライスのお代わりをトレイに載せた藤井新之助が戻ってきた。
藤井新之助は、稔彦の正面に座って馴れ馴れしく話しかけているモモコを、怪訝そうな顔で睨んだ。
「稔彦、なんだよ、この小動物はよ」
巨体に圧倒されたモモコが、藤井新之助の汗臭い圧力をはぐらかすように、肩を竦めて舌をだしてみせた。
それからいきなり立ち上がり、稔彦を見下ろしながら小首を傾げ、
「主将、夕方、また会いにいくね」
それから藤井新之助にいかなり顔を向け、眉間に皺を寄せ、
「おまえ、邪魔!」
威喝するようにそう吐き捨て、突然走り去って行った。
藤井新之助が、早足で去って行くモモコの後ろ姿を眺めながら、舌打ちして、ぼやいた。
「何だよ、あの小生意気なあれは」
「うちに入りたいんだってさ」
「うちって、愛好会にか? 女じゃムリだぜ。第一、着替える更衣室もないし」
「本心はわからないよ。ただ、本気なら、また来るさ」
「夕方、会いに行くとか言ってたぞ」
「八代目は翔太だ。あの子は翔太に任せるよ。新之助、おいら、この後急用があるから先に戻るね。新之助、あまり食べすぎるなよ」
「うるせぇ。あ、おい、待てよ稔彦、急用っていったいなんだよ、教えろよ、おい、稔彦」
稔彦は今朝、担任の三村宗二から、昼休み後に校長室へ来るよう指示を受けていた。
お説教なら、職員室の隣にある会議室に呼び出されるのだが、今回はいきなり校長室を指定されたので、嫌な予感はしていた。
稔彦は、校長室のドアを三度ノックして中へ入った。
校長室の応接間の中央で、背筋を伸ばした村石校長が、座ったまま、稔彦にこっちへ来るよう手招いた。
村石校長の左に、右手で頬杖をついた生徒指導部の石黒部長が、右端に担任の三村宗二が背中を丸めて座っている。
その石黒部長の隣に、厳つい顔をした二人の男が、仁王立ちして稔彦を睨みつけてきた。
稔彦が席につくと、最初に村石校長が、事の経緯を話してから、同席している二人の大人は、横須賀警察署の刑事だと紹介した。
大柄で若い刑事と、対照的に小柄な年輩刑事だ。
稔彦が呼び出された理由は、二日前に起こった、横須賀埠頭での乱闘事件に関与していたのかについてだった。
村石校長は、いつもの穏やかな口調で稔彦に問うた。
「草薙君、あの事件の夜、君はあの現場に行きましたね。君を見かけた警察官がおりました。そして、翌日の早朝にも、横須賀警察署の前に現れた君の姿が、玄関前の防犯カメラに映っていましたよ。どうしてあの場所に居たのか、私にわかるよう、正直に話してくれませんか」
ここで、若い刑事が咳払いした。
年輩刑事は、両腕を組み、稔彦の一問一答を聞き逃さないよう、眼を閉じ集中している。
稔彦は、飄然とした顔で一同を見回してから、一言、応えた。
「偶然です」
この瞬間、若い刑事が、石黒部長の前のテーブルを平手で力強く叩いた。
それを宥めながら、年輩刑事が稔彦に、それではどうして翌朝、警察署の前に現れたのか訊ねた。
口調はまだ静かだが、朝から学校があるのに、何の関係もないのなら、わざわざ横須賀まで出て来る必要はないだろうと詰め寄った。
稔彦は、今度も淡々と応えた。
「たまたまです」
若い刑事が身を乗り出すのを制しながら、年輩刑事がつけ加えて言った。
「正直に話してくれないと、君のためにならないぞ。どうなんだ、なぜ、警察署の門前に現れたのか、正直に話してみなさい」
稔彦は臆することもなく、年輩刑事の皺に埋もれた細い眼をまっ正面から直視した。
「横須賀に用があり、その帰り道、偶然、警察署の前で立ち止まっただけです」
若い刑事が腕を伸ばし、いきなり稔彦の胸ぐらを掴んで引っ張り、怒鳴った。
「草薙、おまえなあ、こっちは、おまえが拳銃で撃たれたり、浜で何度も暴力沙汰に関与してきた証拠を握ってんだぞ。未成年だからって、甘えんなよ。あいつらのどっちかに、加担しようとしたんじゃないのか」
「まあまあ相沢君、校内での厳しい尋問はよしなさい。ところで草薙君、今、話していた横須賀での用事とは何だね」
稔彦は、執拗に裏を探ろうとする年輩刑事の質問に辟易しながらも、仙道に迷惑がかからないか迷ったが、警察が調べたらすぐに判ることだろうと思い、正直に話すことにした。
もしかしたら、もうすでに知っているのかもしれない。
「お世話になっている空手の師匠に、お礼を言うためです」
「お礼とは、何のお礼かね」
「その前日に空手の大会があり、指導してくれたことに対するお礼です」
「前日と言えば、抗争事件があった当日じゃないか。草薙君、その大会とは、どこで行われていたのかね」
「東京体育館という所です」
「日曜日、大会は何時に終了したのかね」
「正確な時間は知りませんが、外は暗くなっていました」
「東京体育館と言えば、確か東京の千駄ヶ谷だったな。若い頃、剣道の試合で何度か行ったことがあるよ。その時間帯に君は、千駄ヶ谷に居たってことか。ところで、その空手の先生とは誰かな」
「横須賀ではかなり有名人ですから、刑事さんも知っている人ですよ」
稔彦が意味ありげに笑うと、年輩刑事は薄くなった白髪交じりの頭髪を右指でかき上げ、
「どうやら、君に関しては、もう少し調べてみてから判断した方がよさそうだね。もう一度、訊ねるが、今回の抗争に君は無関係だ、そう理解して、いいんだね」
「おす、あ、はい。たまたま通りかかっただけです」
「村石校長。本人はこう言っております。これ以上質問しても、この子は何も語らないでしょう。本日はこれで引きあげますが、今後、捜査が進展し、事態が変わった場合には、署までご同行願う場合もありますので、ご理解下さい」
「そ、そうですか。記憶に留めてはおきますが、そうならないことを願うばかりです。本日は、わざわざ当校までご足労いただきまして、誠にご苦労さまでした」
そう言って村石校長が立ち上がると、石黒部長と三村宗二が慌てて腰を上げた。
村石校長たちが、二人の刑事を玄関まで見送りに出た後に、稔彦は校長室に一人残された。
校長室の窓から外を眺めながら、あの対応で良かったのだろうかと、刑事たちとのやり取りを反芻した。
大会が、延長につぐ延長戦で予定より大幅に遅れ、国道16号線もかなり渋滞していたが、警察は、そんことまで調査するのだろうかと半信半疑になる。
ロビンJr.との決着が何もついていない以上、今は警察の執拗な取り調べに巻き込まれたくなかったから、稔彦は、今後も知らぬ存ぜぬを押し通すつもりだ。
稔彦は、近い内に、ロビンJr.が再び現れるはずだと思っている。
村石校長たち三人が校長室に戻ると、ぼんやり顔で外を眺めている稔彦を見た石黒部長が、怒り余ってテーブルを叩いた。
担任の三村宗二はすでに諦めている。進学コースから外れた稔彦に、担任教師としての役目は終わったと思っているのだろう。
村石校長が、穏やかな口調で、石黒部長を宥め、それから稔彦を諭すように言った。
「草薙君。今日はこれで帰りなさい。今後のことは、警察からの指示も踏まえた上で、学校側としての対応を相談しますから、何か確認することがあれば、君に連絡します」
「校長先生、お世話をおかけしました。ありがとうございました。失礼します」
稔彦は、村石校長に礼を述べ、一礼して校長室をでた。
稔彦がドアを閉めた瞬間、背後で誰かが憤怒の唸り声をあげたが、あれは石黒部長の声だと思った。
その日の放課後、稔彦が柔道場に入ると、三浦翔太と熊坂昇太、飯星聖哉の三名が、ウォーミングアップを始めていた。
これから空手愛好会の稽古が始まる。
現在、三人しかいない愛好会だが、皆それぞれ愛好会空手の型になっているから、頼もしくもある。
特に主将の翔太は、組手稽古であれだけ厳しく叩きのめしても、止めずに付いてきている。
稔彦には、それが何より嬉しかった。
稔彦が柔道場へ顔を出した時に、学食に現れたモモコの姿はなかった。
モモコが、本気で愛好会に入部するつもりなのか、稔彦はまだ半信半疑でいる。
ここの稽古が半端でないことぐらい、校内の生徒なら誰でも知っているからだ。
稔彦は、奥のカーテンの中で空手着に着替えながら、女子のモモコが、ここで着替えるには無理があるなと思った。
モモコでなくても、将来、女子生徒が入部を希望してくる可能性はあるから、やはり、空手着と更衣室は必要だ。
学校から更衣室を割り当てられるためには、正式な部活動として承認される必要があり、そのためにクリアーしなければならない課題がいくつかある。
その条件の筆頭に、部員の人数確保と神奈川県高等学校体育連盟空手道専門部への公式加盟があるが、空手愛好会は、そのいずれも達してこなかった。
部員数は、その時期によりいつも不安定だし、空手界の、どこの流派にも団体にも所属しておらず、まして組手のルールがまったく異なるため、公認の県大会に出場できるはずがなかった。
空手の試合は
ただ稔彦は、自分から、あえて部活動としての認可を望まなかった。
学食で、突然現れたモモコにも話したが、部員数ではなく、本人のやる気の問題だからだ。
稔彦もそうだが、翔太も、熊坂昇太や飯星聖哉も、中学生から町道場の空手を習っていたから、いくつかの型は修得している。
ただ、段田剛二がそうだったように、稔彦も型の稽古にまったく興味がなかった。
稔彦は、着替えを終え、稽古場にでた。
緊張した表情で正面に立つ、八代目主将を継承した翔太が、同様に緊張顔の熊坂昇太と飯星聖哉を前に気合いを入れた。
「おす。これから稽古を始める。先ずは柔軟から」
稔彦は後方から、丹念に身体の筋肉と関節をほぐす熊坂と飯星の動きを眺めた。
二人は、四月に入部して半年が経ち、今では愛好会のやり方も身につき、動作が様になっている。
来年は、この二人のどちらかが、九代目を継ぐことになる。
それを指名するのは翔太だが、その頃、自分は卒業して、もうここには居ないのだと思うと、少し淋しい気もする。
柔軟体操が終わり、翔太が、熊坂と飯星に再び気合いを発し、基本稽古を始めた。
「上段正拳突き、一〇〇本。気合いを入れて」
稔彦はこの時、翔太がいきなり上段正拳突きから始めたことに驚いた。
それをやり始めたのは稔彦だが、歴代は、中段正拳突きからが習慣だった。
腹や水月を突く稽古より、顎や鼻を狙う稽古の方が、実戦には役に立つ。
翔太は次に、二本指による上段貫手を行った。
次いで顔面裏拳打ち。
上段肘打ち、上段廻し打ち、中段廻し打ち。
今度は蹴り技の基本稽古。
左右の上段廻し蹴り。
中足による中段廻し蹴り。
これは相手の脇腹をすばやく蹴り込む。
次いで、金的蹴り。
膝への関節蹴り、と休みなく続ける。
最後にもう一度、上段廻し蹴りを行い、休憩に入った。
翔太の基本稽古のやり方を、一通り注視した稔彦の口元から、珍しく笑みがこぼれた。
稔彦が以前から翔太に求めていた、稽古の独自性に気づいてくれたからだ。
それは過去をそのまま受け継ぐのではなく、その時代や先の時代を模索しながら進化した稽古のやり方を考え、実践すること。
それを翔太がやり始めてくれたことが何より嬉しい。
役に立たない技を覚えても意味がない、それが稔彦の口癖だ。
稽古の休憩中に、稔彦は柔道場の外へでた。
秋の空手選手権大会が終わり、一〇月も後半に入ると空っ風がぐんと冷えて肌寒い。
柔道場の北側に桜の老木が立ち、その先に運動場がある。
運動場ではサッカー部員が二人一組になり、パスの練習を行っている。
稔彦がそっちへ向かって歩いて行くと、パスをミスした部員の足下からサッカーボールがもれて転がってきた。
その部員が、稔彦に向かって右手を振り上げ、ボールを自分へ投げ戻すよう叫んだ。
そのサッカー部員は、自分が声をかけた相手が、草薙稔彦だとは夢にも思っていない。
この時、稔彦は裸足のままだった。
稔彦は、その部員に応えるため、右足の中足で、転がって来たサッカーボールの中心部から少し下を蹴り跳ばした。
毎朝、片方10kgの鉄ゲタを履いて、太子堂坂の急斜面を駆け上がる朝トレを積み重ねてきた稔彦の脚力だ。
次の瞬間、そのサッカーボールが、ロケット砲の弾丸みたいに猛スピードで、サッカー部員たちの頭上を一直線に跳び越え、その先に構えるゴールネットを直撃した。
ほとんど、こっち側のゴールの位置から蹴り、相手側のゴールを直撃したことに呆気にとられたサッカー部員たちが、そのボールを見送ったままフリーズしている。
稔彦が、再び柔道場へ戻りかけた途中だった。
桜木の陰から、モモコがはにかみながら現れた。
モモコは柔道場へ向かおうとした時に、稔彦が柔道場から出てきて、運動場の方へ歩く姿を見ていた。
モモコはゆっくり桜木から離れ、稔彦へ近づき、甘えるような上目遣いで、これから稽古を見学しても良いか訊ねた。
「構わないよ。ただし、今は二年の翔太が主将だから、入部したいなら、ちゃんと翔太から了解を得ないとだめだよ。紹介するから、一緒に行こう」
この時、柔道場の玄関から熊坂昇太が慌てた様子で駆け込んで来た。
熊坂は、苦しげに息を切らせながら、柔道場を指差し、
「草薙主将、き、来ました、ど、道場破り!」
三二
稔彦が熊坂とモモコを伴い、柔道場の中へ入ると、翔太が、紫色の空手着の男と睨み合っていた。
相手の男は、身長178cmの翔太より少しだけ高い程度だが、体重は63kgの翔太よりかなり重そうだ。
年齢と体躯は鬼頭三郎と同じくらいかな、稔彦はそう思いながら、二人に近づき、翔太に声をかけた。
「翔太。なんか楽しそうなことが始まりそうだね。おいらが代わりにやろうかな」
「おす、草薙主将。これは自分が受けた勝負す。自分がやります」
この時、翔太から草薙の名前を聞いた紫男が、何かに気づいたのか、振り向きざまに稔彦を睨んだ。
稔彦は、紫男の鋭い視線を飄然と受け流しながら、
「翔太。こんな試合はめったにないから、体験しとくと良いよ」
それから稔彦は、紫男に対し、ケガして動けなくなった場合に面倒だから、試合う前に、名前と親族の連絡先を教えてくれるよう願った。
それから、以前にも同様のことが何度かあったことを説明した。
紫男は、含み笑いを浮かべ、それからバックの中から手帳を取りだし、自分の名前と知人の携帯番号をメモすると、隣にいる飯星聖哉に手渡した。
飯星は、受け取ったメモ用紙を、すぐ稔彦に持っていき、稔彦はそのメモを眺めながら紫男に訊いた。
「時間がもったいなから、始めましょうか。三条さん、この試合、ルールはどうしますか?」
「ルール? そんなものは不要。審判も不要。どっちかが倒れるまで、時間無制限。何でもありきで、どうだい」
「了解です。翔太、そう言うことなんで、この試合、おいらが受けることにした」
三条は、稔彦たちを脅すつもりで、時間無制限ノールールを口にだしたが、稔彦が平然と受けたので驚いた。
翔太は、少し不満げに稔彦に詰め寄り、反論した。
「おす、草薙主将。さっきも言いましたが、自分がやります。何でもありきでいいすから、自分にやらせて下さい。お願いします」
「翔太、気持ちはわかるけど、現役の主将がガチンコをやったら、学校から処分を受けるよ。最近、風当たりが厳しいんだ。活動停止、何てことになったらヤバイよ。ここはおいらの出番なんだ。三条さん、おいらがお相手しますが、良いですね」
「ああ、望むところだ。最初からそのつもりでやって来たんだ。さっきこいつに、主将は誰かと訊いたら、自分だと名乗るから、てっきりこいつが草薙稔彦だと勘違いした。どおりで、噂にしては、少しばかり軟弱だなと思ったよ。草薙、おまえ、あの大会で優勝したんだってな。それって、すごいこと、だよなあ。そんなやつと試合えるなんて、俺は実に光栄な男だ」
まだ話しの途中だが、三条は、口元に笑みを浮かべながら、畳の上を滑るように一歩前へ進んだ。
稔彦との間合いは二メートルほど。
三条が右手を握らず、指を開いた状態なのを見た稔彦は、三条を見つめたまま翔太に言った。
「翔太、モモコを連れてあっちへ離れていろ。もう始まっている」
眼を吊り上げた三条がいきなり跳び込んだ。
稔彦の両眼を狙い、人指し指と中指の二本指貫手で突いた。
この時、モモコの悲鳴が柔道場内に響き、稽古中の柔道部員たちが、驚いて動きを止め、いっせいにこちらを振り向いた。
稔彦は上半身を前に折って頭を突き出し、額で三条の貫手を弾いた。
三条の中指に、過度の痛みと痺れが走る。
左手で右指を包みながら三条が、大きく後方へ跳び退く。
唇に不敵な笑みを浮かべ、眼を細めて稔彦を睨んだ。
「さすがだなあ、草薙。貫手を額で受けるやつなんて、初めてみた」
三条は、右指が脱臼したとは言わない。
言えば、拳が握れないことを稔彦が知ることになる。試合はまだ始まったばかりだ。
激痛に堪えながら、左手で右指を無理やり折りたたんで拳をつくる。
握力はまだ残っているから、こうしておけば二、三発パンチは打てる。
三条が再び前へ摺りでた瞬間、稔彦が空中へ跳んだ。
三条の頭上から、顔面を、左右の足裏で素早く押し込む五連続蹴り。
三条が唸り声をあげながら両腕を立てブロック。
次いで、落下する稔彦の股間へ、右膝を蹴り上げる。
稔彦は空中で両脚を広げ、股の間に右掌を押し込んだ。
右掌で三条の膝を押さえ、その反動を利用して後方へ空中移動した。
追う、三条。
畳の上に着地する稔彦の側頭部へ、強烈な右のローキック。
その右脛を左肘で弾き返す稔彦。
コンクリート製の電信柱を叩いて鍛えた、稔彦の肘打ちを受けた三条の右脛に激痛が走る。
その激痛で目眩がした。
高校生を相手に意地を張る三条は、痛めた拳と脚で更に稔彦を攻めた。
攻める度に、打ち返され、肉と骨の痛みでぼろぼろになってゆく。
気づいたら、腕にも脚にも力が入らなくなっいる自分がいた。
これが、かの大会で優勝した男の実力かと、顔を歪め、唇を噛み締め、鬼の形相で睨みつける。
その三条へ稔彦は、左のローキックを刈り込み、同じ左脚で上段廻し蹴りを放つ。
稔彦の左ローキックに気を奪われた三条の上半身が前屈みになり、その無防備になった右顎へ、稔彦の上段廻し蹴りが炸裂した。
三条は、弾かれるように背中から落ちた。
「一本」
身を乗り出して歓喜する翔太と熊坂。
モモコは両手で口を押さえながら、眼をパチパチさせ、眼前で起きた出来事を何とか理解しようとしている。
稔彦は翔太に、終わったから稽古を続けるよう指示し、三条の身体を抱き抱えると、柔道場の隅へ運んだ。
「翔太、こっちのことはおいらがやるから、稽古を始めろ。モモコ、このタオルを水で冷やしてこい。水道なら、柔道場の左横に、洗い場があるから」
稔彦は、モモコが冷やしてきたタオルを受け取り、三条の額にのせ、しばらく翔太たちの稽古を眺めた。
翔太はキックミットを抱え、熊坂と飯星を相手に、突きと蹴りを交互に連続で打たせた。
キックミットを叩く熊坂の正拳突き、飯星の上段廻し蹴りがヒットする度に、鈍い打撃音が響く。
稔彦が蹴ると、床を鞭で叩いたような高音が炸裂する。
蹴りのパワーとスピード、そして関節のしなりの差だ。
翔太が再び休憩を入れた時、畳の上で意識を失っていた三条が眼をあけた。
稔彦が体調を心配して訊ねたら、上半身を起こした三条が、首の後ろを揉みながらため息をついた。
モモコが気遣い、三条のタオルを冷やしに再び洗い場へ走った。
そのモモコの後ろ姿を見つめながら、三条が稔彦に呟くように言った。
「俺の時は、門場が主役だったんだ」
「門場、さんですか」
「ああ、そうだよ。門場勝美って言うんだ。会ったことはないだろうな。草薙、おまえは何代目だい?」
「七代目です」
「七代目か。そうすると俺たちは、おまえより三代前ってことか。門場は石狩さんの後だから、四代目になる。初代段田剛二、新城、石狩ときて、四代目が門場勝美だ」
「三条さんは、うちのOBでしたか。おす、失礼しました」
「気にしなくていいよ。OBには間違いないが、俺は門場の脇役に過ぎなかったからな」
その脇役だった三条が、今になり、なぜ道場破りの真似をしたのか、稔彦は疑問に思ったが、口にはださなかった。
三条は、当時の愛好会時代を回想しているのか、柔道場の天井に遠い視線を向け、語り始めた。
「あの頃、俺は何をどうやっても門場には勝てなかった。あいつは運動能力に優れていて、水泳も陸上も群を抜いていた。他の部から、臨時でいいから試合に出場してくれって、何度も頼まれていたよ」
この時、二人の話を後ろで聞いていた翔太が、口を挟んできた。
「おす。三条先輩。さっきは道場破りと勘違いして、たいへん失礼しました。自分は、草薙主将より、八代目を受け継ぎました二年の三浦翔太であります。ところで、三条先輩にお訊きしたいのですが、その四代目は、他の部の試合には出たんすか?」
「あの男は、こいつと同じで、空手以外に興味がないんだ。水泳でも陸上でも、ちゃんとした大会に出場していたら、あいつの人生も変わっていたろうにな。もったいないよ。ここで、どんなに強くなっても、将来の保証は何も得られない。卒業して、俺はそのことに気づいた。段田さんだってそうだ。あれだけ強いんだから、総理大臣のSPでもやっていたら、もっと出世したのによ。以前は神戸で力仕事をやっていたらしいが、今は、何をやってんだか」
三条は、過去を哀しむような眼で虚空見つめた。
洗い場から戻ってきたモモコが、冷やしたタオルを差し出すと、三条は二、三度額に当て、それから後ろ首を冷やした。
「草薙、おまえの活躍は、俺たち愛好会OBの間でも有名なんだ。今、門場はブラジルにいる。だから俺は、自分を試すため、門場の代わりに、おまえに挑んだ。卒業してから自分なりに鍛え、少しはつかえるようになったつもりでやって来たが、実際におまえとやり合ってみたら、大人と子供の差だった。いい歳をして、情けないよ。この三年間、俺は何をやってきたのか、正直に判らなくなる。今の俺では、そこの細いのとやっても勝てないだろうな。さて、これ以上の長居は、恥の上塗りになるから、草薙、俺はこれで帰るよ」
「おす。三条先輩、今日はありがとうございました」
「ばか、おまえに礼を言われたら、俺の立場がないよ。草薙、おまえ、マジで強いな。現役時代の門場以上だ。だが、いい気になるなよ。段田剛二はもっと強い。いつかあの男に勝つことができたら、その時はいい気になってもいいぞ」
「おす。覚えておきます」
「それにしてもおまえの身体、いったいどうなってんだよ。まさか鉄板でも入れてんじゃないだろうな。身体中が痛くてしょうがないぞ。まあいいさ。帰るよ。じゃあな、世話になった」
三条はゆっくり起ち上がり、足下がふらつかないか確かめた。
バックを背負い、玄関に向かって歩きだすと、翔太たちが順番に挨拶して見送った。
翔太は、新たなOBが現れたことに、少なくとも喜びを感じていた。
翔太が入部してから対面したOBは、鬼頭三郎と梶川大悟、そして倉田信行の三名だけで、鬼頭以外は、自分に年代が近い。三条は鬼頭の一年先輩だから、翔太より四つ歳上になる。
もっと以前の、二代目、三代目時代のOBたちにも会いたいと思っていた。毎日厳しい稽古を続けながら、その歴史を受け継ぐ重みを感じたかった。
ただ、初代段田剛二にだけは、もう二度と会いたくない。
最近翔太は、疑問に思うことがある。
それは、段田剛二が愛好会を創部した七年前の、同年代のOBたちはどうしているのか、ということだ。
段田剛二は何度か会う機会があったが、初代のOBたちの現在の動向がまったく判らない。
さっき三条が話していたように、これまで鍛えに鍛え、打ち込んできた愛好会空手が、卒業したら何の役にも立たなくなるのか、本当にそんなものなのかと、不安になる。
次の瞬間、サンドバッグが破裂したような爆発音が翔太の耳を
翔太が眼を向けたら、稔彦がサンドバッグに廻し蹴りを入れていた。
稔彦の一撃に翔太のさっきの悩みが吹き飛ばされ、翔太の顔が紅潮した。
「これだ!」
翔太が吠えた。
翔太の悩みが消し飛んだ。
卒業した後で何があっても、あの草薙稔彦に付いていくのだと決めた。
その日の稽古終了後、稔彦は翔太に、モモコを紹介した。
モモコが愛好会に入部したい意向を話したら、翔太がいきなり口から吹きだし、藤井新之助と同じような台詞を言った。
「草薙主将、さすがにそれはムリっすよ。先ず、更衣室がない、たとえ着替える場所はあったとしても、空手着がない。基本技は教えられても、組手稽古ができない。だってそうでしょう、女子の身体を直接蹴ったり突いたりできますか? 草薙主将、そんなムッツリ顔をしないで下さいよ。だって、女子っすよ、女子。あ、そうだ、モモコ、いいこと、思いついたわ。どうしてもうちに入りたいって言うなら、もう一人女子を連れてくればいいんだよ。そしたら、女子同士で組手稽古ができるし」
翔太に条件をだされたモモコが、戸惑った顔で稔彦を見た。稔彦は、モモコの視線を涼しい顔で受け流しながら、翔太に、
「モモコは、今日、転校してきたばかりだから、まだ、入部を誘えるような友達ちはいないよ。モモコ、今の愛好会は翔太に任せているから、翔太の承諾なしには入部できないよ。あきらめるか」
稔彦の言葉に一瞬戸惑いを見せ、足下に視線を落としたモモコが、何か名案が浮かんだのか、顔を上げて微笑んだ。
「草薙主将、ワタシ、決めちゃった」
「何だよモモコ、今の主将は草薙主将じゃなく、この三浦翔太さんだ。その、浮かんだ名案ってのを、この翔太さんに話してみなさい」
「三浦主将、ワタシ、しばらくの間、ここのマネージャーになる」
それを聞いた翔太たちが、驚いて互いの顔を見合わせた。
熊坂が、稔彦に、そんなのありですか、そう訊いて再びモモコの顔を覗き込んだ。熊坂は、いきなりモモコに睨み返され、ドキッとして視線を反らせた。
稔彦は笑いながら首を傾げ、モモコの提案に対する翔太の反応を待った。
翔太は、両腕を組みながら、難しい顔で考え込んでいたが、間もなく顔を上げ、言い含めるような眼でモモコを見た。
「よし。モモコのその案、自分は受け入れるっす。熊坂も飯星も、それでいいすね。ただしモモコ、もう一人女子が入ってこない限り、稽古には参加させないすよ」
こうして八代目を迎えた空手愛好会に、初の女子マネージャー部員が入部することになった。
当初モモコは、翔太たちの身のまわりの世話や、稽古のタイム係を率先して行っていたが、やがて稔彦自ら、組手稽古以外の基本技を教えてもらうようになった。
モモコの空手着は、仙道空手道場で余っていたものを、稔彦が、仙道の好意に甘えて借りてきた。
突きも受けも、そして蹴り方の何も知らない素人のモモコに、一つ一つ丁寧に技を教えながら、稔彦は、自分にも、かつてこんな時代があったことを思い返していた。
今のモモコの拳では、虫も殺せない。そんなモモコが、正拳突きのコツを覚え、やがて、一撃で相手を倒せるようになる。
稔彦は、卒業するまでに、モモコがどの程度まで上達するのかを想像しながら、もう一方では、卒業したら自分は二度と、ここに顔を出すことはことはないだろうと思った。
それは、以前から決めていたことだった。
翔太は、八代目主将としての責任感と心構えを認識しつつある。
秋の大会を主催した本流派の茶帯を持つ熊坂昇太と飯星聖哉は、愛好会のやり方にだいぶ馴染んできている。そして二人は、翔太を理解し、盛り立ててくれている。
部員数三名にマネージャー一名と、人数は少ないが、確かな実力者たちが集まっているだけ、稔彦は安心して任せられると思う。
これからは、翔太たちが愛好会を守り、新たな歴史を作ってゆく番だ。
翔太たちの気合いを背中で聞きながら、稔彦は、空手着のまま、晩秋の寒風吹き荒れる柔道場の外にでた。
柔道場の隣の第一体育館から、体操部が床を足踏みする音が響き、北側の運動場からは、サッカー部員たちの掛け声が聞こえてくる。
稔彦は、両腕を組みながら桜木の前で立ち止まり、紅色に染まり始めた西空を見上げながら、次の対戦相手を探した。
そうして確信した。
猛将、段田剛二と試合う刻が、ついにやって来たことを。
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