50 曰く、天使

 暗闇の道をかき分け進むその先。

 不思議な光が道標となって夜道を照らす。

 木にもたれかかりながらようやく進んだ向こう側には。

 見知った人の影――のように思われた。


「……ウェンディ、ちゃん、なの……?」

 信じられないと言いたそうに呟く。

 それもそのはず。

 あの後ろ姿はどう見ても彼女なのだ。

 その背中に生えた、光を纏うように輝く白い翼を見なければ。


「……あっ」

 ふらふらと覚束なく一歩進んでは、バランスを崩しその場に倒れ込む。

 そしてその背中を重たそうに立ち上がり、再び歩き出す。

 まるで生まれたての動物のように。

 生まれたての、天使のように。


 その様子を隠れてみながら駆け寄ろうかと迷っていると、空から轟くように声が響く。

「ああ。哀れなる同胞よ。地に這う人の子よりいでし天使よ。その翼は決して重くない。空を舞うように、ゆっくりと動かすのです」

 それはびゅうびゅうと風に吹かれているかのように、言葉が地を駆け這い回るように、余韻として耳に残る。

 大きな声ではなかったのに耳にまとわりついて離れない。

 不快感すらあり、目を瞑り耳の違和感が去るのを待っていると、まぶた越しでもわかるほど強い光が目の前に飛び込む。


「――――っ!」

 ゆっくりと目を開くと、そこにはあまりに非現実的な光景が広がっていた。

 人間の姿をしたそれらは背中に翼を生やし、自身の羽を淡く光らせ、ゆらゆらと飛んでいるのだ。

 まさしく人間からすれば、それは天使が集団でやってきたとしか思えない光景だ。

 そしてそれこそが現実である。


「ねぇ……わたし、どうしちゃったの? せなかがおもたいよ……」

「それは名誉の証。誉れなる存在の証左。喜びなさい、人の子でよ。お前は今、天使となった」

 一人の天使が言う。

 見た目は男性のように見えるが声は中性的で、よく見ると他の天使も皆どこか顔が似通っている。

 想像していたよりずっと人間らしく見え、しかしまるで人間らしからぬ造形のようにも見える。

 息を殺し声を潜め、彼らの挙動を伺う。


「てん、し……? あ……お兄さんたちがいってた、『聖女は天使』っていう、あの天使?」

「人の世に落ちた魂が依代として選んだ器をそう呼ぶのであれば、きっとそうなのだ。そして魂が昇華された時、それは天使の誕生なのだ」

 その言葉は地鳴りのように足元から響く。

 すぐそばで、人と変わらない背丈の彼が話しているだけなのに、まるで天地から声が聞こえてくるような不思議な感覚だった。


「さあ。我らとともに」

「ちょっと待って! 私はまだ誰にもお別れなんて言ってない! お母さんにも、リリーにも、あのお兄さんたちにも! いやっ。いやよ、行きたくない!」

「これは定めである」

「地に這い寄りし人とともに現し世に留まることは、お前にとって

「我らとともに来ることが天使としての生き方を全うできるのだ」

 次々に天使たちは言葉を紡ぐ。

 まだ幼い子によってたかって大人たちが意味不明なことを捲し立てている、そんな風にしか見えない。


「いずれ定命のものには我らの姿は見えなくなる」

「……え?」

「定命のもの。つまり人間である。人の世に留まりしことは、誰もお前を知らぬ世界にて、何一つ干渉できぬこの世の行く末をただ眺めるだけに過ぎないのだ」

「我ら天使は高次の存在なり。人の世の上に立つものなり」

 彼らの言葉は難解で何を言っているのか理解できないところはあるが、少なくとも人間と天使は共に暮らせない、ということが言いたいのは伝わってくる。


「…………」

 とうとうウェンディは黙ってしまった。

「お前の力は『豊穣』なり。ひとたび祈れば世界は盛り、生命は滾る。それすなわち、豊穣なり」

 彼女が持っていた不思議な力。

 いつもと言っていたのは文字通りの意味で、それだけで彼女はりんごを実らせていた。

 それは彼女自身、少し変わったこともあると己の特殊性に目を背けていたのだが、とうとうその代償を支払う時が来たのだ。

 その覚悟を決めるまでの沈黙だった。


「さぁ」

 一人の天使がウェンディの手を取り視線を空に向ける。

「お前はもう飛べる」

「そう、その羽根は天へと導くだろう」

「さぁ、お前はもう飛べる」


 まるでたちの悪い勧誘だ。

 グラがそんなことを思っているとウェンディの翼がさらに白く輝き、ゆっくりと上下に羽が動いていく。

「さあ、飛び立つのだ」

「ああ、現し世を捨てよ。常世へと旅立とう」

「何れ忘れてしまうだろう。一時の悲しみなど、零れる砂の一粒に過ぎない」


 まったく夢を見ているようだった。

 何一つ現実的でない。

 彼女が天使だったことも。

 空に昇っていった流れ星たちも。


 ぼうっと薄明かりの中立ち尽くしていると、生ぬるい風とともに地を這う声が再び地響きのように唸りだす。


「……ああ、忘れていた。もうこれは必要ないものだ」

 その声とともに天から無数の雷が降り注ぎ、夜空を光で埋め尽くす。

 雷鳴とともに落ちてきたそれは彼女たちが先ほどまで居た畑を焼き尽くす勢いで、閃光と轟音にやられてグラは気を失い、その場に倒れ込んだ。


 誰かの泣き叫ぶ声が聞こえたような気がした。

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