幕間 β


 幕間インタアルウド


     β



 私の友人が開いている喫茶店『スワロウテイル』の閉店時刻は、午後十時である。

 しかしその日、九時頃に店に赴いた私は、暗い窓を覗いて立ち尽くすこととなった。まだ閉店までは一時間もあるというのに、店の明かりはすべて落とされ、入口の扉には営業終了を報せる札が下がっていたからだ。

 今日は木曜日ではない。つまり定休日ではない。

 私は首を傾げつつ、いつものように店の裏口に回ってみた。が、予想していた通り、滅多に鍵の閉められていないこちらの扉も開かなかった。人の気配もない。

 昼過ぎに降った通り雨で、五番街の石畳はまだ少し濡れていた。空に昇った月の光を受けて、石の表面がぴかぴか輝いている。私は自分の足元に落とした視線を、黒々とした夜空に向けて、うんと低く唸った。

 美しい円を描く月の右下に、もう一つ同じ形の月が昇ってきていた。

 あと数十分のうちに、二番目の月が一番目に追いつき、双子の満月は並ぶだろう。

 惑星の周囲を運行する二つの天体は、季節によって微妙に軌道を変えるため、二つが揃って見える夜はひどく少ない。ましてや満月となると、一年に一度あるかないかの確率である。その希有けうな夜が、今日であった。

 昔の人間は、よくこの二つの満月を「魔王の眼」と呼んで怖れたという。

 確かに彼らの気持ちもわからなくはない。

 闇夜を皓々と照らし、まるで睥睨へいげいするかのように地上に迫る二つの月は、私も少し苦手だった。古代──有史以前に我ら人類がいた星では、月は一つだったと何かの本で読んだことがある。おそらくは、それぐらいがちょうど良かろうと私は思う。夜が明るくては余計なものまで見えかねない。ああ一体いつから、世界はこんなにも変わってしまったのだろうか。

 私は大いに迷ったすえに、裏口の脇に置いてある鉢植えを持ち上げた。赤い衝羽根朝顔ペチユニアで溢れた鉢の下から、鈍色にびいろの鍵が現れる。今しがた置いたばかりにも見える、さして汚れていないそれを拾って裏口の鍵穴に挿すと、案の定、扉は易々と開いてしまった。

 莫迦ばかめ、と私は口の中で独りごちて店内に侵入した。

 当然のことながら、無人の厨房を通って向かったカウンターの内側に、いつもの友人の姿はなかった。暗い店内に、窓の外から青白い月光が差し込んでいる。二つ並んだサイフォンに掛けられた布巾ふきんが、やたら白く見えた。

 私は、彼があてがってくれた指定席の前に立ち、また一つ唸った。

 棚に保管された珈琲豆の匂いに混じって、かすかに異臭がしている。以前にも嗅いだ覚えのある臭いである。私はそのもとを辿って、自分のために置かれたはずの椅子を横にどけた。喫茶店の床は、三十センチ四方の木製のタイルを貼り合わせて出来ている。よくよく目を凝らして調べてみれば、椅子の真下に当たる四枚のタイルは繋がっており、周りの床からほんのわずか浮き上がっていた。

 きちんと嵌っていなかったせいだろう。私が黒い溝に指を引っかけ、少し力を込めただけで、それは六十センチ四方の跳ね扉となって上に開いた。

「莫迦め」

 今度は声に出して独りごちる。

 人一人がゆうに通り抜けられる、床に開いた暗黒の口を前に、私はしばし途方に暮れた。

 異臭はこの下から這い上がってきている。

 彼はいない。

 大きく溜め息をついて、私は懐中より時計を取り出した。すると、いつかの時と同じく一緒に入れていた万年筆が転がり落ちた。硬い音をたてて床で跳ねたそれは、何か目に見えぬものと申し合わせたかのように、開いたままの床穴に吸い込まれていった。

 ややあって、かつん、と。

 穴から響いた音を聞いて、私は取り出した時計を再び懐中に戻した。

 もはや、さいは投げられたらしい。



 そもそも帝都の地下深くには、古い隧道ずいどうが蜘蛛の巣の如く張り巡らされていると聞く。

 なぜここまで無数に存在するのかはわからないが、それらの隧道は一部が地下鉄に利用されている以外、いまだにほとんどが放置されている状態だ。中でも五番街の地下は、もっとも複雑に隧道が密集している地帯だと噂されていた。

 その噂を裏付けるように、五番街の喫茶店『スワロウテイル』の床穴は、地下数十メートルの地点で、隧道の一つだと思われる横穴に繋がっていた。穴の側面には鉄梯子てつばしごが取り付けてあり、私はそれを伝って恐る恐る穴の底部に下り立った。

 驚いたことに、底部のすぐ隣の横穴は成人男性が立って移動できるほどに大きく、しかも一定の間隔を置いて灯りが壁に吊されていた。そのため、梯子の近くに落ちていた万年筆は難なく見つかった。

 しかし奇妙な灯りである。

 最初は、炭坑で使用される安全灯かと思ったが、どうも違う。万年筆を拾いがてら、横穴に吊された角灯ランタンの一つに歩み寄った私は、橙色だいだいいろに発光するそれを間近で見て……たちまちに悲鳴を発して飛びすさった。

 角灯の中で光っていたのは、蝋燭の火でもなければ電球でもなかった。

 一匹の黒い揚羽蝶が燃えていたのである。

 同時に異臭を感じ、私は思わず顔を手で覆って退散した。

 どうやらこの蝶は、もとから鱗粉に臭いがある麝香揚羽ジヤコウアゲハであるらしい。だが、如何なる仕組みになっているものか、いつまで経っても燃える蝶は炭にはならず、また火も消える気配はなかった。そしてその摩訶不思議な灯りは、入り組んだ隧道の一つをどこまでも照らし続けていた。

「…………」

 私はまた大いに迷ったすえに、蝶の灯りを目印にして奥へと進んでみることにした。

 しかし歩き出して十分も経たないうちに、自分の選択を後悔した。

 日頃から、興味は湧いても勇気が湧かず、安全圏から出ることのできない臆病者の私にとって、今夜の行動は賞賛に値するものであった。けれども、ふと我に返って考えてみれば、喫茶店の床に穴を空け、燃える蝶の灯りで隧道を照らす輩が、尋常な人物でないことは言うまでもない。

 そう思うと、今さらながらに恐怖心がこみ上げてきたのである。

 これは……彼の仕業しわざなのだろうか。

 私は、今日は早く店仕舞いをしてしまった喫茶店主のことを考える。

 こんな大がかりな行為は厭世家えんせいかの彼らしくないとも言えるが、情報屋の彼なればこその秘密だとも思えた。どれもがあり得そうで、どれもがあり得ない気がする。まったく以てわけがわからなかった。

 そう。思えば、あの男は最初からわけがわからない人物だったのだ。


     †


 私が彼と初めて出会ったのは、昨年の六月のことである。

 その日は梅雨の中休みで、朝からたいそう蒸し暑かった。おかげで私はちっとも仕事がはかどらず、仕方がないので何か涼を取れる美味い物でも仕入れて来ようと、昼過ぎに外出をしたのだった。

 六番街の地下街で水まんじゅうを買い、さあ帰ろうと表に出ると、雨が降っていた。けれども空では太陽が顔を覗かせている。所謂いわゆる、日照り雨というやつであった。その雨脚は存外に強く、傘を持たずに家を出てきた私は、せっかく買った菓子が濡れてみすぼらしくなるのを憂い、雨宿りをすることにした。

 折しも、とある団地の公園にさしかかったところであった。ざっと見回して、公園が無人なのを確認した私は、ゾウの形をした滑り台を目指して走り出した。せいぜいそれぐらいしか、ひさしの役割をしてくれる物がなかったのである。

 すでに夕立のような勢いで降っていた雨の中をかいくぐり、私は象の鼻の下に逃げ込んだ。そうして、驚きのあまり大声を上げそうになった。いや、上げた。

 なんとそこには先客がいた。

 象の鼻の先端部に向けて足を投げ出し、黒い服の男が一人寝そべっていたのだ。

 私の上げた声に、男はつむっていた目を開けた。

「やかましい」

 それが彼だった。

 今思えば、なんとも失礼な第一声だが、その時の私は恐縮していたので、ろくに腹も立てずに詫びを入れた。彼は仰向けに寝そべったまま、目だけを動かして私を確認した。それから、面白くなさそうに「全体、この国はどうなっている?」とつぶやいた。

「は?」

「ひどい湿気とひどい暑さで死にそうだ。夜でも大して変わらないとは、けしからん」

 確かに、その年は春先から例年以上に気温が高く、梅雨時とはいえすでに熱帯夜の日々が続いていた。言い草から察するに、異国からの旅行者であろうかと私は思った。しかし彼の容姿は美醜を別にしても我が国の人々と大差なく、言葉になまりも感じられなかった。

 それにしてもこの男は、どうして公園の滑り台の下なんかに寝そべっているのか……疑問を抱く私の前で、彼が今気づいたという風に言った。

「また雨が降っている。雨の好きな国だ」

「梅雨ですから」

「晴れているのに降るとは、よほど好きなのだろう」

「ただの日照り雨ですよ」

「ヒデリアメ?」

「天気雨とも言いますがね。雨が地面に至る前に、雲が消えてしまうと起こるそうです。あるいは、どこか別の場所で降った雨が風に流されてきたとか」

 彼は「ふん」だか「ほう」だか、よくわからない返事をした。

「聞いたことはある。だが、遭遇したのは初めてだ。この国は、そのヒデリアメとやらが多いのかね? だとしたら面倒だな。晴れていても用心のために傘を持ち歩かなくてはならない」

 さすがにそれは大げさだと私は苦笑した。

たまさかにある程度ですよ。どこの国でも同じです」

 と答えたところで、ふと思いついて付け足す。

「そろそろ満月でしたね。だから気象が不安定なのでしょう」

 私の言葉に、彼は鷹揚おうように「なるほど、そうか」と頷いた。

「通りで体調が良いような悪いような、落ち着かない感じだと思っていた」

「あの、あなたはどこかお加減でも悪いんですか?」

 本来なら最初に訊いてしかるべきことを、ようやく私が口にすると、彼はまた目だけを動かして唇を一瞬、横に引いた。

「病み上がりでね」

 どうやら笑ったらしいと、少し遅れて私は気づいた。

「長らく伏せていたせいで、どうにも体も頭も優れない。すぐに海を渡ったのがいけなかったようだ」

 言われてみれば、彼の顔色は紙のように白かった。もしやこれは、寝そべっているのではなく倒れているのではないか──にわかに狼狽するこちらの心情を見透かしたのか、彼は「構わないでくれたまえ」ときっぱり告げた。

「湿気と暑さで古傷が痛んでいるに過ぎない」

「そ、それなら病院に行ったほうが……人を呼びましょうか?」

「無用だ。使いが欲しい時は自分で用意する。きみや、きみが呼ぶ者には務まるまい」

「しかし」

「大体、今は雨が降っている。移動したくない」

 それがもっとも重要な理由だとでも言うように、彼は頑なに首を振った。

「濡れれば傷が痛む上に、今にも増して腹が減る」

「はあ」

 適当な相槌を打った私の目と、彼の色素の薄い目が合った。その時、彼がついと視線を下げて、私が右手に持っていた水まんじゅうの紙袋を眺めた。

「…………」

 数秒間、紙袋を背中に隠してしまいたい衝動と私は戦った。ややあってかろうじて己の良心が競り勝ち、「よかったら」と彼に紙袋を差し出した。彼は少し意外そうな顔をして、おもむろに上半身を起こした。そして、紙袋を受け取ると、中から地下街の和菓子屋の包みを取りだし、遠慮なく破いて水まんじゅうを手にした。

 おそらく、初めて食べる物だったのだろう。

 やや警戒するように匂いを嗅いだり、表面を舐めたりした後、彼はの透けた涼しげな和菓子を口の中に放り込んだ。一口であった。続いて、二つ目の水まんじゅうに手が伸びた。また一口で食す。さらに三つ目、四つ目とまんじゅうは腹の中に消えていき、ものの五分ほどですべて食べ尽くされてしまった。

 普通、他人に箱入りの菓子を勧められたら、一つを有り難く頂いて残りは返すのが人情というものである。それを一つも残さず平らげたばかりか、礼も言わなかった彼は、呆れる私を横目に、

「こういうのが流行っているのかい?」

 と、指を舐めながら訊いた。

「は?」

「だから、昨今の人々が好む食べ物だよ」

「ああ……いや、それは私の好物で。昨今の流行りなら、むしろ和菓子ではなく洋菓子のほうではないかと思いますが」

 そちらから尋ねてきたくせに、もそもそ答えた私の話を聞いているのかいないのか、彼はすぐに返事をしなかった。

 雨がだいぶ小降りになってきている。

 陽光を受けて白く輝く雨の糸を、滑り台の下に寝ていた奇妙な男はじっと眺めていた。私はその思案げな横顔を斜め上から眺めていた。

 しばらくして、「洋菓子か」と彼が低くつぶやいた頃、雨は静かにあがった。


     †


 その後、あの男は何を思ったのか五番街の貸店舗で喫茶店なぞを始め、その開店日に招かれたのを機に、私と友人関係になって今日に至るわけである。

 歩き出して三十分も経っただろうか。

 麝香揚羽の角灯を頼りに辿ってきた隧道が行き止まりとなり、私のとりとめのない回想は終了した。

 最後の角灯を見上げて、私は三度うんと唸った。

 ここに至るまで、誰にも会わず、なんの異変もなかった。

 それが何とはなしに拍子抜けで、突き当たりの壁をぺしりと叩く。喫茶店の床板が跳ね扉になっていたぐらいだから、この先も隠し扉になっているのではと思ったのだが、残念ながら壁を押しても擦ってもその手の仕掛けは発見できなかった。

 時刻はそろそろ十時を過ぎようとしている。

 懐中から出した時計をしまい、諦めて回れ右をした私の頭上で、角灯がジジと音をたてた。見れば、中で燃えている揚羽蝶が苦しそうにもがいている。必死の動きで、ガラス板の隙間から触覚がにじり出た。しかし、触覚は外気に触れた途端、一瞬で灰となって宙に散った。その灰が私の頬をかすめて右方みぎかたへ流れた。

「…………」

 私は引き返しかけた足を戻して、もう一度、突き当たりの壁を丹念に調べた。すると、左の端の一角に、不審な溝があった。顔を近付けると、わずかに空気が漏れてくるのがわかる。少々強引に溝の中に指を突っ込み、力を込める。やがて、重々しい音を響かせて一本の溝は左右に開け、私の目の前に狭い上り階段が姿を現した。

「莫迦、が」

 あいつめ。

 私は乾いた喉を潤すべく、何度も唾液を嚥下した。

 階段は上へと続いている。もはや、引き返す理由は何もなかった。一歩、また一歩と、緊張で止まりそうになる足を励まして上へ行く。五分も経たないうちに階段は終わり、突如として視界が開けた。

 そこには、思いもかけない光景が広がっていた。

 高い天井に黒い壁。淡く発光する白い人工石の通路。そして、その通路の左右にずらりと並ぶ、半透明の赤い棺──。

 私は衝撃のあまり、声もなくその場に立ち尽くした。

 棺は黒い壁に固定されて、奥まで果てなく続いていた。どれも表面が磨いたように滑らかで、内側から発光しており、中に入っているモノが透けて見えた。

 獣らしきもの。魚らしきもの。鳥らしきもの。人らしきもの……何と呼べばいいかわからぬ形態のもの。陳列と呼ぶに相応しい状態で並んでいる彼らは皆、眠っていた。

「魔族」

 ぽつりとそう言った瞬間、私はほとんど直感的にこの場所がどこだか悟っていた。

 おそらくは、箱舟から運び出した魔族を収容している保管庫であろう。隧道と繋がっているということは、地下にある施設だと思われる。しかも、五番街から徒歩で来られる距離となると、考える場所は一つしかない。

 噂に聞く、帝国學園の地下迷宮ラビュリントスである。

 自分の導き出した答えに、私は呆然となった。

 なぜだという思いが渦巻き、彷徨う視線が左右に並ぶ魔族の列を撫でていく。そこでふと、頭の中から余計な記憶が呼び起こされ、また一つ外堀が埋められた。

 魔族たちが収められている棺は、半透明の赤い色をしていた。それと同じ色味の器を、私は見たことがあった。見たばかりか、自分で使用したことさえあった。

 そう、五番街の喫茶店『スワロウテイル』の主人が好み、よく布巾で磨いているタンブラーや耐熱用の珈琲カップだ。

「ありえん!」

 目の前の光景と、己の記憶とを照らし合わせた結果を、私は声に出して否定した。あり得ない。そんな物の調達のために、誰がわざわざ隧道を伝って帝国學園の地下に侵入するというのか。

 何かもっと他に理由があるはずである。

 何か……と考えて、別の理由のほうが怖ろしいことに気がついた。

 その時、どこからか足音が聞こえた。

 慌てて引き返そうとした私は、しかし自分の右足に左足を引っかけて派手に転んだ。すぐに起き上がろうとはしたものの、今夜はいつになく消費の激しかった体力が勇気と共に完全に切れており、もはや動くことは叶わなかった。要するに腰が抜けたのである。

 足音は確実に近づいてきていた。

「だっ、誰だっ?」

 私は眠る魔族たちの棺を前に、精一杯の虚勢を張って叫んだ。

 足音が止まった。

 その事実にわずかな希望を託して、彼の名を呼ぶ。

詩堂しどうか?」

 だが返ってきた答えは、長くて深い沈黙だった。

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