RISING SUN Ⅱ

成沢光義

第1話




横須賀、仙道空手道場。


子供たちが帰って、稔彦なるひこ一人が残った。


道場の隅に巨大なヘビーサンドバッグが吊してある。

その前で、静かに眼を閉じ、呼吸を整えていた稔彦が、いきなり両眼を見開いた。


肩をせり上げ、腹をへこませながら大きく息を吸い込んだ。

一瞬息を止め、今度は、ゆっくり両手を前へ突き出しながら、腹を膨らませ息を吐き出す。


空手の、息吹の呼吸。

逆腹式呼吸の応用で、丹田呼吸とも呼ぶ。内蔵やインナーマッスルが活性化され、呼吸が安定するから精神統一に役立つ呼吸法だ。


稔彦が息吹の呼吸をやると、吐く息の威力で、道場の壁板と窓ガラスが音を立てて振動した。


二日間、小雨が降り続き、道場の中はかなり湿っぽくなっている。おまけにカビ臭い。

古いビルの換気が悪く、雨が入り込むから窓が開けられない。壊れかけの鈍い音を鳴らしながら、扇風機が頭を振り続けている。


道場の責任者、仙道明人せんどうあきとは、県連盟の師範会に出席するため、三〇分ほど前に外出している。

県内で開業している空手道場の試合ルールを統一するための意見交換会だから、気が重いと嘆きながら出かけていった。


空手にはいくつもの流派があり、それぞれにルールを持っているが、幾つかの流派同士が集まって協会や連盟などの団体を形成する場合が少なくない。

神奈川県内で、それを統一しているのが県連盟だ。もちろん所属しない流派も存在する。


仙道は、どの団体にも所属していない。所属していないが、県内に道場を開く条件として県連盟に報告する義務があった。

県連盟からは、仙道道場を正式に加入させたいと誘われている。道場を始めて一年になるが、仙道はまだ返事をしていない。道場の経営が安定してからでも遅くないと思っている。


稔彦は稔彦で、ルールなんてどうでも良かった。勝てばそれで満足だから。

もっとも、稔彦が、七代目主将として後輩を指導している太子堂高校空手愛好会には、ルールはあってないようなものだから、県連盟の意向など気にも留めていない。


今、稔彦は、サンドバッグを叩きながら思うのだ。

拳で、足で、肘で、膝で、毎日サンドバッグを叩いて、強くなれるのだろうか、と。

なれるはずはない。なぜなら、サンドバッグは生きものではないからだ。どんなに大きく重いサンドバッグであろうが、攻撃を仕掛けてくることはない。

叩いて喜んでいるのは、自己満足に過ぎない。


だから稔彦は、コンクリート製の電信柱を相手に、身体の四肢をぶつけて鍛えている。

最初は自分の手足がかなり痛かったが、ひと月もしない内に、全力で叩いても痛みは感じなくなっていた。

サンドバッグを叩くより、四肢を石のごとく硬く鍛えたほうが役にたつと思っている。


次の瞬間、開いたドアの外から風が流れ込んできた。

男の、汗臭い臭いが混じっている。


稔彦が振り向いたら、短髪直毛の男が、こちらへ向かってゆっくり歩いてくる。


顔は、にこやかに笑っている。 

浅黒いTシャツに、だぶだぶの黒のトレーニングズボン。

胸板が厚く、上腕と下腕が丸太みたいに太い。


身長は、今の稔彦と同じほどで、180cmを越える程度だが、体重は、83kgの稔彦より10kg以上の肉厚がある。


男は、稔彦の二メートルほど手前で足を止め、太い唇を左右に吊り上げると、低くしゃがれた声で稔彦に話しかけてきた。

「君は、草薙くん、だよね。昨年、秋の全日本で準優勝した草薙稔彦くさなぎなるひこくん」


稔彦が肯いて応えると、男は両手を叩いて喜んだ。

「探したよ。横須賀に通っていると聞いたんで、やって来たんだ。仙道さんは留守みたいだね」

「お知り合いですか?」

「昔の先輩なんだ。もっとも、今の仙道さんは、こうして自分の道場の看板持ちだけどね」

「夕方、戻ります」

「構わないよ。居ない方が、俺には都合がいいんだ。それまで時間はたっぷりあるからね。何が言いたいのか、君なら判るよね」


「おいらなら、いつでも、良いよ」


稔彦の言葉を受けた瞬間、にぃと笑んだ男が、一歩間合いを詰める。


稔彦は動かない。

まだ互いの間合いではない。


この時、もう一人、ドアの外から中の様子を覗っている男がいた。

その男に稔彦は気づいたが、ドアに背を向けて立っているこの男は、何も知らない様子だ。


「行くよ」

遊びに出かけるみたいな軽い感じで話しかけると、男は、右足を半歩踏み込んで腰を落とした。

いきなり稔彦の左内腿へ、遠慮のない左のローキックを刈り込む。


同時に稔彦が前へ踏み込んだ。

左前蹴りで、男の腹を蹴り抜く。


バランスを崩した男が、腰が砕けて床の上に尻餅をついた。


苦笑いしながら起ち上がる。

「こっちのローに前蹴りを合わせるなんて、凄い動体視力だ。蹴りの威力も半端じゃない。今のが、水月すいげつに入っていたら、気を失っていたよ。これが試合なら、技ありってとこだな。うちが主催した大会で準優勝できた理由が、やっと理解できたよ。まだ一七歳か。羨ましいな。草薙くん、もう一回だ」


男は、両手の拳を顔の脇に添え、腰を低めに落としながら、稔彦の出方を注視している。

今度は、かなり慎重だ。


稔彦は、両手をだらんと下げたまま、構えもしない。


男が、駆け込むように前へ出た。

高く振り上げた右の拳を、頭上から稔彦の左鎖骨へ叩き落とす。

上段降ろし突き。


身長差がある場合の有効打だが、稔彦は、昨年の大会で他の選手たちが度々使っていたので慣れていた。


受けるより、打破あるのみ。

それが稔彦の応えだ。


稔彦は、男が振り落とす右拳を受けず、その拳に向かって右肘をぶち当てた。

骨と骨がぶつかり合う鈍い音が響き、男が、痛みで一瞬顔を歪めた。


男の、左ローキック。

稔彦、膝を立て、脛で弾き返す。

男が、痛みで、また顔を歪めた。


再度、男の左ローキック。

これはフェイント。

稔彦の意識を左膝に誘う。

本番は、右上段廻し蹴り。

左右の連続蹴りだから、スピードが遅い。

稔彦、顔をのけ反り、軽く躱す。


次の瞬間、稔彦が一歩踏み込んだ。ワンステップで跳び上がる。

男の眼に、一瞬稔彦が空中で静止したように見えた。

稔彦、その状態から、男の顔面へ、左右の足裏を交互に押し込んだ。得意の空中五段蹴り。


「ぐわ!」

うめきながら、咄嗟に両腕でブロックするも、二発、ヒット。

男の唇が裂け、血が滲みでる。

首筋からTシャツの襟元が血でまっ赤に染まった。

倒れまいと、必死に足を踏ん張りながら、大きく深呼吸する。


稔彦、着地と同時に、男の左膝へ左のローキック。この時、男の意識が左膝へ集中する。

稔彦、左ローキックから、素早い左上段廻し蹴りへ切り替え。

ノーガード、男の右顎へ、稔彦の左上段廻し蹴りが炸裂。


ガツンと骨を砕く音が響き、男の意識が飛んだ。背中から床の上に崩れてゆく。


稔彦は、仰向けに倒れた男を見下ろしながら、再び男が起ち上がるのを待っている。

道場破りは、止めを刺すまで手を緩めるな、それを教えてくれたのは、空手愛好会初代主将の、段田剛二だんだごうじだ。


稔彦が待っていると、意識を取り戻した男が顔を上げた。

朦朧とした眼で、稔彦へ右の拳を突き出す。


まだやれる、その意思表示だ。それを確認した稔彦は、その男の側頭部へ、右ローキックを刈り込んだ。


この時、道場のドアから、太い声が響いた。

「止め! 草薙君、そこまでだ!」


稔彦の右足が、男の側頭部直前で止まった。


着慣れないスーツ姿の仙道明人が、窮屈そうに額の汗を手の甲で拭いながら、道場の中へ入ってきた。


「おす!」

稔彦は、両手の拳を前へ突き出し、挨拶する。

「仙道さん、早くないですか?」


仙道は、まだ意識が定まらない男の後ろ首を揉みながら、

「連盟の会合は、気が乗らないからエスケープしたよ。それより、この状況について説明してくれないか」


稔彦が、事の成り行きについて話し始めると、途中で息を吹き返した男が、仙道の顔を見て照れ笑いを浮かべた。

稔彦の廻し蹴りを顔面に浴びたせいで、眼に泪が滲んでいる。

「せ、先輩、自分が、説明します。彼に、責任はありませんよ」

「大丈夫か谷嶋。かなりまともに喰らっていたぞ。話しなら、もう少し落ち着いてからでも構わないぞ。草薙君、すまないが濡らしたタオルを持ってきてくれないか。奥のロッカールームに救急バックがあるから、それも持ってきてくれ」

「おす」


稔彦がロッカールームへ向かったのを機に、谷嶋聡太が手早く話し始めた。

何度も頷きながら聞いていた仙道が、いきなり笑いだした。

「それで、草薙君の実力を試しに、わざわざ町田からやって来たのか。それも痛い思いをするために。相変わらず単純だなあ、おまえは」

「顔面に廻し蹴りをもらうなんて、先輩と二人目ですよ。おまけに空中からの足蹴り。一瞬、あいつ、空中で浮いていましたよ」

「彼は、昨年、あの御手洗や伊達幸司と互角にやり合ったんだ。今は、それもかなりバージョンアップしている」

「悔しい、す」

「彼は、草薙君は、昨年の大会に出場した時より、もっと強くなっているんだよ。御手洗たちが、昨年と同じ実力なら、今年は勝てないよ」


この時、稔彦が戻ってきて、水で冷やしたタオルを仙道に手渡した。


谷嶋聡太が稔彦を見上げ、恥ずかしそうに破顔している間に、仙道は、壁時計で時間を確認した。

「草薙君、もう帰る時刻だね」

「おす。店があるので、これで帰ります。仙道さん、今日もありがとうございました」


もう一度ロッカールームへ戻り、自分のスポーツバックを担いでやって来た稔彦を見た仙道が、驚いて訊ねた。

「おいおい、その恰好で単車に乗るつもりかい。雨はあがっているが、海風はまだ冷たいよ」

「おす。来週の土日、またよろしくお願いします。失礼します」

「あ、草薙君、今度、相談したいことがあるんだが、おーい、草薙君、ああ、もう行ってしまった」


稔彦が、ドアの外に消えたのを確かめた谷嶋聡太は、仙道からタオルを受けとると唇の血を拭き始めた。

「空手着のまま、ここから三浦海岸までバイクを転がして帰るなんて、大胆と言うか、無茶苦茶と言うか、これって若さ、ですかね」

「谷嶋、羨ましいと思っているだろう」

「確かに。あの若さは、今はさすがにないっすね。ところで今、来週また来ると言ってましたが」

「今は、平日以外の午後、少年部の稽古を手伝ってもらっているんだ。その後で、二人きりの組手稽古を行う」

「え、先輩とワンツーワンですか」

「そうだ。昨年の夏ごろだったかな。彼、いきなりやって来て、気を失うまで組手をやりたいから付き合ってくれってね。何かあると面倒だから、体験コースに入ることにしてもらったんだ。で、どちらかが戦闘意識を失うまで、無制限で三本勝負やることになった。後で知ったんだが、昨年末に亡くなった母親が、長い間こっちの病院に入院していてね、彼はその見舞いも兼ねて三浦海岸から単車でやって来ていたんだ」

「で、勝負の行方は?」

「最初は、三本とも勝っていたが、やがて三本に一本取られ、二本取られ、今では相手をするには荷が重いほどだ」

「嘘みたいな話しですね。本部道場で指導員をやっていた仙道四段をノックアウトする高校生がいるなんて信じられませんよ」

「でなければ、そっちの大会で準優勝なんて出来ないよ。もうすぐ、夏休みに入る。そしたら毎日稽古にくると言っていた。筋トレもかなり進んでいるよ。目標はベンチプレスで180kg、ベンチスクワット250kg。これは、あの御手洗たちにパワー負けしない最低限度だ。彼の空手部は、夏休みを前に一区切りするらしく、三年生は引退して後輩へ譲るらしい。その夏休みまで二か月、夏休みが待ち遠しいよ」


毎年一〇月に行われる、秋の全日本空手道選手権大会で、今年、草薙稔彦は優勝を狙うと平然と語る、仙道明人の真顔を見た谷嶋聡太は、背中に悪寒を覚えた。


前年準優勝した選手が、次年の大会で初戦敗退なんてことはざらにあるからだ。

高校生が、二年連続して活躍できるほど、この大会は甘くない。


谷嶋聡太は、仙道が、現役時代に大会六位入賞しか果たせなかった自分の夢を、草薙稔彦に託してのめり込んでいるような気がして、苦々しく思えた。


ただ、先ほど稔彦と試合って感じた事だが、稔彦の四肢が石みたいに硬かった。

突きや蹴りを受けられただけで、こちらの骨が砕けそうに痛い。

これはあり得ない話しだが、まるで身体の四肢に鉄板を入れているような錯覚さえ覚えた。


この時谷嶋聡太は、まだ一七歳の草薙稔彦と言う人間に、底知れぬ恐怖と異常性を感じていた。





津久井浜駅から、左方面へしばらく歩くと、車が一台通れるほどの狭い坂道が現れる。


右へくだれば津久井浜海岸に辿り着き、反対側は山側に面した急な斜面が広がっている。


登り始めは緩い坂道が、途中から急角度に駆け上がり、登りきった頂上に、創立130年を迎える県立太子堂高校の褐色の校舎が見える。


太子堂高校に通う生徒たちの通学路でもあるその坂道には、途中に三つの狭い空き地がある。

下から順に一番空き地、二番空き地と名前があり、そして一番目上の三番空き地には、全身赤錆に覆われた一本のドラム缶が転がっている。


そのドラム缶の腹に、左から順に大小六つの穴が横並びにあいている。

大人の拳大にえぐられたその穴は、太子堂高校空手愛好会歴代主将たちが、生の拳であけた卒部の証だった。


一番左の巨大な拳穴は、初代主将、段田剛二だんだごうじ

順に二代目、新城良しんじょうりょう

三代目、石狩拓也いしかりたくや

四代目、門番勝美もんばかつみ

五代目、鬼頭三郎きとうさぶろう

そして一番右端が、稔彦の一つ上の先輩、六代目、梶川大悟かじかわだいごだ。


今春卒業した梶川大悟は、鬼頭三郎を慕い、同じ早稲田にある大学でスポーツ科学を学んでいる。もちろん、大学の空手部にも入部した。


新城良は空手から離れ、ハワイでアクセサリーの専門店を経営しており、石狩拓也は中学の体育教師、門馬勝美は、ブラジルで総合格闘技の修行に励んでいる。


歴代主将たちの性格や動向を誰よりも理解しているのは段田剛二だが、その段田剛二が、どこで何をやっているのかは誰も知らない。

愛好会の後輩たちの稽古をつけに、ふらっとやって来ては、嵐のごとくかき乱し、さっと消えてまた音沙汰なしだ。


七代目は草薙稔彦。

部員は、稔彦以下三名。

二年、三浦翔太。

一年、熊坂昇太。

一年、飯星聖哉。


毎年、春には新入部員が一〇名ほど入部するのだが、一週間で九名が退部し、残った一名も、ケガを理由に来なくなる。


そうした中で、熊坂昇太と飯星聖哉は、中学二年の時から沿線の町道場で、フルコンタクト制の空手を学んでいたから、まだ続いている。

現在二級、茶帯を締めている。

三浦翔太も流派は違うが、中三の時に初段の認可を受け、黒帯だ。


愛好会では、自分の好きな色帯を腰に締めて良いことになっている。

ただ、茶帯や黒帯を締めた者に対しては、段田剛二の、遠慮のない組手稽古が待っている。つまり、手加減なしのどつきあいだ。


もっとも、段田剛二をはじめ、歴代主将たちの稽古に手加減はない。ただ色帯は経験者とみなすから、初心者と違い、倒れても終わらないだけだ。


何も知らない翔太は、黒帯を締めて入部した直後に、段田剛二の洗礼を受け、死にそうになったことがある。それ以来、黒帯を返上し、今も白帯だ。

熊坂昇太と飯星聖哉は、まだ段田剛二に会っていないので、平気な顔で茶帯を締めている。


稔彦の稽古も手加減はないが、相手の長所を伸ばすやり方だ。


その日、朝の自主トレーニングを終えた稔彦は、三番空き地のドラム缶にあいた拳穴を見つめながら、一年生の時にやって来た道場破りを思い出していた。


二十歳のキックボクサーだった。

相対したのは、三年鬼頭三郎。

蹴りの業師と評判の、鬼頭三郎の、左ローキックから素早い左上段廻し蹴りへの切り替えし一撃で、プロのキックボクサーが沈んだ。


そのローキックから上段廻し蹴りへの切り替えしは、現在稔彦に受け継がれている。


他流派の空手家にも試合を申し込まれたことがあった。

その時は、梶川大悟が相手した。

低い姿勢から繰り出す左右のローキックと強烈な中段正拳突きで、相手を撃退した。


相手のケガが酷くて救急車を呼ぶことになり、校内が騒然とした。事件性はなかったから警察沙汰は回避できたが、鬼頭三郎や梶川大悟が職員室に呼び出され、事の説明と学校側に対する始末書を書かされた。


歴代の主将は、誰もみな、そうした境遇を力と気力で乗り越えてきた。

その実力と胆力が備わっていなければ、空手愛好会の主将は継承できない。


今、稔彦は、空手愛好会八代目主将を、翔太に譲ることを迷っている。

夏休み前に行われる、三年生を送る「追い出し稽古」のイベントがあり、例年、その終了後に、次期主将を誰にするかを宣言することになっているが、稔彦はまだ決断していない。


「追い出し稽古」まで、あと二か月足らず。今の翔太には、まだ身を削る覚悟が育っていない。

そして翔太本人も、稔彦の、そんな気持ちを察していた。





昼の学食で、稔彦がカレーライスの大盛りを食べていると、大柄な藤井新之助が、トレイにカツ丼の丼を二つ載せてやって来た。

無遠慮に音を立てながらパイプ椅子にしゃがみ込み、稔彦のカレーライスを斜め眼線で眺めながら笑いだした。

「相変わらず、バカの一つ覚えだな。もう三日連続、カレーだぞ」


稔彦が、藤井新之助の手元のカツ丼を指差して言い返す。

「新之助のは、バカの二つ覚えだな」

「違う。これを喰ったらまたお代わりするつもりだ」

「太る一方だ。たまには柔道場へ来いよ。翔太が淋しがってるぞ」


藤井新之助の顔から笑いが消え、左脇腹を手で押さえると顔を歪めて言った。

「いや、もう痛いのはごめんだ。今は、受験に専念する」

「親父さんの事務所を継ぐんだろう。一人前になるには、国家資格と経験が必要だと、店の客が話していたよ」

「宅建や不動産鑑定士やら、試験だらけだ。まあこっちの方は、大学さえ受かっちまえば、時間はいくらでもある。そんな事より、稔彦、あの紫煙しえんが、復活するぞ」

「へえ、黒田さん、まだ現役なんだ」

「違う。黒田は、おまえにやられて右腕が上がらなくなっちまったから、引退した。今はどこで何をしているのか情報はない。だが、その代わりに、弟の善次郎が、かつての残党を集めて、新しいチームを作っている。かなり狂暴らしいぞ」

「ふうん」

「ふうんって、おまえを兄貴の仇みたいに狙ってんだぞ。少しはビビれよ」

「好きにしたらいいよ。勝手に騒いで、勝手に消えていけばいいさ。おいらには関係ない」

「関係ないで済むような相手じゃねぇんだがなあ。ほんと、おまえは楽天家で羨ましいよ」


藤井新之助は、昨年の夏に、ファミリーレストランの駐車場で「紫煙」の戦闘部隊に襲われ、右脇腹を骨折した。

ケガは完治したが、空手の稽古で同じ脇腹を打たれるのが怖くなった。その後遺症で藤井新之助は、自分はもう二度と空手はできないと思った。

同時に、大学受験勉強に専念するための、いい口実にもなっている。


その「紫煙」を潰したのが稔彦だ。

昨年行われた秋の大会の前日、油壷公園に集結した「紫煙」のど真ん中へ、単車を走らせ躍り出た。


当時の「紫煙」は、レディース紫煙を創設しようとする幹部の黒田健治と、チームはレディースは持たないと決めた初代総長大城昌幸の意思を継いだ二代目大城みゆきの二派に分かれ、内紛が起こっていた。


稔彦は、藤井新之助の仇討ちと、レディース紫煙の総長に祭り上げられた三崎薫子を取り戻すため、四〇人が入り乱れるその中へ、単車ごと突っ込んでいった。


三崎薫子は、稔彦の中学のクラスメートだった三崎潤子の妹で、まだ中学二年生だ。

稔彦は、三崎潤子に懇願され、妹を「紫煙」から救い出すため、頼みを買ってでた。


数十台の単車が照らすヘッドライトの中心で、奇声を上げながら乱闘を繰り返すその中で、稔彦は黒田健治の右肩を砕いた。

同時に、敵と勘違いした三崎薫子に背後から木刀で殴られ、負傷するが、その事は誰にも話さなかった。


遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえる頃、稔彦は嫌がる三崎薫子を無理やり単車に乗せ、姉の待つ久里浜のアパートまで送り届けた。

黒田健治は、その日の内に、ケガの治療のため入院した。


翌日、その身体で稔彦は、千駄ヶ谷の体育館で行われた空手の大会に出場した。

同日、大城みゆきは、三崎署に「紫煙」の解散届けを報告した。現在大城みゆきは、渋谷の大学へ通うため、区内のマンションで一人暮らしをしている。


カツ丼のお代わりを持ってきた藤井新之助が、嬉しそうに外蓋をあけ、においを嗅いで稔彦へ笑いかける。

「カツ丼て、なんでこんなにうまいんだろうか。この世の中で一番うまい。俺は、カツ丼を発明した人は天才だと思う。ん、稔彦、カレーライス、お代わりしないのか?」

「二杯食べたから、これで良いよ。新之助、おいら、この後、担任との面接なんだ。先に行くね」

「進路相談だな。どこの大学を受けるかちゃんと話して、本腰を入れないと間に合わないぞ」

「判ってるって。じゃあな」

「ああ、また明日、ここで」


太子堂高校は、二年生の秋に進路別クラス替えが行われる。

一組から四組までは文系。

五組から八組が理系。

九組は体育会系。

そのクラスのまま、三年生へ進級する。


稔彦は、ぎりぎりまで結論を出さずにいたから、先が決まらない生徒だけが集まる特別クラスに残ったが、担任の強制的な説得もあり、理系のクラスを選んだ。


理系を選んだ理由は、量子物理学に興味があったからだが、担任の三村宗二は、現代物理学を専攻していたから、都合が良かった。

ただ稔彦は、この時点で大学受験をまったく考えていなかった。

と言うより、大学に行くことに興味がなかった。


その日の放課後、稔彦は、第二校舎の西側にある柔道場へ向かった。


柔道場は、柔道部専属の道場だが、初代段田剛二が空手愛好会を創設した際に、学校側を通さず、当時の柔道部主将と勝手に話しを決めて使用することになった。

それが七年経ってもまだ継続されている。

二〇〇畳ほどの敷地の三分の一を、空手愛好会が間借りしている。


学校側から正式な部活動として認可されていないため、空手愛好会に部室の割り当てはない。

柔道場の角隅に簡易カーテンを張り、そこが更衣室になっている。


稔彦が柔道場へ入ると、それまでふざけ合っていた柔道部員たちが、潮が引いてゆくみたいに静かになり、壁際へ移動してゆく。


「おす!」

先に来ていた熊坂昇太と飯星聖哉が、両手の拳を軽く前へ突き出し挨拶する。


稔彦は、誰が見ていようがいっさいおかまえなしに、その場で空手着に着替え始めた。

稔彦がシャツを脱いだ瞬間、周りから驚嘆のどよめきが湧き起こる。

鍛えあげた上半身の鋼のような筋肉もそうだが、全身に痣になって浮いている打撲創がひどい。

そのほとんどは、仙道明人との組手稽古でついたものだ。


「おす。主将、遅れてごめんなさい」

「翔太、良いよ。おいらも今、来たところだから。さあ、着替えたら、稽古だ」


空手愛好会の稽古が始まった。

稔彦を対面に、三浦翔太、熊坂昇太、飯星聖哉の三名が横一列に並ぶ。


入念な柔軟体操の後、空手の基本技から行う。

稔彦の気合いが、道場内を響き渡る。

「正拳上段突き、一〇〇本。相手の顎を打ち砕くつもりでやれ」

「おす!」


「次、正拳中段突き、一〇〇本。相手の水月を撃ち抜くつもりでやれ」

「おす!」


「次、上段裏拳突き、一〇〇本。相手の鼻頭を潰すつもりでやれ」

「おす!」


「次、上段二本貫手一〇〇本。相手の眼玉を突き破るつもりでやれ」

「おす!」


この後、上中下段の受け技の稽古を行い、五分の給水タイムを挟み、筋力トレーニングに入る。


「拳立て伏せ、一〇〇回」

「おす!」

空手の腕立て伏せは、床に拳を立てて行う。


「次、指立て伏せ」

「おす!」

指立て伏せは、最初に五本指で五〇回、次いで四本指四〇回、三本指三〇回、親指と人指し指の二本指二〇回、最後に親指だけの一本指一〇回と休みなく続く。


最初の拳立て伏せで限界に達していた熊坂昇太は、歯を食いしばりながら、何とか五本指立て伏せを、一五回までやり遂げた。

飯星聖哉は四本指、翔太は三本指の一回でへこたれた。

最後までやり通したのは稔彦だけだ。


「次、腹筋、三〇〇回」

「おす!」


「次、スクワット、三〇〇回」

「おす!」

ここでも、全てを完遂できたのは稔彦ただ一人だ。

それでも翔太は、二一〇回まで持ち堪えた。


五分間の給水タイムが経過すると、すぐ蹴り技の稽古に入る。

「次、上段廻し蹴り、一〇〇本。左右の足で、高く高く、身体の中心線の同じ箇所を蹴るんだ」

「おす!」


「次、中段前蹴り、一〇〇本。自分の水月の延長線を蹴り込め」

「おす!」


「次、金的蹴り、一〇〇本。相手の金的を押し込むんじゃなく、膝と足首のスナップを使って、軽く、下から素早く蹴り上げろ」

「おす!」


「次、関節蹴り、一〇〇本。腰を入れ、相手の膝関節を蹴り砕け」

「おす!」


この後、組手稽古に入る前の五分間の給水タイムの間、稔彦は、一人でサンドバッグを叩いた。

仙道道場にあるヘビーサンドバッグの、三分の一ほどの重量だ。


稔彦が叩く、強烈なパンチ音が、柔道場の中を響き渡る。

突き、蹴りの連打で、サンドバッグが生きものみたいに上下左右に踊り乱れ、天井の張りから吊した鎖が今にもちぎれんばかりに啼き叫んでいる。


熊坂昇太、飯星聖哉、そして休憩中の柔道部員たちが、口をポカンと開けたまま見とれている。

熊坂昇太が嘆いた。

「三浦先輩、サ、サンドバッグが、破れそうです」


その直後、悲鳴を叫び続けた鎖がちぎれ、同時に、サンドバッグの腹が割けて、中に詰められていた布やスポンジが飛び散った。

それを見た翔太が頭を抱えながら嘆いた。

「ああ、これで三つ目っすよ」





三浦海岸駅の駅前通りに入るすぐ先に、梢が遺した居酒屋がある。

店の奥の一間と、二階にある二間は、稔彦たちの居住部屋になっている。


東京の大学に通学していた神谷藍は、梢が亡くなってから住み込みで店を手伝うようになった。

神谷藍の父親は、稔彦の両親とは古くからの付き合いだったから、一人ぼっちになってしまった稔彦の面倒を娘に託した。


その日、稔彦が店を開けると珍しい客が顔を出した。

昨年解散した「紫煙」の二代目総長大城みゆきと、長兄の大城寛司だ。

大城みゆきは、現役時代にトレードマークだったピンクの口紅は、今はつけていない。

大城寛司は、月に一度顔を出す程度だが、蒸発した稔彦の父親の居場所を知る、唯一の存在だ。

神谷藍とも面識がある。


大城みゆきは、店に入るなり、レジの後ろにあるビールサーバーを調整していた稔彦へ向かってウィンクして見せる。

稔彦が驚いて眼を見開き、相手が誰なのか考えている間に、後から姿を現した大城寛司は、ドアに間近なカウンター席に腰を下ろした。


大城みゆきは、兄の隣に腰掛け、右手をひらひらさせながら、稔彦の名を呼んだ。

「久しぶり、稔彦クン。あら、アタシのこと、忘れちゃったの?」

「その声、思い出したぞ。みゆき姉ちゃんか!」

「その、姉ちゃんはよしてよ。キミとは、一つしか離れていないんだからね」

「髪、短くしたんだね。それに口紅の色も違うから、誰なんだか思い出せなかったよ」


この時、稔彦の右眼に向かって、何かが飛んできた。

それを稔彦が、右手の人指し指と中指で挟み取る。手を開いて確かめたら、つま楊枝を半分に折った先端の方だった。

大城寛司が、右手の親指で器用に弾き飛ばしたものだ。


大城寛司は、両手を叩いて喜びながら、稔彦に、

「おい、少年。相変わらず、大した動体視力だな。楽しかったよ。いつもの酒と、こいつには赤ワインをやってくれ。時間がないから、すぐにだ」


稔彦が、ぬる燗とグラスワインをカウンターに置くと、大城寛司は他人ごとみたいに素知らぬ顔で酒を飲み始めた。

大城みゆきは、ワインを一口のみ込んで、それから神妙な顔で稔彦を見上げて言った。

「思い出したくないかもしれないけど、あの、紫煙しえん、が復活したよ」

「みたい、だね」

「さすが情報が早いねえ。総長は、黒田善次郎、元サブリーダーだった黒田の弟。しかも、かなり凶暴。チーム名は、『NEO紫煙』。今はまだ二〇人に足らずだけど、躍起になって昔の仲間に声を掛け回ってるみたい」


この時、厨房から神谷藍が顔を出し、挨拶がてら注文を訊いた。

母親かと思っていた神谷藍の若さに驚いた大城みゆきが、思わず、稔彦の姉かと訊ねた。

神谷藍は、左へ頭を倒し、少し困った顔で応えた。

「まあ、姉、みたいなもんかな。神谷藍って言います。あなた、油壷のみゆきさんね」

「ご存じでしたか」

「実家が三崎口なもんで。そっちの噂はかねがね耳にしていました。ところで、おつまみはどうしますか」

「兄のお陰で、お昼、食べそこねちゃったから、もう腹ぺこ。肉料理をお任せします。それと、兄のお酒と、ワインのお代わりをください」

「稔彦君、ぼーと突っ立ってないで、お酒のお代わり。みゆきさん、ゆっくりして行って下さいね」


神谷藍が厨房へ戻ったのを機に、大城みゆきが再び稔彦に話し始めた。

「もう一つ、ヤバいことがある。『横須賀TAITAN族』が、キミを探してる」

「タイタン族だなんて、まるでギリシャ神話の世界だね」

「笑ってる場合じゃない。こっちは、横須賀米兵の子供たちだけで結成されたチーム。今年で八代目。今は総勢八〇名ほど。うちの、全盛期だった頃の二倍の数」

「米兵のヤンキーが、おいらに何の用があるの」

「リーダーの名前は、ロビンJr.。この名前に聞き覚えがあるはずよ」

「ロビン? あ、あのカール・ロビンのことかあ。あ、ちょっと待って。酒を入れてくるから」


黒田善次郎が率いる「NEO紫煙」の走行ルートは、油壷を拠点に216号線から始まり、三崎警察署を避け、26号線を南下し、日の出の交差点で215号線にのり、海岸沿いを走る。


さらに三浦海岸の交差点で134号線を上り、210号線、208号線、209号線を経て観音崎の灯台前で折り返すパターンだ。


今はまだ、総勢18名の小部隊だが、持ち前の狂暴さで名を馳せ、三浦半島一帯でも音に聞こえた存在になりつつあった。


ただ、横須賀の手前でUターンするには理由がある。

横須賀には、八代続いた米兵の子供たちだけで結成する「横須賀TITAN族」が、幅を利かせていた。

寄せ集めの「NEO紫煙」が対等に張り合うには、まだ力不足だった。


カール・ロビン、通称毛むくじゃら。稔彦はかつて、その巨人と二度闘っている。

一度目は、二年前の横須賀駅改札口前。

神谷藍を迎えに行った矢先で、三人の巨漢に襲われている神谷藍を助けに跳び込んだ。

赤ら顔と黒人、そして一番でかいのが毛むくじゃらことカール・ロビン。


赤ら顔と黒人を金的蹴りで倒した稔彦は、身長二メートルを越すカール・ロビンに抱え上げられ、頭上からコンクリートの床へ投げ落とされた。

柔道の受け身で、何とかショックを和らげたが、しばらくの間、吐き気とめまいに悩まされた。


二度目は、昨年秋の大会の一回戦。

空手の大会だが、柔道やキックボクシングなど、他の格闘技からの参加も認められている。

この時初めて、毛むくじゃらの名前がカール・ロビンであることを知った。

稔彦は、苦闘の末に、得意の足刀二段蹴りで倒し、横須賀駅でのリベンジを果たした。


「おいらを、父親の仇だと勘違いしているってこと」

「みたいね。ただ、ロビンJr.は、黒田善次郎みたいな火の玉小僧じゃなく、それなりの人格者って噂だから、話せば判ってもらえるような気もするけどね」

「ふうん」

「ふうんって、稔彦クン、他人事みたいに流さないで。しっかり構えていないと、後で大変な目に合うよ。まあ、キミなら乗り越えられるとは思うけどね。でも、西から134号線で『NEO紫煙』、東は16号線の『横須賀TAITAN族』、そしてここは三浦海岸、そのど真ん中に位置してるのが、気になる」

「冗談じゃないよ。海開きしたら、家族連れがいっぱいやって来るんだ。浜で暴れられたら迷惑だよ」

「あら、キミに言われたくないね。三浦海岸七人斬りを始め、東京からやって来たサングラス男六人斬り、紫煙の戦闘部隊壊滅、他校空手部への乱入、キミの武勇伝をあげたらきりが無いよ」


この時、神谷藍が、チーズの盛り合わせと野菜サラダを運んできた。

それを見た大城みゆきが、チーズ大好き、そう感激して神谷藍に礼を述べた。


大城寛司が、三杯目の酒を追加した。稔彦に対する妹の忠告を気づかっているのか、さっきから一人で黙々と酒を飲んでいる。


この後、手のあいた神谷藍が三人に加わり、大城みゆきと一緒にワインを飲み始めた。

稔彦は厨房の洗い場で、引き下げてきた皿を洗いながら、それとなく二人の会話に耳を傾けた。予想通り、自分の進学に関する話題だった。


「でも藍さん、稔彦クンなら、絶対に体育会系しょ」

「それが、どうしてなのか理解に苦しむんだけど、理系なんだ」

「理系、すか?」

「何でも、素粒子は、観測されると動きを変化させるから、それなら念を送ったら、梢さんの病気を治せるかもしれないとか、突然言いだして」

「意味が、わからん」

「でしょう。真面にきいていたら頭が痛くなる」

「お姉さん、困った弟さんですね」

「ほんと、困った弟だよ」


それから三〇分ほどして、常連の駅前商店商工会の理事役員たちがやって来た。

今週末に集う定例会の打合せだと言い訳しながら、二席しかない、奥のテーブルに四人が腰掛け、生ビールを頼んだ。


その五分後、大城兄妹が帰って行った。

玄関の外まで見送りにでた神谷藍の手を握りながら、大城みゆきは、満面の笑みを浮かべ、近い内にまた来ることを約束して、先を行く兄を追いかけて行った。





土曜日の午後、子供たちが帰った道場に、稔彦と仙道明人が対峙している。

恒例になった、無制限三本勝負の組手稽古が始まる。


最初に出会った頃の稔彦は、自分と同じ程度の身長だったが、今では頭一つ追い抜かれた。

ウエイトトレーニングの成果もあり、身体全体が一回り大きくなり、逞しくなっている。


仙道明人は、稔彦の成長を我が身のごとく喜んだが、それは同時に、自分の衰えを認識することになる。

「よしゃ、始めようか」

「おす!」


仙道明人が、膝を落とし、両手の拳を顔の左右で構え、稔彦の攻撃を待っている。


稔彦は、二三度ステップし、いきなり跳び込んだ。

左のローキックを刈り込む。

仙道が右膝を立て、受け流す。

次の瞬間、同じ左足の膝のスナップで、素早く左上段廻し蹴りへ切り替えし。


仙道が背伸びし、稔彦の左脚を肩で担ぎ上げ、そのまま押し込んだ。

仙道明人に、稔彦得意の、左ローから上段廻し蹴りへ切り替えは通用しない。


右脚で支えながら、バランスを保とうする稔彦の胸元へ、強烈な左右の正拳突き。

右脚の脚力だけで、後方へ跳び退く稔彦。

追う、仙道。


稔彦、支えの右脚だけで床を蹴る。

左脚を仙道の肩に載せたまま、空中で右足の中足ちゅうそく(指のつけ根)を蹴り込む。


仙道が、肩から稔彦の左脚を放り投げた

稔彦、空中で後方回転して着地。


次の瞬間、ワンステップジャンプ。

高く高く跳び上がり、仙道の頭上から、仙道の顔面へ左右の足裏を交互に蹴り込む、五段蹴り。


両腕をクロスさせ、ブロックする仙道。この攻撃にも慣れた。

床に着地する寸前の、稔彦の右脇腹へ、すかさず左のローキック。


稔彦、右肘で仙道の左脛をはね返す。コンクリート制の電信柱を叩いて鍛えた稔彦の肘。

仙道が、堪らず膝を落とし、痛みで顔を歪める


この時、稔彦の左足が、天井へ高らかに伸び上がった。

仙道の顔面へ、左の踵を打ち落とす。

稔彦のスピードに間に合わず、思わず仙道は両腕をクロスさせブロック。

そのブロックの真上から、稔彦の重い踵が落ちて、仙道の脳天を殴打。

仙道の眼に火花が散る。


そのショックで、再び膝を着いた仙道が、堪らず右手を上げた。

「参った。草薙君。今の踵落とし、見えなかったよ」

「おす」

「どう落としたか教えてくれないか」

「おす。狭い角度の左内回しを蹴り上げ、斜めから落としたんです」

「確かに、それなら視界には入らないな。そのスピードに付いていけなかった。ようし、次は負けないぞ。二本目の勝負だ」

「おす。お願いします」


二本目の勝負は一〇分ほど続いた。

仙道の息があがる。昨年はまだこれほどではなかった。稔彦との組手稽古にも余裕があった。

それがたった半年で稔彦を相手にたじたじとなっている。体力的にもきついが、まだ認めたくはなかった。





朝から陽が照りつけ、初夏の陽気に誘われるように、神谷藍は、久しぶりに浜でくつろいだ。


レジャーシートの上に、手作りの弁当箱を並べ、水平線に盛り上がる入道雲を眺めながら缶ビールを飲み込んだ。


泳いでくると言って海に入った稔彦の姿を探してみる。

波打ち際からかなり離れた沖に、黒い点が浮いているのが見えた。

眼を凝らしてよく見たら、稔彦の頭髪のようだ。

まだ冷たい海水に、黒いクラゲみたいに、波に揺られてプカプカ漂っている。

神谷藍は、その様子が滑稽で、思わず一人で笑ってしまった。

「お昼にするから、はやく戻っておいでよ」


神谷藍の声が届いたのか、黒いクラゲ頭が猛ダッシュで浜辺へ近づいてくる。


海から上がり、レジャーシートへ向かって歩いてくる稔彦の身体は、ゴリラみたく胸板が厚く、肩の筋肉が盛り上がっている。身体中に青痣が貼り付いて、どう見ても高校生の肢体には見えない。


神谷藍は、眩しげに稔彦を見上げながら、バスタオルを投げ、弁当の箱を開けた。

腹を空かせた野獣のごとく稔彦が握り飯に喰らいつき、三口で巨大な握り飯を平らげる。

神谷藍は、その様子をみて笑いだした。


突然、背後がざわついたのは、稔彦が、五つ目の握り飯を食べ終え、玉子焼きに手を伸ばした時だった。


いきなり砂埃が舞い散り、弁当箱が砂だらけになった。

稔彦が哀しげに玉子焼きを眺めていると、背後から、男たちの下卑た笑い声が聞こえてきた。


神谷藍は、突然現れた五人の男たちに驚き、腰を浮かして起ち上がろうとした。それを稔彦が制した。

男たちは、稔彦たちが来る前から、向こうの浜で奇声を上げながらふざけていた輩だ。


稔彦は、砂まみれになった玉子焼きを悔しそうに見つめた。食べたかった。

耳にピアスをした男が、稔彦の顔を覗き込んで囁いた。

「ゴメンね、ボーヤ。せっかく食べようとしてたのに、砂がかかっちゃって食べれないね。でも、気にしないでそのまま食べちゃえば」


ピアスの隣にいる左腕にジョーカーの刺青をした男が、ピアスの肩に腕を回し、南米のジャングルに生息する怪鳥の鳴き声みたいな笑い声をあげた。


ジョーカーにつられて他の三人が大袈裟に肩を揺らして笑いだし、やがて男たちの視線が神谷藍に向かっていった。

稔彦は、その卑猥な眼が嫌いだ。


ジョーカーが、神谷藍の顎へ左手を差し伸ばした瞬間だった。

稔彦の裏拳が、ジョーカーの左指を強かに弾いた。

グギ、と音がして、人指し指と中指の第一関節が、歪な角度に曲がっている。

最初は何が起こったのか認識できないジョーカーは、一瞬遅れて、左指を押さえながらわめいた。

「痛ぇ、痛ぇよお!」


ピアスが他のメンバーを促し、三人が稔彦に殴りかかる。

稔彦はまだ座ったままだ。


座った状態から、正面ピアスの膝へ足刀関節蹴りを蹴り込み、稔彦を捕まえようと屈み込んだ左右の男たちの顎に、左の裏拳を連打。男たちの鼻から血が飛び散る。


それからゆっくり起ち上がり、一人残した小柄な男に、倒れた四人を連れて帰るよう命じた。

男は青ざめた顔で何度も頷き返し、最初にジョーカーに肩を貸し、浜から上がって行った。


海岸通りに駐車してあるワゴン車に四人を載せ、津久井浜方面へ向かって走りだした。


稔彦が、神谷藍と一緒にレジャーシートを片づけていると、遠くから爆竹の破裂音に混じり、いかれたようなラッパの鳴り響く音が響いてきた。


稔彦は、レジャーシートをたたむ手を止め、海岸通りへ顔を向けた。

騒音が近づき、旗を靡かせた先頭車の後から数台の単車が走り過ぎてゆく。


稔彦には、ノーヘル、サングラス、黒の革ジャンを羽織った旗の男の顔が、にやけているように見えた。

その連隊の後尾に、さっきまでそこにいたワゴン車が引きずられている。

フロントガラスが割れ、サイドドアが凹み、ハンドルを握る小柄男は、額から血を流していた。


この時、一瞬、先頭で旗を担ぐサングラスが稔彦を振り向いた。

稔彦は、坊主頭のその顔に、見覚えがなかった。





いつもより早めに柔道場へ入った翔太は、鎖がちぎれ、腹が破れた状態で転がっているサンドバッグの前に立つ二人の男に気づいた。


短髪でずんぐり型の男は、梶川大悟。

翔太が入部した時に、六代目主将として空手愛好会に君臨していた猛者だ。

その梶川大悟に、横から話しかけている長身の男に見覚えはない。陽焼けした顔に、眼光が鋭い。


翔太は、慌てて柔道場へ上がると小走りに走り、梶川大悟の前で立ち止まり挨拶する。

「おす、梶川主将。お久しぶりす」


梶川大悟が太い声で笑いだし、それから翔太の肩を叩いて言った。

「俺は、今はOBだから、その主将と呼ぶのはもう止めろ」

「おす、失礼しました。で、こちらの方は、お友だちか、何かすか?」

「その何かって言うのは、失礼だぞ。そうか、三浦は鬼頭先輩とは初対面だったな。紹介する、五代目主将を全うされた鬼頭先輩だ。今俺は、鬼頭先輩と同じ大学でスポーツ科学を専攻しているんだ。三浦、鬼頭先輩に挨拶しろ」

「おす。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。二年、三浦翔太であります」

「鬼頭だ。よろしく。おまえが三浦か。どうやら八代目は、おまえが継ぐみたいだが」

「おす。草薙主将からはまだ何も聞いておりませんし、そんな噂もありません」

「そうか。俺の早とちりかな。ところで、その草薙はまだのようだが」

「おす。いつもは一番乗りなんすが、今日は面談があるため少し遅れるとのことです」

「この時期だと進路面談だな。ここは進学に厳しいから、三年生は、受験と部活の両立で大変だろうな」


この時、柔道場の玄関の前で、翔太と話している見知らぬ男たちを発見した熊坂昇太と飯星聖哉が、そわそわ話し込んでいた。

熊坂昇太が、あれが噂の段田剛二ではないのかと、怯えた声で飯星聖哉に訊ねていると、いきなり背後から肩を叩かれた。


振り向いたら、そこに稔彦が飄然とした顔で立っていた。

「どうした、早く入れよ」

「おす、草薙主将、あの方たちは、段田先輩でしょうか?」

「三浦先輩と話しているあの二人です」

「バカだなあ、なんで段田剛二が二人もいるんだよ。右にいるのが梶川先輩、左が鬼頭先輩だ。はっきり言っとくけど、段田剛二が来たら、電流が走って鳥肌が立つからすぐに判るよ。さあ、早く行け。先輩たちに、ちゃんと挨拶するんだぞ」

「おす!」


稔彦に背中を押された熊坂昇太と飯星聖哉の二人は、鬼頭たち三人の前へ転がるように滑り込んで行った。

息を切らせながら挨拶する。

「おす。一年、熊坂昇太」

「おす。同じく一年、飯星聖哉です。よろしくお願いします」


それから翔太が、二人の空手歴を鬼頭たちに説明している間に、稔彦がやって来て挨拶した。

梶川大悟が、昨年の大会での活躍を称賛すると、鬼頭三郎が、今年も出場するのか訊ねた。

稔彦は一言、

「おす」

それが返答だった。


稔彦はすぐ空手着に着替え、三浦翔太、熊坂昇太、飯星聖哉を横一列に整列させ稽古を始めた。

鬼頭三郎と梶川大悟は、稽古の邪魔にならないよう窓際へ移動した。それから両腕を組みながら、しばらく稔彦たちの稽古を眺めた。


柔軟体操の後、稔彦は、いつもの基本稽古を行う。

「上段正拳突き、一〇〇本」

「おす!」

「次、上段裏拳突き、一〇〇本」

「おす!」

それから両眼を狙う、人指し指と中指の貫手突き、左右のこめかみを打つ回し打ち、鼻下と上唇の間にある人中を突く中指一本拳。

五分間の給水タイムを挟み、今度は蹴り技の稽古に移る。


蹴り技の稽古を見ていた梶川大悟が、鬼頭三郎にこう話しかけた。

「おす、先輩。われわれの時とは、稽古のやり方が随分変わりましたね」

「確かにな。上段突きを中心に、蹴り技も、金的蹴りや関節蹴りなど、実戦で使える技を中心に教えている」

「つまり、草薙は、喧嘩に勝つための稽古をやっているわけです。少し危なくないですか」

「さあな。稽古のやり方に関しては、刻の主将に一任されているから、稔彦の好きにやらせるしかないが、あいつなりに何か思う処があるのかもしれない。お、次は、組手稽古だ」

「あ、あの配置、どうやら草薙は、三人を同時に相手するみたいですね」

「あの大会で準優勝したんだ。三浦たちが相手ではもの足りないだろうよ」


先に翔太が突っ込んだ。

稔彦の左腿へローキックを刈り込む。

同時に、右の熊坂昇太が中段廻し蹴り、左の飯星聖哉が上段廻し蹴りを放つ。


一瞬稔彦が身体を沈めた。

次の瞬間、勢いよく伸び上がる稔彦の四肢のパワーに弾かれ、翔太たち三人が跳ね飛ばされた。


それを見て驚いた梶川大悟は、

「鬼頭先輩。草薙は、昨年の大会よりかなりパワーアップしてますね」

「横須賀の道場で、あの仙道さんに鍛えられているからな。ベンチプレスで150kgは挙げるらしいぞ」

「150! まだ高校生で150は凄いですね」

「目標は180だと」

「180ですか。あいつ、どんどん化けものになっていくようですね。あ、またやるみたいですよ。今度は三人同時に攻撃するみたいです。草薙がどう対応するのか楽しみです」


それは一瞬だった。

梶川大悟が瞬きした瞬間、翔太たち三人が畳の上に転がっていた。

鬼頭三郎が、我が身のごとく、嬉しそうに手を叩いて喜んだ。

「稔彦のやつ、パワーだけじゃないな、技のスピードもかなりアップしている。大悟よ、今日は稔彦とやらなくて命拾いしたな」

「おす。今日だけではありませんよ、先輩。ますます距離が離れて行きます」

「確かにそうだな。やるなら、早い内がいいかもな」

「え? どう言う意味ですか?」

「いや、何でもない。そろそろ終わるみたいだから、先に店に向かうからと稔彦に伝えてくれ。そしたら行こう」

「おす」





稔彦が店のドアを開けたら、いきなり男女の笑い声が耳に跳び込んできた。

ドアを引いて中に入ると、カウンター席の奥で、鬼頭三郎と梶川大悟が、神谷藍と親しそうに話し込んでいた。

同じ大学生同士だし、年齢も近いから話が合うのだろう、稔彦はそう思いながら厨房でエプロンをつけた。


稔彦の姿を見た鬼頭三郎が、右手でVサインを作り、生ビールのジョッキを二つ注文した。

神谷藍は厨房へ戻り、二人のために豚の生姜焼きと野菜サラダを作り始めた。


梶川大悟は、神谷藍が厨房へ戻りかけた後ろ姿を、優しい視線で見つめる鬼頭三郎に気づいた。

この時、鬼頭三郎の心に、神谷藍の存在が確かに刻まれたことを理解した。


鬼頭三郎と梶川大悟は、大ジョッキを三口で飲み干し、すぐ稔彦に追加を急がせる。

二杯目も同様に三口で空にし、三杯目を頼んだ。


カウンターテーブルの奥にあるキッチンから二人の飲みっぷりを眺めながら神谷藍は、同世代の、威勢の良さを久しぶりに目の当たりにして嬉しくなった。

それから二人は、三杯目を飲み干すと、濃いめの焼酎の水割りに切り替えた。まだ、生姜焼きさえ出来ていない間の、二人のピッチの早さに、稔彦も驚いている。


大きな体躯の外人が二人、店に入ってきたのは、神谷藍が、出来上がった生姜焼きの皿をカウンターに置いた時だった。


稔彦は、口髭を生やした男に見覚えがある。

二年前、横須賀駅で争った三人組の一人、赤ら顔だ。


二人は、ドアに一番近いカウンター席に腰掛け、生ビールを注文した。

赤ら顔は、注文を取りにきた稔彦を一瞥したが、稔彦の顔を覚えている様子はない。

それから生ビールをぐい飲みした後、赤ら顔が、ステーキをレアで注文してきた。


さらに二人の客がやって来た。

大城兄妹だ。

大城寛司は、いつもの席に見慣れない外人が座っているのを見て、舌打ちした。

大城みゆきは、厨房の奥を覗き込み、神谷藍に声をかけた。冷蔵庫からステーキ肉を取り出そうとした神谷藍が顔を上げ、笑顔を返す。


稔彦は、大城寛司の前にぬる燗を、大城みゆきにはグラスワインを置いた。

この時、大城みゆきが稔彦に話しかけようとしたのを、大城寛司が制した。

不思議に思った妹が、苦み走った兄の顔を覗き込んだ。

「どうしたの、大ぃ兄ぃ」

「みゆき、その話はなしだ。隣はあっちの関係者らしい。ばか、見るな」


大城みゆきは、稔彦に、横須賀TAITAN族が動き始めた情報を伝えるため店を訪れたが、その店に関係者が来ているとは思ってもみなかった。

顔の赤い男と、もう一人は右腕にマウスのタトゥーを入れている。


この二組の客たちの異様な気配を、それとなく気にかけていた鬼頭三郎は、焼酎を飲むピッチを遅らせ、何が起こってもすぐ対処できるよう身構えた。


女性の横で、黙然と日本酒を舐めている坊主頭の男の殺気が、それほどピリピリ伝わってくる。

白の開襟シャツの下は裸で、金のネックレスが異様に光っている。

どう見ても普通のサラリーマンには見えない。

隣で優雅にグラスワインを飲んでいる女性もただ者ではなさそうに見えたが、大城みゆきが、後輩の梶川大悟と同年齢の女子大生だとは気づかない。


稔彦は、赤ら顔が注文したレアステーキをカウンター席に運んだ。

マウスが、テキーラはあるかと英語で訊ねてきた。テキーラは置いてないが、バーボンならあると、手まねを繰り返しながら稔彦が返答していたら、赤ら顔がいきなり大声を張りあげた。

この肉はレアではなく、ミディアムだから、作り直せと言っている。


厨房から神谷藍が飛び出して来て、丁重に謝罪した。

稔彦は、赤ら顔の前からステーキ皿を回収すると、奥のキッチンで、焼けた部位だけ削り落として、もう一度、赤ら顔の前へ出した。


これはさっきの肉ではないかと言うなり、憤怒の顔でカウンターを叩いた赤ら顔が、椅子から立ち上がった。

その赤ら顔の顔を見上げながら、稔彦が日本語でこう言った。

「さっきの焼き方は間違いなくレアだよ。生肉が食べたいなら、最初から生肉を注文しなよ。出された料理は、文句言わずにおいしく食べなよ。日本には、もったいないって言う文化があるんだ」


この時、大城寛司が手を叩いて笑いだした。

マウスが何か言おうとするのを、稔彦が制し、他の客に迷惑だから、表で話そうと誘いだした。

この時、赤ら顔が薄ら笑んだの見た稔彦は、最初から喧嘩を売るつもりで来店したのだと理解した。


最初に赤ら顔が、稔彦を挟んで後方にマウスが並んで店の外にでた。

右指に爪楊枝を挟んだ大城寛司が、三人の後を追う。

鬼頭三郎が梶川大悟の肩を叩いて椅子から立ち上がった。


大城みゆきは動かない。

グラスワインを飲みながら、緊張した顔で厨房から駆け出してきた神谷藍に声を掛けた。

「藍さん、待ちなよ。大ぃ兄ぃがついているから心配いらないさ。ここでワイン飲みながら待っていようよ」


神谷藍は、大城みゆきの引き止めに一瞬迷ったが、空手愛好会のOBもいることだし、稔彦たちが戻るまでここで待とうと思った。ただ、何か嫌な胸騒ぎを覚えていた。





前に赤ら顔、後方にマウスが立ち、稔彦を挟み撃ちに構えている。

稔彦は、二人の動きが見えるよう横向きに立ち、左手を赤ら顔へ、右手をマウスへ軽く差し伸ばし構えた。


赤ら顔が、聞き取りにくい英語で、カール・ロビンの名前を何度も口にした。

カール・ロビンは、昨年秋の大会で稔彦に敗れ、負傷し、今ではリハビリ生活を強いられていたが、稔彦は知るよしもない。


先に赤ら顔が動いた。

両手の拳を軽く顔面に上げ、ボクシングスタイルでまた一歩間合いを詰めてくる。


稔彦が、その赤ら顔の動きに気をとられた瞬間、後ろからマウスが稔彦を羽交い締めにしてきた。ネルソン・ホールド。


マウスが決めにかかる寸前、稔彦が沈んだ。

真下から、マウスの金的を蹴り上げる。マウスが股間を押さえながらうずくまる。その脳天に、右の踵を落とす。ぐしゅ、とした感触がして、それからマウスの口から血が溢れた。衝撃で舌を噛んだようだ。


それを見た赤ら顔が雄叫びをあげ、一気に間合いを詰めた。

一発喰らえば、頭ごと持っていかれそうな強烈な右のストレート。


同時に稔彦が前へでる。

赤ら顔の右を額で受けた。

赤ら顔が、右拳の痛みで顔を歪め、稔彦の額からは血が流れだす。


赤ら顔が左右のワンツーを繰り出す。

稔彦、赤ら顔の攻撃を軽く左手で払い、その左膝へ関節蹴り。

がくん、と膝が歪な角度に折れ、赤ら顔が膝から崩れた。


その左側頭部へ、稔彦が右のローキックを刈り込む。

まともに当たれば命の保証はない。


「止めろ!」

鬼頭三郎が叫んだ。

稔彦の右脚が、赤ら顔の左側頭部の寸前で静止する。

稔彦は、三歩後退して間合いを外した。


赤ら顔が、ゆっくり起ち上がる。

その眼がまだ笑っている。

まだ終わっていない。

赤ら顔が、懐から黒い物体を抜き出した。

それが何なのか、誰も気づかない。


「逃げろ!」

突然、大城寛司が叫んだ。


直後、鈍い破裂音が鳴り響く。


稔彦は、火花の後から火薬の臭いをかいだ。


次の瞬間、稔彦の意識が途絶えた。



一〇



梶川は、稔彦が撃たれたショックで、一瞬我を忘れた。


鬼頭が先に稔彦へ走り寄った。その動きをみて我にかえった梶川が、慌ててスマホを取りだし、救急車を手配した。

スマホのダイヤルをタッチする指が震えている。恐ろしいことが起きてしまった。


商店街を往来する主婦二名は、赤ら顔が撃った銃声を、車のパンク音と勘違いして通り過ぎていった。赤ら顔はすでに拳銃を懐に戻していたから、鬼頭たち以外に気づいた者は他にいない。


店の中で破裂音を聞いた神谷藍は、驚いて大城みゆきの眼を見つめ、硬直した。この商店街で、タイヤが破裂するなどあり得ない。


間もなく救急車のサイレンが聞こえてくる。

そのサイレン音で、大城みゆきと神谷藍が慌てて外へ走った。


逃げようとする赤ら顔の前に、大城寛司が立ちはだかった。

大城寛司は、指に挟んだ爪楊枝を赤ら顔に差し向け、一歩でも動いたら殺すと脅した。

「この野郎。ガキ相手にハジキなんぞぶっ放しやがって」

大城寛司の眼が、怒りで吊り上がっている。


その直後、銃声音をきいて店から飛びだして来た妹に命じた。

「みゆき、サツが来たらすぐにおさらばだ。先に帰り支度しとけ。それまでこいつを逃しやしねぇ」


腹部を押さえたまま地面に倒れた稔彦をみて、神谷藍が青ざめた。


稔彦くんが撃たれた……その言葉が頭の中で何度も木霊した。

膝が震えて止まらない。

稔彦を介抱したいが、何をどうしたらいいのか判らない。ただ稔彦は、額から血が流れているのに、なぜだか腹部を押さえていた。


その場にいる鬼頭たちの耳に、救急車のサイレン音が近づいて来た。

突然、赤ら顔が何か叫んで大城寛司に体当たりした。その勢いで大城寛司が吹っ飛んだ。


赤ら顔はマウスを抱き起こし、肩を貸しながら走りだした。


それから駅の反対側の駐車場に停めておいたジープに乗り込み、急発進させる。

途中で頬に痛みを覚え、ジープを運転しながら指で触れたら、短い棒のようなものが突き刺さっていた。


さっき体当たりした瞬間に、大城寛司が指に挟んだ爪楊枝を刺し込んだのだ。

大城寛司は、赤ら顔の眼球を狙ったが、赤ら顔が突進してくる勢いで的を外してしまった。


稔彦は、救急車の中で応急処置を受けた。

赤ら顔が使用した拳銃は、護身用に改造された9mmshort弾丸で、威力が小さかったことが幸運だった。


婦人警官がハンドバッグに入れて持ち運べる大きさで、殺傷力は小さい。

稔彦は、店で赤ら顔をみて警戒態勢に入った時、刃物で襲われた場合を想定して、腹に週刊誌を差し入んでいた。

赤ら顔が至近距離から撃った拳銃の弾丸は、週刊誌を貫いてはいたが、稔彦の鍛えられた腹筋の表面で停まっていた。


稔彦はその夜、病院で検査と手当てをうけ、翌日には退院できた。

三浦海岸へ帰ることに対する、警察の許可は取ってある。


赤ら顔とマウスはまだ逃走中だが、二人は現役の横須賀米軍在籍だから、基地に逃げ込まれたら厄介だと警察が話していた。どの程度の罪になるのか、稔彦には想像もつかない。


神谷藍に付き添われ、退院手続きを終えた稔彦が病院の外へでたら、鬼頭三郎と梶川大悟が笑顔で出迎えてくれた。


鬼頭が稔彦の頭を撫でながら、

「まったくよ、高校生のくせに拳銃で撃たれたやつなんて、聞いたことがないぞ。それにしても、無事で何よりだよ」

「おす。先輩。こんな事件に巻き込んでしまって申し訳ありません。ところで、警察からいろいろ質問されたと思いますが」


事件に巻き込んだ鬼頭と梶川に、すまなそうな顔で稔彦が訊いた。その問いに、鬼頭に代わって梶川が応えた。

「事情聴取なら昨夜で済んだよ。素直に全部話したら、あっちも理解してくれた。もっとも、高校生相手に拳銃をぶっ放したあいつらに非があるのは確かだが、基地の中は警察の権力外だから、どうなるかな」


それから鬼頭は、神谷藍に昨夜からの労をねぎらう言葉をかけた。

神谷藍は、少し疲れた顔で空を見上げていたが、思い直したように笑顔をつくると、心配して付き合ってくれた鬼頭と梶川に礼を述べた。


次の瞬間、何かを思いだしたみたいに、あ、と叫んだ。鬼頭が驚いて訊いた。

「ど、どうかしましたか」

「あの人たちの飲食代、もらい損ねちゃったあ。どうしよう。でももう遅いよね。あのステーキのお肉、高かったんだよねえ」

「藍姉ちゃん、そんなこと、どうでも良いよ」

「どうでも良くなあい。そうだ、空いた穴は塞がねばならない。稔彦くん、君が悪いんだからね、今月分のお小遣いから差し引いとくから、そのつもりで、よろしく」

「な、なんで、おいらなんだよ」


お小遣い、の言葉を聞いた鬼頭が、眉間に皺をよせ、稔彦の肩を掴んで揺さぶった。

「お、お小遣いって、どういうことだよ、稔彦。昨日から疑問に思っていたんだが、おまえ、神谷さんとはいったいどういう関係なんだ。ちゃんと説明しないとぶん殴るぞ」

「親同士が知り合いなだけです」

「お小遣いってなんだ」

「聞き違いです」

「ばか、やっぱりぶん殴る」


梶川が、稔彦と鬼頭の間に分け入り、稔彦と神谷藍のこれまでの経緯を、鬼頭に説明した。梢の死を聞いた鬼頭は、しょんぼりした顔で稔彦の肩を握っていた手を離した。


店の前で起こった、高校生相手の米兵による発砲事件は、マスコミも大きく取り上げた。


稔彦は、マスコミの取材陣に何度か囲まれたが、何も応えなかった。

ただ、店の宣伝にはなった。休日にやって来る客足が増えたのは確かだ。

稔彦の知らないSNS上で、その話題に便乗するように、稔彦の噂が膨張され、拡散していった。

「あいつ、拳銃で撃たれても、平気だった。噂以上の化け物だな」

「違う、拳銃の弾丸を躱したって話だ」

「俺、そいつ、知ってるぞ。三浦海岸七人斬りをやったやつだ」

「もっといっぱいあるよお。昨年、族のチームを潰したやつで、じつは、ボクの、ダチなんだあ」


藤井新之助が、学食で騒ぎだしたのも、その頃だ。学校側に対しては、警察から、稔彦には非がないことを伝えていた。

「うるさい。新之助、もう済んだことだから盛り返すなよ」

「ばか。稔彦のばか。おまえはそれでもいいんだろうが、世間がまだおさまらねぇんだよ。おまえは知らないだろうが、油壷の動きが止まっちまったんだ」

「どうして」

「決まってんだろうが。今回の発砲事件で、今、関わりあうのはマズいと思ったからじゃねぇの。横須賀はわかんねぇぞ。メンバーに身内がいたらしいからな」


「NEO紫煙」が鳴りを潜めている間、「横須賀TAITAN族」が、209号線を南下して、海岸通りへ現れる姿が目立ち始めていた。

赤ら顔は、米軍の計らいで、急遽本国へ異動になった。



一一



気が収まらないのは、稔彦の方だ。

拳銃で撃たれ、赤ら顔との決着もつかないまま、本国へ逃げ込まれては何もできない。中途半端な状態で、帰国させるわけにはいかない、それが稔彦の、自分自身に対する覚悟だ。


赤ら顔の帰国が日曜日の午前中だと知ったのは、仙道明人の道場に通う、子どもの父親からだった。

彼は米軍基地の食堂に勤務していて、赤ら顔の送別会の準備を手伝っていた。その時に聞いた話を、一緒に子どもを迎えにきた父親と立ち話していたのが、偶然、稔彦の耳に入った。


稔彦は、日曜日の早朝、単車を走らせ、浮島からアクアラインを経由して成田空港へ向かった。

国際線第二ターミナルの三階トイレで、梢が使っていた鬘と口紅をつけ、神谷藍から無断で借りたミニスカートに履き替え、赤ら顔がやって来るのを待った。着替えはショルダーバックに入れてある。


待つこと二時間。

エスカレーターの下から、妻と息子を連れた赤ら顔が上がって来た。それを確かめた瞬間、稔彦の頭の中に、アドレナリンが充満した。

勝負は一瞬。

やったら逃げる。


稔彦は、赤ら顔を目がけ、全速で走った。

ロビーに設置された椅子の背に跳び乗り、そのまま前方へ向かって高く跳躍した。

一撃必殺。


奥歯を噛み締め、空中から、赤ら顔の人中(鼻と唇の間の溝の部分)を目がけ、人指し指の第二関節を立てた、一本立て拳で突いた。


突いた瞬間、驚く赤ら顔の大きな眼をみた。

赤ら顔は何か叫ぼうとした。

叫ぼうと口が開きかけた時、稔彦の一本立て拳が、赤ら顔の人中を直撃していた。当たる瞬間、指の先に、肉が潰れる嫌な感触が残った。


突いてそのまま駆け抜ける。

女の悲鳴を背中で聞きながら、全力で階段を駆け降りる。すぐトイレに逃げ込み、着替え始めた。


成田空港を背に、単車のアクセルを全開に絞りながら、稔彦は出発ロビーで起こした一連の葛藤を反芻していた。


あの時、渾身の一撃、赤ら顔の人中を突いた瞬間、確かな手応えはあった。

だが振り返る余裕がなかった。あれから赤ら顔がどうなったのか、それを確かめる余裕がなかった。ただ殴っただけで逃げたのなら、それは意味のない自己満足に過ぎない。


稔彦は、やはり、止めは刺すべきだったと、悔やんだ。そしてこの行動の本意を、赤ら顔にちゃんと宣言してから立ち去るべきだった。


木更津金田インターからアクアラインへ入る。

五月晴れの蒼空の下、潮風を高速で切り裂きながら真っすぐ走る。

海ほたるを通り過ぎる手前まで、一羽のカモメが平行して飛んでいた。


稔彦はそのまま、横須賀の仙道空手道場へ向かった。



一二



月曜日、部活を終えて坂を下り、海岸通りへ降りた。


稔彦が、通学手段の足として使用している単車、通称<疾風>は、海岸通り沿いの民宿三浦屋の駐車場に停めてある。

三浦屋は、三浦翔太の叔父が経営しており、翔太を通して許可は得ていた。


稔彦が、<疾風>に跨がり、エンジンをかけようとした時、一台の単車が滑り込んできた。タンクもシートもまっ黒の巨大マシン、ハーレーダビッドソンだ。

でかいな、正直そう思う。

稔彦の<疾風>は、中型400ccだから、大人と子供の差がある。


短く刈りあげた金髪をポマードでオールバックに固め、黒の革ジャンに鏡のように黒光りするサングラスをかけた男が、ハーレーダビッドソンに跨がったまま稔彦に顔を向けた。エンジンはかかったままだ。その男がかもし出す雰囲気は、自分より少し大人っぽかった。


男は、あまり流暢とは言えない日本語で話しかけてきた。

「ユー、クサナギ。ナリタ、オマエ、ヤッタナ」


稔彦は最初、男が何を言っているのか理解できず、ぼんやりしていたが、その直後に、男が、自分はロビンJr.だと名乗ったのを聞いて、言いたいことを把握した。

「マイケル。マイケル・スミス」

マイケル・スミス、この時稔彦は、赤ら顔の名前がマイケル・スミスだと初めて知った。


稔彦も、単車に跨がったまま訊いた。

「変装したのに、もうバレていたのか。それで何をしにきたの」

「イマハ、ポリス、ウルサイ、シズカニスルネ。キョウ、アイサツ。カオ、オボエタ」

「こんな顔みても、楽しくないよ。ところで赤ら顔、いや、そのマイケルは、あれから、ちゃんと国へ帰れたの」

「アメリカ、ヨル、ツイタ。ソレ、オマエノセイネ」

「そいつは災難だったね」

「オマエ、ピストル、ヘイキ」

「まあね、この通り元気だよ」


ロビンJr.は、稔彦が、腹に週刊誌を差し込んでいたのを知らない。

「オマエ、ミステリアスボーイ。マタ、アイニクル」

そう言うなり、ロビンJr.が、軽快にアクセルを三度吹かして走り去った。

稔彦はしばらく、遠ざかるロビンJr.の後ろ姿を眺めていたが、噂に聞くほど、彼に対する嫌悪感は抱かなかった。



一三



太子堂高校空手愛好会三年生を送るイベント、通称「追い出し稽古」は、毎年、夏休みに入る二日前に行われる。

今年は草薙稔彦の追い出しとあって、県内外からたくさんの見物人が集まって来た。


彼らのほとんどは、稔彦の顔を知らない。

SNS上に拡散された武勇伝や、マスコミが報道した昨年の大会の活躍に感化され、ひと目見ようと思いで作りにやって来る者がほとんどだ。


当日、三千人を超す観客が、狭い柔道場の周りを取り囲んだ。

大人も子供も、そして女子生徒に混じり、若いOLたちの姿も少なくない。

その群衆の中に、稔彦がかつて世話になった横須賀キックジムの宮下トレーナー、対戦した向井京太、そして愛好会五代目主将鬼頭三郎、六代目梶川大悟、OB倉田信行の顔も混じっている。


学校側から警備を依頼された三崎署の河田警部補が、溢れかえる群衆をみて驚いた。

「これはまるで、人気アイドルの解散コンサートだな」


それから急いで本部へ連絡を入れ、応援を頼んだ。

どうみても無許可の店も営業しており、校内では販売が禁止されているアルコールを売る者もいたから、警察官三名ではどうにもならなかった。


河田警部補は、恨めしげに空を見上げ、連れて来た二人の警察官に嘆いた。

「それにしても暑いなあ。暑いうえに、この人盛りだ。おい、このままでは、熱中症で倒れる輩がいっぱい出るぞ。救急車の手配は万全なんだろうな」

「はい、河田警部補。校門前に二台、待機させております」


三崎署から派遣された若い警察官が、額から流れ落ちる汗を手の甲で拭いながら応えた。


柔道場の中央で、稔彦を前に、三浦翔太、熊坂昇太、飯星聖哉が一列に並んでいる。


恒例であれば、次期主将がイベントの進行を取り仕切るが、稔彦はまだ次期主将を指名していなかったから、自らその場を指示しなければならない。

この日だけは、柔道部員たちは全員、外で稽古を行っている。ただ野外稽古は表向きの部活で、部員のほとんどは、追い出しの見物に回っている。

 

定時刻の一五時、基本稽古が始まった。


いきなり上段正拳突き一〇〇本。

次いで、顔面裏拳打ち一〇〇本。

上段肘打ち一〇〇本。

眼球を狙う二本指貫手突き一〇〇本。

顎打ち一〇〇本。

これを休みなしで繰り返す。すべてが上段、つまり顔面を狙った攻撃技だ。

「次、左右上段廻し蹴り一〇〇本」

「次、同じく上段前蹴り一〇〇本」

「次、中段金的蹴り」

「次、中段中足蹴り」

「次、下段廻し蹴り」

「次、下段関節蹴り」


稔彦を含めて四名しかいないが、もの凄い気迫とスピードで展開されてゆく基本稽古に、観衆たちが圧倒されている。

特に前列の見物人たちは、手に汗を握りながら、眼前の迫力に呆然として一言も発せない。


翔太たち三名の息づかいがだんだん荒くなっている。

「ようし、これまで。五分間、休憩。みんな、水分をちゃんと補給しとくように」

稔彦のその一言で、翔太たちが崩れ落ちた。


それを聞いた群衆からため息がもれ、うち寄せる波のようにどよめいた。それから何かに取り憑かれたみたいに、持参したペットボトルをがぶ飲みする。


鬼頭三郎が大きく深呼吸してから、梶川大悟に言った。

「稔彦のやつ、完全に実戦を想定した稽古に切り替えたな」

「おす。前もそうでしたが、実戦に不要な技は省いていましたね。自分は、高校生の身分で、少し危険な気がしております」

「それはあいつの、経験がなせる業なんだよ。何たって拳銃で撃たれたんだぞ。半端な考えでは、やっていけないだろう」

「おい大悟。稔彦、なんか、変わっちまったなあ」

「倉田、どう言う意味だ」

「前はやんちゃで、それはそれで可愛くもあったが、今のあいつは、まるで、冷たい戦闘マシーンみたいだ。愛嬌がないっつうか、闘気だけめらめらしてて、怖いくらいだ」

「倉田よ」

「おす。鬼頭先輩」

「これから始まる、組手をみてから判断しても、遅くないよ」

「おす。ただ、そんな気がしただけです。あ、もうすぐ、始まるみたいです。あ、鬼頭先輩、稔彦は、三人同時にやるつもりです」

「倉田、草薙が目隠ししたぞ」

「大悟、あいつ、目隠ししたままで、三人同時にやる気だ。翔太以外はまだ一年生とはいえ、本流派の茶帯だぞ」


目隠しをした稔彦が中央に立つのをみた群衆が、再度どよめいた。


後方の見物人から、見えねえぞとヤジがとぶ。

「おい、前のやつらは、後ろが見えるようにしゃがめったら」

「早くしねえと始まっちまうよ」

「うるせー。こっちだって良く見えねぇんだ。それに、校内で酎ハイなんか飲んでんじゃねぇつうの」


見物人同士でもめ事が始まり、押したり引いたりの騒ぎに発展した。

河田警部補が警察官二名を引き連れ、群衆の中へ分け入り、もめ合う五人を群れの外へ連れ出した。


ここは学校だから、アルコールと暴力沙汰は控えるよう説得している最中に、また西側の端で、同じような騒ぎが起きた。

先ほど、河田警部補が依頼した応援部隊はまだやって来ない。河田警部補は、肩で大きく深呼吸すると、部下に顎で命じて走りだした。


一瞬だった。

目隠しをした稔彦の手足が動いたと思った瞬間、対戦した三名が柔道場の畳の上に転がっていた。


前列の観客は、少しでもその瞬間をみることができたが、後方の観客は、稔彦の動きが早すぎて見逃した。


前列二列目の西側から覗き込んでいた横須賀キックジムの宮下トレーナーが、向井京太にこう訊ねた。

「京太、今の、見えたか」

「左右のパンチと左前蹴りですか」

「それを、ほぼ同時にやったんだ。目隠しして、おまえにできるか」

「目隠しなしでやったとしても、素早い体重移動、そのバランスを維持するだけで精一杯です。ちょっとでもバランスを崩したら、あんな風に、相手をふっ飛ばせませんから」

「攻撃するタイミング、踏ん張る足腰の筋力、とくに膝から上と尻筋だな」

「背筋も必要ですが、草薙には、それらをまとめて動ける、天性のバランス感覚があるみたいですね」

「ああ、その通りだ。あいつ、一年前とは雲泥の差だな。昨年の大会で、準優勝したって噂も、まんざら嘘じゃなさそうだ」


宮下たちとは離れた玄関前の大窓から観戦していた倉田信行が、興奮した顔で鬼頭三郎と梶川大悟を交互に振り返り、叫んだ。

「まだ何かやるようです。翔太たちが、奥へ走っていきました」


次の瞬間、梶川大悟が唸り声をあげた。

「あ、あれは! 草薙のやつ、あんなものまで持ちだして、どうするつもりなんだ」


鬼頭三郎が、柄にもなく憤慨している梶川大悟の肩を叩いた。

「落ち着け、大悟。どうするんだか俺にもわからん。まあ黙ってみてみようぜ」


奥の倉庫から、三浦翔太と熊坂昇太、飯星聖哉が三人掛かりで運んできた物体をみた観客がざわめいた。

その物体の意味も歴史も、一部の関係者以外は、誰も知らない。


宮下トレーナーが、なんだあれは、そう呟いて向井京太に訊いた。

向井京太も、首を傾げ、何かを考え込んだ。


そう来たかと、鬼頭三郎が喜んだ。

梶川大悟は、あれを、こんな場にだしていいのかどうか迷った。「草薙、止めろ」、そう言って止めに入りたい心境をこらえた。

あれは、愛好会が存在してきた証だった。あれは、愛好会の宝だ。


倉田は倉田で、予測外の展開に思考が追いつかず、それが嘆きに変わっていった。

「稔彦のやつ、いったい何をやらかすつもりだ。中途半端に扱ったりしたら、段田先輩に殺されるぞ」


翔太たちが、その物体を柔道場の中央へ運び込んだのをみた前列の男が、一緒にきた仲間に、自慢げに語り始めた。

「実はおれ、知ってるんだ。知り合いに、愛好会を途中で離脱したやつがいて、そいつから聞いた話なんだが、あのドラム缶には穴があいていて、それを握り拳でやるんだと」

「うそ、これでか?」


隣の男が自分の右手を握りしめ、その拳を持ち上げ、うなった。

「板や氷じゃないんだぜ。あれはどうみても鉄板でしょう。人間の拳でそんなことができんのかよ」

「ああ、おれも信じられなかったんだが、今、眼の前で実際に穴があいてんのを見たし、それに毎年やってるみたいだし」


鬼頭三郎が、肩を怒らせながら両眼を見開いて覗き込んでいる梶川大悟と倉田を諭すように、穏やかな口調で言った。

「あの儀式をやるってことはよ、稔彦のやつ、ついに卒部を決意したってことじゃないのか」

「おす。と言うことは、次期主将を誰にするか、決めたってことですね」

「あ、鬼頭先輩、翔太たちが退きました。残ったのは稔彦だけです。もうすぐ始まりますよ。先輩も大悟も、当事者でしたから、どうやって穴を開けるのか知っているでしょうが、自分、実際に見るのはこれが始めてで、かなり興奮してます。稔彦のやつ、ちゃんと出来るかな」


柔道場の中央に、全身赤錆に覆われたドラム缶が置かれた。

ドラム缶の腹に、左から順番に六個の拳穴があいている。空手愛好会歴代主将たちが、卒部の証として刻んだものだ。


一番左端の巨大な拳穴の主は、初代段田剛二。順に新城良、石狩拓也、、門場勝美、鬼頭三郎、そして昨年の梶川大悟。今年は稔彦の番だ。


鬼頭三郎は、稔彦が、公の場であれをやることの意味を考えた。

稔彦の、戦場に立つように引き締まった顔は、何かを決断した証拠だ。


そしてもう一つ気づいたことは、今回、稔彦が穴をあけたら、同じ列には次のスペースがないってことだ。

つまり来年の主将は、ドラム缶の反対側に、拳穴を築くことになる。稔彦のやつ、いったい何を考えているんだか……


これから始まる、空手愛好会の儀式をひと目見ようと興奮した観客が、前へ前へと殺到した。その重圧で最初に前列が倒れ、続いてドミノ倒しに後続が崩れた。

群衆のあちこちから怒号と悲鳴があがった。


それを見た河田警部補が、泣きだしそうに顔を歪めた。警察官三名では、何をどう対応して良いか判断がつかない。


眼前で子供が泣いてるし、向こうではまた喧嘩が始まった。助けて、痛い、どけ、やめろ、うるせえ、そんな怒号が頭の中を何度も旋回している。


本署に頼んだ応援部隊はまだ来ない。来る気配もなければ、連絡すらよこさない。

河田警部補は、隣でがたがた震えている若い警官を怒鳴った。

「ばかやろう。びびってる暇があったら、今すぐ本署へ連絡して応援を催促しろ! 早くなんとかしないと、死人がでるぞ。あ、あっちで、また誰か倒れた。子供が泣いてるぞ。おまえ、早くなんとかしろ!」

「は、はい」

「ばか、そっちじゃない」


群衆の騒音から逃れ、電話をかけにその場を離れようとした警官を怒鳴りつけた。

河田警部補は、もう一人の警官を連れ、取りあえず泣きわめく子供を助けに突入した。


しばらくドラム缶の拳穴を正視していた稔彦は、外の騒ぎに気づいて翔太を呼んだ。

翔太は稔彦に、お客さんたちが押されて倒れ、ケガ人がでているようだと説明した。

そのことを危惧した稔彦が、ドラム缶の儀式をいったん中止し、柔道場の外へでた。


空手着姿の稔彦の勇姿を眼前でみた前列の観客が、一瞬静まり返る。


稔彦が柔道場から外へ一歩踏み出すと、群衆が分かれて道ができた。

殴り合う者たちは振り上げた拳を下ろし、立っている者は倒れた者を抱き起こして助け合った。


稔彦は、玄関先へ三歩進みでるといきなり大きく息を吸い込み、腹に溜めた。

両手をゆっくり前へ差し伸ばしながら、腹に溜めた空気を、腹の奥底から吐きだす。空手の息吹の呼吸法。


稔彦が吐きだす呼吸の圧力で、周りの空気が振動した。

すぐ近くで見ていた主婦が、思わず両腕で乳房を抱きしめた。

泣きわめく子供は泣くのを忘れ、騒ぎを起こした大人たちは、神主のお祓いを受けるみたいに神妙な顔で項を垂れた。

前列に起こった異変が徐々に後列へと浸透してゆき、波がひくように群衆が静まり返ってゆく。


観客の中央付近で子供の面倒をみていた河田警部補は、周辺の様子が一変したのに気づき、ふと顔を上げた。いつの間にか、子供が泣き止んでいる。


玄関横から稔彦の行動を眺めていた倉田が、感動したのか涙目で梶川大悟に言った。

「凄え、稔彦のやつ、たった一発の息吹で群衆を静めやがった。あいつ、いつの間にあんな超能力を身につけたんだろか」

倉田の独り言には何も反応せず、鬼頭三郎と梶川大悟は、両腕を組みながら、ただ稔彦を見つめていた。


皆が落ち着いたのを確かめた稔彦は、再び柔道場の中央へ戻った。


ドラム缶の前で精神を統一をする。両手の拳を固く握りしめ、肘を立て、左右の拳を顎の両側に添える。


ボクシングのファイティングポーズに似ている。

ただ、ファイティングポーズは、左右どちらかの拳を前に構えるが、稔彦の場合は、左右の拳が高さと位置が同じだ。

「草薙のやつ、あの構えで、いったいどうするつもりだ」

「大悟よ、稔彦は右利きだったよな。右の正拳でやるなら、左手は前へだすはずだ」

「おす、先輩。連発でやるにしても、あの構えはあり得ません」

「わからんなあ。あいつのやることは、まったくわからん」

「あ、鬼頭先輩、大悟、稔彦が腰を落としたぞ。始めるつもりだ」


稔彦が、大きく深く息を吸い込んだ。膝を折り、腰を落とし、顎を引き、半歩前へでた。


「あ、まさか!」

この時、鬼頭三郎が叫び、梶川大悟が息を呑んだ。倉田はまだ、稔彦が何をやろうとしているのか把握できないでいる。


その瞬間、柔道場内を、大太鼓を叩いたような爆音が炸裂した。

それを見た鬼頭三郎も梶川大悟もぶっ飛んだ。いきなりのことで、倉田は腰が抜けそうになった。


前列から女の悲鳴。「うそ!」と、誰かが喚く。


宮下トレーナーの口は開いたままで、向井京太は、あり得ない、と頭を振る。


鬼頭三郎が梶川大悟の肩を叩き、柔道場の中央を指さした。

梶川大悟は、いま一度その眼で確かめた。

稔彦の両手の拳が、ドラム缶の中に手首までめり込んでいた。


稔彦は、右の正拳だけではなく、両手の拳を合わせて拳穴をあけた。

それからゆっくり両拳を捻りながら引き抜いた。いきなり引き抜くと、割れたドラム缶の切っ先で、手の皮膚を傷つけてしまう。


ドラム缶の一番右端に、巨大な拳穴があいた。


稔彦はドラム缶に向かって一礼すると、翔太たち三人を前に立たせ、本日の稽古終了、を宣言した。


稔彦は、翔太たちが三人掛かりで運んできたドラム缶を、軽々と肩に担ぎ上げ、奥の倉庫へ向かって歩きだした。


「おす、主将、自分たちがやります」

翔太が、慌てて呼びかけたが、稔彦は何の反応も示さず、黙然と歩んでいく。


熊坂昇太が隣の飯星聖哉に、小声で囁いた。

「草薙主将、なんか寂しそうだったなあ。やっぱり拳が痛いのかな」


飯星聖哉の代わりに翔太が応えた。

「主将に限って拳を痛める、なんてことはないすよ。コンクリートの壁を叩いたら、ひび割れたほどすから。自分らがあまりにも非力なんで、落ち込んでいるだけす。例年の次期主将は、追い出しの時には、三年全員と張り合う実力者す。それが今年ときたら」

「おす、三浦先輩。追い出しも終わったし、僕らはもう帰ってもいいですか」

「おまえらは、帰っていいすよ」

「先輩は」

「自分は、まだ、これからやることがあるんす」

「それってなんですか」

「内緒す」


愛好会の「追い出し稽古」を見物した観客が、思い思いを語り合いながら、校庭を後にした。

それでも、庭木の陰に隠れながら、残り酒を飲んでる輩が数名いたが、校内を巡回していた河田警部補たちに追い出され、渋々と帰っていった。


柔道場に残ったのは、稔彦と翔太の二人だけになった。


翔太は、柔道場の中央で独り黙祷している稔彦に、緊張気味に顔を引きらせ、こう願いでた。

「主将、自分は、主将が大好きです。だから、この二年間、辛い稽古にも堪え、死に物狂いでついてきました。それでも、ぜんぜん足りないのです。自分が弱いばかり、不甲斐ないから、主将にご心配ばかりお掛けして申し訳ありません」

「翔太、前置きはいらない。それで、何をしたいの」

「おす。主将とガチの組手をお願いします。自分が倒れるまで、ガチの勝負です。それで自分が八代目に相応しくないのなら、熊坂か飯星のどちらかを指名して下さい」

「了解。いつでも良いよ。金的だろうが、眼だろうが、何を使っても良いよ」

「そ、そんな」

「今、ガチでやりたいって言ったよね。ガチでやるってことがどう言うことか、わかって言ったんだよね」

「お、おす」

「だったら、始めよう。翔太、自分が口にだしたんだから、もう戻れないよ。おいら、本気でいくよ。翔太、来いよ。来ないなら、おいらからいくよ」


稔彦は、ありったけの気を翔太にぶつけた。その風圧で、思わず翔太は瞼を閉じ、後退りした。


稔彦が叫んだ。

「来い、翔太!」


稔彦の活を受け、身震いした翔太は、何とか踏み留まり、顔を紅潮させ咆哮した。

「うおぉ!」


獣の雄叫びをあげ、翔太が突進する。


狂ったように、稔彦の胸へ連続突き。狙いも確証も何もない、めちゃくちゃな連打。

ありったけの力で、ありったけの気力で、稔彦にぶつかっていく。


稔彦は、受けも躱しもせず、全身の筋肉を固め撥ね返す。

翔太の拳が、稔彦の顔面を殴る。

稔彦は顔を前へ突きだし、わざと受けとめる。

さらにもう一歩前へでる。

もっと殴ってこいよ、そう誘う。


稔彦を引き離そうと翔太は、全力で前蹴りを跳ばす。

泣きそうな顔で右のローキック。稔彦の胸へ左右の正拳突き。顔面へ握り拳を叩きつける。


稔彦の、全身これ鋼のような筋力で拳が弾かれ、手首が折れた。翔太が三歩、後退あとずさる。

両手を左右にだらんと垂らした稔彦が、ゆっくり迫ってくる。


畳の上を滑りながら近づくその足音が、翔太には、地を揺るがせ襲いかかる魔神の足音のように聞こえた。

もの凄いプレッシャーと恐怖感。

翔太がさらに後退する。


今、稔彦の眼をみて驚いた。

いつか教科書で見た、憤怒の顔で悪者を睨みつける、仁王像の眼球そのものだ。眼球が、今にも飛び出しそうだ。


突然、何かが後頭部にぶち当たった。

それで翔太の意識がぶっ飛んだ。


翔太は、稔彦がサンドバッグを叩く音で、意識を取り戻し、慌てて跳ね起きた。

見ると稔彦が、サンドバッグに拳と蹴りを叩き込んでいる。


稔彦は笑顔で振り向き、何ごともなかったような軽快な口調でこう言うのだ。

「翔太、元気かい。二回戦を始めるよ」


翔太は、「お、おす」、そう返答するしかなかった。

組手を申し込んだ自分を後悔したが、すでに遅かった。

「早く、かかってこいよ」

「おす」


翔太は、ふらふらする脚を叩いて奮い立った。それからの数分間、今まで稔彦に教わった全ての技をぶつけた。


前蹴りを蹴ったら、軸足を払われ、ひっくり返えった。


ローキックを刈り込んだ瞬間、稔彦に前蹴りを合わされ、3mも蹴り跳ばされた。


ローキックに対するガードは、膝を持ち上げて受け流すのが基本だが、相手がローキックを蹴るのと同時に前蹴りを合わせれば、相手はバランスを崩して吹っ飛んでゆく。稔彦はこの合わせ技を、仙道明人に教えられた。


翔太は、それでも歯を喰いしばって必死に起ちあがり、ファイティングポーズを構える。


稔彦の強烈な左上段廻し蹴り。


ブロックした腕ごと弾き飛ばされた。


次のローキックにはガードが間に合わず、脚を刈られた威力で宙へ舞い上がり、一回転して背中から畳に落ちた。


落ちた瞬間、跳び上がった稔彦が、翔太の腹に両踵を落とした。

翔太は、呻き声と同時に胃液を吐いた。

翔太の嘔吐物で畳が濡れた。


翔太は、ひぃひぃ呻きながら、必死の形相で畳の上を這いつくばり、稔彦の右脚に両腕ですがりついた。


もうこれ以上は勘弁してください、心の中でそう叫んだ。


稔彦はそんな翔太を、右脚で持ち上げ、そのまま蹴り跳ばした。


蹴り離すのと同時に、翔太を追いかけ、仰向けに倒れた翔太の腹に踵を落とした。


翔太は白眼をむいて意識を失った。


稔彦は翔太の背中に膝をあて、気合いと同時に手前へ反り返す。


意識を取り戻した翔太に、稔彦が、

「早く起ちあがって息を吸い込め。苦しくても吸い込め。そうしたら楽になるから」


翔太は、苦しげに顔を歪めながら懸命に口を開いた。しばらくしたら呼吸が戻ってきた。

「翔太、息吹だ」

「おす」

「少し、落ち着いたみたいだね。そしたら、三回戦を始めようか」

「……」

「どうした翔太、時間がもったいないから、早く来いよ。翔太、素手で無理だと思ったのなら、奥の倉庫から、武器になるものを見つけて、かかってこいよ。確か、倉庫の奥に、捕獲用の刺叉さすまたがあったはずだよ」

「お、おす」


翔太には、稔彦の言ってる意味が理解できなかった。

それを持って立ち向かったとしても、勝てないのは判っているくせに。


おそらく草薙主将は、自分がどこまでやれるか、試しているのでしょう……

この時、三浦翔太一七歳、生涯始めて、死を意識した。


立ち向かって蹴り跳ばされ、立ち向かってひっくり返され、稔彦の蹴りと拳を受けた手も足も痛みで麻痺して動かない。

身体中が熱く火照っている。


稔彦の強烈な後ろ廻し蹴りを腹に受け、吹っ飛んだ。


それからどれくらい意識をなくしていただろうか。遠くで稔彦の、自分の名を呼ぶ声を聞いたような気がした。

「翔太、聞こえるかい。おいらの後は、任せたよ」



一四



稔彦たちが夏休みに入って間もなく、鬼頭三郎が毎日のように柔道場へ顔をだすようになった。

大学はすでに夏休みに入っていたから、きっと暇なんだろうと翔太たちは勝手に想像した。


愛好会の夏稽古は、自由参加だ。来ても来なくても構わない。

ただ、毎日自主的に参加する者が二人いる。その年の主将と、次期主将を指名された者だ。


だが今年は違っていた。

三浦翔太、熊坂昇太、飯星聖哉の三名は、毎日柔道場へ稽古にきた。


鬼頭三郎は、顔をだすだけではなく、翔太たち後輩の稽古もつけてくれた。

空手愛好会のOBの中で、実際に稽古をつけてくれるのは、鬼頭三郎と梶川大悟の二人だけだ。


歴代主将以外には、見物だけで帰ってゆくOBがほとんどだった。空手着に着替えることさえしない。稔彦を怖がっているからだろうと、翔太は勝手にそう思っている。


夏休み中の稽古時間は午前中に行われ、午後は自主トレになる。

稔彦は午前中の稽古に顔をだした。

海開きしているこの時期は、店は昼からオープンしているから、昼前には店に戻らねばならなかった。


鬼頭三郎は、午前中の稽古をつけた日は、昼飯を稔彦の店で食べ、午後の稽古にでる日は、晩飯を食べにやって来る。

ただ、昼でも夜でも、生ビールはよく飲んだ。


特に夜は開店直後でまだ客が来ない時間帯だから、生ビールを大量に飲んでくれる鬼頭三郎の存在は、店内が活気づいて神谷藍は喜んだ。


二人は、通う大学は違っていたが、所在地が早稲田と音羽で隣接していることもあり、会話がはずんだ。

典型的な体育会系で普段は口下手くちべたな鬼頭三郎も、酒が入ると饒舌になる。

神谷藍と話したいと願う気持ちが、鬼頭三郎を酒に走らせた。


そんな純情な男心を、数日間みてきた稔彦は、鬼頭三郎の涙ぐましい努力を察して、二人の会話に口をはさむのを避けた。


その日も鬼頭三郎は、愛好会での稽古を終え、晩飯を食べに店にやって来た。

これで連続八日目になる。


鬼頭三郎が稔彦に、六杯目の生ビールをお代わりした。

ビールのつまみは肉焼きそばの大盛りで、それが晩飯代わりだった。


鬼頭三郎は、神谷藍が稔彦と同居している理由は理解できたが、一度は内定した、就職難関といわれる大手広告代理店をなぜ断ったのかどうしても判らなかった。

「神谷さんは、ずっとここに居るつもりなんでしょうか」


応えに困った神谷藍が、洗い場でジョッキを洗っている稔彦に視線を移した。

稔彦の背中を見つめるその眼が、自分の将来を稔彦に縋りついているように、鬼頭三郎には見えた。


その瞬間、鬼頭三郎の内面で何かが弾けた。


まさかと思う。

稔彦は、神谷藍より三つ歳下のはずだ。

そんなことより、稔彦はまだ高校生だ。身体は鍛えて大人以上だが、内面はまだ子供。その証拠に、稔彦は、神谷藍の存在を姉としかみていないではないか。


そう思う反面、鬼頭には別の考えが浮かんでいる。

今の稔彦には、頼れる親も身内もいない。まだ高校生だが、この店を運営して自活している。

親の金で大学に通っている自分より、ある意味、大人かもしれない。

そんな稔彦を神谷藍は援助している。苦楽を共に生きていれば、そこに深い愛が芽生えたとして不思議ではない。


鬼頭三郎はいま一度、二人を交互に眺めた。


稔彦は無心に皿を洗っているだけだが、稔彦をみる神谷藍のそわそわした仕草が妙に気になった。

それから何かを思い出したように、突然声をあげた。

「お、もうこんな時間か。稔彦、帰るぞ。勘定だ。神谷さん、残ったこの焼きそばを持って帰りたいんですが、何かに包んでもらってもいいですか」

「これから東京まで帰るんですか。暑いから、食べものがいたんだりしないかな」

「いえ、研修で観音崎です。観音崎と言っても、久里浜駅からタクシーですぐの所ですから、心配しないで下さい。稔彦、明日も稽古に顔をだすからな。久しぶりにおまえと組手をやるぞ」

「おす。鬼頭先輩。お待ちしてます」


それから店の勘定を済ませ、見送りにでた神谷藍と稔彦を玄関前で断り、ふり向きもせず店を後にした。


鬼頭三郎は、駅へ向かい歩きながら、ある覚悟を決めていた。


その夜、先に風呂からあがった神谷藍が、生ビールを飲みながら稔彦に、鬼頭三郎の態度が急変した理由を訊ねた。

「だってあんなに食欲旺盛だった鬼頭さんが、食べものを残すなんておかしいよね。どこか悪いのかなあ」

「ばかだなあ、藍姉ちゃんは。鬼頭先輩は、藍姉ちゃんが好きなんだよ。そんなことも、気づかなかったのかよ」

「あんたに言われたくなあい。そんな雰囲気はあったけど、本気でそうなのかなあ」

「そうじゃなかったら、あんなに毎日、来ないよ」


神谷藍は、一つ歳下の、鬼頭三郎の陽焼けした精悍な顔つきを思いだし、独り笑いを浮かべた。

その顔をわざと稔彦に向けて言った。

「交際を申し込まれたら、どうしょっかなあ」

「ばかだなあ」

「歳上にむかって、バカとはなんだよ」

「そんなこと、彼女もいない、おいらに訊かれてもわかんないよ」

「キミ、もうすぐ一八になるっていうのに、まだ一人もいないの」

「いない」

「好きな人は」

「いる」

「だれ」

「誰でもいいじゃん」

「だれなの」

「内緒」

「どこの、だれなの」

「たく、しつこい」


神谷藍が話を中断して、いきなり声をあげた。

「あ、そうだ、思いだした」

「唐突になんだよ」

「梢さんの法事があったんだ。お寺さんに連絡しないと」

「法事」

「今朝、パパから連絡がきたんだ。梢さんの一周忌のことだよ」

「一周忌って、梢ちゃんの命日は、去年のクリスマスの日だよ。今はまだ、八月に入ったばかりだよ」

「それがそうでもないんだってさ。年末はみんな何かと忙しいから、もっと早めに予定を組んでおかないと、間に合わなくなるんだって。お知らせをだす方たちの予定もあるし。それと法事の後で行う、食事会の段取りもつけておかないと、だって」


神谷藍の父、神谷徹は、十二月後半はクリスマスや冬休み、年末行事で慌ただしいから、法事は避けるべきだと言った。


法事の日程を知らせる参加者のスケジュールを気にしたわけだが、同時に、年末に命日を迎える他の人たちも同じように考えるはずだから、一二月上旬から半ばまでは、寺の予約がいっぱいになる。


そうなると一一月あたりが無難だから、早めに寺を予約しておき、お呼びする相手を選んで、お報せを送る必要があった。

食事会の店選びと予算だても面倒だが、早めに人数が決まれば、あとは店との相談になる。

「案内状なんか、メールでいいじゃん」

「ほんとバカ」

「なんだよ」

「一周忌の案内をメールでもらったらどう思うか、考えてみたら。キミたちみたいに単純なガキばかりじゃないの。一周忌は、親類や、故人が生前お世話になった方たちをお呼びするから、ご年配の方も多いんだ」

「親戚や、梢ちゃんが世話になった人なんて、まったく知らないよ」

「とは言え、どこの誰にまでお報せしたらいいのか、ボクにもさっぱりわからないんだ。取りあえず、お葬式の時の芳名帳が残っているから、後で調べてみる」

「今度、理事会の人たちが来たら訊いてみるね」


「よろしく。明日も空手」

「ああそうだよ。鬼頭さん、午前中に来るってさ」

「じゃあ、お昼はうちで食べるね。暑さに負けないよう、スタミナ料理を作ってあげようかな」

それから神谷藍は、スマホを持ち出し、ネットで料理のレシピを検索し始めた。

稔彦は、鼻歌を口ずさみながら、楽しそうにスマホの画面をスクロールする神谷藍を眺め、妙に寂しい気持ちになった。


藍姉ちゃんは鬼頭先輩にまんざらでもないのか、そんな苦い感情が湧き出した。


「スタミナ、しょうが焼き、かあ。ステーキも、いいなあ」

神谷藍が笑顔を浮かべながら、鬼頭三郎の昼飯を検索している。

その横顔を眺めている時、稔彦の内側で何かが動いた。

稔彦は、自分の下腹から沸き上がってくる三匹の龍の怒濤をみた。


その場で、いきなり起ちあがる。

驚いた神谷藍が、稔彦の顔を見上げた。

稔彦の顔が、少し怒っているように見えた。


稔彦はいきなり両手で神谷藍の肩を掴んだ。

稔彦の力で締めつけられ、その痛みで、神谷藍の顔が歪んだ。

稔彦は、力強く神谷藍を抱きしめた。


神谷藍は、二、三度いやいやしながら、稔彦の腕の中でもがいた。

次の瞬間、神谷藍の肩から力が抜けた。稔彦に身体を委ねながら、稔彦の胸の温度を感じた。

このまま、何をされてもいいと思った。


稔彦は、力任せに、神谷藍のパジャマの胸を引き裂き、顔をうずめた。

母親に甘える幼子のように、神谷藍の乳房に顔をうずめて泣きだした。


長い間、耐えに耐え、張りつめていた心の弦が、やっと途切れた瞬間。


神谷藍は、稔彦の背中を優しく抱きしめた。

今、腕の中で、稔彦が泣きながら震えている。こんなことは初めてだ。

神谷藍が腕に力を込めると、稔彦の身体から力が抜けていった。



一五



三浦翔太、熊坂昇太、飯星聖哉の三名が、緊張した表情で、これから始まる組手稽古を見守っている。


先ほどから柔道場の中央で、鬼頭三郎と稔彦が対峙したままでいる。

この組手稽古に審判はいない。仕掛けたい方が仕掛けた瞬間に、試合が始まる。


鬼頭三郎には、ある決意があった。

稔彦との組手に勝ったら、神谷藍に交際を申し込もうと思っている。

一人の女を好きになってしまった二人の雄は、いずれは闘う運命にある。それは動物と同様で、一匹の雌を奪いあうための、熾烈な争奪戦に近い。


鬼頭三郎は、稔彦と本気でやり合って勝てるとは思っていない。

大学の空手サークルで、梶川大悟を相手に組手稽古は続けているが、ガチンコ勝負の感覚にはほど遠い。

それでも、やらなければならない時がある、とそう思っている。


先輩と後輩が自由組手でやり合う場合、先に仕掛けるのは後輩だ。先輩は後輩の攻撃を受けて立つ。


だが、相手は稔彦。

鬼頭三郎は、先手をとるつもりで、稔彦との間合いを計っている。


稔彦は、まだ両手をだらんと垂らしたまま、微動だにしない。鋭い眼光だけが動いている。


現役時代、蹴りの業師と謳われた鬼頭三郎は、その名の通り蹴り技が得意だ。

左右の正拳突きから左のローキック、瞬時に同じ左の上段廻し蹴りへの切り替えしを、稔彦に教えたのは鬼頭三郎だ。

この時、鬼頭三郎は高校三年生、稔彦は一年生。


だがその得意技さえ、今の稔彦には通用しないだろうと思う。だが、鬼頭は、あえてその技を使用することにした。


滑るように間合いを詰め、左のローキックから切り替えした左の上段廻し蹴り。

威力もスピードも現役時代とたいして違わないはずだと、鬼頭三郎は確信した。


大学の空手サークルで、こいつを完璧に捌いたやつはいない。あの梶川大悟でさえ、三度に一度はヒットした。ただあいつは、首が太いから、なかなか倒れなかったが……


次の瞬間、翔太は見た。


鬼頭三郎が、左上段廻し蹴りを蹴り上げた瞬間、同時に稔彦がいきなり前へ踏みでた。


鬼頭三郎の左脚を右肩にのせたまま稔彦が、更に前へ押し出した。


左脚を担がれた鬼頭三郎が、バランスを崩し、尻から崩れると思った瞬間、右の軸足で跳ねた。


「おお」

熊坂昇太と飯星聖哉の口から驚嘆の声がもれた。


鬼頭三郎は、跳ねた右足で、稔彦の左側頭部を空中で刈り込んだ。


稔彦が左肘でこれを打ち砕く。


肘でブロックするのではなく、鬼頭三郎の右足の甲を肘で弾き返した。その激痛で鬼頭の顔が歪む。


畳上に尻から落ちた鬼頭三郎が、素早く転がり、稔彦との間合いをあけて起ち上がる。


長身の鬼頭三郎は、左手を高く天に向け、右拳で水月を軽くガードする独特の構え。

長身で懐が深く、相手の攻撃を捌くのがうまい。


稔彦は両手を下げたまま、上下にステップを始めた。


翔太が熊坂に耳打ちした。

「主将、次、仕掛けるすよ」

「な、何をやるんですか」

「さあ。見てたらわかるす」


稔彦は、正面から間合いを詰め、いきなり跳んだ。


鬼頭の頭上で静止したまま、足裏五連打、蹴り込む。


飯星聖哉には、空中で浮かんだ状態で蹴り続ける稔彦の様子が、まるでVR(仮想現実)の世界を見ているようで呆然とした。


眼前で浮遊する稔彦をみて恐怖感を抱いた鬼頭三郎は、慌てて両腕で顔面をガードしたが、鼻頭に強烈な最初の二発を受けた。

血の臭いがした。

鼻血かなと思う。


必死に眼を見開き、周りの状況を把握する。その眼の前を、稔彦がゆっくり空中から下降してゆく。


追う鬼頭三郎。

着地する寸前の稔彦の首へ、気力を振り絞り、右のローキックを刈り込んだ。

その身体の遠心力で、鼻から血が空中へ飛び散ってゆく。


稔彦が鬼頭三郎のローキック、その右足の甲を左肘で弾いた。

想像以上の激痛。鬼頭三郎が思わず跳び退く。

二度目の烈しい痛み。これで右足は使えなくなった。


これまでほとんど秒速の攻防。


瞬きして二人の動きを見逃した熊坂昇太が、慌てて翔太を振り向いた。

「三浦先輩、いったいなにが起こったんですか。鬼頭先輩、右足を引きずっているみたいですが」

「まあ、受けも攻撃の一つってことすかね。主将、もう一度、仕掛けるすよ。次、勝負を決めるつもりす」

「三浦先輩には、それがわかるんですか」

「まあ、主将とは長いつき合いすからね。主将の身体から闘気が膨れあがっているす。あれは、これから何かをやらかす、前兆すよ」

「ああ、三浦先輩、草薙主将がまた跳んだ」


鬼頭三郎が一歩前に踏み込んだ。痛めた右足で、上段廻し蹴りを蹴り上げる。


その動きに合わせるように、稔彦は、右足を軸に前方へ跳んだ。左中足による跳び前蹴り。


躱そうとして鬼頭三郎が後ろへ退く。


稔彦は、空中で左足を素早く引き戻し、腰の捻りを加え、右の足刀を鬼頭三郎の顎先へ蹴り込んだ。


足刀二段蹴り。


稔彦の、予想外に伸びてくる足刀を躱しきれず、もろに喰らった鬼頭三郎が仰向けのまま吹っ飛んだ。


後頭部から逆さに落ち、二回リバウンドして動きが止まった。


翔太、熊坂昇太、飯星聖哉が、口をあけ、咄嗟に腰を浮かしたものの、何をどうしたら判らず、その場でフリーズしてしまった。


稔彦は、意識を失った鬼頭三郎を見下ろしながら、なぜか、昨夜の、温かくて柔らかい神谷藍の乳房を思い浮かべていた。


ふと我にかえり、翔太を呼んだ。


翔太に、絞ったタオルで鬼頭三郎の首と頭を冷やすよう指示し、それでも意識が戻らないようなら、救急車を手配してくれと頼んだ。


稔彦は鬼頭三郎の前に正座した。

倒れたまま微動だにしない鬼頭三郎のその顔が、なぜか、微笑んでいるように見えた。


稔彦は、スポーツバックから自分の携帯を取りだし、翔太に渡した。

翔太たち三人は、急いで自分たちのタオルを水で冷やして絞り、鬼頭三郎の喉元や額にあてた。


それでも鬼頭三郎の意識は戻らなかった。鼻血もまだ止まっていない。

翔太が、鼻血が喉につまらないように鬼頭三郎の頭を上に向け、鼻の穴に丸めたティッシュペーパーをさし込んだ。


稔彦は、鬼頭三郎の荷物を翔太に持たせ、自分は鬼頭三郎を背負って柔道場をでた。


それから坂下まで降りると、翔太に命じて救急車を呼んだ。


夏休みで在校生が少ないとはいえ、校内に救急車のサイレンが鳴り響いたりしたら、後々問題が大きくなると思ったからだ。


かつて鬼頭三郎は、卒業式の日の深夜、この柔道場で、当時柔道部主将だった加藤康宏と雌雄を決したことがあった。

加藤康宏は柔道三段。県大会で、三年連続上位入賞している実力者だ。


一〇分間の死闘の末、鬼頭三郎は、意識を失った加藤康宏を背負い、海岸通りまで降りて行った。

そこからタクシーを拾い病院へ運んだ。当時、稔彦はまだ一年生だった。


鬼頭三郎と加藤康宏の勝敗の結末を知っているのは、当人たちを除いては稔彦だけだった。梶川大悟でさえ、今でもその結果は知らない。


稔彦は、勝負の行方を誰に訊かれても口を閉ざしてきた。

なぜなら、鬼頭三郎が、加藤康宏との試合の立会人として選んだのは、稔彦だけだからだ。


当時の主将梶川大悟ではなく、自分がなぜ指名されたのか、稔彦には今でも判らない。だから何を訊かれても応えなかった。


稔彦は、意識を失って重くなった鬼頭三郎をおんぶしながら、先輩、あの時と逆ですね、そう心の中で語りかけた。


まだ鬼頭三郎は、動かない。

ただ、背中に、鬼頭三郎の心臓の音が響いているから、命の心配はないはずだ。


稔彦は、鬼頭三郎の顎先を狙った足刀をもう一度反芻はんすうした。

あれが外れて喉元を直撃していたら、鬼頭先輩は死んでいたかもしれない。だが稔彦に、後悔はない。


蹴り込んだ瞬間、鬼頭三郎は、鍛えた反射神経で咄嗟に顎を引いた。

顎を引かず、首を曲げたり顔を背けるだけなら、稔彦の足刀は喉元を直撃していた。顎を引いて下げたことが、柔らかな喉元を顎先でガードできたのだ。


稔彦は思う。

現役を引退した鬼頭三郎を相手に、自分はやり過ぎたのだろうかと。

後悔はないが、あの組手で、あそこまでやる必要があったのだろうか、といった自分に対する懸念はあった。


稔彦は、翔太に午後の稽古を任せ、間もなくやって来た救急車の中へ、ストレッチャーに乗せられ運ばれてゆく鬼頭三郎に付き添い、一緒に乗り込んだ。


車内で鬼頭三郎の応急処置を終え、搬送先の病院を確保した救急車が、海岸通りを走りだした。


稔彦は、海岸通りを走る救急車の窓から、何気なく通り過ぎる海原を眺めた。

水平線から、異様な入道雲が盛りあがっている。下方が黒く染まったその雲の様子が、まるで火山雲みたいで、強烈な雷雨が来そうな湿った臭いがした。


突然、前方から、金属を切り裂くような爆竹音が近づいてくる。それと交差するように救急車のサイレン音が、通り過ぎてゆく。


救急車と七台ほどの列隊がすれ違う瞬間、稔彦は、先頭を走る男の顔を見た。


その男は、濃い色のサングラスをかけ、ノーヘルで走り過ぎていった。通り過ぎる瞬間、男の唇が笑っているのを見た。

にやけた顔ではなく、何かに勝ち誇ったような自信に満ちた笑みを浮かべていた。


稔彦が、「横須賀TAITAN族」に所属するメンバー数名が、対立する油壷「NEO紫煙」に奇襲され、負傷したと藤井新之助から聞かされたのは、それから二日後のことだ。



一六



その夜、大城みゆきが一人で店に現れた。


大城みゆきは、神谷藍との再会を喜び合っていたが、話題はすぐに「NEO紫煙」と「横須賀TAITAN族」の動向に移った。

「そんなわけで、こっちの本隊とあっちの偵察隊が観音崎で鉢合わせになり、ケンカになったわけ。あっちが、いくら、ガタイがでかくても、一〇対三じゃ勝てるわけはない。とは言え、あっちにはまだ大勢の本隊が残っているから、このまま黙っているわけはない。県警が取締りを始める前に、横須賀と油壷の抗争になるかもしれないってこと」

「まさか、こっちでやるってことはないよね。浜は、夏休みで家族連れもたくさんいるし、これから花火大会もあるし」

「まあ、そうねえ、でもこの時期の三浦海岸は大丈夫よ。国内外からの観光客も増えたこともあり、県警が、海水浴場の見まわりついでに、夜間も海岸通りをパトロールしてるから」

「そう言えば、先日、お巡りさんが二人、突然お店にやって来たんだ。何か問題はありませんかって」

「で、藍さんは、なんて応えたの」

「お客さんが来ないのが問題だって、言ってやった」

「あはは。それで、お巡りはどうした」

「ボクの顔をじーと眺め、それから思い出したみたいに、お昼がまだだからって、二人で生姜焼き定食を食べて帰ったよ」

「お巡りも、さすがに美人の前では形なしね」


大城みゆきと神谷藍が、両手を叩いて無邪気に笑い合った。

二人の黄色い笑い声を聞きながら稔彦は、厨房でビールジョッキの準備を始めた。


午後八時すぎに、奥のテーブルで食事をしていた家族連れが帰っていった。それからしばらくの間、客は大城みゆき、一人になった。

「今日は、あんまり、お客さんも来ないみたいだし、ボクもみゆきちゃんに、つき合っちゃおうかなあ」

「藍さん、嬉しい。そうしなよ。稔彦くん、藍さんに生ビール、生ビール。アタシのおごりね」

「サンキュー、みゆきちゃん」


それから大城みゆきと神谷藍は、女同士の会話で盛りあがった。


レジでつり銭の確認をしていた稔彦は、顔をあげドアを振り向いたが、新たな客の来る気配はなかった。


蚊帳の外に追いやられた稔彦は、やることが何もないので、厨房で拳立て伏せを始めた。

空手は、腕立て伏せを、掌をつけて行うのではなく、たとえ地面がコンクリートであろうと握り拳で行う。


拳立て伏せを連続三〇〇回終えた後で、スクワットを五〇〇回。次いで親指と人指し指の二本だけの指立て伏せをやろうとしたら、神谷藍の呼ぶ声がした。


どうせ生ビールのお代わりだろうと思い、面倒臭いので、ジョッキに生ビールを注いで持っていった。


神谷藍は、生ビールの残りを呷った後で、稔彦から新たなジョッキを受け取ると、稔彦の眼を睨みつけて言った。

大学受験の話だ。


この時期になっても、どこを受験するのか決めず、塾にも通わず、空手ばかりやっててそれでいいのか、そう詰め寄った。

「マジに言うけど、今から勉強しても遅いんだからね。前からさんざん急かしてきたのに、いったいどういうつもりなのか、ちゃんと応えて。国立が無理なら、多少学費は高いけど、私立に入れないわけじゃないんだ」

「稔彦くん。藍さんの気持ちも考えてあげなよ。稔彦くに店を手伝わせて、勉強する時間をつくってあげられなかったって、ずっと悩んできたんだからさあ。それに、今後の学費に役立つだろうからって、自分の給料を全部貯金してきたんだよ」

「みゆきちゃん、その話は」

「あ、ごめん。つい口を滑らせちゃった。おい、稔彦、そこは笑う場面かよ。とにかく、ほんとはどうしたいのかをはっきりさせないから、藍さんも困っているの」


大城みゆきは、グラスワインをぐい飲みしてお代わりした。

稔彦は、冷蔵庫からワインボトルを持ち出し、好きなだけ飲んでいいよと言って、大城みゆきのカウンターの前においた。


それから深呼吸すると、最初に神谷藍に礼をのべた。

「藍姉ちゃんには感謝してる。店のことも、おいらの身のまわりのことも。ただね、おいらの将来は、自分で決めたいんだ」

「もち、それでいいんだよ。キミの将来なんだからさ。で、これからどうしたいのか聞かせてよ。国立にするのか私立にするのか、どこの大学を受験するのか」

「だから、そうじゃないんだ」

「そうじゃないって、何がそうじゃないんだよ」

「どうしてみんな、新之助もそうなんだけど、おいらが大学を受けるって決めつけちゃうんだろうか。藍姉ちゃんもみゆき姉ちゃんも、同じだよ。自分たちが大学に通っているから、当然だと思っている。新之助は大学にいくつもりだから、おいらもそのつもりだろうと決めつける。そう言うのを主観的発想っていうんだ」

「何が言いたいの」

「稔彦くん、何が言いたいのかよくわかんないよ。ちゃんと説明しなよ」


稔彦はもう一度大きく息を吸い込んだ。息吹の呼吸で思いきり吐きだしたかったが、二人の前では使いたくない。

「おいら、卒業したら、空手に専念するんだ」

「え、なに、それ、どういう意味」

「ボクは、聞いてないよ」

「横須賀の仙道さんとこで、本格的に修行するんだ」

「大学へ行かないの」

「ああそうだよ。そっちには興味がないんだ。おいら、この道を、どこまで突っ走れるか試したいんだ」


神谷藍は、稔彦の言葉に、それまで張りつめていた肩の力が抜け、腰が砕けそうになった。


大城みゆきは、手を叩いて笑いだした。少し酔ったせいもあり、判ったように何度も頷き返しながら、

「そうだよねえ、稔彦くんなら、そんな生き方もありだよね」

「おいら、卒業したら、しばらく仙道さんのとこで寝泊まりするつもりなんだ。そこで藍姉ちゃんに相談があるんだ」

「え、相談。今、疲れたボクの頭は仮眠中。みゆきちゃん、代わりにきいてあげて」

「そんならいいよ、後で話すよ。なんだよ、自分から、はっきり言えってぶちかましながら、正直に話したらパニックかよ」

「稔彦くん、アタシがきくから話してごらんよ」


稔彦は、大城みゆきに話すことで、当然神谷藍の耳にも聞こえるはずだと考え、言葉を探しながら話し始めた。

「仙道さんの道場で稽古を始めたら、夜、店には出れなくなる。藍姉ちゃん一人じゃ無理だから、アルバイトを雇って欲しいんだ」

「帰って来ないの? 今みたいに、お店を手伝いながら、ここから通えばいいのに」

「それじゃ夜の稽古に間に合わないよ。土日の昼間なら、手伝えるけど」

「ここは稔彦くんの家なんだよ。キミはこの店の経営者。他人の藍さんを一人で置いとくわけにはいかないじゃん」

「だから、アルバイトを雇うとか」

「バイトは夜遅くは無理だし、結局は藍さん一人になっちゃうよ」

「そうかあ」

「そうかあ、じゃないの。自分が、やりたいことばかり考えていないで、今までこの店を守り続けてきた、藍さんの気持ちも考えないとだめだよ。誰のために、内定断ったと思ってんの」

「内定」

「みゆきちゃん、その話はいいから」

「だって、それじゃあ藍さんが、あまりに」

「だから、もういいって。みゆきちゃん、ありがとう。稔彦くんが卒業するまでに、まだ時間があるから、それまで、ゆっくり考えるよ」

「藍さん……」


大城みゆきは、それでいいの、と訊ねようとしたが、神谷藍が、穏やかな視線で稔彦を見つめているのをみて、言葉をのみ込んだ。


神谷藍は、自分の両膝をポンと叩いて顔をあげ、さっぱりした表情を大城みゆきに向けた。

「さあ、この話はこれでおしまい。そろそろボクも、ワインにしょっかな」

「そうだよ藍さん。飲もう、飲もう。稔彦くん、藍さんにワイングラス。早く、早く」


カウンターからテーブル席に移った神谷藍と大城みゆきの、二人だけの飲み会が始まった。


稔彦は、二人の注文に従い、神谷藍が大鉢に作り置いた肉じゃがとポテトサラダを、小鉢に盛って並べた。


もう一度、ドアを振り向いてみた。


いきなりドアがあいて、賑やかな酒井さんたち理事会のメンバーがやって来そうな気がしたが、ドアがあく気配はなかった。

こんな日もあるもんだなあ、と、他人ごとのように呟いた。


もうすぐ八月のお盆を迎える。


草薙家は、今年は初盆となるが、まだ若い神谷藍や稔彦に、初盆を迎える家の準備を理解しているわけもなかった。祭壇や盆提灯の準備、白提灯を飾る風習などまったく知らない。


それでも、草薙家の菩提寺である高圓寺の墓石の掃除と墓参り、そして実家の仏壇の掃除は、二人で相談して約束した。


稔彦は、神谷藍と二人で墓参りするつもりだったが、二人飲み会で神谷藍から聞いて事情を知った大城みゆきが、アタシも一緒にいくと、酔った勢いで騒ぎだした。

東京の大学が夏休みで、きっと暇なんだろう、稔彦はその時はそう思った。


その夜、酔い潰れた大城みゆきをタクシーで帰すわけにもいかず、二階にある神谷藍の部屋に泊めることにした。


夏休みのアルバイトに来るはずだった中谷真理子を泊めるつもりでいたから、蒲団や簡単な身のまわりのものは準備していた。


神谷藍と稔彦は入れ違いに風呂に入り、明日の朝食について話し合った。

飲み過ぎた大城みゆきを気づかい、結局、食べやすい、うどんにすることにした。

稔彦はそれだけでは足りないので、どんぶり飯に今夜のしょうが焼きの残りをのせて食べることにした。


神谷藍は、静かに大城みゆきの服を脱がせ、自分のTシャツを着せた。下はトレパンだ。


酔ったふりしながら、大城みゆきは、布団の中で、ある一つのことを決断していた。

それは、神谷藍と一緒に、この店を手伝うことだ。


大学の夏休みは九月中旬まである。明日からでも、住み込みで、ひと月近く働ける。神谷藍は、あてにしていた友人がバイトに来れなくなったと嘆いていたから、人手が足りないはずだ。


大城みゆきは、眼を閉じながら、明日の朝、二人に話そうと決めた。


翌朝、大城みゆきから住み込みバイトの提案をきいた神谷藍は、二つ返事で了承した。


大城みゆきは、今日からでも働きたいと願った。


神谷藍は大城みゆきに、これから稔彦と一緒に油壷へ戻り、着替えなど必要なものを持って来るよう勧めた。


大城みゆきは、戻る道の途中で「NEO紫煙」と鉢合わせしないかと稔彦を心配した。

とはいえ、自分が単車の尻に乗っているのを見たら、彼らもさすがに無謀な行動にはでないだろうと考え直した。


朝食を食べ終えた大城みゆきは、稔彦の単車〈疾風〉の後部席に跨がり、海岸通りを出発した。


稔彦は、大城みゆきの提案で、海岸通りから215号線を南下するルートを避け、三浦海岸の交差点をそのまま134号線を走り、三浦消防署前から26号線を南下するルートを選んだ。


26号線の松輪入口の先に三崎警察署があり、「NEO紫煙」の奇襲を受けずに通過できるからだ。


夏の午前、海水浴場へ向かう車で道路が渋滞している。


その縦列する車の隙間を、稔彦は、車体を左右に倒しながら、泳ぐように〈疾風〉を操作した。

背中で大城みゆきが叫ぶ。

「あん時より、運転、成長したね」

「ありがと。帰りが昼になっちゃうから、急ぐよ」


稔彦がいきなりアクセルを絞った。〈疾風〉が、獣の咆哮をあげ躍りでる。

その加速で振り落とされそうになった大城みゆきは、思わず稔彦の背中にしがみついて驚いた。なに、この背中、筋肉、まるで岩のように硬い。


なぜだか、その時、心臓の音が高鳴り、ぞくぞくする歓喜が込みあげてきた。こんな心境の変化は始めてだ。これって、きっと、あの暑い太陽のせいだ。


かつて、四〇台の単車の先頭に立ち、真っ正面から潮風を浴び走り続けていた、あの夏の日の映像が脳裡に甦る。


日中が暑い分、夕方になると風が穏やかで涼しくなり、焼けたアスファルトから吹いてくるくすんだ臭いが好きだった。

そんな自分が今は稔彦の背中にしがみついているのが不思議に思える。


そうだ、稔彦、このまま、水平線の向こうまで突っ走れ……


大城家は、油壷入口から216号線を走り、途中で右折して海蔵寺を通り過ぎた小綱代湾沿いにある。


大城みゆきは家の中へ駆け込むと、急いで必要な着替えや化粧道具をリュックに詰め込んだ。コップや歯ブラシなどの小物は、コンビニで買えばいい。


その時、勉強机に置いたままだった、単車のキーをみた。「紫煙」を解散した時、もう二度と単車には乗らないと決めていた。それは今でも変わらない。


大城みゆきは、キーを引き出しの中へ封印して、それから忘れ物がないかもう一度確認した。


自分でリュックを背負い、フルフェイスをかぶると稔彦の後部席に跨がり、走りだした。


海蔵寺前の小道を抜け、216号線に合流した時だった。


油壷公園方面から突然、爆竹を鳴らしたような排気音が近づいてきた。


三台の単車が眼前に現れたと思ったら、いきなり一台が左側へ回り込んで〈疾風〉の進路を塞ぎ、もう一台が前へ、残り一台が右に停車して三方を取り囲んだ。

こんな捕獲戦法、誰に教わったのかと感心しながら大城みゆきは、三人の少年たちの顔を確かめたが、見覚えはなかった。


ただ、油壷公園方面から改造車を走らせて来たということは、「NEO紫煙」の新しいメンバーなのは間違いなかった。

こんな地元のど真ん中で、メンバー以外が改造車に乗ることなど、黒田善次郎が許すはずもないからだ。


その時稔彦が、面倒くさげに言った。

「先を急ぐんだ。そこ、どいてくれないかな」

右の少年が、にやにやしながら〈疾風〉のオイルタンクを蹴ろうと足を伸ばした。


その靴底に稔彦が右の靴底を合わせ、押し返した。その弾みで少年が単車ごと転倒した。

少年は単車の下敷きになり、動けなくなってしまった。


左の少年が何か喚いた。

単車ごと稔彦の側面に押し当ててくる。稔彦は、今度は左の靴底でその単車の前輪の上を押さえ、動きを封じた。

いきり立った少年がエンジンをふかそとした瞬間、左足に力をこめ、そのまま横に押し流した。さっきと同様に、その少年も単車ごとひっくり返った。


前方に残った少年が、顔を引きつらせながら叫んだ。

「てめえ、おれらに、こんなことして、ただで済むと思ってんのかよ」


「うるさい。おいら、先を急ぐんだ。じゃまだからどけよ」


少年は、今、眼前の男が自分のことを、おいら、とそう呼んだことに気づき、何かを思い出したのか、奇声をあげた。

「ああ、おめえは、まさか」

「おいら、おめえ、なんかじゃないよ。ちゃんとした名前がある。早く、そこをどけよ」


前方の少年が慌てて単車ごと後退した。

その時、216号線の左車線が渋滞し始め、後方からクラクションが鳴り響いてきた。

仕方なく稔彦は〈疾風〉から降り、二台の単車と少年たちを路肩へ片づけると、それから走り去っていった。


大城みゆきが、帰りのルートは、215号線から海を眺めながら帰りたいとねだる。

稔彦は、店で待つ神谷藍の顔を思い浮かべながらも、大城みゆきのわがままに渋々つき合うことにした。


南下して走り抜けると陽射しが痛いほど顔に当たり、やがて青い海が見えてくる。

稔彦はアクセルを吹かしながら、帰宅時間が遅れることの、神谷藍に対する言い訳を探していた。

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