第2話


一七



一〇月にはまだ早い、冬の嵐が吹き荒れた金曜日の午前九時、第四八回全日本空手道選手権大会が、千駄ヶ谷の国立体育館で開催された。


大会が始まる前から、入場を待ち望む観客たちが、体育館前で五列に並列している。

北風が強くて寒くて、みんな背中を丸めて風を凌ぎながら、身体を温めるため足踏みしている。


その三列目の先頭に、梶川大悟と倉田信行が、両腕を組みながら寒さを堪えていた。


倉田の左手には、優待席の入場券が五枚入った封筒が握られている。残り三枚は、神谷藍と大城みゆき、そして鬼頭三郎の分だ。 

優待席の入場券は、町田支部師範代の谷嶋聡太が入手し、仙道明人から稔彦へ渡ったものだ。


待つこと二〇分。

JRの改札口方面から、神谷藍と大城みゆきが、息をきらせ駆け込んできた。

梶川大悟が二人に倉田を紹介し、神谷藍が大城みゆきを梶川大悟と倉田に紹介した。

「遅れてごめん。みんなのお弁当を作っていたら遅くなっちゃった」

「え、神谷さんの手作りですか、俺の分もありますか」

「倉田、神谷さんは草薙の店のシェフなんだ」

「え、稔彦んとこの」

「そうだよ。おまけに住み込みなんだってさ」

「え、住み込み、ですか。美人の女子大生が手伝ってるって聞いたけど、まさかその人と一緒の屋根の下だなんて。くそ、考えたらあいつが死ぬほど羨ましくなってきたよ」

「倉田さん、アタシも住み込んでいるから、ご心配なく」

「え、大城さんもですかあ。大悟、想像しただけで目眩がするよ。神谷さんも大城さんも、風呂とか着替えとか、洗濯物とか、いったいどうしているんですか」

「ばか、こんな所でそんな話をしている場合か。ほら、体育館が開いたぞ。これから入場開始だ」

「梶川くん。鬼頭さんはまだ来ないの」

「神谷さん、さっき鬼頭先輩からメールがありまして、少し遅れるそうです。でも席はちゃんと確保できてますから、心配いりませんよ」

「大悟、俺は、受付で試合の組合せ表をもらって来るから、先に入っていてくれ。しかし、凄い人だな。これでは初日から満員御礼だ」

「梶川くん、ボクも、ちょっとだけ用事を思いだしたから、みゆきちゃんと先に行ってて。これ、みんなのお弁当、お願いね」

「おす。確かに」


神谷藍は、昨年の大会に来ていたから、体育館内部の構造は、把握していた。

階下に降りた奥に選手たちの控え室があった。稔彦に作ったお弁当を届けようと、会いに行くことした。


大会初日の控え室は、大勢の選手と関係者で混雑していた。

試合前に、身体を温めようと選手たちが動きだしたから、控え室だけではおさまりきれず、廊下や階段の踊り場まで人があふれた。


控え室には、優勝候補筆頭の御手洗大介や伊達幸司、遠藤数馬の姿はない。この三名は、大会主催者側が用意した別室で、後輩相手に軽い組手稽古を始めている。


神谷藍は、階段の踊り場や廊下を、選手たちの邪魔にならないよう気づかいながら進んだ。それから控え室も覗いたが、稔彦はどこにもいなかった。


その時館内放送で、間もなく、主催者側代表三国海道審判長の挨拶が行われること、その後で初日第一回戦が始まるアナウンスが流れた。

神谷藍は、お弁当と一緒に必勝祈願の鉢巻きを手渡そうと持参したが、稔彦が見つからず、がっかりした表情で客席へ戻っていった。


今大会で第四八回目を迎えることができたことに対する、御礼の言葉を挨拶とした三国海道の開催の辞が終了すると、力強い太鼓の連打音が会場に鳴り響いた。


第一回戦一試合目の選手が、試合場の中央で対峙している。試合場の下では、次の選手たちが紅白のコーナーに分かれて並び、自分たちの順番を待っている。

初日だけで一二八試合という、どんでもない試合数を消化しなければならないから、執行部は次々に選手たちを壇上へ送りださなければならない。


主審が、一試合目の開始の合図を待つ二人に、試合ルールについて説明を始めた。

間もなく、試合開始の号令とともに、太鼓が打ち鳴らされ、一試合目が始まった。


大会を主催する本流派の初段と他流派二段の闘いは、試合開始二分後、本流派が、肩からぶつかるように攻め込み、下から脇腹を突き上げる下突きの連打で一本勝ちした。

すぐに係の者が二人試合場へ駆け上がり、倒れて苦しむ相手選手を抱えて下へ降ろした。


入れ替わりに次の選手たちが壇上へあがり、試合開始の太鼓を待っている。


選手たちにとって試合中の昼休みなどなく、ぶっ通しで行われた。

観客たちも急かされるように昼食を食べるが、それでも予想外のノックアウトシーンが繰り返され、皆、手に汗を握りながら興奮し続けた。

選手が倒れるたびにタンカーが運ばれ、毎回のように救急車のサイレン音が聞こえてくる。


午後一時過ぎ、館内放送で、草薙稔彦の名前が呼びだされた。

一回戦の五三試合目だ。

この時、稔彦の選手紹介は、ゼッケン番号と名前だけで、昨年準優勝の実績や今大会も出場最年少などの加筆はいっさいなかった。


神谷藍と大城みゆきがいきなり立ちあがり、稔彦の名前を叫んだ。

稔彦の名前を聞いた観客席が盛りあがった。昨年の大会をみて稔彦のファンになったおっさんたち四人も来ている。


稔彦のセコンドには、昨年同様仙道明人と三浦翔太、そして今大会では新たに、熊坂昇太と飯星聖哉の顔も見える。

対戦相手は、関西のジムに通う二〇歳のキックボクサーで、キック歴は三年。それ以前は空手の町道場に通い、二段を修得していた。キックボクシングの関西大会では三位に入賞した経歴がある。


この試合を、横須賀キックジムの宮下トレーナーと、先ほどの一回戦で、相手選手をハイキックでノックアウトした向井京大が、試合場の下で観戦している。


すぐ隣に稔彦のセコンドたちがいる。宮下も向井も、同じ横須賀市内で空手道場を運営している仙道明人とは、顔見知りだ。


試合開始の太鼓が鳴り、仙道たちが壇上を見上げた。

その時、熊坂と飯星は緊張と興奮で手が震えていた。客席から観るのと、こうしてセコンド席から直に相対するのでは、迫力がまったく違っている。


東の客席からは、神谷藍が身を乗りだしながら稔彦を応援した。

神谷藍が客席から落ちそうになるのを、大城みゆきがその腰を抱いて必死に堪えた。

神谷藍は、大城みゆきに、昼弁当を稔彦に手渡せなかったことを嘆いた。大城みゆきが、神谷藍の腰を叩きながら、

「昼直後に試合だなんて、食べたら吐くよ。藍さん、あいつなら大丈夫だって」

そう言って宥めた。


梶川大悟と倉田は、神谷藍の腰を触るわけにもいかず、二人の女子のやりとりにただおろおろするだけだ。

鬼頭三郎はまだ現れない。


来ないだろうと梶川大悟は思っている。鬼頭三郎が、夏休みに稔彦と試合ったことは知っていた。

鬼頭三郎が神谷藍に好意を抱いていることも気づいている。鬼頭三郎は、何か思うことがあり、心の中で、自分と稔彦の間に神谷藍を置いて試合ったのだろうと思っている。

そして敗れた。今の鬼頭三郎では、稔彦には勝てない。


それを鬼頭自身が誰よりも理解しているはずだのに、自分から勝負を挑んだ。

梶川大悟は、鬼頭三郎という男の、そんな無器用さが好きだった。


主審が稔彦と対戦相手の間に入り、右手を差し伸べ、気合いを発した。

「始め!」

同時に太鼓が鳴り、試合が始まった。


翔太は、相手の選手が間合いを詰めてゆくのを見た。

その動きが、稔彦を相手にあまりにも無防備だなと思った瞬間、相手がいきなり右のハイキックを蹴った。


「ああ!」

そう叫んだのは、熊坂昇太だ。

見ると相手選手が、右足を両手で抱えながらマットの上を転がっている。

まだ、試合開始、二秒。


熊坂には、何が起こったのかさっぱり判らない。

東側で観戦中のおっさんたちが、口を開けたまま呆然としている。


主審がその選手の右足に触れ、すぐドクターを呼んだ。間もなくタンカーがやって来て、その選手が運ばれていった。


主審が、マイクを握り、客席に向け、事情説明を始める。

「ええ、ただ今の試合ですが、ドクターの診断により、鈴木選手の右足骨折によるドクターストップとします。この結果、草薙選手の左肘打ち、一本勝ちであります」


主審の解説と同時に、試合場の四隅に待機している副審判たちから、四本の紅旗があがった。会場から大きな拍手と声援の波が押し寄せ、しばらく館内が騒然とした。


試合を観戦していた宮下トレーナーが向井京大に、

「今の見たか、一撃だとよ」

「肘で、鈴木選手の足を破壊しましたね。あれでは、当分使いものになりませんね」

「草薙のやつ、かなり鍛えているみたいだなあ」

「草薙は、実戦用に両手両足の先端を、コンクリの電信柱にぶつけて鍛えているそうです」

「サンドバッグじゃもの足りないってわけか。しかしよ、京大、考えてもみろよ。サンドバッグの代わりに電柱を相手に殴ったり蹴ったりする発想を、普通の人間がするか。それもまだ高校生だぞ。無茶苦茶な話しだが、人間の拳や肘、足、脛、これをコンクリートに打ち続けたら、その部位がどうなるか、俺には想像できんよ。やったことも、見たこともないからな。ただ、警戒しなければならないのは、草薙の場合は、防御も最大の武器になるってことだ。おまえ、簡単な蹴りやパンチは命取りになるぞ」

「自分もそう思います。全身これ凶器ってやつですね」

「やつの場合は、凶器と言うより、狂器だな」

「しかし、あれでまだ、高校生ですからね。あいつ、将来、いったい何になるつもりなんですかね」


初日の試合終了と同時に仙道明人は、稔彦を連れて会場をでると、タクシーで神宮前のビジネスホテルへ向かった。


神谷藍は稔彦から事前に報せを受けていたが、一回戦突破の祝福も言えず、顔も見れず、袖を振るように行ってしまったことに、一抹の淋しさを覚えた。


稔彦は、勝てば明日も帰ってこない。 神谷藍はぼんやりと館内の壁時計を眺めた。

午後三時。これから帰って店を開けなければならない。今夜は、七時から、理事会メンバーの予約が入っている。

長老の酒井と佐藤が引退し、入れ替わりの新人二名を交え、今後の理事会の在り方について語り明かすのだそうだ。



一八



二日目は朝から晴れて風もなく、過ぎ去った夏の猛暑を思い出すほど気温が上昇した。

予報では、日中の最高気温は三〇度まで達し、昨日との温度差が二〇度ほどある。


出場選手の体調を危ぶむサポーターたちが、近くのコンビニで補給用の飲料水を買い求めて走り回る姿が度々見られた。館内に設置されている自販機が、午前中ですでに売りきれていたからだ。

神谷藍は、この日も明け方から稔彦たちの弁当をこしらえ、大城みゆきと一緒に三浦海岸から千駄ヶ谷へ向かって行った。


西側の客席についたら、館内がかなり蒸し暑いことに気づいた。弁当の食材がいたまないか心配になり、近くのコンビニへ保冷剤を買いに走った。

コンビニへ向かいながら神谷藍は、今日も朝から鬼頭三郎の姿はなかったことに首を傾げた。

実の弟みたいに稔彦を可愛がっていたのに、応援に来ないなんてどうしたんだろうかと心配になった。風邪や多少の熱があっても、笑顔でやって来る男だった。


この日は折り悪く、館内の空調が故障していた。蒸し暑く感じたのはそのせいだった。

関係者が朝から館内の窓やドアを開けて風を通そうとしたが、その風が吹いてこなかった。


初日の第一回戦で、二五六名の出場選手が半分の一二八名になり、二日目第五回戦までには一六名に絞られる。三日目の第六回戦は準々決勝戦になり、第八回戦が決勝戦となる。


つまり優勝するためには、三日間で八試合を勝ち抜かなければならない。

それでも二日目は、試合進行は初日ほどの慌ただしくなかった。

次の試合を待つ選手も三名までが並んでいるだけで、残りは係員が呼びにくるまで控え室で待機できた。


優勝候補の三名以外に、大会主催者側が注目している横須賀キックジムの向井京大、学生柔道の加藤康宏、高知支部の伊勢脇勝己、薩摩支部の神脇正則たちがどこまで勝ち進めるか、話題を呼んだ。


初日同様、二日目の試合開始前に、大会ルールについて主審から説明があった。

キックボクシングは、拳のテーピングは許されたが、グローブはつけず、空手同様、足技以外の顔面攻撃は禁止。

柔道は、相手選手の道着を掴むことに対しては、三秒間まで許された。

三秒では短すぎると疑問を抱いた観客が騒いだが、三秒あれは得意の背負いが使えると加藤康宏はほくそ笑んだ。

この他に、寝技や絞め技は禁止されている。


稔彦の二回戦の対戦相手は、本流派高知支部の伊勢脇勝己二段。全国大会は初出場だが、地区大会では優勝の経験がある。


体型は稔彦とほぼ同じだが、陽焼けした精悍な顔つきをしており、射貫くような鋭い眼光で対戦相手を睨みつける。


試合に備え、たかぶらず精神統一して事に挑むといった自制の念は、この伊勢脇勝己にはいっさいない。

闘志満々で、相手を打ち倒す一念を、身体中から発散している。


まだ、試合場の下で呼び出しを待っている時間だが、伊勢脇の頭皮からすでに大粒の汗が流れ落ちている。

空調が壊れて館内が蒸し暑いこともあるが、伊勢脇の内面では、すでに稔彦との試合が始まっていた。

伊勢脇は、それだけ稔彦を強敵と認めていた。


稔彦が試合場に上がる直前に、仙道明人が、稔彦の体調を気遣いながら、伊勢脇との闘い方についてアドバイスした。

「それにしても暑いな。これではサウナみたいだ。草薙君、体調は大丈夫かい」

「おす。この程度の暑さなら平気です。夏の仙道道場はもっと暑かったですから」

「おいおい、そいつはすまなかったな。ところで、君には申し訳ないが、実は、私は、彼の試合をみたことがないんだ。ただ、彼のあの眼つきは、かなり危ないね。あれではまるで、土佐の闘犬だ。草薙君、彼が、いきなり噛みついてくるようなら、大したことはないが、じっと構えて隙を窺うようなら、気をつけるんだよ。それから、これは知り合いから聞いた話しだが、彼は、これまでの試合を膝蹴りで勝っているらしいから、彼の膝に注意してくれ」


「おす。仙道先生。でも、草薙主将なら大丈夫すよ。あんなやつ、草薙主将、あんなやつ、遠慮なんかしないでやっちゃってください」

「わかったよ翔太。最初から負けるつもりなら、試合にでないよ」

「草薙君、いよいよ呼び出しの館内放送だ。出番だぞ」

「おす。行ってきます」

「おす、草薙主将、ファイト」

熊坂昇太と飯星聖哉が拳を振り上げ、声援を送る。


稔彦は試合場へ向かいながら、伊勢脇は、いきなり噛みついてくるはずだと思った。

この試合の勝敗は、伊勢脇の最初の一撃を、いかに打ち砕くことができるかにあると、稔彦は考えている。


館内放送で、選手紹介のアナウンスが流れ始め、客席がざわめいた。

「これより、二回戦二五試合目を始めます。紅、ゼッケン二一六番、伊勢脇勝己選手。白、ゼッケン三三番、草薙稔彦選手。主審、鳴海耕作師範」


先に伊勢脇勝己が、マットの上に跳び上がった。通路から試合場のマットまで、段差が1・5mある。伊勢脇は助走もつけず、ワンジャンプで到達した。


次いで稔彦が、同じように、ワンジャンプで跳び上がった。

対戦相手を挑発する稔彦の行為に、客席が野次をとばし、騒いだ。


倉田が梶川大悟に、稔彦はやる気満々だなと声をかけたら、それを聞いていた隣の神谷藍が怒りだした。

「あのバカ。調子にのって」


倉田が、神谷藍を宥めるように、

「神谷さん、この大会は、心が退いた方が負けなんですよ。一番強く優勝したいと思ったやつが、優勝するんです」

「そのことと、相手の真似して挑発にのるのとは目的が違うと思う。それに、選手たちはみんな、優勝したいと思って出場しているし」

神谷藍の隣で梶川大悟が、

「倉田、神谷さんの言うとおりだ。とにかく、今日だけで四試合あるんだ。見ろよ、その最初の試合が始まるぞ」


伊勢脇勝己と稔彦がマットの中央に立った。

試合開始線、紅が伊勢脇勝己、白が稔彦。

主審鳴海耕作が、右の拳を突きだし号令を発した。

「始め!」

同時に太鼓が鳴る。


最初に伊勢脇が跳んだ。

空中から稔彦の顔面めがけ、左右の足で連続蹴り。

稔彦が即座にしゃがみ、そのままマットの上を回転して伊勢脇の背後で起ち上がる。


伊勢脇が着地するのと同時に、伊勢脇の背後から、稔彦、右のローキック。

今度は、稔彦の攻撃を察知した伊勢脇が、マットを転げてこれを躱し、間合いを外した。

倉田が叫んだ。

「あの野郎、あの跳び蹴り、稔彦の真似しやがる」

「倉田、見ろよ。伊勢脇選手が笑ってるぞ」

「今、あいつ、稔彦になんかしゃべったみたいだ」

「臆測だが、草薙の得意技を仕掛けて、草薙がどう対応するのか試したんだろう。伊勢脇選手の予測したとおりだったから、次のローキックも察知できた。空中からの連続蹴りに対して、今までの対戦相手は、誰もみんな、両手でガードするだけだったからな。あの男、凄いな」

「つまり、この跳び蹴りは、俺には通用しないぞ、てことか」

「まあ、そう言うことだが、あの草薙が、そう簡単に引き下がるかな」

「へえ、あんな短い時間の間に、そんな駆け引きが行われていたんだ。あいつ、強いんだね」

「大城さん、なあに心配は要りませんよ。稔彦はぜったいに負けませんから」

「倉田、試合続行だ」


今度もまた、伊勢脇が噛みついた。いきなり踏み込み、反動もつけず稔彦の顔面に頭突きを入れる。

この試合、拳と肘以外の顔面攻撃は認められている。

鼻頭を狙った伊勢脇の頭突きがくる直前、稔彦は右手の甲で顔面をガードしていた。

ガードすると同時に右膝を立て、伊勢脇の股間を膝蹴りしている。

意図的な金的蹴りは反則だが、稔彦は、偶然を装った。

つまり、右膝で伊勢脇の腹を膝蹴りしたつもりだが、謝って股間に当たってしまったということだ。


伊勢脇が両手で股間を押さえながら、大げさにぴょんぴょん跳び跳ねた。その姿が滑稽に見えたのか、客席から失笑がもれた。

試合場の四隅に置いてあるパイプ椅子に座る四人の副審判たちが、紅白の旗を膝下に垂らして左右に振っている。


稔彦の、伊勢脇に対する金的への膝蹴りを、反則とはとらないことを意思表示したジェスチャーだ。

鳴海主審も同様に、伊勢脇の状態を気遣うも、稔彦に対しては注意を与えなかった。


鳴海主審の合図で試合が続行された。


伊勢脇が跳んで、稔彦の頭を両手で押さえ、右膝蹴り。

稔彦の顎下を、下から突き上げるような跳び膝蹴りだ。まともに喰らえば、いかに稔彦といえど無事ではすまない。


稔彦は、伊勢脇に頭を両手で押さえられていたから、顔をのけ反ることもできない。観客の誰もが、直撃、の二文字を思い浮かべた。


稔彦は、伊勢脇の右膝が顎にあたる瞬間、右手で伊勢脇の膝頭を押さえ、威力を軽減させた。それでも膝の威力がまさり、稔彦は顎下から突き上げられた。

稔彦の唇が切れ、血が流れたが、鳴海主審は試合を続行させた。


倉田が梶川大悟を責めるような口調で嘆いた。

「大悟、ヤバいぞ。稔彦のやつ、試合開始から後手後手じゃねぇかよ。いつもは先に攻めるのに、あいつらしくねぇよ。体調でも悪いのかな。それにしても、セコンド陣営がもっとアドバイスしたらいいんだ。大悟、俺、これからセコンドへ行ってくる」

「待てよ、倉田。落ちつけよ。でないと、この試合の行方を見失うぞ。見ろ、草薙が動いた」


伊勢脇のローキックに稔彦が前蹴りを合わせた。

腹を蹴られた伊勢脇が身体のバランスを崩し、腰が砕けた状態で二メートルほど後退した。

さすがに踏んばって持ちこたえ、尻もちをつくことはない。


伊勢脇が顔を上げた瞬間、稔彦が空中に浮かんでいた。

稔彦、伊勢脇の頭上から足裏の連続蹴り。試合開始と同時に伊勢脇が真似した技を、稔彦本人がやってみせた。


稔彦はしゃがんで躱したが、伊勢脇は咄嗟のことで判断が遅れ、思わず両腕でブロック。

そのブロックが間に合わず、最初の二発が、伊勢脇の顔面を直撃した。

「ぐわっ」

伊勢脇が呻き声をあげ、場外へ逃れた。

鳴海主審が四方の副審たちを指差し、今の稔彦の技に対する判定を問うた。

全員が膝下で旗を振る。

無効。

鳴海主審が試合続行の号令を発した。


本戦残り時間、四五秒。

伊勢脇が前へでた。稔彦の両肩を押さえ、右膝蹴りの連打。その膝頭へ、稔彦が肘を落とす。


激痛で伊勢脇の顔が歪んだ。これで右膝は使えない。

痛みで顔をしかめながら、伊勢脇が稔彦に抱きつき、互いにもつれながら二人一緒に倒れた。


稔彦が下で伊勢脇が上。

伊勢脇は、倒れるのと同時に、左膝頭を稔彦の水月に押し込んでいた。


左膝頭に全体重をのせ、稔彦の水月を押し潰す隠れ技だ。この試合では禁じ手に指定されている「隠れ膝落とし」。

二人が折り重なって倒れるから、客席からは見えない。


副審たちも判断が難しい。

断定できるのは、試合を直前でみている鳴海主審だ。そしてもう一人。正面の審判長席から監視している、三国海道審判長。


だが、鳴海主審も審判長席も、それに対しては何の反応も示さない。

先に伊勢脇が、起ち上がった。稔彦はまだ、仰向けに倒れたまま動かない。その様子に客席がざわついた。


鳴海主審が稔彦の肩を叩き、名を呼んだ。稔彦はなんとか上半身を起こし、それから二度、頭を振った。

それを見ていた倉田が心配して、梶川大悟に、事の顛末について解釈を求めた。

「稔彦のやつ、伊勢脇の体重を浴びて、呼吸ができなくなったのかな」

「それもある。それもあるが、その程度で、草薙が動けなくなるはずはない」

「梶川くん、それってどう言う意味なの」

「神谷さん、これも自分の臆測ですが、あんな風に倒れた場合、上の人間の体重をもろに受けてしまうことはあります。ただそうだとしても、草薙はそんなやわな男ではない。こんなケースなら、今まで死ぬほど経験していますから。なのに、あの状態です。つまり、草薙でさえ、経験していない何かが起こったのではないでしょうか」

「稔彦くんが経験していないことって、なによ」

「大城さん、空手や柔道には、試合では禁止されている技が普通に存在します。空手の場合、拳や肘による顔面への攻撃。喉や眼突き、金的蹴りなど、こうしたものは、全て表向きに禁止されている反則技です。ですが、それ以外にも、裏技と言うものが存在します」

「裏技?」

「そうです。別名、禁じ手とか、隠し技とか呼ばれています。自分が知る限りでは、体重の重い選手が、体重の軽い選手に抱きついて倒れ込む、抱き落とし。そして、相手の喉仏に肘をあてながら倒れる、仏殺し。この二つは、昨年の大会でも使用されました。もちろん、稔彦に対してです」

「ボク、少しだけ、覚えてる」

「今回、使用された裏技は、それとは別の何かであったのではないかと思うのです」

「あ、大悟、試合が再開されたぞ」


倉田の声に、皆の視線が試合場の中央に集中した。

伊勢脇が正拳突きで稔彦を攻めたてる。試合の残り時間を計算した優勢勝ち狙いだ。

少しずつ後退してゆく稔彦が、あと少しで場外に追いやれると思った瞬間、伊勢脇の右手に激痛が走った。


伊勢脇が、これが止めだ、そう内心叫んで頭上から叩き降ろした右拳を、稔彦が左肘で撃墜したからだ。

骨と骨がぶつかる鈍い音が試合場に響いた。


伊勢脇は、左手で右拳を握りながら、顔を歪め、マットに膝をついた。

鳴海主審が試合を止め、ドクターを呼んだ。


すぐに伊勢脇のけがの治療が行われ、間もなく鳴海主審がマイクを握り、解説を始めた。

「ただ今の、伊勢脇選手のけがの状態ですが、右手の拳と手首を骨折しておりました。このため、ドクターストップがかかり、伊勢脇選手の棄権とします。草薙選手、肘打ち、一本勝ち」

客席から大きな拍手がわき起こり、負けた伊勢脇にも温かい声援が送られた。


この試合を観戦していた宮下トレーナーが、間もなく稔彦と闘うであろう向井京大に嘆いた。

「参ったなあ、前の試合も肘でのカウンターだ。京大、あいつと違って、四肢を鍛えていないこっちはかなり不利だぞ」

「コンクリートとサンドバッグでは比較になりませんか。もっとも草薙は、そのサンドバッグを三つも破壊してしまったそうです」

「破壊って、サンドバッグをか。わけがわからん。今日の残り試合、あと三つ。そのいずれかで、草薙とやり合う可能性が高いぞ」

「でも宮下さん。この後から優勝候補の御三家が出場しますよ」

「伊達三段に遠藤四段、そして昨年優勝した御手洗四段か。こっちもやっかいだなあ」



一九



二日目は昼過ぎに二回戦が終了し、間もなく、勝ち残ってきた六四名の三回戦トーナメントが始まった。


この六四名の中に、稔彦と同じ太子堂高校の先輩である、柔道部OB加藤康宏が残っていた。

加藤は一回戦、二回戦を得意の背負い投げで一本勝ちしている。ただ相手が本流派の選手ではなかった。


次の三回戦では、間違いなく本流派の選手かキックの向井京大、そして草薙稔彦と相見あいまみえることになる。

草薙稔彦と向井京大以外に、三回戦まで勝ち残った外部選手はいなかった。


二年前、加藤は、高校卒業式の夜、鬼頭三郎と因縁の対決に終止符をうった。

鬼頭三郎に得意の背負い投げを仕掛けた瞬間、引き手の握りが甘かったため、背後から鬼頭三郎に首をとられてしまった。


空手の鬼頭三郎に、柔道の裸絞めで落とされるとは思わなかった。

鬼頭三郎が絞め技を使わないといった固定観念があり、油断した。

試合後、鬼頭三郎の背中に背負われ、夜の太子堂坂を降りた日を忘れてはいない。

寒さは感じなかった。

あの時、鬼頭三郎の背中に揺られながら、屈辱と脱力感で、意識が朦朧としていた。


加藤がこの大会に出場しようと決意した理由は、空手選手を薙ぎ倒すことだ。

もちろん、その名簿の中に、草薙稔彦の名前も入っている。

稔彦とは、高三の時に二度試合っていた。当時稔彦は、高一でまだ空手愛好会に入部したばかりだった。


一度目は、背負い投げで担いだ瞬間、後ろ首に肘を落とされ、それでも惰性で投げ飛ばしたが、しばらく首が曲がらなかった。

二度目は、稔彦の金的蹴りを怖れ、途中で試合放棄した。

今思えば、自分から申し込んでおきながら、なんと情けない判断をしてしまったものだと後悔している。


この夏休みに、鬼頭が稔彦と試合った話は加藤も耳にしていた。現役の稔彦に、軍配があがったと聞いている。

いかに現役を離れて二年目とはいえ、あの鬼頭がまさかノックアウトされ、病院へ担ぎ込まれたとはどうしても信じがたい。

まして鬼頭は今でも、大学の空手サークルで身体は鍛えているはずだ。

鬼頭は、病室の天井をどんな思いで眺めていたのだろうか、加藤はそんな鬼頭の気持ちが、判るような気がした。


今ごろ鬼頭は、この会場のどこかで、選手たちの熱い奮闘を観戦しているはずだ。その鬼頭の前で、鬼頭が敗れた草薙稔彦を倒してやるのだ。それが加藤康宏の、鬼頭に対するリベンジだった。


加藤の三回戦の相手は、本流派の堀田初段。体重90kgの加藤とあまり変わらない体型をしている。

予測では、草薙稔彦と当たるだろうと期待していたから、少し落胆した。だが相手は本流派の黒帯。加藤は気を引き締め直して、試合場の上に駆け上がった。


試合が始まり、二分が経過した頃、加藤の左脚が痺れ始めた。堀田の執拗なローキックが効いてきた。

ローキックに対する防御策は練習してきたつもりだが、ずっしり重い鎖骨への正拳突きに気をとられ、突きとローキックへのコンビネーションに即座の対応ができなかった。


掴みに行こうと前へでると同時に、堀田の力強い拳が鎖骨を押し突いてくる。

空手の突きがこれほど強烈だとは思わなかった。それも左鎖骨だけを狙って打ち込んでくる。

堀田は、流れるようなステップで、微妙に間合いを外し、四方八方からローキックを刈り込んでくる。

それも左脚だけを狙い、鎌で稲の束を刈り込むような角度で蹴ってくる。


加藤は、何とか堀田の道着を掴んで背負いにもっていこうとチャンスを覗う。

狙うのは、堀田の前襟と左袖だ。

一瞬でいい、ほんのコンマ三秒あれば、背負いを仕掛けることができる。

だが、堀田は、一定の間合いからスピード感ある突きとローキックの連打で、なかなか隙を見せない。


加藤が考えた作戦は、肉を切らせて骨を断つ、だ。

左脚を犠牲にして堀田との間合いを一気に詰め、掴んだらすぐ腰にのせ、背負い投げに入る。


間もなく、加藤のこの作戦は功を成した。

ただ、堀田の一撃で左脚がいかれてしまい、堀田を背に担いだ瞬間、左膝が崩れた。

崩れた低い姿勢から無理に投げ落としたから、受け身を知らない堀田が、マットに顔面を直撃してしまった。


マットに倒れ動かなくなった堀田の首が、歪な角度に曲がっていた。

鳴海主審が試合を止め、ドクターを呼ぶとすぐにタンカーで運ばれた。


倉田が梶川大悟に、堀田の首の骨が折れたのではないかと小声で話した。

神谷藍と大城みゆきにはあまりにも衝撃的な内容だから、遠慮したつもりだ。

梶川大悟が倉田の緊張を緩めようと、そして神谷藍と大城みゆきにも聞こえるような声で応えた。

「倉田、その心配はないよ。堀田選手は、マットに当たる瞬間、反射的に首を横に捻って直撃を避けていたから。それにあの首の太さからして、衝撃は見た目より軽減されたはずだ。それより、加藤先輩の脚のダメージの方が心配だ。ローキックは、時間が経過するにつれ、脚が動かなくなるからな」

「確かにそうだ。俺も、おまえのローキックのせいで、何度も脚を引きずりながら坂を降りた経験がある。それにしても加藤先輩の背負いは殺人的だな。あの低い角度から落とされたら、逃れようがねぇぞ。なんか次の試合で、稔彦とやりそうな気がして心配だな」


加藤康宏に継いで、向井京大も三回戦を勝ちあがってきた。

四回戦は残る三二名で行われる。

試合場と控え室に設置されているサイネージで、次の組合せが表示された。

四回戦の組合せをみた宮下トレーナーが、少し緊張気味に向井京大に言った。

「京大、ついに来たぞ。次の相手は、あの草薙稔彦だ」


加藤康宏の順番より一足早く、向井京大と稔彦のカードが決まった。

そして加藤康宏の次の相手は、昨年四位の遠藤数馬だ。


館内放送で向井京大と稔彦の名前が紹介され、二人はマットの中央で相対した。


館内放送を聞きながら、仙道明人は、今年の組合せも昨年同様、稔彦と他流派の選手を闘わせる戦略だなと確信した。

準々決勝まで本流派のシード選手を勝ち残し、一気に稔彦を叩き潰すつもりだ。


午前中、控え室に谷嶋聡太が現れ、仙道に、大会執行部の荒木田たちが、朝から妙な動きをしていることを告げていた。

昨年、いきなり飛び入り参加した段田剛二が、今年も現れないか警戒しているようだ。


段田剛二は昨年、決勝戦の終了直後、勝手にマットに上がり、観衆の眼前で、事もあろうか大会審判長である三国海道に試合を申し込んだ。

三国海道審判長は、代役として南條士郎五段を指名した。


現役時代に世界大会優勝者の南條士郎だが、死闘の末、段田剛二に敗れた。

その教え子である稔彦と決勝戦を闘った御手洗大介は、優勝こそしたものの、ぼろぼろにされ、本流派の面目は丸潰れだった。


朝から館内を走り回る係員たちの姿が目立っていたが、谷嶋聡太から話しを聞いて、その理由が段田剛二を警戒してのことかと、仙道は納得した。


館内放送で向井京大と稔彦の名前が紹介され、二人は試合場の中央で相対した。



二〇



向井京大と稔彦の、四回戦六試合目が始まろうとしている。

鳴海主審が二人を呼び、試合ルールについて説明を始めた。


向井京大、身長178cm、体重75kg、キックボクシングではミドル級の選手だ。

そのバランスがとれた体型から繰りだす、左右のハイキックが得意だが、接近戦での膝蹴りと肘打ちは要注意、それが稔彦に対する仙道明人のアドバイスだ。


鳴海主審の号令で試合が始まり、観客が沈黙した。

南側二階席から神谷藍は、両手を合わせて握りしめ、祈るように試合場を見つめている。

その神谷藍とは反対に大城みゆきは、両腕両脚を組んで睨みつけながら観戦している。「紫煙」の、元二代目総長として躍動してきた経験から、戦闘での度胸は並ではない。


北側三階席で観戦しているおっさんたちの一人が、向井京大のスタイルに対して、誰にとなく呟いた。

「しかしよう、下はトランクスで上だけ空手着なんて、少し妙な恰好だなあ」

「本人の自由なんだから、構わねぇよ。ハイキックはトランクスの方が楽だからな。空手着のズボンは、汗かくと引っつくから、邪魔なんだ。それよりあいつ、前の三試合、全部ノックアウト勝ちだ。今度ばかりはあの高校生、ちょっとばかりヤバイかもな」

「草薙だ。草薙稔彦。名前くらい、覚えてやれよ。おい、始まったぞ」


向井京大は、両拳をこめかみの脇に上げ、肘を内側に軽く絞るキックスタイルで、少しずつ稔彦との間合いを詰めてゆく。


稔彦は、両手を両脇に垂らしたまま動かない。

身体的には、二人の制空権、攻防の間合いは同じだが、稔彦には跳び蹴りがある分有利になる。

向井京大はそれを警戒している。空中からの足裏五段蹴りなど、キックの世界では考えられない。

だいたい人間が空中で静止できること自体が間違っている。重力を無視するなんてあり得ない。


向井京大がもう半歩前へ出て、右のハイキックを放つ。

当然稔彦が腕でブロックするか、後退して躱すかと思った。

右足を戻しかけた瞬間、稔彦が前に踏み込んできた。その距離30cm。眼前に稔彦の顔がいた。


次の瞬間、稔彦の背中をみた。

驚いた。

この至近距離から、上段後ろ廻し蹴り。

いきなり踵が顔面を襲う。

反射的に顔をのけ反る。

慌てて顔を戻し、稔彦の姿を探す。


そしてもう一度驚いた。

この時すでに稔彦は、空中に浮かんでいた。

来る。

警戒していた跳び蹴り。

慌てて肘を立て、顔面をガード。

だが遅かった。

二発食らった。

血の臭いがした。

鼻血。

鼻がじーんとして意識が乱れた。

次の攻撃がきたら対応できない。


向井京大は、咄嗟に場外へ逃れ、鳴海主審が試合を止めた。

すぐ向井京大の治療が始まった。

止血が済むと、鳴海主審と副審は稔彦の技ありをとり、間もなく試合が再開された。


マットの下から宮下トレーナーが叫んでいる。

キックボクシングのセコンドと違い、声でのアドバイスはできるが、マットの上に上がり、直接選手の身体に触れることは禁止されている。

「京大、試合はまだ始まったばかりだ。落ち着け。落ち着いて深呼吸するんだ」


技ありをとられ、挽回しようと焦ったら負けだと、宮下トレーナーは危惧している。鼻血をだして呼吸が乱れることも心配だ。


向井京大は、左のローキックから右のハイキック。

稔彦が前へ踏み込み、強烈な秒間五連発の正拳突き。

向井京大が両肘を立てブロックするも、コンクリートを叩いて鍛えた稔彦の拳で、肘の骨が砕けそうだ。

鍛えられた空手の拳がこれほどのものかと、身をもって驚くばかり。

なんとか稔彦を遠ざけようと前蹴りのジャブを放つ。


稔彦が右へ回り込む。

回り込んで向井京大の軸脚へ関節蹴り。バランスを崩して倒れそうになる向井京大の、その左顎へ廻し蹴り。

向井京大が左腕でガード。強烈な蹴りを受け、左腕が痺れた。

すぐ稔彦の背中に両腕を回してクリンチ。

これで何とか体勢を立て直せる。


鳴海主審が試合を中断させ、二人を分け離した。

「試合、続行」


稔彦を懐に入れないようにするため、向井京大が左の前蹴りを連発する。

その三発目の前足に、稔彦は右の拳を打ち込んだ。

激痛で向井京大の顔が歪んだ。

前蹴りのジャブを、パンチで撃ち落とすとは、痛みを堪えながらそう驚嘆している。


来る、向井京大は、そう思って咄嗟に両腕をあげ、顔面をガードしたが、遅かった。

稔彦の強烈な左上段廻し蹴りが、右顎を直撃した。


向井京大が、背中からマットに崩れてゆく。

鳴海主審が、卒倒する向井京大の後頭部を掌で押さえ、何とかマットへの直撃を回避した。

すぐにドクターを呼び、同時にタンカーが運ばれて来た。


顔面蒼白の宮下トレーナーが、タンカーに乗せられた向井京大の後を追いかけた。


その光景を眺めていた倉田が、梶川大悟に、

「あのキックボクサー、噂ほど大したことはなかったな。もうちょっと稔彦が苦戦すると思っていたんだが」

「倉田、もしかしたら草薙は、とんでもないものを身につけたのかもしれないぞ。まだ完成ではないが、あいつ、それをこの大会で試しているみたいだ」

「大悟。そのとんでもないもの、て、なんだよ」

「いや、まだ確証はないから話すのは控えるが、次の試合だ。次の試合でそれがわかるような気がする」

「そう言えば、もうすぐ加藤先輩の試合だ。相手は二段蹴りの遠藤数馬四段だぞ。この大会パンフレットの選手紹介によると、二人の体型はほとんど一緒だな。ただ加藤先輩は」

「そうだ倉田。問題は、加藤先輩の左脚だ」

「おまけに相手が相手だからなあ」


梶川大悟と倉田の会話を聞いていた大城みゆきが、横から入ってきた。

「ねえ、ねえ、倉田くん。その遠藤って人、強いの」

「二段蹴りも要注意なんですが、野球のバットを四本束ねてローキックで折っちゃうんですよ、あの人」

「え、うそ。バット、四本。信じられない。アタシら、金属バットはいっぱい振り回したけど、四本の束っていったらこれくらいの太さになるよね。それって稔彦くんにもできるの」

「さあ、自分はまだ、見たことはないです。大悟はどう思う」

「バットより硬いもので鍛えているんだから、今の稔彦のパワーとスピードならできるはずだ。あとは、タイミングさえ掴めれば、問題はないよ」


館内放送が流れ、加藤康宏と遠藤数馬の試合が紹介された。

倉田には、マットに上がった加藤が左脚を少し引きずっているように見えた。

前試合で、堀田のローキックを浴びて痛めた左脚が回復するまで、時間が足りなかった。

だが加藤本人は、前襟と袖さえ掴めば、背負い投げにもってゆく自信はあると思っている。

肝心なのは、そのチャンスを作ることだ。待つのではなく、作る。


鳴海主審が二人を中央へ呼び、試合ルールについて簡単な説明を始めた。

遠藤数馬が紅、加藤康宏は白。

それから二人を紅白のラインを引いた試合開始線に分け、鳴海主審が右の拳を突きだした。

「始め!」

同時に太鼓が鳴る。


先に遠藤数馬が仕掛けた。

二、三歩軽いステップで前へ出ると、左足で踏んでいきなり跳び上がった。

加藤の水月へ、右前蹴りを放つ。

これはあくまでフェイント。決めは、右脚を引き戻す反動を利用した左前蹴りだ。


加藤は直線的に後退して躱そうとしたが、最後の左前蹴りが予想以上に伸び顎を直撃した。


加藤が思わず膝をつく。

すぐに立ち上がり、右手を振って、ダメージを受けていない意思表示をしたが、副審二名が紅旗を上げた。

これに鳴海主審も同意して、遠藤数馬の、技ありが認められた。


試合再開。

加藤は、遠藤の前襟を掴もうと前へでた。同時に遠藤も踏み込み、加藤の腹へ正拳突きの連打。


最後は、加藤の鎖骨へ、頭上から叩き落とすような降ろし突き。


加藤は両腕でブロックするだけが精一杯、とても遠藤の道着を取る余裕はない。


遠藤は攻撃の手を緩めない。

正拳突きの連打からローキック、加藤がたまらず抱きついたのを機に、加藤の右肋へ、膝蹴りを連発。


この時、痛みと衝撃に耐え続けた加藤に好機がおとずれた。

遠藤の膝蹴りに堪えながら、縺れ合い、気がついたら遠藤の前襟を掴んでいた。


遠藤がさらに膝蹴りを仕掛けた瞬間、遠藤の身体が浮いた。

加藤は、遠藤の右袖を掴んだ。


直後、背中を回し、遠藤の上半身を腰に乗せる。

同時に膝を伸ばして投げに入る。

この時、加藤の左脚が痛みでがくんと落ちた。

加藤は左膝をマットにつけたまま、その角度から遠藤を投げ落とした。


遠藤の首から下は、まだ加藤の背に乗ったままだ。

遠藤は首から上だけが、マットに叩きつけられ、首がマットと直角に折れていた。


客席から女子の悲鳴。

紅コーナーから応援していた遠藤のセコンドたちが、息をのみ込む。


加藤の前試合、堀田との試合後に梶川と倉田が心配していた、加藤の低い姿勢からの背負い投げでの最初の事故が起こった。


遠藤が救急車で運ばれた後で、鳴海主審と四人の副審たちがマットの中央へ集まり、加藤の背負い投げが危険技かどうかの審議が行われた。


マットの中央に集まって審議を始めた審判団に対し、客席からブーイングが湧き起こる。

「空手は柔道の投げ技を否定するなら、オープントーナメントなんか止めてしまえ」 

「キックもグローブをつけて、顔面ありきでやらせりゃいいんだ」

「柔道選手の勝ちだよ」


そんな声など聞こえない様子で、鳴海主審がマイクをとり、客席へ向け説明を始めた。

「ええ、審議の結果を申し上げます。加藤選手は、前の試合で左脚を痛めており、遠藤選手を背負った時に、遠藤選手の体重を支えきれず、やむをえず、あの体勢から投げに入ってしまったと判断しました。よって加藤選手の一本勝ちとします。おす」


会場から、加藤に対して賞賛の拍手が贈られた。


控え室へ向かう花道から二階席を見上げながら、加藤は、次の試合、俺は闘えるだろうかと、客席のどこかで観戦しているはずの鬼頭三郎に話しかけた。

「鬼頭、みてくれたか。この四回戦も勝ちあがったぞ。あと一試合勝てば、明日は準々決勝だ。残るは、一六人。これ以上、左脚がもたないかもしれないから、次は、なんとしても草薙と試合いたいんだ。だがな鬼頭、誰が相手だろうとおれは負けないからな」



二一



大会二日目、最終試合。五回戦八組の試合取組が掲示された。

控え室の入口前に設置されているサイネージの周りにも、勝ち残った選手たちが集まっている。

その選手たちの背後で、背伸びしながら覗いていた、加藤康宏の顔が一瞬曇った。

加藤の対戦相手は、稔彦ではなく、ゼッケン七番の伊達幸司だった。


加藤はこの試合で稔彦とやりたかったから少しがっかりした。

だが考えてみれば、伊達に勝てば、稔彦とは明日の組合せになるから、左脚のダメージを回復させる良いチャンスだと思い直した。


明日は、万全の体勢で稔彦と闘える、それから急いで控え室の奥に向かい、自力で左脚のマッサージを始めた。

加藤はこの時、まだ伊達幸司に勝てると思っていた。


控え室に、御手洗大介と伊達幸司の姿はない。

二人は別室で、個別に軽いウォーミングアップを行っている。


稔彦は体育館の外で、仙道明人を相手に組手稽古を始めた。

すぐ隣に救急車が二台、待機している。


仙道と一緒にセコンドについていた三浦翔太と熊坂昇太、飯星聖哉もしばらくその場に立ち合っていたが、外気が冷え込んできたのを理由に一足早く控え室へ戻っていった。


二人きりになったのを機に、仙道が稔彦へアドバイスした。

「次の試合なんだが、相手は君と同じ跳び蹴りが得意な、甲府支部の武田選手だ。芸術的な左右の上段廻し蹴りも同じだ。一瞬の気の緩みが勝敗を分けるから、気をつけるんだよ」

「おす」

「くどいようだが、草薙君。残りわずか一秒で、上段廻し蹴りが決まれば一本負けになる。それが空手の試合なんだ」

「おす。仙道さん、ありがとうございます」

「よし。そしたら中へ戻ろう。君は七試合目だが、ここは冷えるから、中で身体を温めておいた方がいい」「おす。あ、仙道さん、先に戻って下さい。おいらもすぐに行きますから」

「了解。それでは、先に戻るよ」


稔彦は、仙道が館内に入ったのを確かめてから、体育館の角に向かって声をかけた。

「藍姉ちゃん、もう出てきても良いよ」

「バレてたのね」

「すぐにわかったよ。たぶん、仙道さんもね」

「なあんだ。だったら最初から顔を出しとけばよかったなあ」

「もう遅いよ。お弁当、ありがとね」

「美味しかった」

「足りなかった」

「だって特大五つだよ」

「握る藍姉ちゃんの手が小さいからだ。でも、うまかったよ」

「今夜もホテルに泊まるの」

「うん、そうだよ。仙道さんに任せてるから。ところで、みゆき姉ちゃんは」

「倉田くんたちと中にいる。同い歳だから話が合うみたい。今日、最後の試合だね。勝てそう」

「さっきから質問ばかりだね。まだ五回戦だよ。明日は優勝するまで三試合あるんだ。おいらは優勝するために来たんだよ、負けるつもりなら、最初から試合にはでないよ。さあ、ここは冷えるから中へ入ろう」


稔彦は先に北側のドアから中へ入り、稔彦の背中を見つめながら、神谷藍が後についた。

体育館に一歩入っただけなのに、様々な臭いが入り混じった生温かい空気が、顔に触れる。


試合会場まで一直線に通ずる狭い通路を歩きながら、神谷藍は思う。

この道を何回タンカーが往復したのだろうか。そして残りの試合で、さらに何回往復するのだろうか。


そのタンカーで稔彦が運ばれてゆく光景を想像して瞼を閉じたら、目眩がした。

思わず通路の壁に手をついて首を振り、それから深呼吸した。

朝から食欲がなかった。

昼も握り飯を半分残した。

熱はない。嘔吐もない、だから少し安心している。

昨日から壮絶な試合を見続けたから、メンタルの問題かなと思う。


神谷藍は稔彦に気づかれないよう無理して走りだし、控え室の隣にある階段から南側の二階席へ戻っていった。


階段を上りながら、稔彦を受け入れた八月のあの日の、身体の状態を思い浮かべて、はっとした。

あの時は、生理が終わって確か二週間は経っていた。

まさかとは思ったが、可能性はある。あれから二か月が過ぎていた。

この時、喜びより不安が脳裡を過ぎった。

神谷藍は、思わず下腹に掌を当てていた。


加藤康宏と伊達幸司の、五回戦二試合目が始まろうとしている。


加藤は紅。伊達は白。


加藤は、これまで勝ち進んできた四試合すべてが白だった。始めて紅の巻き帯を腰に締めた。

この時加藤の脳裡を、縁起を気にした一抹の不安が過ぎった。

それを振り払うように痛めた左脚を拳で叩いて奮起し、それから中央の開始線へ歩いた。


鳴海主審の号令と共に太鼓が鳴り、試合が始まった。


加藤の背負いを警戒した伊達は、白の開始線に留まり、なかなか攻撃を仕掛けようとしない。


伊達は、これまて堀田や遠藤と行ってきた加藤の試合内容を思い浮かべた。一瞬でも道着を握られたら、投げ落とされる。


加藤が前屈みに腰を落とし、伊達の道着を取ろうと左右の手を交互に差しだす。その手を伊達が手刀で弾く。


しばらくその攻防が続いたため、鳴海主審が試合を止めた。

「両名、注意一。いいか、積極的に攻めないと、次は注意二だ」

注意二は、技ありと同様のポイントを相手に与えることになる。

「試合、続行!」


最初に伊達が動いた。

痛めた加藤の左脚に、強烈なローキック。

伊達は、加藤は躱すだけで精一杯のはずだから、背負い投げに入る余裕はないだろうと判断した。


加藤が大きく跳び退く。

追う伊達。

その勢いで加藤の懐に潜り込み、加藤の左脇腹を右の拳で素早く何度も突きあげる。

下突きの連打に、加藤が、堪らず両腕でブロック。バットで叩かれたような衝撃がガードする腕を襲う。


このままでは腕が使いものにならなくなってしまう。

加藤は思わず跳び込んで伊達に抱きついた。

この時、伊達の前襟に触れた。左袖は不充分だが、そのまま投げに入る。


加藤の腰に乗せられた瞬間、伊達が右脚を加藤の右脚に絡め、加藤の腰を左手で押さえながら踏んばった。


加藤がバランスを崩し膝をついたの機に、鳴海主審が試合を止める。

二人を分け、二人が開始線に戻ったのを確かめ、試合を続行させた。


加藤は再び前屈みになり、左右の手を入れ替えに差しだし、伊達の道着をとろうとチャンスを覗う。


この時伊達は、遠藤数馬の二段蹴りが加藤の顎にヒットしたシーンを思い出した。

柔道の加藤は、跳び蹴りに慣れていないのではないか、伊達の脳裡にその発想が閃いた。


二階席から観戦していた梶川大悟は、突然、伊達幸司が加藤との間合いを外したことが気になった。

何か仕掛けるつもりだな、梶川大悟がそう思った矢先に、伊達の左足が勢いよく前へ踏み出したのを見た。


左脚を軸に軽く跳び上がり、右足先を前へ蹴り込む。

空中で右足を戻しながら、その反動を利用して左足で蹴る二段蹴りが、加藤の顎を襲う。


慌てた加藤が、その左足を躱そうと直線的に後退する。

この時梶川大悟は、稔彦なら、蹴りの下を搔い潜り、伊達の背後にまわるはずだと思った。


加藤の後退する間合いが甘かった。

伊達の二段蹴り、左足の中足が予想以上に伸び、加藤の顎下を蹴りあげた。

加藤の顔が天井を見上げ、車に跳ね跳ばされるように背中から卒倒した。

それでも加藤は必死に起き上がろうと足搔いた。

この時、副審三人から白旗が上がった。

それを見た加藤の全身から、力が抜けた。

負けた、負けちまった。悔しいが、これでやっと、楽になれる……


鳴海主審が伊達幸司を指差し、一本勝ちを宣言した。


それからすぐにドクターを呼び、ドクターの指示を聞いてから、加藤に話しかけた。

「加藤選手。そのまま寝ていなさい。もうすぐタンカーが来るから」


加藤は試合会場の天井を見上げながら、夢、ついに叶わず、そう呟いて苦笑いした。


天井の照明がやけに眩しい。

その光の中に、鬼頭三郎の困ったような笑顔が浮かんだ。

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