第3話
二二
最終日六回戦、準々決勝戦。
ここまで勝ち残った八名の選手たちが紹介された。
選手たちは、館内放送で、ゼッケン番号と名前を紹介され、順に試合場へ駆け上がると、審判長席へ向かって四人二列に整列した。
一試合目。
紅、ゼッケン九番、赤西猛二段。
白、ゼッケン一七番、大越憲太郎三段。
二試合目。
紅、ゼッケン五五番、大滝川仁初段。
白、ゼッケン七番、伊達幸司三段。
三試合目。
紅、ゼッケン九一番、相川誠三段。
白、ゼッケン四九番、御手洗大介四段。
四試合目。
紅、ゼッケン三三番、草薙稔彦。
白、ゼッケン二五一番、神脇正則四段。
選手紹介が終わり、一試合目の赤西猛と大越憲太郎の二名を残し、他の六名は試合場から降りた。
二試合目の大滝川仁と伊達幸司が下で待機する。稔彦たちは控え室に戻った。
敗れた選手たちが引き払っていった、二〇〇畳ほどの控え室は、がらんとして空虚な雰囲気が漂っている。
相川誠、神脇正則の二名は、各人の応援にきた先輩や後輩たちとウォーミングアップを始めた。
御手洗大介の姿はここにはない。別室で後輩を相手に軽くスパーリングをやりだしている。
稔彦は控え室の隅で、
今の時点でウォーミングアップする必要はないと考え、頭の中で、試合運びのシミュレーションを組み立てることに専念した。
そんな稔彦をみた仙道は、稔彦を一人にさせようと翔太たちを連れて廊下へでた。
翔太が、控え室のドアの前で、仙道に、次の対戦相手、神脇正則の実力について訊ねた。
「彼は、確か今は、薩摩支部の支部長をしているはずだ」
「薩摩なんて、江戸時代の話すね」
「確か彼の親族に、
「なんすか、その示現流てのは」
「薩摩藩の
「おす。でも、その剣道の示現流と空手の神脇にどんな関係があるんすか」
「手刀だよ。先ほど控え室で草薙君にもアドバイスしたんだが、示現流の剣の代わりに、神脇選手は、手刀を上段から打ち落ろす技を鍛えた。一刀両断、必死必殺の気合いでね」
「頭をかち割るんすか」
「まさか。肩か鎖骨だ。聞いた話だが、ブロック三つ重ねて割るらしい」
「ブロック三個。凄え。おす、仙道先生。その手刀打ちを、上段受けとか、腰を落として躱すとかできないんすか」
「示現流の初太刀は受け止めるな、と言われたほど強力なんだ。ただ、それを躱された場合を想定して、示現流もその対応は考えてきたはずだ。もちろん神脇選手もね。ただ、一の太刀疑わず、二の太刀要らず、というほど、一の太刀に渾身の力を込めて打ち下ろす。神脇選手の上段から手刀打ちの怖さは、そうした一撃必殺の一念だろうね」
「そう言えば仙道先生、最初の試合から、キャア、とかキエエとか、アマゾンの怪鳥の鳴き声みたいなのが聞こえていましたが、あれが、もしかしたら」
「神脇選手の猿叫だよ。薩摩藩示現流独特の、気合いの発声なんだ」
その時、試合会場から太鼓の音が聞こえた。
準決勝戦一試合目は、初戦、延長戦とも互いに譲らず、二度目の延長戦中盤に、赤西猛得意の回転手刀打ちが、大越憲太郎の左顎に決まり、技ありで優勢勝ちを得た。
二試合目、大滝川仁初段と優勝候補伊達幸司三段の名前が呼ばれた。
大滝川仁は初出場だが、身長175cm、体重100kgの体格から繰りだすローキックと強烈な正拳突きで勝ちあがってきた。
亀の甲羅に守られたみたいに打たれ強く、打たれながら前へ前へと相手を追い込んでゆく戦法が得意だ。
そのため、上段廻し蹴りがヒットするような華麗な一本勝ちではなく、場外へと相手を圧倒する優勢勝ちが多かった。
伊達幸司三段。
伊達は昨年の大会、準決勝戦で稔彦に敗れた。
試合直前に、稔彦の進撃を何としてでも阻止しようとした大会執行部の荒木田から、禁じ手の使用を命じられた。
禁じ手とは、危険技のため、公式試合での使用は禁止されている技だ。伊達は延長戦の末、その禁じ手である「仏殺し」を使った。至近距離から故意に縺れ合い、相手の脚に自分の脚を絡めて押し倒し、倒れながら自分の肘先を相手の喉仏に当てたまま体重をかけて一回転する。
一瞬の出来事で、倒れかかった体勢から逃れる方法はない。顔を背けても、肘先は喉を直撃する。
だが、倒すつもりで仕掛けた禁じ手も、稔彦の鍛えられた反射神経と肉体に、重度なダメージを与えることはできなかった。
試合後に伊達は後悔した。
なぜ、正々堂々、正面から稔彦と闘わなかったのかと。まだ一七歳の相手に対し、禁じ手を使った自分が情けなかった。
結局、その試合は稔彦に負けたが、ほんとうに負けたのは、自分自身にだった。
だからその汚名を晴らすために、今大会へ出場した。正面から稔彦を倒し、本来の自分を取り戻すのだ。
この一年間、厳しい稽古に励んできた。
地元で山籠もりもした。
山の頂上に神社の社があり、そこまで二五〇段の石段が続く。
伊達は、試合場に上がりながら、大木や小獣を相手に、技と感性を磨いた日々を思い浮かべた。
さすがに熊や猪は現れなかったが、深夜、神社の階段を駆け登っていると、上空からムササビが襲ってきた。ムササビは、階段の所々に設置された淡い照明で光る、伊達の眼を狙って下降してきた。
それを反射神経で躱す。
一匹を躱してまた階段を登り続けると、頭上のどこかでまた枝葉がざわついた。足下以外は真っ暗闇で、何も見えない。
二匹目が襲って来る。突然の風圧。獣の臭い。ムササビの爪が伊達の眼光を襲う。充分に引きつけて僅かの動きでこれを躱す。
今、試合場の中央で試合開始の太鼓を待ちながら、正面に相対する大滝川仁を見つめる。
大滝川仁が睨んでいる。悪ガキみたいな三白眼で、恨みでもあるかのように下から睨みあげてくる。
俺は、ここで、おまえと、遊んでる暇はないんだよ、そう内心呟いて伊達が微笑する。
それを見た大滝川が馬鹿にされたと勘違いして、奥歯を噛みしめた。
今、伊達の頭の中には稔彦しかいない。
鳴海主審が二人を中央に呼び、試合のルールについて簡単な説明を始めた。
ルールの殆どは反則技についてで、拳での顔面攻撃、貫き手による眼突きと喉突き、そして金的蹴りだ。
ルールの説明が終わり、二人を紅白の試合開始戦へ分ける。
右の拳を突きだし、「始め!」の号令。同時に太鼓の音。
客席の予測通り、大滝川が先に前へでた。
大滝川は、相手が誰であろうが、100kgの体躯を活かして前進すれば、優勢勝ちを得ることができると思っている。
優勝候補の伊達幸司に、正面からぶつかり合って勝てるとは思っていない。最初から判定基準を最大限に利用し、優勢勝ちを勝ち取るつもりでいる。
伊達の胸に渾身の正拳突き。
打ち込みながら前へでる。
伊達が後退して場外へ逃れる。
技ありには遠いが、これを繰り返せば優勢勝ちのポイントは稼げるはずだ。
だが、後退するはずの伊達が退かない。大滝川と同様に前へでた。二人は相撲をとるみたいにぶつかり合った。
大滝川得意の正拳突きは、伊達との間合いが狭すぎ、腕の伸びが不充分で威力が半減した。
接近戦。
伊達の膝が、大滝川の顎を下から蹴り上げる。
至近距離から有効な伊達の膝蹴りは、鋭利な角度で大滝川の下顎を直弾した。
一瞬、大滝川の動きが止まった。
もう一発、膝蹴り。
この時副審判から笛が鳴り、鳴海主審が試合を止める。
四人の副審判から 白旗が四本あがった。鳴海主審が伊達の技ありを宣言する。
大滝川の口から鮮血が流れ落ちた。鳴海主審がドクターを呼んで止血を行う。
ざわつく会場の南客席で、倉田が梶川大悟の膝を叩いて興奮している。
「さすがは、優勝候補。初参加の大滝川では相手不足だな」
「そうでもないさ。試合の相手として大滝川選手みたいなタイプはやりづらいよ。伊達選手の凄いところは、大滝川選手との間合いを見切っていることだ」
「あの至近距離からの膝か」
「そうだ。あまりに近すぎると膝は相手の腹で止まってしまう。顎まで蹴り上げるには、微妙な隙間が必要になる。大滝川選手の強烈な正拳突きを受けながら、その間合いを見切る眼と反射神経を、伊達選手は備えているんだ」
「凄い相手だなあ。次は準決勝戦。なんだか稔彦と当たりそうな気がする。稔彦、大丈夫かな」
「倉田、先を急ぎすぎるよ。草薙の準々決勝戦は、まだこれからだ」
「そうだった。四試合目だ。相手は確か」
「薩摩支部長の神脇四段だ」
「あの空中から打ち下ろす、手刀打ちか。一回戦からみてきたが、凄まじい手刀打ちだったぞ。しかも跳躍力が半ぱない。稔彦の跳び蹴りはさんざん見てきたが、跳び手刀打ちなんて聞いたことがなかったよ。さあ、伊達と大滝川の試合再開だ」
倉田が視線をやると、大滝川の顔が歪んでいた。
伊達の膝蹴りを受け、唇が腫れたのかと思ったが、よく見たら、止血と危険防止のためマウスピースを噛んでいるようだ。
大滝川は意地でも前へでて、攻撃するしかないはずだと、梶川大悟は思っている。
技ありを取られてしまったからには、技ありか一本勝ちするしか勝つ道はない。
技ありを取り返し、さらに攻め続ければ優勢勝ちはあり得る。時間はまだある。試合は始まったばかりだ。
今度もまた二人はぶつかり合った。大滝川より10cm長身の伊達の膝蹴りが、大滝川の顎下を狙い打ちする。
大滝川が両腕をクロスさせ、伊達の膝蹴りをブロックする。
がら空きになった大滝川の左脇腹に、伊達の強烈な右の廻し打ち。伊達の右拳が、太った大滝川の脇腹にめり込んだ。
大滝川は、堪らずショルダーアタックして、伊達を突き放す。
伊達の廻し打ちで呼吸が乱れ、大きく息を吸い込んだ。
その好機を、伊達は見逃さない。
左脚を高く持ち上げ、天上から大滝川の顔面へ、踵を落とす。
踵の直弾を鼻頭に浴び、多量の鼻血を垂れ流しながら大滝川が膝をついた。
副審判から四本白旗があがり、合わせ技一本。これで勝敗が決まった。
鳴海主審がドクターを呼び、止血が始まるのと同時に、会場整理係に命じてタンカーを手配した。
北側の三階席から観戦していた四人のおっさんたちが、タオルで隠した缶ビールをやりながら騒ぎだした。
「しかし、それにしてもよお、口の次は鼻血かよ。顔中ぼろぼろだな、おい」
「相手が悪かったんだな。だってあの人、優勝候補だもんなあ」
「でもよお、あの伊達ってやつはよお、昨年はあの高校生に負けたんだよなあ」
「だから草薙稔彦って名だ。缶ビールばっかり飲んでねぇで、少しは覚えろよ」
「そうだ、そうだった。草薙君ね。でも、一年前は勝てたが、今年はどうなるかわからんよなあ。おい、ビールはもういいから、ワンカップをくれ。ばか、裸でだすな。タオルで隠せ。会場は禁煙禁酒だ。見つかったらつまみ出されるぞ」
「ばかはおまえだ。大声で話すな。周りに聞こえちゃうよ。見ろよ、優勝候補のお出ましだぜ」
血がついたマットの清掃が終わり、待機していた三試合目の相川誠三段と御手洗大介四段が試合場に登場した。
会場から、相川誠の応援にやって来た少年部の子供たちから、大きな声援が湧き起こる。
御手洗大介の応援は、肩慣らしに連れてきた後輩二名だけだ。
昨年は応援者たちが、控え室にまで激励にやって来た。今回はその煩わしさを避けたかった。試合に勝つことだけに集中したい。
試合場の下には、四試合目を待つ、稔彦と神脇正則四段が姿を現した。
稔彦を確認した神谷藍が、思わず立ち上がり、二階席から前のめりになって稔彦の名前を叫んだ。
その腰に大城みゆきがしがみつき、神谷藍が客席から落ちないよう踏んばった。
「藍さん、まだ早いよ。稔彦くんの出番はこの次だって」
「神谷さん、稔彦なら大丈夫ですよ。必ず勝ちますから落ち着いて下さい」
「みゆきちゃん、ありがと。つい興奮しちゃった。もう大丈夫だから、この手を離してね」
相川誠と御手洗大介の試合が始まった。
白コーナーの下で、神脇正則は二人の試合に眼もくれない。
今の神脇の眼中には、稔彦しか見えていない。
稔彦の身体のどの部分に神脇示現流手刀を打ち込むか、その一念に集中し、食い入るように稔彦を睨んでいる。
その怖いほどの殺気を、稔彦は、ただ飄然とした顔で受け流していた。
二三
準々決勝戦、三試合目。
相川誠は、低い姿勢から左手を差し伸ばし、御手洗大介との間合いを計りながら少しずつ詰めていく。
御手洗が軽く上下にステップしながら、相川の動きを注視している。
右の正拳中段突き、通称右拳突きが得意な相川は、間合いを詰めるか、跳び込むかしない限り、懐の深い御手洗に有効打は届かない。
御手洗は、左前蹴りを鋭く押し込み、相川が中へ入ろうとするのを阻んだ。
御手洗がもう一度前蹴りを蹴りだした瞬間、右へ回った相川が気合いとともに跳び込んだ。
「そりゃあ」
相川得意の右拳突き。
右の正拳突きで御手洗の左脇腹を鋭く突く。
タイミング良く決まれば、肋骨が陥没するほどの威力がある。
大きく跳び退く御手洗。
追いかける相川が、もう一発右拳突き。
7cmの身長差に加え、懐の深い御手洗に、相川の右拳突きがちゃんと届いているのか客席からでは判別が難しい。
じれったくなった倉田が梶川大悟に、
「大悟、相川の右は、ちゃんと御手洗を突いてんのかよお。あ、もう一発いった」
「当たったような音はしているが、あれは御手洗選手の道着を打つ音だ。汗を吸った道着は、いい声で泣くんだ。次は、御手洗選手の番だ。相川選手の中段突きも強いが、御手洗選手には、下から脇腹を突きあげる御手洗砲がある」
御手洗が軽いステップからいきなり跳び跳ね、相川の顎へ跳び膝蹴り。相川がブロックしながら空中で御手洗の身体を抱き止め、御手洗の軸脚を足払いして一緒に雪崩れ落ちた。
鳴海主審が試合を中断し、二人の背中を叩いて中央へ立たせる。
「試合、続行」
御手洗がまた跳び込もうとしたのと、相川が前へ踏みだしたのがほとんど同時だった。
御手洗の動きを予測した相川の、カウンターを狙った右拳突きが、御手洗の脇腹にヒットした。
一瞬、御手洗の顔が歪んだ。
同時に、副審判から紅旗が二本あがった。
相川を応援にきた子供たちから歓声があがる。
「相川先生の技ありだ」
互いの顔を見合わせ、そう喜び合っている。
だが、御手洗の表情をみた鳴海主審は、技ありを認めない。
子供たちからため息がもれ、がっかり肩を落とす。
「試合、続行」
その後、二人は互いに譲らず、有効打もなく、延長二回戦までもつれたが、勝敗はつかなかった。
延長戦は二分間、三回まで認められている。
三回の延長戦で勝敗がつかない場合は、体重測定が行われ、10kg以上軽い方が優勢勝ちを得る。
だが体重差がないと四度目以降の延長戦に入り、勝敗を決するまで繰り返される。
相川誠80kg、御手洗大介100kg。
優勝候補筆頭、御手洗大介に、後がなくなった。
「大悟、やばいぞ。御手洗砲が炸裂しない」
「相川選手が、御手洗選手の得意技を熟知しているからだ。御手洗砲は正拳突きより間合いが狭いから、それ以上は接近しないよう上手に間合いを外している。だから相川選手は、自分の間合いから、跳び込んで右拳突きが打てるんだ」
「あいつ、なかなかのテクニシャンだな。しかし御手洗は、次の延長も引き分けなら、体重差で負けるぞ」
「逆だな。次で御手洗砲が決まれば、相川選手は落ちる。見ろよ、二人の顔の表情を」
「確かに。相川はかなりお疲れの様子だ。それに反して、御手洗はますます元気になってやがる。あれは何かを狙ってる証拠だな」
三回目の延長戦が、始まった。
相川は疲れていた。
前の試合でも、三度の延長戦を闘った。
思えば、一回戦から延長戦の繰り返しだった。この大会では、得意の右拳突きが思うように効いていない。
間合いとタイミングが悪いわけではない。今大会に出場する選手たちが、みんな打たれ強くなっているからだ。
だが、この延長戦をなんとか乗り切れば、体重差で勝ちを得ることができる、相川はそう思っている。
相手の攻撃を受けてばかりでは判定で不利になるから、残った時間を全力で攻め続けなければならない。
体重100kgの御手洗が、いきなり左足で踏み込み、跳んだ。
軽い右の前蹴りから左の跳び前蹴り。
伊達幸司が柔道の加藤康宏にみせた二段蹴りだ。
相川は二、三歩後退して躱そうとした。
その相川の顎を、御手洗の左中足が追いかけるように伸びてゆく。
相川が、御手洗の跳び蹴りを
反射的に顔をのけ反り、なんとか躱したから、大したダメージは受けなかったが、副審判から白旗が一本あがったのを、相川は見た。
旗一本では判定に影響はないが、なぜか嫌な予感がした。
鳴海主審が試合を続行する。
残り時間、一分二〇秒。
時間はまだある。
御手洗の左ローキック。
だがこれはフェイント。
その左足を流れるように内側から廻して高く持ち上げ、相川の脳天へ踵を落とす。
相川はこの時、御手洗のローキックに気をとられてしまい、左足の動きを見失っていた。
脳天に落ちた踵の衝撃。
眼から火花がとんだ。
だが倒れない。倒れたら一本負けになる。
両脚を踏んばり、腹に力を入れて持ちこたえる。
次の瞬間、相川の背中に悪寒が走った。
なにか来る。
御手洗砲。
その言葉が頭を過ぎる。慌てて後方へ逃れようとしたが、身体が動かない。
左腕でガードするのが精一杯。
だが間に合わない。
腰を低く落とした姿勢から、腰の回転と全体重をのせた右の縦拳、御手洗砲が、相川の左脇腹に炸裂。
相川は、身体をエビ折りにして跳び跳ね、膝から崩れた。
呼吸ができない。
鳴海主審が、試合を中断しようとして二人の間に分け入る。
それより一瞬早く、相川の側頭部へ、御手洗が右のローキックを刈り込んでいた。
まな板とまな板を叩き合わせたような乾いた打撃音が響き、相川が棒倒しに倒れた。
一足遅れて鳴海主審が試合を止めた。
白眼をむいた相川の表情をみて驚いた。
すぐドクターを呼び、その場で応急手当が始まった。
会場から、御手洗に対して賞賛の拍手が贈られたが、その反面ブーイングも湧き起こった。
北側席のおっさんたちからも、
「なにもあそこまで、止めを刺さなくてもいいじゃねぇかよ。最初の一発で勝負はついていたのによ。ひでぇ話だぜ」
「確かにそうだよなあ、右のフックがヒットした時点で御手洗は勝っていたんだ」
「いやあ、御手洗選手が悪いわけではないよ。審判がちゃんとしっかり止めに入らなかったのが悪い。選手たちは勝つために必死だからよ」
「それにしても長くないか、あの治療」
「側頭部を強打したから、無理に動かさない方がいいんだ。医者が様子をみて判断するんだろうが、もうしばらく時間がかかるな。おい、酎ハイをよこせ」
「俺はワンカップのお代わりだ」
「儂はこの間に小便だ」
ドクターの治療が始まってから一五分後に、相川誠はタンカーに乗せられ、裏門で待機する救急車へ運ばれていった。
鳴海主審の説明では、相川誠の容態は、重傷、だった。
二四
館内放送が流れ、準々決勝戦、神脇正則四段と、稔彦の試合が紹介された。
稔彦がマットの中央に立つと、南側席から神谷藍が、館内に響き渡るような大声で名前を叫んだ。
その声に、北側席のおっさんたちが反応した。
「あの若い女、確か昨年もきて、叫んでいたよな」
「高校生の彼女じゃないかな。それにしても元気で羨ましい」
「若いだけだ」
稔彦は、恥ずかしくなり、背中で神谷藍の声援を受け止めた。もう一人、大城みゆきの声。倉田の声も聞こえる。
稔彦は、館内放送で案内された時から、痛いほど、神脇正則の視線を感じている。
一撃直弾の手刀打ち《しゅとううち》。それがどんなものかは知らない。
試合前に仙道から、薩摩示現流について簡単な説明は受けたが、その示現流剣術を稔彦は見たことがなかった。
鳴海主審が二人にルールの説明を始め、間もなく試合が始まった。
神脇が、トントンと三歩後方へ跳び退き、稔彦との間合いを遠ざけた。
その位置から、稔彦目がけ、いきなり神脇が全速で走りだした。
稔彦の手前で一気に跳ぶ。
予想以上のジャンプ力。
会場から驚嘆の声。
稔彦の頭上で、さらに高く右手を持ち上げ、空中で上半身を後ろへ反り返す。
試合開始早々、いきなり神脇示現流手刀打ち。
稔彦が、神脇の手刀の動きを見極めようと直視する。
神脇は、空中で静止した瞬間、異様な雄叫びをあげた。
「キエエ!」
仙道が解釈した、薩摩示現流独特の気合い、猿叫だ。
同時に稔彦が腰を落とし、上半身を少しだけ右へ回し、構える。
「キエエ!」
太い丸太を、斧で一刀両断するかのごとく、神脇は、高らかに持ち上げた右手刀を、一直線に稔彦の左肩へ打ち下ろした。
同時に、稔彦の身体が伸び上がる。
右の拳を左掌で包み、右肘を鋭角に折り曲げた。
缶酒を口の前で静止させたまま、呆然とするおっさんたち。
口に手をあてながら言葉を飲み込む、神谷藍と大城みゆき。
中腰に腰を浮かし、ぽかんと口を開けたまま動けなくなった倉田信行。
試合前から両腕を組んだまま、無表情の梶川大悟。
みんな、時間が止まってしまったみたいに、その場で膠着した。
その試合場で、神脇正則と稔彦だけが動いている。
「キエエ」
神脇の手刀が、稔彦の左肩を直撃する寸前、稔彦は、身体を起こしながら、腰の回転を利用した右肘を、神脇の手刀へぶち当てた。
ブロック三つを重ねて粉砕する神脇の手刀。
コンクリートの電信柱を打ちながら鍛えた稔彦の肘。
両者が激突した瞬間、肉と骨がぶつかり火花が飛んだ。
示現流剣術を空手の手刀打ちに応用した、神脇得意の神脇示現流手刀打ち。
その一の太刀が、稔彦に弾かれた。
稔彦はただブロックしたのではない。手刀打ちを、肘で撃墜した。
神脇は、稔彦の肘を受けた瞬間、稔彦の次の攻撃を怖れ、空中で後方へ逃れた。
稔彦の肘に手刀が当たった瞬間、稔彦の胸を左足裏で蹴り、その反動を利用して跳び退いたのだ。
その身体能力に驚いたのは、梶川大悟や倉田だけではなかった。
この時、倉田の頭上から、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「手強い相手だな」
その声に驚いた倉田と梶川大悟が、同時に振り向き、肩越しに見上げた。
両腕を組んだ鬼頭三郎が、陽焼けしたまっ黒い顔で、試合場を睨みつけていた。
「おす。鬼頭先輩。いついらしたんですか」
「ああ、この試合開始と同時にな」
そう言って神谷藍に顔を向け、白い歯をむき出して挨拶すると、梶川大悟の隣に腰を下ろした。
「あれが薩摩示現流手刀打ちだ。薩摩示現流の一の太刀は受けてはならん、新選組の近藤勇でさえ、そう言って怖れた渾身の一撃だ。稔彦はそれを肘打ちで返り討ちした。相手も驚いたろうよ。普通なら受けるか、逃げるかだが、攻撃を攻撃で反撃してくるんだからな。まったく稔彦らしいよ」
「おす、鬼頭先輩。あの一撃を粉砕したってことは、稔彦に勝機が訪れたってことですね」
「倉田、薩摩示現流は、そんなに甘くはないよ。それに、示現流手刀打ちは、まだ折れてはいない。だから稔彦も、次も同じやり方は通用しないはずだ。最初からその気で稔彦の肘を予測すれば、空中で躱しながら別の箇所を攻撃するのは容易いからな」
鳴海主審が試合を続行させた。
神脇が、稔彦に対して横向きに構えた。
「な、何をやるきだ、あいつ」
「倉田、あの構えは、手刀打ちではなさそうだな。梶川はどう思う」
「おす。左の、足刀蹴りですかね。ただ、単純な横蹴りでは、稔彦に通用しませんが」
「さもあらず、だな。何か仕掛けてくるぞ。稔彦の顔を見てみろ。あいつ、すでに何かを察知してる。対戦相手が尋常な相手ではないことに気づいたみたいだな」
「ビビったってことですか」
「稔彦は、肘で相手の手刀を打ち砕くつもりだったんだろうが、それができなかった。それで少し不安になったんだろうよ。だが、それは相手も同じだ。岩をも砕く自慢の手刀打ちをはね返されたんだからな。だから先に動く。恐怖心から逃れるため先に動く」
神脇が軽くステップしながら稔彦へ近づき、稔彦の左膝へ、左の関節蹴り。
次の瞬間、ブロックしようと前屈みなった稔彦の腹へ、次いで顔面へ上段足刀蹴りを蹴り込む。
左足刀による、下中上段への秒速連続足刀蹴り。
「早い」
会場が驚嘆のため息でどよめいた。
かつて「紫煙」の二代目総長として、数々の修羅場を潜り抜けてきた大城みゆきでさえ、驚いている。
神谷藍は口に手を当てたまま言葉もでない。
「あいつ、手刀打ちだけじゃなかった。強いぞ、大丈夫かな稔彦」
「鬼頭先輩の台詞じゃないが、かなり手強いな」
「梶川、倉田、ただな、スピード感があるから、みんな驚いているだけだなんだ。稔彦なら問題ないよ。三つ全て躱したから。だが、次が問題だ。油断したら、終わりだ」
神脇が、ワンステップで空中高く跳び上がった。
上空で静止すると、稔彦の顔面へ左右の足刀を蹴り込んだ。
だが、その場に稔彦はいない。
稔彦はいち早く腰を低く落とし、そのまま神脇の下を潜って背後に回り、落ちてくる神脇の後頭部へ廻し蹴り。
それを予測した神脇が、空中で身体を丸めて躱す。
着地と同時に前方回転して稔彦との間合いを外す。
恐るべき反射神経。
またも会場からため息がもれた。
ここで太鼓が鳴り、準々決勝戦四試合目の初戦が終了した。
鳴海主審が二人を中央へ呼び、二分間の延長戦を行うことを告げた。
「延長戦、始め!」
今度は稔彦が、前蹴りから跳び込み、秒間五連突き。
次いで左のローキック。
ローキックから同じ左脚での上段廻し蹴り。
稔彦得意の切り替えし連続技。
神脇の連続足刀蹴りに劣らないスピード感。
客席がざわめく。
稔彦の左上段廻し蹴りが、神脇の顔面を掠めて跳んでゆく。
稔彦はその左脚を空中で捻り、神脇の鼻頭へ踵を落とした。
思わず叫び声を発し、後方へ顔をのけ反る神脇。
同時に、稔彦は空中へ跳んだ。
顔を戻した神脇へ、空中から左右の足裏を押し込む、連続五段蹴り。
神脇の眼には、稔彦が空中で静止しているように映った。
神脇が慌てて両腕をクロスさせ、ブロックする。
稔彦は、最後の一蹴りで神脇の両腕を踏み台にして後方へ跳び、空中で一回転してマットへ降りた。
「おお!」
「すげえ。アクロバットみたい」
客席から地鳴りのような拍手喝采が鳴り響く。
神脇の左頬に赤い線が浮いた。
鳴海主審が試合を止め、神脇の傷の具合を確認する。
ドクターを呼ぶほどではないと判断し、試合を続行させた。
二分間の延長戦では勝敗がつかず、間もなく二度目の延長戦が始まった。
神脇が三歩後方へ跳び退き、猿叫を発した。
「キエエ!」
稔彦の手前で跳び上がる。
空中で右手を高く持ち上げ、上半身を反らし、戻す反動を利用して右手刀を打ち下ろす。
「チェスト!」
神脇会心の一撃。
稔彦が再び右肘で反撃する。
今度は神脇の手刀ではなく、その手首を狙い、肘を突き上げた。
骨と骨がぶつかる鈍い音が響く。
激痛で神脇の顔が歪んだ。
神脇は着地すると右手首を押さえながら、後方へ跳んで間合いから逃れた。
神脇が驚いている。
得意の手刀打ちを受けもせず、躱しもせず、二度も肘で反撃してくるなど、こんな相手は過去にいなかった。
しかも二度目は、こっちの手刀ではなく手首を狙ってきた。
まだ高校生にしてこの判断力。
まるで、火の玉小僧だ。
右の手首が痛む。骨折はしていないが、手刀打ちは手首に負荷がかかるから、使えるのは、あと一回だろう。
鳴海主審が、中断した試合の続行を急がせた。
「試合、続行。続行だ!」
神脇が勝負にでた。
左の前蹴りで稔彦を蹴り押し、稔彦が中へ入ってくるのを制止しながら、手刀打ちのチャンスを窺う。
今度は踏み込んで右のローキック。左膝を立てて受け流す、稔彦。
再び、神脇の左前蹴り。
半歩後退して躱す稔彦。
この瞬間、二人の間合いが離れた。
神脇が、半ステップで跳んだのはこの時だった。
「キエエ!」
再び稔彦に、右手首を打たれることなど眼中にない、必死必殺、示現流手刀打ち。
稔彦が腰を落として構える。
伸び上がりながら、右拳を神脇の手刀へ突き上げた。
稔彦の肘を警戒していた神脇が、空中で一瞬驚いた。だが、間に合わない。
肘でも拳でも、渾身の力で打ち砕くのみ。
稔彦の拳と神脇の手刀が衝突した瞬間、神脇の手首が折れた。
先ほど痛めた手首は、手刀と拳がぶつかり合う衝撃には耐えられなかった。
この時、鳴海主審と副審判たちは、神脇の骨折に気づいていない。
神脇本人も試合を止めるつもりはない。
着地と同時に神脇が跳び退いた。
稔彦が追う。
追う途中で左脚を高く持ち上げ、神脇の顔面へ踵を落とす。
右手が使えない神脇が、左腕でブロック。
稔彦はその左脚を空中で戻し、膝のスナップで神脇の下顎へ足刀を蹴り込んだ。
慌てた神脇が両腕を合わせてブロックする。骨折した右手首に激痛。
稔彦は、がら空きになった神脇の懐へ跳び込み、得意の秒間五連突き。二発、ヒット。
息ができなくなり、苦しむ神脇。
神脇がじりじり後退する。
次の瞬間、稔彦は左足で踏み込んで跳び上がり、右中足前蹴り。
後退しながらこれをブロックしようと必死に両腕を構える神脇。
その無防備になった喉元へ、稔彦は、空中から腰を捻り、左足刀を蹴り込む。
足刀二段蹴り。
稔彦の足刀が、神脇の喉元を貫いた。
客席から女子の悲鳴。
間もなく重いざわめきが揺れる。
倒れた神脇は、自分の名を呼ぶ鳴海主審の声でなんとか起き上がった。
会場から賞賛の拍手が鳴り響く。
その声援を聞きながら神脇は虚しくなった。
烈しく響いてくる拍手の波は、勝者への喝采ではなく、タンカーに乗せられなくて良かったなと安堵する、観客たちの敗者に対する慰めだからだ。
なんと情けない話なんだろうかと思う。
優勝を狙い、薩摩示現流を改良した神脇示現流手刀打ちを引っさげてやって来たが、俺は負けた。それも一八歳の高校生に。
初打ちを肘で撃墜された時点で、俺はすでに敗れていたのかもしれない。作戦を誤ったかな、そんな気もした。
鳴海主審が稔彦の一本勝ちを宣言し、二人を中央へ呼んで互いに挨拶をさせた。
神脇が稔彦の右手を左手で握り、高く持ち上げながら稔彦の勝利を称えた。
「次に試合うまでに、手首を鍛えておくことにするよ。おい、それまで、誰にも負けるなよ」
「おす。おいらは、横須賀の仙道道場におります。いつの日か、また」
二人が紅白に別れてマットから降りてゆく。
客席から、再び大きな拍手と歓声が地鳴りのように鳴り響いた。
最終日の六回戦、準々決勝戦が終了した。
二五
第七回戦、準決勝戦。
館内放送で、対戦する二組の選手たちが紹介された。
一試合目。
紅、赤西猛二段。
白、伊達幸司三段。
二試合目。
紅、草薙稔彦。
白、御手洗大介四段。
館内放送を聞いた倉田が、鬼頭三郎と梶川大悟に嘆いた。
「いきなり優勝候補筆頭が相手ですよ。御手洗とは、決勝戦でやり合いたかったのになあ」
「倉田、ここまで来たら草薙の相手は御手洗か伊達のどっちかだ。どっちが先でも同じなんだ」
「大悟、御手洗に勝ったとしてもだ、疲れが残っていたら、決勝で伊達に勝てる保証はないぞ」
「伊達選手の相手は、赤西選手だ。伊達ほどの猛者が、赤西のこざかしい回転打ちに負けるとは思わないよ。草薙が勝てば、決勝戦の相手は間違いなく伊達だ。鬼頭先輩はどう思いますか」
「梶川が言うように、御手洗も伊達も強いよ。だが、毎年この大会には魔物が棲んでいると言われるほど、異変が起こるんだ。昨年の異変は稔彦の登場だった。なにせ、一七歳の高校生が、本流派の優勝候補たちを次々になぎ倒し、準優勝まで成し遂げたんだからな。まさに、異変だ。だから、伊達が赤西に敗れるかも知れないし、稔彦が御手洗に勝つかもしれない。まあ、倉田も梶川も、間もなく試合が始まるから、しっかり見とどけておけよ」
「おす、鬼頭先輩。あ、また、館内放送が流れます」
準決勝戦を取り仕切る主審が、鳴海五段から
会場から大きな拍手が沸き立ち、「番雷、番雷」と、番場雷太の愛称を叫ぶ掛け声が館内へ轟いた。
この大会を運営する本流派の門下生の中で、六段の段位を受けている者は、番場雷太だけだった。
その上に君臨するのが、三国海道審判長九段。つまり番場雷太は、本流派道場のNo.2の存在になる。
そのNo.2が、主審を務めるとあって、会場が騒いだ。三国海道同様に、番場雷太も伝説の人だからだ。
昨年の飛び入り試合で、段田剛二に敗れた南條士郎五段は、番場雷太の二年後輩にあたる。
番場は、敗れて去ってゆく南條士郎の背中を、歯がゆい思いで眺めながら、段田剛二に対する憎しみを覚えていた。
今大会で、再び段田剛二に不本意な動きがないかを、大会執行部の荒木田たちに命じたのは、番場雷太本人だった。
本流派の威厳を脅かす者はいっさい排除する、それがのNo.2責務だ。
準決勝戦、赤西猛二段と伊達幸司三段の試合が始まった。
赤西猛、身長175cm、体重80kg。
体格的に特出しているわけではないが、意表を突く奇抜な攻撃で、対戦相手を翻弄し勝ち残ってきた選手だ。
得意技は、左右の回転打ち。
正拳突きやローキックの連打からいきなり回転し、その遠心力を利用した手刀や裏拳を相手の顎先や首筋へ打ち込む。
赤西猛の強みは、左右どちらからでも自在に攻撃できるスイッチヒッターだ。
番場主審の号令と同時に、赤西がゆっくり間合いを詰めてゆく。
相手は百戦錬磨の猛者、伊達幸司三段。赤西には、いつになく慎重に構え、攻めの機会を窺っている。
仙台在中の伊達と所沢の赤西が、実際の稽古で出会うことはめったになかったが、昨年に行われた千葉館山の夏期合宿で、始めて一緒に稽古した。
この時の組手稽古で赤西は、三本中、二本敗れ、残り一本は引き分けだった。
今、赤西は、伊達の出方を予測しながら、じりじりと間合いを詰めてゆく。
伊達の、突きや蹴りの強烈な破壊力は熟知しているつもりだ。
伊達は動かない。
両の拳を顔の左右に構え、両肘を内側へ絞りながら脇を固めている。
赤西が攻め入る隙がない。
軽くローキックや左の正拳突きをだしても、伊達が誘いにのってくる気配はない。
膠着状態が二〇秒間ほど続き、番場主審が二人に注意を与えた。
今大会は、攻撃することを最大の理念に掲げている以上、睨み合いを続ける試合運びは、本筋から外れていた。
大会前に、三国海道審判長からも、審判団に対してきつく注意するよう命じられていた。
「試合、続行」
番場主審の、低くもずっしり重く響く号令が、会場へ響く。
それを機に、赤西が動いた。
左ローキック。
伊達が右膝を立てて受け流す。
次いで左右の正拳突きで追い込む。
上半身を左右に捻りながら、紙一重で躱す伊達。
伊達はガードを下げたまま、左右に身体を振りながら、赤西の攻撃をやり過ごした。
なかなか反撃に転じない伊達の動きに苛立った倉田が、梶川大悟にぼやいた。
「なあ大悟、伊達はなんでやり返さないんだよ。相手の動きだけ眺めているだけじゃ勝てないじゃん」
「俺もそうは思うが、あの伊達選手のことだ。何か狙っているに違いないはずだ」
赤西は左のローキックを刈り込み、伊達の意識を下半身に集中させ、いきなり右回りに回転した。
回転しながら右手刀で伊達の首筋を襲う。
赤西の回転打ちを予測していた伊達が、右腕を立てブロックする。
すかさず赤西の膝裏へ、関節蹴りを蹴り込む。
赤西がバランスを崩した。その顔面へ左の踵を落とす。
首を捻り、なんとか躱した赤西は、後方へステップして逃れた。
追う伊達。
追いながら赤西の鎖骨へ左右の正拳突き。
次いで左の上段廻し蹴り。
たまらず場外へ逃れる赤西。
番場主審が試合を止め、二人を中央へ戻し、紅白の試合開始線へ立たせた。
紅が赤西猛、白が伊達幸司。
「試合、続行」
結局、初戦と一回目の延長戦では勝敗がつかず、間もなく二回目の延長戦が始まろうとしている。
三回目の延長戦でも勝敗がつかない場合は、体重が10kg軽い方が勝ちを得る。
赤西猛80kg、伊達幸司85kg。この試合、次の三回目の延長戦で決まらなければ、勝敗がつくまで、無制限地獄の延長戦が続くことになる。
二回目の延長戦が始まった。
なんとか有利に立とうとする赤西は、左右の回転打ちを連打しながら伊達を攻めた。その分スタミナを消耗してゆく。
伊達は、これまで何度か赤西の回転手刀打ちを、首や顎先に受けたが、それで動きが止まることはなかった。
一瞬でも呆然と立ち止まれば、その場で技ありを取られかねない。
そしてこの後の延長戦でさらにスタミナを失えば、次の決勝戦で満足に闘えなくなると思っている。
相手は優勝候補筆頭の御手洗大介か草薙稔彦のどちらかだ。
おまけに二人は、スタミナがあるばかりか、恐ろしいほどタフだ。
必死に優勢勝ちを狙う赤西の攻撃をやり過ごしながら、伊達は、一打反撃のチャンスを探した。
疲れた赤西が抱きついてきた。
番場主審が二人を分け、試合を続行させる。
離れ際に、赤西の右回転裏拳打ち。
伊達の側頭部を狙って打ち込んでくる。
拳による顔面攻撃は禁止されているが、疲れた赤西はそのコントロールを失っている。
ただ当たればいいと思っている。
当たって相手が倒れたら、それでいいのだ。
故意に狙ったわけではない、思わず当たってしまった、そう言い訳すれば許してもらえる。
肝心なことは、ここで伊達に大きなダメージを与えることだ。
ここまで勝ち上がってきて、まさか反則負けもないだろう。
赤西は、今一度、右へ回転しながら裏拳を打ち込んだ。
次の瞬間、身体が軽く感じた。しまった、そう舌打ちしたが、遅かった。
伊達に足を払われ、ひっくり返された。
背中からマットへ落ちるのと同時に、伊達が右拳を突き下ろす。
その拳が、仰向けに倒れた赤西の顔面すれすれで静止した。
副審判たちから四本の白旗が上がり、番場主審が伊達を指差し、技ありを宣言した。
会場が拍手とどよめきに沸き立つ。
残り時間二〇秒。
この時誰もが、伊達幸司の勝利を疑わなかった。
番場主審が試合を続行させた。
泣きだしそうな顔で歯を食いしばり、赤西が頭から突っ込んだ。
赤西を受け止め、後退しながら勝利を確信する伊達。
間もなくタイムアウト。これでけりがつく。
そう安堵した一瞬、ほんの一瞬、あの伊達幸司に隙が生じた。
その伊達の下腹へ、赤西が不意に前蹴りを蹴った。その蹴りが、伊達の金的を直撃した。
衝撃で眼が暗み、顔を歪めた伊達の動きが止まった。
赤西の右裏拳打ちが、伊達の左こめかみを殴打したのはこの時だ。
一瞬、呆然と立ち止まった伊達が、背中から棒倒しに卒倒していった。
その倒れ方が尋常ではなかった。
試合が中断され、すぐにドクターの診察が始まった。
ざわつく客席の中で、梶川大悟が鬼頭三郎に訊ねた。
「おす。鬼頭先輩、あれは赤西選手の反則負けですか」
「まあ、そんなところだな。ただ伊達のダメージが大きいから、勝ったとしても、次の決勝戦、闘えるかどうかだな」
「仮に伊達選手が棄権した場合、大会規定では、赤西選手が上がることになります」
「その通りだ。まさかとは思うが、赤西は技ありを取られているから、それを狙ってやった可能性もある」
「そんな卑怯な」
「倉田。この世の中、悪いやつほど出世するってね。それにあの伊達だって、真っ白とは言えないよ」
「あ、鬼頭先輩、大悟、見てみろ、審判たちが三国審判長のところへ集まってきたぞ。なにが始まるんだろうか」
倉田が言ったように、番場主審と四人の副審判たちが、正面の審判長席に呼ばれ、しばらくの間、何かの審議が始まった。
その内容については、その場の関係者以外は誰も知らない。
ドクターの治療が終わり、伊達がゆっくり起き上がったが、まだふらふらしている。
誰が見ても、試合を続けるのは無理だ。
拳による顔面攻撃が禁止されているのにそれを使った赤西への、反則負けを訴える抗議の声も少なくなかった。
そんな会場の生の声を、執行部の係員たちが集めて、順次審判長席に報告している。
しばらくして、マイクを握った番場主審が試合場の中央に立ち、会場に挨拶してから話し始めた。
「ええ、ただ今の試合ですが、審議の結果、金的蹴りは故意ではないと判断しますが、裏拳による顔面攻撃は回避できたものとし、赤西選手の反則負けとします。ただし、伊達選手のダメージが大きく、今後の試合続行が不可能とのドクター診断を受け、決勝戦は伊達選手の棄権とします。大会規定により、赤西選手の決勝戦進出となりますが、審判団の話し合いの結果、そして三国審判長の采配により、試合の組み合わせを変更します。準決勝の二試合目は、御手洗選手対草薙選手の組み合わせではありますが、決勝戦の前に、草薙選手と赤西選手の予備戦を行い、勝った方が、御手洗選手と決勝戦を行うこととします。これは、決定事項であります。おす」
番場主審の説明に、会場が荒れた。
北側席からおっさんたちも抗議した。
「そんなバカな話があるかよ」
「御手洗と高校生が準決勝をやって、勝った方が赤西と決勝戦やるのが筋だぜ」
「おいおい、聞いてんのかよ、なんで高校生と赤西がやんだよ」
「そうだそうだ、政治家じゃあるまいし、勝手に仕切るな」
試合場の下で、伊達と赤西の試合を観戦していた仙道明人は、番場主審の説明を聞いて、そう来たかよ、と呟き苦笑いした。
稔彦と赤西を闘わせ、稔彦を疲れさせるのと、御手洗を休ませるのが目的だが、仮に予備戦で赤西と御手洗を闘わせ、どちらが勝ったとしても、疲れた身体で決勝戦を稔彦と闘うには及ばない。
客席からの反論を無視した、稔彦と赤西猛の予備戦が始まろうとしている。
マットの中央で飄然とした表情を見せる稔彦、ここまで闘い続けた疲労感はない。
白の試合開始線に立つ赤西猛が、親の仇でも見るような、もの凄い顔で稔彦を睨みつけている。
赤西の内面は、憤りと戸惑いで落ち着きがなかった。
故意に伊達幸司の顔面を狙ったから、反則負けを取られたのは納得しているが、御手洗大介や稔彦とは決勝戦でやるものだとばかり考えていた。
それがここに来て、審判団は決勝戦の予備戦を行うと言いだした。
こんなことは、前代未聞だ。
一か八かの賭けをして、伊達幸司を試合放棄にまで追い込んだのに、これでは準決勝戦のやり直しと同じではないか。
赤西は、自分自身のスタミナが心配だ。
延長戦の連続で疲労している。
予備戦で稔彦に勝っても、次の決勝までスタミナが保たない。
不安になる赤西の脳裡に、稔彦との予備戦を早く終わらせるため、禁じ手の名前が思い浮かんだのはこの時だ。
伊達幸司に使用した、裏拳による顔面への回転打ちは、もはや使えない。短時間で勝つには、やはり禁じ手しかない。
赤西は、試合開始の号令を待つ間に、禁じ手である仏殺しや抱き落とし、膝落としの仕掛けをシミュレーションしながら、技を繰りだすタイミングを計算した。
そうして最後に選んだ膝落としを、水月ではなく金的に落とした場合のダメージについて想像した。
まともに当たれば確実に金的が潰れるだろう、まだ高校生の草薙にはあまりに残酷かなと思ったら、思わず顔が緩んだ。
赤西と稔彦は、番場主審に呼ばれ、予備戦を始める簡単なルールの説明を受けた。
予備戦の時間は、初戦も延長戦も同じ二分間。
番場主審の太い声が会場に響き渡る。
「予備戦、始めぃ」
太鼓が鳴る。
赤西は、紅のまま。稔彦は白。
いきなり赤西が間合いを詰めた。
左前蹴りでジャブを蹴り、稔彦が中に入って来れないように間合いを保ちながら、いきなり右手刀での回転打ち。
稔彦はブロックせず、少しだけ顔を外して躱す。
赤西がさらに追い込み、連続回転打ち。右手刀で稔彦の首元を襲う。
稔彦が逃げれば逃げるほど、劣勢と判断され、赤西が判定で有利になる可能性が高い。赤西は、そのことも計算に入れている。
技ありか一本勝ちができない場合の、保険みたいなものだ。
四度目の手刀回転打ちがきた瞬間、稔彦は、その手刀を左拳で弾き返した。
赤西の顔が激痛で歪む。
ノーガードになった赤西の鎖骨へ、稔彦得意の秒間五連突き。
マシンガンのような強烈な連打。
たまらず場外へ逃れる赤西。会場が興奮して騒ぎ始める。
番場主審が、副審判たちに、今の稔彦の攻撃が有効かを問うた。
副審判四人が同時に、膝の前で、紅白の旗をクロスさせ、無効を意思表示した。
番場主審もこれを認め、赤西と稔彦を中央へ戻し、試合を再開させた。
赤西は、稔彦の正拳突きのスピードとパワーを実感して驚いた。
体躯的にはそう変わらない二人だが、身体能力に圧倒的な差を感じた。
宇宙人と試合っているような感覚で稔彦を睨みながら、噂以上の、とんでもない高校生だと舌を巻いた。
番場主審が、試合を続行する。赤西は、早い段階で、膝落としを、それも水月ではなく、稔彦の金的に落とすつもりで構えた。
鬼頭三郎が誰にとなく呟いた。
「なんか、嫌な予感がする」
倉田が、試合会場に視線を向けたまま、鬼頭三郎に訊ねた。
「おす、鬼頭先輩。何ですか、その嫌な予感って」
「まだはっきりとは判らんよ。ただ、赤西が何か企んでいるような気がするんだ。梶川はどう思う」
鬼頭三郎は、神谷藍たちに心配をかけないよう小声で話した。
梶川大悟も鬼頭三郎の気遣いを察知して声を
「赤西選手は、伊達選手との試合でかなり疲れています。そして決勝戦は、優勝候補筆頭の御手洗選手です。誰がどう考えても、赤西選手は稔彦との試合を早い時間で終わらせたいはず。ですが、相手は稔彦。正面からやり合って簡単に勝てる相手ではないことは、赤西本人が一番理解しています。そうなると残された手は一つ」
「大悟、何だよ、その最後の手って言うのは。まさか、さっきみたいに回転して裏拳で顔面を殴るやつか」
「倉田、あれは二度は使えない。今度やれば、その場で反則負けになる。だから怖いんだよ。とんでもない禁じ手を使ってくる可能性がある。鬼頭先輩、自分はそう思いますが」「梶川、倉田。窮鼠猫を噛む、じゃないが、人間、追い詰められると頭のストッパーが外れて、何かとんでもないことをやらかすんだ。赤西の場合、決勝戦にあがりたい一念で、何をやっても稔彦に勝ちたいと思っているはずだ。間違いなく、禁じ手を使うだろうな」
「稔彦、大丈夫かな。心配だな。大悟、あいつ、大人相手に、いつも一人で闘ってるんだ」
「倉田、そんなに心配するな。それに草薙は一人じゃないよ。試合会場の白コーナーを見てみろよ、仙道さんが稔彦のセコンドについている。仙道さんは、赤西の異変に気づいているはずだ。昨年の試合の時もそうだった。あの時は、仏殺しと抱き落としだった。そして飛び入りで出場した段田剛二が、いや段田先輩が、稔彦の仇を討ってくれたんだ」
「それにしても、朝から係員たちが警戒して走り回っているが、段田先輩、今回は来てなさそうだな。あ、試合が始まるぞ」
続行の号令と同時に稔彦が跳んだ。
赤西の上空から、空中で静止した状態で、左右の足裏を押し込む五段蹴り。
両肘を立て、慌ててブロックする赤西。
足蹴りマシンガンの連続蹴りに圧倒され、マットの上に着地する稔彦に反撃が一歩遅れた。
劣勢になった赤西が、マットに降りつ稔彦に、回転手刀打ちを放つ。
間合いが遠すぎて手刀は届かなかったが、指先が稔彦の右眼を掠った。稔彦は咄嗟に顔を振り、赤西の指から逃れようとしたが、中指の爪先が、稔彦の目尻を鋭くえぐった。
稔彦の右眼の目尻から、大量の血が流れ落ちた。
番場主審が試合を止め、ドクターを呼んだ。見た目より稔彦の傷が深く、薬やガーゼだけでの止血は不可能と診断された。
稔彦の試合不可能、つまり棄権、と審判が判断するのか、会場の誰もが息を飲んで見守る。
神谷藍が泣きそうな顔で試合場に視線をやると、稔彦が、直接ドクターに交渉している。
何度かのやりとりがあった後で、ドクターが看護師に指示して大きな医療鞄を持って来させた。
その間に、番場主審が稔彦本人に傷の状態を確認し、同時にドクターと何やら深刻な顔で話し合いを始めた。
長く中断した決勝予備戦だったが、ようやくマイクを持った番場主審がマットの中央に立ち、稔彦の治療状況について説明を始めた。
「ええ、右の目尻から出血しました草薙選手の容態ですが、通常の応急処置では止血できませんでした。審判団は、草薙選手の身体を配慮し、試合棄権を促しましたが、本人の試合続行の意志が強く、そのため、この場で、特別治療を行うことになりました。この特別治療とは、この場で麻酔は使用できませんから、麻酔を使わず、つまり麻酔なしで、草薙選手の目尻を縫合することです。これは、本人の意志であります。おす」
会場が騒ぎだし、立ち上がって抗議する者も現れた。
「ばかやろう、生身で縫い合わせるつもりか。俺だったら、痛くて泣いちゃうぜ」
「見てる方も辛くて、見ていられねぇよ」
「これは公開処刑だ」
「麻酔も使わず縫合するなんて野蛮だぞ、やめろよ」
「あら、あたしなんて、お産の時に、麻酔なしで切られたわよ」
「そう、あたしも二人目ん時に」
「男は血と痛みに弱いのよ」
「なんだこのオバサンたち。いったい何の話だよ。意味がわからん」
稔彦の目尻の治療の準備が整い、すぐに傷の縫合が始まった。
マットの中央で正座し、両の拳を左右の膝の上にのせ、背筋を伸ばして両眼は閉じ、顔はまっすぐ前を。
そして目尻に縫い針が刺し込まれても、微動だにしない。
その光景を、咳払い一つせず、見守る観客。
誰かが叫んだ。
「OH、サムライボーイ」
静まり返った会場に、稔彦の目尻を縫う針の音が聞こえてきそうな錯覚さえおぼえる。
突然、「あ~」、と悲鳴をあげ、神谷藍が卒倒した。
大城みゆきが、慌てて神谷藍を抱き止める。
大城みゆきは、神谷藍の背中を擦りながら、あいつなら大丈夫だから、大丈夫だから、そう何度も繰り返し勇気づけた。
梶川大悟は、拳を握りしめながら稔彦の縫合を見つめている。
縫い針が何度も稔彦の目尻を行き交い、その度に稔彦の右目尻が引っ張られて吊り上がる。痛いはずだ。よく我慢しているなと驚いている。
縫合が終わり、ドクターがその表面を厚いガーゼで保護しようとした時、稔彦がその手を拒絶した。
ドクターが稔彦と話しながら何度か首を振り、稔彦本人に何かを説得している様子だ。
結局、縫合した表面に薄い絆創膏が貼られただけで、稔彦が正座を解き、ゆっくり立ち上がった。
番場主審が赤西と稔彦を中央へ呼び戻し、稔彦にもう一度傷の状態を確認してから、試合を続行した。
「大悟よ、始まっちまったぞ。稔彦のやつ、大丈夫かな」
稔彦への倉田の不安に対し、鬼頭三郎が代わりに応えた。
「稔彦が薄めの絆創膏を選んだのは、試合中に相手の動きが見にくくなるのを怖れたからだ。あいつ、こんな境遇になっても冷静だよ。逆に赤西の方が焦りだした」
「確かに。蹴りや突きの攻撃が単調になっていますね」
「次に何かやらかしたら、反則を取られるからな。稔彦がでるぞ」
いきなり左回転した赤西の膝裏へ関節蹴りを入れ、バランスを崩した赤西の顔面へ、同じ左の上段廻し蹴りを蹴り込む。
赤西の回転打ちは、スピードはあるが、下半身が無防備になる。
回転打ちのタイミングに慣れてしまえば、それを
この試合、赤西猛は、稔彦相手に、回転打ちをやり過ぎた。
その赤西に残された最後の手が、稔彦の金的を狙った膝落としだ。
残り時間、三〇秒。
神谷藍は、稔彦の傷がいつ炸裂して出血するか心配でしようがない。
そのストレスで、思わず下腹を両手で抱える。
大城みゆきが、そんな神谷藍の様子をチラ見して首を傾げた。心配のし過ぎでお腹が痛いのかな、そう思った。
「稔彦、がんばれ」
その時、倉田が大声を張りあげ、稔彦を応援する。
その声に振られたように大城みゆきの意識が、神谷藍から試合場へ移った。
赤西は、次の攻撃で禁じ手を決行することにした。
前へ踏み出し、稔彦の道着の襟首に手をかけた。
稔彦は、その手を払いのけ、前屈みになった赤西の下顎へ、左の上段前蹴りを蹴りあげる。
顔をのけ反って躱した赤西が、稔彦の左脚を掴み、右脚に左脚を絡めて倒れ込んだ。
倒れながら、同時に右膝を稔彦の股間に押し当てる。
客席のほとんどは、二人が縺れ合って倒れ込んだとしか見えない。
番場主審が二人に声をかけ、起ち上がらせようとした。
だが、稔彦の上に覆い被さる赤西が何の反応もみせなかった。
番場主審が、慌てて赤西の容態を確かめたら、赤西は、口から泡を吹き出しながら、白眼をむいて悶絶していた。
すぐにタンカーが運ばれ、赤西は裏口に待機する救急車で運ばれていった。
再び起こったアクシデントに会場がざわめき、番場主審に何が起こったのか説明を求めた。
番場主審は三国審判長に呼び戻され、観客に対する対応ついて指示を受けた。
間もなく番場主審が客席に向かい、事の成り行きについて話し始めた。
「ただ今の、赤西選手と草薙選手の予備戦に起こりましたアクシデントについてご説明します。草薙選手の上段前蹴りを赤西選手が掴んだあと、両者はバランス崩した状態で倒れ落ちました。その倒れる途中で互いが衝撃を軽減しようと膝を立てたわけですが、運悪く、草薙選手の膝が赤西選手の金的を直撃してしまいました。これは緊迫する本大会で避けようがないアクシデントであります。両者に意図的な反則技の使用などはありません。また、赤西選手のけがの状態は、ここでは把握できません。よって、赤西選手の棄権により、草薙選手の決勝戦進出を認めます」
客席から盛大な拍手が、会場を振動した。
その熱い重みに感嘆した神谷藍が、泪顔でマットの中央を見つめている。
そんな神谷藍の肩に顔を寄せ、大城みゆきがもらい泣きした。
二人の女子の感傷的な動向に、何の言葉をかけたらいいのか、戸惑う梶川大悟と倉田信行、そして鬼頭三郎。
梶川大悟が、何気なく試合場に視線をやったら、稔彦が静かにマットから降りて行くところだった。
笑顔で迎える仙道明人、そして三浦翔太たち。
その光景を見て梶川大悟は後悔した。
なんで俺はこんな大事な時に、あそこに居てやらないのだろうか……
両手を握りしめ、初日から、稔彦と一緒に闘っている自分を見つめていた。
二六
決勝戦の前に、少年部の子供たちによる、突きや蹴り技、型、試し割りなどの演武が披露された。
観客たちは、子供たちの、予想以上に白熱した気合いに圧倒された。
その身体の柔らかさに驚き、一糸乱れぬハイレベルな技の完成度に感心させられ、惜しみない拍手喝采を送った。
演武の後半には、三人の暴漢に襲われた状況を想定した女子が、空手の技で撃退する護身術が披露された。
最後に、番場雷太六段による、刃物を持つ三人組を相手に捌いてみせる、模範演武が行われ、大きなため息と歓声が湧き起こった。
演武終了後、係員たちが試合場を整理している間に、これから始まる決勝戦の館内放送が案内された。
館内に、決勝戦を迎える異様な緊張感と興奮が入り乱れ、あちこちから何度も咳払いする声がもれた。
大城みゆきは、体調を崩した神谷藍の背中を抱きながら、顔色を覗き込んで話しかけた。
「藍さん、あと一試合だから、頑張ろうね。稔彦くん、もうすぐ登場するからね。ねえ、鬼頭さん、藍さんがこんな状態だからさ、帰りは電車じゃなく、車で帰りたいんだ。どこかでレンタカー借りてくれないかなあ」
「了解です。ネットで探してみます。自分が運転して三浦海岸まで送ります。梶川、倉田も手伝え」
「鬼頭さん、ありがとうね。あ、藍さん、稔彦くんが現れたよ」
館内放送で、決勝戦の選手紹介が始まった。
「白、ゼッケン四九番、御手洗大介四段。御手洗選手は、昨年度第四七回大会の優勝者であります。そして紅、ゼッケン三三番、草薙稔彦選手。草薙選手は、昨年度の準優勝者であります。これより、第四八回全日本空手道選手権大会、決勝戦を行います。主審は、先ほど、見事な短刀取りの演武を披露していただきました、番場雷太六段であります。それでは、番場主審、よろしくお願いします」
番場主審が二人を呼び寄せ、試合ルールについて簡単な説明を始めた。
北側席のおっさんたちも興奮して、アルコールを飲むピッチが早くなっている。
南側席の倉田は、試合開始が待ちきれず、いきなり立ち上がると稔彦の名前を叫んだ。
「稔彦、負けるな。最後だぞ!」
梶川大悟は鬼頭三郎に、試合場に続く花道の奥に立ち、マットの中央を見つめる伊達幸司を指差しながら話しかけた。
「伊達選手、なんか哀しそうな顔してますね」
「そりゃあそうだ。優勝するつもりでやって来たんだ。それがあんな結果に終わるなんて、夢にも思っていなかったろうよ」
「草薙とやりたかったでしょうね」
「昨年のリベンジがあるからな。伊達は、稔彦とは、決勝で試合いたかったはずだ」
「そうでしょうね。その決勝戦、昨年と同じ組み合せになりました。草薙の目尻のケガ、今はもう大丈夫そうです」
「あれだけ丹念に縫合したんだ、残り一試合なら保ってくれるさ。さあて、御手洗はどうでるかな。昨年の稔彦だと思っているようなら、稔彦の勝ちだな。これまでの稔彦の試合を、御手洗がどう分析しているかで、この決勝戦の勝敗が決まる」
番場主審が、稔彦と御手洗を紅白の試合開始線に分けた。
稔彦が紅、御手洗は白。
大城みゆきの腕から顔をあげた神谷藍が、呟いた。
「始まるの、稔彦くん……」
番場主審の号令。
「これより決勝戦、始めぃ!」
太鼓の音。
御手洗大介、身長185cm、体重100kg。
草薙稔彦、身長183cm、体重83kg。
この時点で体重差が17kgあり、三回目の延長戦で勝敗がつかない場合は、大会の10kg体重差規定により、稔彦の判定勝ちとなる。
つまり御手洗大介には、三回目の延長戦での引き分けはあり得ない。
御手洗が両手を前へ差し出し、稔彦との間合いを計りながら、少しずつ詰めてゆく。
腰や膝を落としながらのずっしりした構えではなく、左手を高く前へ上げ、直立したまま前進する御手洗独特の構えだ。
上半身がら空きだから、思わず跳び込んで、水月を突きたくなるが、御手洗の懐は思った以上に深い。
攻撃する間合いが、稔彦と比べ御手洗の方が広い分、有利でもある。
安易に跳び込むと、下から突き上げる御手洗砲と膝蹴りを喰らう。
その御手洗が動いた。
御手洗は、自分の制空権に入った瞬間、右の拳を頭上から叩き落とした。
この降ろし突きは、身長差があるほど角度が鋭利になり、受けるのが難しくなる。
そして降ろし突きで相手の体勢を崩し、腰を回しながら右拳を下から突き上げる御手洗砲。
だが稔彦は、頭上から叩きつけてくる御手洗の右拳へ、右の肘をぶち当てた。
準々決勝戦で神脇正則の示現流手刀打ちを粉砕した、右の肘だ。
御手洗の降ろし突きは、昨年の大会で経験していたから、稔彦は最初から狙っていた。
コンクリートの電柱に叩きつけ鍛えた稔彦の肘。
御手洗の右拳は、ブロック二個重ねて粉砕する。
その拳と肘が激突した。
激突した瞬間、電気がショートしたみたいに火花が弾け跳んだ。
その落雷にも似た衝撃に、思わず観客たちが眼を閉じた。
何か焦げついた臭いを嗅いだような、妙な錯覚を覚えた者もいる。
御手洗の攻撃が続く。
左右の正拳突きで押し込み、優勢勝ちを狙いながら、右のローキックを大きく振り回し、稔彦の左膝を刈り込む。
稔彦の脚を攻め、得意の跳び蹴りを封じ込める作戦だ。
御手洗の強烈な右ローキックを稔彦は、左脛を持ち上げて弾き返す。
コンクリートの電信柱をローキックで叩いて鍛えた脛。
御手洗の右脛と稔彦の左脛がぶつかり合う。
お互いに鍛えた脛同士、痛みは感じないが、御手洗のパワーで稔彦の身体がぐらついた。
御手洗の、その攻撃が三度続いた。
三度目のローキックの瞬間、稔彦は一歩踏み込み、左前蹴りを御手洗の腹へ押し込んだ。
バランスを崩した御手洗が腰砕けになり、尻もちをついた。
慌てて立ち上がる御手洗。
同時に番場主審が、今の稔彦の前蹴りについて、副審判たちに判定を問う。
副審判四人全員が、膝の前で紅白の旗をクロスさせ、無効を意思表示した。
「今のはどう見たって、技ありじゃん」
セコンドから応援していた翔太が抗議した。
その隣で仙道明人が苦笑いを浮かべている。
「三浦君。この決勝戦、あの程度で技ありは取れないよ。あれはスリップしただけだ。御手洗選手にダメージはない。それにこの試合で、草薙君が勝つためには、たぶん、一本勝ち以外にはないだろう」
同時に鬼頭三郎も、梶川大悟と倉田に同じような話をしていた。
「この試合、あっちは何が何でも、御手洗に勝たせるつもりだろうよ。でないと、主催者側の立場がなくなるからな。稔彦に求められるのは、誰が見てもはっきりと判別できる、勝ち姿だ」
「おす。ですが、優勝候補筆頭の御手洗選手を相手に、それはかなりの難題です。恐らく、技ありを取ることで精一杯でしょう、もしくは体重差を利用した判定勝ちでしょうか」
「梶川、稔彦がそんな勝ち方を望むと思うか」
「おす。自分もそうは思いません。ですが、先ほどから御手洗選手が草薙の左脚を執拗に攻めているのも、草薙の蹴りを封じる作戦です。あの体重差でのしかかられたら、防ぎようがありません。何とか延長三回目まで持ちこたえることができれば、勝てる可能性はあります」
「梶川、稔彦の動きをよく見てみろ。前の試合もそうだが、あいつ、組手のやり方が変わったと思わないか。受けるとか、捌くとか、躱すとか、そうしたこれまで当たり前の、防御のやり方をいっさい無視してる」
「おす。自分も大会初日からずっと感じておりました。草薙は、身体の四肢を鍛えることで、受け技を同時に攻撃に変えています」
「そうだ。攻撃は最大の防御と言うが、あいつの場合はその逆だ。鋼鉄を殴ったら、殴った方が手を痛める。あいつが、サンドバッグからコンクリートの鉄柱に替えた理由はそれだ。稔彦は、空手家が、サンドバッグをいくら叩いても意味がないと気づいたんだろうよ。その稔彦が、判定勝ちや優勢勝ちなんか望まないよ。ぜったいにな」
「おす。御手洗選手は、そのことをまだ理解していないようですね」
稔彦に、先手を取れない御手洗が焦り始め、頭上からの降ろし突きをむちゃくちゃ連発した。その左右の拳を、稔彦の肘が交互に弾き返す。
御手洗の左右の拳が赤く腫れてきた。特に右拳の痛みが激しい。これでは得意の御手洗砲が打てない。
稔彦も、両肘に痛みを感じ始めている。
ブロック二つを重ねて粉砕する、御手洗の拳は甘くない。体重をのせて打つから、拳が重い。
そして腰を回転させながら打ち突く御手洗砲。稔彦は、御手洗が御手洗砲を打つ前に、その右拳を潰すつもりで狙っていた。
御手洗の右ローキック。
同時に前へ乗り出し、優勢勝ちを得るため、身体ごと押し込んで稔彦を圧倒しようとする。
稔彦が身体を入れ替え、右へ回り込んだ。回り込んで御手洗の右膝へ関節蹴り。
御手洗がバランスを崩す。
稔彦が跳んだ。
左脚で踏ん張り、崩れた体勢を戻した御手洗が、稔彦を探して振り向いた空中に、その稔彦が静止していた。
稔彦得意の足裏五段蹴り、咄嗟にそう思った御手洗が、慌てて両腕をクロスさせ、顔面をガード。
稔彦は足裏蹴りをせず、御手洗がブロックしようとする両腕を踏み台に、さらに高い空間へ跳んだ。
身長185cmの御手洗の頭上から、稔彦は、自分の体重と落下する引力を利用して、御手洗の脳天へ右肘を落とした。
客席から悲鳴があがり、誰もが御手洗の頭部を案じた。
御手洗は、稔彦の肘を受ける瞬間、反射的に首を竦めて威力を軽減していた。だが、直後、衝撃が強くて膝をついた。
番場主審が試合を止め、今の稔彦の肘打ちが有効かを副審判たちに問うた。
セコンドでは、翔太たちが手を叩いて喜んでいる。
その翔太たちを仙道明人が制した。
「これは、まずいな」
「仙道先生、まずいって何がすか」
副審判全員が無効の判定を示したが、この時、審判長席から審判団へ召集がかかった。
正面席に座す三国海道審判長のもとへ、番場主審をはじめ、四人の副審判たちが集結した。
ざわめく会場の南側席で、神谷藍は、ただ審判長席の動きを見守っている。大城みゆきが、神谷藍の代わりに鬼頭三郎に訊ねた。
「鬼頭さん。あれって、何があったの」
「たぶん、これはあくまでも自分の臆測ですが、稔彦がやった空中からの脳天への肘打ちが、危険技かどうかを審議しているのではないかと思います」
「つまりは反則かってこと」
「反則かどうかを話し合っているのでしょうが、大会規定には、空中からの肘打ちについての規定がないんですよ。そんなことは誰もやりませんし、前例もないからです」
間もなく番場主審が客席へ、故意に脳天に肘打ちした稔彦に対し、注意二が与えられたことを説明した。つまり稔彦は、技ありと同等の失点を取られたことになる。
御手洗が薄い笑みを浮かべて稔彦を見ている。
この時、会場が騒いだ。
審判団の判定に対してブーイングが湧き起こった。
そんな客席の抗議など意に介さず、審判団の威厳を発揮した番場主審が、試合を続行させた。
それを見た倉田が嘆いた。
「やばい、やばいぞ。あの御手洗に技ありを与えてしまった。これでもう後がないぞ。残り三〇秒だ」
それでも稔彦は飄然としている。
御手洗は、無理に攻めなくても判定勝ちを得ることができるから、あえて危険を冒してまで攻める必要はない。
それでも稔彦は飄然と立っている。
御手洗と稔彦の睨み合いが続き、積極的な攻撃をしない二人に、番場主審が注意一を与えた。
稔彦はこれで注意三になり、もう一度注意一を受けたら、合わせて一本負けになる。
倉田が居ても立ってもいられず、稔彦へ向かって叫んだ。
「稔彦、行け、攻めろ。もう時間がないぞ!」
その倉田の声に反発するように、御手洗が二段蹴りを放った。
左の中足が、後ろへ下がる稔彦の顎先を蹴り上げる。
下がる途中で踏ん張った稔彦が、御手洗の中足を右の拳で弾いた。
その衝撃と激痛で御手洗が顔を歪め、左足を庇いながら右足で着地する。
御手洗が着地する瞬間、無防備になったその右膝へ、稔彦は正面から関節蹴りを蹴り込んだ。御手洗の膝がガクンと落ちた。
バランスを崩し、両手で右膝を抱えながらマットの上を転げ回る。
客席の誰もが、御手洗の膝の皿が砕けたか、脱臼したかと心配した。
この時、副審判たちから二本の紅旗が上がったが、番場主審は技ありを認めなかった。
膝を痛めた御手洗に、ドクターの治療が始まる。
その間稔彦は、客席に向かって正座し、静かに眼を閉じ考えた。
試合が再開されたとしても、残り一〇秒。
中途半端な技では勝てない。
試合開始と同時に、足刀二段蹴りを仕掛けるしかないと思っている。
相手の隙を窺っている暇はない。失敗したら、それで終わり。
番場主審に支えられながら御手洗が立ち上がって、よろめいた。
誰が見ても、右膝を痛めた御手洗は、立っているのがやっとだ。
再び審判団が三国海道審判長に呼び戻された。
太い首から発せられる重く低い声で、何かを指示している。その顔が怒っているようにも見える。
三国海道審判長が手を叩くと、五人の審判団が試合場へ戻っていった。
同時に、三国海道審判長の隣席に座っていた大門副審判長が、慌てて控え室の方へ走って行く。
大門副審判長が向かった花道の奥には、決勝戦の行方を羨望視していた伊達幸司がいた。
番場主審がマイクを持ち、試合経過について話し始めた。
「ええ、先ほどの、草薙選手が御手洗選手の右膝に行った関節蹴りに対する判定を、ここで訂正させていただきます。最初に副審判から二本の赤旗があがりました通り、草薙選手の技ありと判定します。ただし、ごらんの通り、正面からの膝頭への関節蹴りは、相手選手の膝を破壊してしまう危険性があるため、今後はこれを危険技に指定することにします。御手洗選手と草薙選手は、これで技ありと技ありで、大会規定では対等になりましたが、ドクターストップにより、御手洗選手の試合続行は不可能となりました。このため、審判団審議の結果、この決勝戦、御手洗選手に代役をたてることとします。代役は伊達幸司三段。試合開始は五分後。これが実質の決勝戦になります。草薙選手は、このままこの場でお待ち下さい。おす」
なんだ、これは、そう思ったのはセコンドで応援していた仙道や翔太たちだけではない。
鬼頭三郎も梶川大悟も驚いている。
倉田は口をあんぐりと開けたまま、声も出せないでいる。
会場がざわめき始め、大会執行部は何を考えているのかと野次がとんだ。
「前の予備戦といい、この決勝戦の代役といい、こんなのおかしいじゃねぇか。俺は毎年来ているがよ、こんなの、前代未聞だぞ」
「そうだそうだ。御手洗が使いものにならないのなら、高校生の勝ちでいいんじゃないの」
「俺には、代役の意味がわからん。影武者ってことか」
「ばか、代役は代わりの者だ。影武者は敵を欺く身代わりのことだ。そんなことより、決勝戦で代役だなんて、妙な話もあったもんだな」
「ありゃあ、どう見たって高校生を優勝させたくねぇ作戦だな。大会主催者側の面子の問題ってやつだ」
「面子なんて、それ、愚か者の発想だな」
「だがよ、なんか、次の試合もみてみたい気がするんだよ」
「確かにな。伊達と高校生、どっちが勝つかな」
「確か前回は、高校生が勝った」
観客は、審判団の説明に反発しながら、もう一方では、伊達幸司と稔彦の試合を望んでいる。
御手洗大介と稔彦の試合は、決勝戦にしてはもの足りなかったからだ。
御手洗の猛攻に稔彦が苦戦したのは確かだが、延長戦にもつれ込まず、初戦で終わってしまったことで観客たちが消化不良をおこした。
審判長の三国海道は、そうした観客の欲求をくすぐり、さらに大会主催側の威厳を保守するために得策を講じたのだ。
二七
白、伊達幸司三段。稔彦は今度もまた、紅コーナーだ。
仙台支部長伊達幸司の応援席には、教え子の大学生が三人来ていた。
その内の一人は、伊達が準決勝戦で、けがのために棄権したのを見て帰ろうとした。
正面玄関の前で、伊達幸司の名前がアナウンスされ、慌てて引き返してきた。
梶川大悟は、マットの端で正座している稔彦を心配しながら、手洗いから戻ってきた鬼頭三郎に問いかけた。
「伊達選手を呼び戻したのは、三国審判長の采配だとは思いますが、つまり、伊達選手のダメージは回復した、と言うことですか」
「まあ、そんなところだ。御手洗ほどの豪傑を破壊した、あの稔彦とやらせるんだ、けが人ではまともに太刀打ちできないくらい、三国さんが一番理解しているはずだ。しかし、そうだとしても、何か気になるんだが」
「先輩、どうかしましたか」
「まあ、これは、ほんとかどうかは判らんが、準決勝あたりで、最初からこいつを仕組んでいたのかもしれないなあ」
「え、この代役戦を、ですか」
「そうだ。御手洗の動きが、最初から思ったほどよくなかった。何度か御手洗砲を打つチャンスはあったのに、打たなかった。つまり御手洗は、けがか体調を崩したか、そのどっちかだろう。そのために最後まで稔彦とやり合えない状態だとしたら、大会主催者側は、次に何を考えるかだ」
「草薙が優勝するのは何としてでも阻止したい、だから早めに棄権させ、代わりをたてる、ですか」
「梶川、早めではないよ。御手洗に残った体力を全部使い果たさせ、できるだけ稔彦にダメージを与えてから、伊達に引き継ぐんだ。あの左眼の傷を悪化させてもいいんだよ」
「まさか」
「そうだ梶川、そのまさかだ。俺には、そんな気がする。本流派の威厳を保持するためだ。勝つためになら手段を選ばずとは、まさにこの事だ。段田剛二が見ていたら、きっと頭から噴煙を上げて怒るだろうよ。嫌いだからな、あの男は、こんな過去の栄光にいつまでも拘るような、手の込んだやり方は」
「おす、鬼頭先輩。その段田先輩、今回は来ていないみたいですが」
「来ていたら、すぐに感じたさ。あの男の場合は、目視で確認するのではなく、肌で感じるんだ。倉田も梶川も経験があるはずだ。段田剛二の車が太子堂高の校門に入って来ただけで、遠く離れた柔道場にまで、ピリピリした電流みたいなものが走ってくるのを」
「おす。そうでした。ああ、鬼がまたやって来たって思うと身体が震え、逃げだしたくなったものです」
「それは歴代もみんな同じだ。俺もそうだった。だから誰も段田剛二を超えられなかったし、超えようとも考えなかった。だが、一人だけ、いたんだよ。その鬼が来るのを、楽しみに待っていたやつがな」
「草薙」
「稔彦」
「そうだ。俺にも、梶川にも、歴代の誰にもなし得なかった、あの段田剛二を継ぐ、唯一の男だ」
館内放送が流れ、間もなく決勝戦が始まることがアナウンスされた。
大城みゆきの左手を、両手で握りしめながら、神谷藍が視線をやると、マットの中央で、稔彦が俯き加減に立っている。
稔彦が、足元の少し先を見つめているのが見える。
神谷藍はそんな稔彦の表情に一抹の不安を覚えたが、次の、稔彦の行動をみて払拭できた。
稔彦は、大きく深く息を吸い込み、いきなり腹の底から豪快に息を吐き出した。空手の息吹の呼吸。
稔彦の全身から噴き出す気力で、電気ショックを受けたみたいに、それまでざわついていた客席が膠着した。
稔彦の、息吹の呼吸を眺めていた伊達幸司が、唇を吊り上げ苦笑いした。
その伊達が、稔彦と同じように大きく息を吸い込んで腹にため、身体を左右にねじりながら吐き出す、伊達流息吹の呼吸法を披露した。
静まり返っていた会場に活気が戻り、いいぞ、いいぞと観客がはやし立てる。
番場主審がマットの中央で二人を呼び、試合のルールを説明してから、これが最後の試合だと言い含めた。
それから正面の審判長席を指差し、威厳をもって命じた。
「正面席に礼。主審に礼。互いに礼。構えて、始めぃ!」
決勝戦開始の、太鼓が鳴った。
伊達が試合開始と同時に、その場で少しだけ前屈みに腰を落とした。
右手を金的の前に添え、左手は顔の先へ差し伸ばし、稔彦の襟首を掴むような構えをとった。
柔道をやるつもりか、その構えを見た鬼頭三郎が呟いた。
鬼頭三郎は、高三の時に、柔道部の加藤康宏と試合う機会があり、そのため柔道の技を研究していたことがあった。
伊達幸司の体勢は、まさに相手の道着を取るための構えだ。
稔彦は、両腕を垂らしたまま、伊達の動きを追いかけている。
その睨み合いが、一〇秒間続いた。
番場主審が二人に、早く始めるよう警告した。次もまた同じようであれば、注意一が与えられ、減点になる。
攻撃型の稔彦が先に動くのを見込んでいた伊達は、稔彦が動こうとしないので作戦を変えることにした。
同じ構えのまま、一気に間合いを詰め、跳び込みながら右拳で稔彦の水月を突く。直撃を受ければ、意識を失うほどの強烈な一撃だ。
稔彦は上半身を右に振り、伊達の拳を流した。
その動きを予測していた伊達が、接近した稔彦の襟首を掴んだ。
これまでの大会規則では、基本的には道着を掴むことは禁止されていたが、柔道の加藤康宏が参戦したため、今回から三秒間の掴みは認められている。
伊達は、その三秒間を利用することにした。
空手修行に役立たてようと柔道を始め、三年ほど前から仙台市内の町道場に通っていた。春の昇段審査で、二段を修得している。
伊達は、稔彦の襟首を掴んで引き寄せ、素早く腰に担ぐと、そのまま投げに入りながら前方へ跳んで半回転し、マットに落ちた。
伊達が上、稔彦は下。
一瞬会場が静まり返る。
伊達は、稔彦を、背中に背負ったまま前方回転して、マットに叩きつけたのである。
もちろん伊達の体重がまともに加重され、稔彦の受け身は役に立たない。
この投げ方に似た禁じ手の中に、抱き落とし、という技があるが、伊達の場合は、投げ落としだ。
ただ、始めてみせる技のため、現時点では、大会規則の禁じ手には登録されていない。
初めて見る伊達の投げ技に、いきなり鬼頭三郎が膝を叩いて叫んだ。
「そうか、これだったのか」
「おす。鬼頭先輩、どうかしましたか」
「梶川、伊達は稔彦と試合うまで、今の技を温存していたんだよ。準決勝で赤西とやって、けがで棄権負けになった時に、伊達は悔しかったんだ。伊達にとり、この大会の本当の目的は、稔彦へのリベンジだったんだ。さっき花道の奥で、淋しげに試合場を見ていた理由はこれだ」
「伊達選手が、稔彦に、今の技を使わず終わってしまったと言う後悔ですね」
番場主審が試合を止めた。
最初に伊達が起ち上がった。
まだ会場がざわついている。
伊達は、稔彦を振り向きもせず、勝利を確認したような満面の笑みを浮かべながら、中央の試合開始線に向かって歩いてゆく。
確かな手応えがあった。いかに頑丈な草薙稔彦といえ、そう簡単には起ち上がれないはずだ。
会場のざわめきが、突然拍手に変わった。
驚いた伊達が振り向いたら、上半身を起こした稔彦が、ゆっくり起ち上がろうとしている。
この拍手は、稔彦が起ち上がるための声援だった。
あれをまともに喰らって立つのか、呆気にとられながら伊達は、心の中でそう叫んだ。
番場主審が稔彦の体調を確認している。
稔彦が笑顔で頷く姿をみた瞬間、伊達の内面で何かが弾けた。
伊達は、稔彦を倒すには、この投げ落としを連発するしかないと思った。
稔彦が中央へ戻るのと同時に、試合が続行された。
稔彦は飄然とした顔で相対しているが、さすがにダメージは軽くなかった。伊達の素早い投げに、対応が遅れてしまった。
打撃や衝撃のショックには耐えられるよう身体は鍛えているが、伊達を乗せたままマットに落ちた時の衝撃は今も残っている。
これがマットではなく、床板やコンクリートであれば、戦闘不能になっていた。もう一度喰らったら、ヤバいな、そう改めて警戒した。
伊達がさっきと同様に、稔彦の道着を掴もうと左手を前へ差し伸ばす。
次の瞬間、いきなり左のローキックを刈り込む。
稔彦が伊達のローキックに合わせ、伊達の腹へ左前蹴り。
バランスを崩した伊達が腰砕けになり、そのまま後退する。
追う稔彦。
伊達の鎖骨へ右正拳を叩きつける。もろに受けた伊達が、マットの上を転げながら逃げる。
番場主審が試合を止め、稔彦の攻撃に対する判定を、四人の副審判たちに問うた。
一人が紅旗を上げたが、残り三人は無効を示し、番場主審も無効の判定を指示した。
倉田が落胆し、ため息をもらす。
番場主審の、試合続行の号令。
伊達が左のローキックから跳び込み、稔彦の肩の道着を掴んだ。
掴んだ瞬間すぐ腰に乗せ、稔彦を背負ったまま前方へ半回転、跳んだ。
稔彦は、この投げのスピードが早過ぎて、伊達の脚に自分の脚を絡め、回転を阻止することが出来ない。
それでも稔彦は、この時、右膝を伊達の腰に押し当てていた。
半回転してマットに落ちた二人に、もの凄い衝撃が直撃した。
伊達は腰、稔彦は背中。
伊達が腰に手を当てながら、マットを転げ回る。
稔彦は一瞬息ができなくなり、何とか堪えて膝立ちになった。
その姿勢から息吹の呼吸。それで少し呼吸が回復した。
番場主審が、伊達の腰のダメージを窺っている。その伊達も、間もなく回復して起ち上がった。
ここで初戦終了の太鼓が鳴った。
会場から大きな拍手と、声援がとび交う。
鬼頭三郎と梶川大悟が両腕を組み、互いの顔ではなく、マットの中央に視線を向けながら話し始めた。
「鬼頭先輩。初戦は互いに譲らずってところでしょうか」
「まあ、そんな感じだ。稔彦にも大した有効打はなかったしな。どっちかと言えば、伊達のあの技の方が目立っていた」
「怖いですね、あの投げ技は」
「ああ、怖いよ。加藤の、低い体勢からの背負い投げも、まともに喰らえば首の骨が折れちまうほど恐ろしいが、伊達のあれは、相手を背負ったまま、投げの勢いで前方回転して落とすんだからな。空手家の伊達が、よくもあんな技を考えだしたものだよ」
「しかも、自分の体重をのせた状態で落ちる。自分は相手の身体がクッションになるからダメージは受けない」
「まさしく、殺し技だよ。稔彦のやつ、よく二度も堪えきったと思うよ。他の選手なら即病院送りだ。さあ延長戦が始まるぞ。伊達は、やるだろうな、三度目のあれを。稔彦がどう反撃するか、楽しみだ」
決勝戦、一回目の延長戦が始まった。
延長戦は二分間。
伊達が前へ出る。
左右のローキックに合わせ、正拳突きの連打。
稔彦が両肘で弾く。ブロックではなく、左右の肘を交互に突きだし、伊達の拳を撃沈する。激痛で伊達が顔を歪めた。
倉田がいきなり立ち上がり、ガッツポーズで叫んだ。
「よっしゃあ、稔彦の反撃だ。行け、行け、稔彦」
「やかましい倉田。見ろ、伊達のやつ、またあの技の構えだ」
「おす、鬼頭先輩。拳を痛めたんで、投げしかでなきないってことですか」
「倉田、伊達にはまだ脚と膝がある。それに伊達ほどの実力者なら、拳の痛みなど気にしていないよ。たとえ拳を骨折したとしても、叩きつけてくるはずだ。梶川、お前も同類だろう」
「おす。ただ、今度の投げは、前のやり方とは違うような気がします」
「稔彦の膝を警戒しているはずだ。さっきやられたからな。どうするんだか、俺にも予測がつかない。ただ、稔彦よ、同じ膝はもう使えないぞ。お、そんな事を心配してる間に、稔彦が仕掛けた」
稔彦の、前蹴りを連発したフェイントから、跳び込んで左右の秒間五連突き。伊達が直線的に後退する。
それを追いかけながら、稔彦が跳んだ。伊達の上空から足裏蹴りを押し込む。いきなり伊達がしゃがみ込んだ。
「ちぃ」
空中で稔彦が珍しく舌打ちした。
標的を見失った稔彦が、空中でバランスを崩し、着地が乱れた。
伊達は、そのチャンスを見逃さない。低い姿勢でマットに降りた稔彦の側頭部へ、強烈な右のローキックを刈り込む。
まともに喰らえば頭部損傷。
「ひぃ」
客席から女子の悲鳴。
その足の甲へ稔彦が左肘をぶち当てる。
一瞬、激痛で伊達の動きが止まった。
間髪をいれず、稔彦の、低い姿勢からの後ろ廻し蹴りが、伊達の腹に炸裂。
だが伊達は倒れない。
倒れたら技ありを取られてしまう。両脚を踏んばり、必死に堪えた。
番場主審も動かない。
試合続投の構え。
伊達が大きく踏み出す。
踏み込んで左のローキック。
稔彦が左脛で弾く。
相手のローキックを膝を立て受け流すのではなく、コンクリート製の電信柱を蹴って鍛えた脛で打破する。
会場に、脛と脛がぶつかり合う乾いた音が響いた。
伊達は何としても、稔彦の襟元を掴みたい。
掴んだらすぐに投げ落としに入る。
稔彦の膝への対応は考えている。膝がくると最初から判っているから、対応するのは容易い。
稔彦は得意の足刀二段蹴りのチャンスを探している。
だが、伊達は、空中からの足裏蹴りや秒間五連突き、左ローキックから同じ左上段回し蹴りへの切り替えし技など、稔彦の得意技を研究し尽くしていた。
稔彦は、なかなか足刀二段蹴りに入るチャンスが見つからないでいる。
伊達が再び踏み込むのと同時に、一回目延長戦終了の、太鼓が鳴った。
ニ八
白熱する決勝戦。
これから二回目の延長戦が始まろうとしている。
番場主審と副審判たちが、三国海道審判長に再び呼び戻され、何らかの指示を受けている。
この間、伊達と稔彦は、互いに背を向け、客席に向かって正座している。
「それにしても永い一日だなあ」
北側席で、おっさんたちの一人が呟いた。
「あの審判長のおかげで時間が喰われちまうんだ。今度はいったい何の集まりだよ」
南側席では、鬼頭三郎が梶川大悟と倉田に、二回目延長戦の行方について、予想を語りだした。
倉田が一通り話を聞いた後で、鬼頭三郎に、
「鬼頭先輩、つまりは伊達の投げ落としが先か、稔彦の足刀二段蹴りが先かってことですか。でもあの様子だと、伊達のやつは、稔彦の足刀二段蹴りも、かなり研究しているような気がしますが」
「だろうな。だが、それを承知の稔彦が、当たり前の二段蹴りをやると思うか。あいつは常に進化している生きものだ。何かの工夫は考えているはずだ」
マイクを握った番場主審が、マットの中央に戻った。
これから始まる延長戦に関する何らかの説明があるのではと、客席がざわめいた。
「ええ、延長戦につきましてご説明します。本来、三回の延長戦で勝敗がつかない場合は、その時点で計測した体重が、10kg軽い方の優勢勝ちとしております。今回、大会参加選手登録におきまして、伊達選手体重85kg、草薙選手体重83kg、つまり、二人の体重には10kgの差がありません。三日間に及ぶ度重なる試合の連続で、二人の身体を保護する意味合いから、二回目延長戦以降は、どちらかが、技あり以上のポイントを取った時点で勝ちといたします。これは審判長、副審判長、及び主審副審を含め、七名の審判団で話し合いました結論でありますので、どうぞご理解願います。それではこれより、決勝戦、二回目の延長戦を行います。おす」
北側席から、文句がでた。
「ばか言ってんじゃねぇよ。伊達はシードで途中からでてきたが、高校生は最初から試合にでていたぞ。体力的に言うなら、伊達の方が有利じゃねぇか」
「そればかりじゃねぇぞ。高校生は昨年準優勝なのに、シードから外しやがってよ」
「おい、酔っぱらった勢いで喚くなよ。静かにしろって。それから口を慎め。酒を飲んでるのがバレたら、追ん出されるぞ」
「ここのごっつい奴らに囲まれたら、抵抗できないよ」
番場主審が、伊達と稔彦を中央へ呼び集めた。試合ルールの変更について説明し、二人の了承を得てから、紅白の試合開始線に分けた。
二人の間に右拳を突き出し、号令を発す。
「延長戦、始めぃ!」
試合規定の変更で、技あり以上を取られたら負け。
そうした試合規定に変更があった場合、通常であれば、相手の出方を窺い慎重になるものだが、伊達も稔彦も躊躇うことなく攻撃を仕掛ける。
伊達のローキックから正拳突きのコンビネーション。
稔彦が右へ回り込み、伊達の膝裏へ左の関節蹴り。
膝皿への関節蹴りは、御手洗大介との試合後、危険技に認定されたから使えなくなった。
ぐらつく伊達の顎へ同じ左足による上段廻し蹴り。
咄嗟に顔をのけ反り、伊達が躱す。
ほとんど瞬間的反射神経。
稔彦が跳んだ。
空中から伊達の顔面へ左右の足裏を押し込む。眼前で両腕をクロスさせ伊達がブロック。
今度は伊達が、落下する稔彦の脇腹へ右膝を蹴り上げる。
稔彦が空中でその膝頭へ肘を落とした。激痛で伊達の動きが止まった。
着地と同時に稔彦は、その狭い間合いから、もう一度跳んだ。
右の跳び前蹴りで伊達の腹を蹴り、開いた間合いから、駆け上がるように左の足刀を、真下から、伊達の喉元へ蹴り上げる。
変型足刀二段蹴り。
だが、体勢が不充分で、足刀の威力が半減した。
伊達は両肘を合わせ立て、稔彦の、下からの足刀をブロック。
足刀を弾かれた稔彦が空中でバランスを崩し、背中から落ちた。
その背中を、伊達が、痛めた右膝で蹴り上げる。
こちらも威力が落ちている。
ここで番場主審が試合を止めた。
二人の状態を確かめながら、延長戦を再開した。
紅コーナーのセコンドで仙道明人は、番場主審が気にしているのは、伊達幸司の膝の故障だけだと思った。
この大会、何としてでも伊達に優勝させたいからだ。でないと、大会主催者である本流派の、牙城が崩れるから。
それが判っていても、仙道明人は、今、この場で、稔彦に的確なアドバイスをしてやれない自分が忌々しい。
番場主審の試合続行の号令と同時に、伊達が頭から突入した。
一か八かの突っ込みだ。
稔彦の顎先へ頭突きをかまし、体勢を崩した稔彦の襟首を掴んだ。
素早く稔彦を腰にのせ、投げながら、その勢いのまま前方へ回転する。
回転したと思った瞬間、伊達は、自分の背中が、急に軽くなったように感じた。
稔彦は、投げられる瞬間、自らマットを蹴り、伊達の背中越しに前へ跳び、背中の上で前方回転した。
伊達は、肩透かしを喰らった状態で前へつんのめった。
ここで番場主審が試合を止めたのと同時に、二回目延長戦終了の太鼓が鳴った。
番場主審がすぐに二人を中央へ呼び、三回目の延長戦を開始した。
鬼頭三郎は、梶川大悟に、
「伊達の投げ落としは、もはや稔彦には通用しなくなった。やはり稔彦は凄いやつだ。伊達が前方回転する前に、自分が先に跳べば、相手の背中を跳び越してゆくことになる。もっとも、こんな極限状態で、その瞬間に、あんなことができる稔彦は、とんでもない身体能力の持ち主だってことだ。そしてもう一つある。伊達が疲れて、指の掴みが甘くなったこともある」
「おす。鬼頭先輩。この延長戦、いつまで続くんでしょうか」
「倉田、そう長くはないさ。伊達は追い込まれた。その焦りから稔彦を攻め続ける。それしか残された道がないからな。そこに一瞬の隙が生ずる。それを稔彦は見逃さないはずだ」
三回目の延長戦。
鬼頭三郎の予測通り、伊達は果敢に攻めた。
この試合、いくら押し込んでも優勢勝ちはない。技あり以上を取らなければ勝敗はつかない。
伊達の厳しい突き、蹴りの連打を稔彦は、鍛えた四肢で弾き返した。
伊達がさらに負傷し、ぼろぼろになり、さらに疲れてゆく。
審判団が、伊達を勝たせるために延長戦のルールを変更したことが、逆に伊達を追い詰めることになった。
三回目の延長戦でも勝敗はつかず、四回目の延長戦が始まった。
延長戦の中盤、疲れた伊達が思わず稔彦に抱きついた。ボクシングの試合でよく見かけるクリンチ。
次の瞬間、伊達の胴へ両腕を回した稔彦が、伊達の身体を抱き上げ、身体を捻ってそのまま投げ落とした。
マットに落ちる寸前、伊達は柔道の受け身をとったが、衝撃が大き過ぎて意識が朦朧とした。
起き上がった伊達が、中腰でふらついた。
「今の技ありだ」
翔太が叫んだ。
その声を聞いた番場主審は、それでも試合を止めようとしない。
代わりに伊達の名を叫んだ。これ以上やれるのかと。
この時、番場主審は、試合を止めるべきだった。
次の瞬間、稔彦が跳んだ。
左足で半歩踏み込み、跳び上がる。充分な高さだ。
右前蹴りで伊達の腹を蹴り、空中で腰を捻り、伊達の顎先へ左足刀を蹴り込む。
稔彦、会心の足刀二段蹴り。
伊達が反射的に顔をのけ反る。
その伊達の顎先を、追い詰めるように、稔彦の左足刀が伸びてゆく。
稔彦の足刀が、勢い余って伊達の顎先から喉元を貫いた。
一本の丸太が、弾き飛ばされるように、伊達がマットに背中から落ちてゆく。
この瞬間、会場が静まり、番場主審は言葉を失った。
同時に、三国海道審判長が、テーブルを怒りの平手で叩いた。
その衝撃で審判長席のテーブルが壊れ、ペットボトルや書類が床に散乱した。
隣にいた大門副審判長が、慌てて拾い集めようと腰を屈める。
三国海道審判長のテーブルを叩く音で我に返った番場主審が、稔彦の一本勝ちを宣言し、ドクターとタンカーを呼んだ。
それまで呆然としていた客席が目覚め、一斉に賞賛の拍手喝采が湧き起こる。
梶川大悟と倉田が立ち上がり、鬼頭三郎の両手を握りしめた。
倉田が拳を突き上げ、叫んだ。
「勝ったあ、優勝だあ。稔彦、前代未聞の優勝だあ」
興奮絶頂の倉田の隣で、大城みゆきと、その大城みゆきに背中を抱かれた神谷藍が、一緒に泪を流している。神谷藍は、思わず下腹を、掌で撫でた。
鬼頭三郎が再び試合場に視線を戻した。
ドクターの治療を終えた伊達幸司が、タンカーで運ばれてゆくのが見える。
意識があるのかは判らない。ただぐったりしている様子だ。
その伊達を、番場主審と四人の副審判たちが、苦い表情で見送っている。
しばらくして、試合場に表彰式の準備が始まった。
六位入賞までの選手たちが、試合場へ集まって来る。
だが、その場に居るはずの稔彦の姿が、見えなかった。
伊達幸司がタンカーで運ばれた後で、それまで拍手賞賛していた客席が騒ぎ始めた。
審判長席と大会執行部たちが、何やら慌てた様子で会場を走り回っている。
それに気づいた、客席の誰かが叫んだ。
「おい、これから表彰式だってのに、草薙選手がいないぞ」
間もなく表彰式が始まろうとしている。
マットの中央に、金色に輝く、大小六つのトロフィーと表彰状が並んだ。
執行部長荒木田のアテンドで、大会審判長三国海道が、審判長席からマットに上がった。
その刻限になっても、今大会主役の優勝者、草薙稔彦の姿はどこにもいなかった。
二九
稔彦は、疲れ傷ついたその身体で、単車に跨がり、高速道路を横須賀へ急いだ。
大会前日に届いた、横須賀の埠頭に並ぶ倉庫の奥で待つ、ロビンJr.との約定を果たすためだ。
アクセルを全開にしながら、首都高速3号渋谷線を東名高速へ向かい走る。
東名高速から横浜町田ICを降りて国道246号に乗り、次いで国道16号から横須賀まで、渋滞がなければ一時間二〇分足らず。
今日の試合が、度重なるドクターチェックと審判団の審議で予想以上に長引き、約束の時間に間に合うか気になっていた。
その頃大会会場では、稔彦の代わりに三浦翔太が、優勝杯を受けようと壇上に上がった。
仙道明人が大会執行部に懇願し、稔彦のけがの治療を理由に、翔太を代役にたてたのだ。
始めて立つ壇上の緊張感で、翔太の顔が引きつっている。
客席から、そんな翔太を茶化すような野次も飛び始めた。
だがその裏側では、執行部の命を受けた係員たちが、稔彦の所在を探して走り回っている。
同じ刻限。
国道134号線を二〇台ほどの単車が爆音をまき散らしながら、横須賀埠頭を目指し北上してゆく。
黒田善次郎率いる、油壷「NEO紫煙」の連隊だ。
黒田は、稔彦と「横須賀TAITAN族」の確執を知り、今夜、横須賀の埠頭で抗争が起こる情報を得ていた。
昨年、前「紫煙」を、たった一人で壊滅した稔彦の実力は熟知している。いかに「横須賀TAITAN族」とは言え、その稔彦とやり合って無事に済むとは思っていない。
黒田は、その横から乱入し、「横須賀TAITAN族」を潰そうと企んだ。
薄暗い横須賀の埠頭で、今、二つの勢力が集結し、稔彦を挟んで相見えようとしていた。
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