第四幕 ⅰ


 第四幕アクトフオウ



     ⅰ


 夜空の中心に、二つの月が並んでいた。

 同じ色、同じ形、同じ大きさの双子月は、まるで空に開いた眼のように、地上を冷然と見下ろしている。その黄色い視線の先に──少女の首筋に牙を立てる鬼がいた。

 少し前まで傷だらけだった体は、今は完全に癒えている。

 漆黒の長い髪が大きくうねった。

 幾筋も切り裂かれ、衣服としての用を成さなくなった長いローブが、生き物のように蠢いている。それは、彼の喉が上下するごとに裂け目を修繕し、織を変え、形を変えてまったく別の衣服へと変貌した。シャツ、タイ、ベスト、スラックス、そしてロングフロックコートとブーツ。緑味を帯びた黒色で統一されたそれらが長身を覆い尽くした時、オズは有栖川ありすがわミチルの首に埋めていた顔を上げた。

「……ごちそうさま」

 そう言って、赤く染まった唇を舐める。同じ色が、ミチルの首の付け根から二筋流れ出していた。彼女の顔色は、かつてないほどに血の気を失って白く透け、わずかに開いた唇の間から細い息が吐き出される。瞳に宿る意志の光が弱くなり、やがてすうっと消えた。それきり、目は開いているが人形のように無反応になったミチルの体を、オズは静かに近くの深草の上に寝かせた。

 吸血鬼の牙を受けて、命を長らえた者はいない。

 時折、おこりの如く痙攣けいれんする瀕死の少女を、しかしオズはうれしげに眺めた。先ほどまで露わになっていた鋭い上顎犬歯じょうがくけんしはすでに引っ込められ、代わりに口元には端正な笑みが浮かんでいる。上機嫌であった。ややあって、調子外れな鼻歌と共に立ち上がった彼は、フロックコートの裾を翻して振り向いた。

 同時に、足元の泥が聞き苦しい音をたてる。

 背後で一部始終を見ていた鳥頭の魔族が、全身を波打たせて退いた足音だった。

 無駄のないオズの動きは、改められた服装とあいまって、ともすると洗練された紳士に見えた。が、振り向いた瞳の赤さと、愉悦に満ちた表情が語る真逆の性質に、仮にも二つ名を持って人々に怖れられる赤の帽子屋クリムゾン・ハッターが畏怖したのだ。

 大きすぎる。

 こうして正面から対峙して、ようやくビビアンは己の分身が崩壊した理由を察した。

 かの印度孔雀インドクジヤクは、獲物の精神に自身の意識を潜り込ませて闇を探すことを得意とする。オズの場合も身のうちに侵入したまでは良かったが、掘り当てたものが巨大に過ぎて嚥下えんげしきれず、逆に呑まれてしまったものと思われた。つまり、相手の中にあった闇はそれほどにということになる。いや、もはや存在そのものが闇と同質だったのかもしれないと、異形の使い魔は血色を湛えた吸血鬼の目を見た。

「で?」

 とその目が笑って一歩踏み出す。

「……で?」

 とビビアンが聞き返して一歩退いた。この連動を面白く思ったのか、オズはにやにや笑いながら前へと進み続けた。そうすることで、必然的に退く側になったビビアンが、じきに迫る速度についていけずにバランスを崩して水溜まりの中に尻餅をつくと、してやったりという風に大笑いをする。

 何がそんなにおかしいのかは謎である。

 ただ、二つの月光を受け止めるかの如く、体を反らして笑う吸血鬼を前に、水に濡れたビビアンは呆然とした。本来ならば湧いてくるであろうコケにされた怒りも、どういうわけか今は腹の底で沈黙したままであった。

 最初の一歩の後、彼は退きたくて退いていたのではない。前方からの得も言われぬ圧力によって、退かされていたのだ。歩くという、たったそれだけの行為で相手の動きを制御する生き物を目の当たりにしたのは、初めてのことだった。

「あ、んたは」

 震える声を聞いて、オズは大笑いをやめた。自分の盛り上がりに対し、ビビアンの反応が今ひとつ足りないことに不満を抱き、「どうした貴様?」と訊く。

「さっきまではずいぶん楽しそうに喋っていたろう? せっかく私の調子が戻ったのに、急に無口になる奴があるか」

 また一歩、オズが足を踏み出した。しかしもうビビアンは退かなかった。そればかりか水溜まりの中からも立ち上がる気配がないのに、

「具合でも悪いのか?」

 と、まんざら言葉だけでもない様子で尋ねて、オズは足元に落ちていた件の赤い傘を拾った。ばふん、と勢いよく親骨の折れた傘が開く。

「良い傘だ。形が大変に素晴らしい!」

 ひっくり返ったチューリップをくるくる回して褒め称える彼を、ビビアンは怯えた目で見た。

「それはあの方が戯れに……持つようにと命じて」

 どうにか答えると、途端にオズはつまらなそうな顔で傘を捨てた。

「なんだシドの趣味か。そういえば雨が嫌いだったな」

「バ、吸血鬼バンパイヤはみんな嫌いじゃないの?」

「あいつが言ったのか? そんなことはないぞ。私は平気だ!」

「…………」

「他の奴らは好き嫌いが多いがな。シドは雨、カインは太陽を嫌う。ゼルはなんだったかな、忘れたな」

 わははと、今度はつまらなそうな顔から一転してまた馬鹿笑いをするオズに、「あんたは?」とビビアンが何かを期待するように訊いた。

「私か? 私はー、んー?」

 一瞬、真顔で思案をしたオズは、けれども結局は「忘れた」と笑って答えた。その口調には拍子抜けするほど偽りの色がなかった。

「ああ、腹が減るのは嫌いだな。でも今は満たされている。これなら存分に遊べよう」

 だから早く戦おう。

 口には出さなくとも、目と表情ではっきりと告げられ、ビビアンは慌てた。

「ちっ、違う!」

 水溜まりの中で尻を擦り、なるたけ目の前の吸血鬼と距離を取るようにしつつ、大きく首を振る。

「ボクは、あんた……や、の敵になったつもりはない。単に、シドー様と引き合わせるためにいるだけで」

「それは前に聞いた」

 皆まで言わせず、オズもまた準備運動よろしく首を回した。こきりと骨が鳴った。

「あいつが来るまで、貴様が相手をしてくれるのだったな?」

「か、勝手に話を作るなよ! そんなことは言ってない」

「まあいいではないか。細かいことは」

「よくない!」

「謙遜するな。だって貴様はソラに連なる悪魔の一匹だろう? ああソロモンだったかな? まあどっちでもいい。おおかたシドの奴が、配下にする鍵を手に入れて覚醒させた悪魔には違いない。何せ奴は、私の気付け薬まで手に入れたぐらいだ。まめな奴だ。そんなところが大嫌いだ!」

 いちいちハイテンションで言ってから、オズはさらにビビアンとの距離を詰めた。

「悪魔なら私の相手ぐらい務まるだろう。ただ待っているのは退屈でいけない。ほら、また下僕どもに方陣の糸を切らせるがいい。私の精神に侵入を試みるがいい。今度はさっきのようなていたらくにはならないから安心しなさい。きっと愉しくて私に感謝したくなること請け合いだ」

 何やら意味不明な発言をするオズの目は、残念なことに本気であった。

 とはいえ、素直にそうですかと頷けるほど、ビビアンは浅はかではなかった。敵でもないのに戦いを要求するような危険な相手に、まともに応じられるわけがない。自分も同じ魔族だということを棚に上げて逃げようとした彼は、だが他ならぬ下僕たちによって邪魔をされた。

 窪地くぼちに集結していた鴉たちが、にわかに騒ぎ始めたのである。

 今や、結界の張られた雑木林は独特の緊張感に包まれていた。それが、術者のビビアンが恐怖心を抱いたことによって均衡が崩れたのだ。しきりに甲高く鳴きながら、枝から枝へと忙しなく移動を始めた鴉たちに向かって、オズが満面の笑みで叫んだ。

「さあ来い!」

 これも残念なことに、鴉たちは浅はかであった。

 無駄に猛々しいオズの迫力に触発され、次々と滑空かっくうを開始した時にはもう遅い。ビビアンが止める間もなく、異質な音が空を裂き、窪地を中心に方形に張られた金属糸が切断された。

 跳ね上がった糸はすべて、地上で仁王立ちをする黒い吸血鬼を目指していた。

 しかしオズは、ふふんと笑って無造作に右腕を一つ振るう。

 重く空気が震えて風が起こった。

 風は迫り来る糸を叩いて軌道を変化させ、ことごとく地面に打ち落としていく。それでも数本はオズの体に達したが、本人の宣言通り以前のように傷を作ることは叶わず、逆に強靱な肉体に跳ね返された。その一本が、宙を飛んでいた鴉の群れを薙ぐ。無惨にも羽を失い、きりもみ状態となって落下してきた群れの一羽を、オズの手が空中で掴んだ。

「ひっ」

 掴んだ瞬間、濡れて固まった砂が崩れるように、鴉の体は粉々に砕けた。その様を間近で見たビビアンが悲鳴を上げて後じさる。だが、尻が何かに引っかかって、思うように動けない。見れば、水溜まりから生えていた畜産部長の腕が、腰の部分に絡んで引き留めているのだった。

 恐怖に支配された使い魔がもがく間も、オズは滑空してくる鴉を手で捕まえては、馬鹿力で潰す、もとい破壊している。その姿を横目に、やっとの思いで畜産部長の腕を押し返したビビアンは、懸命に水溜まりから這い出した。

 何者かの影がさしたのは、その時である。

 おもむろに視界に入った革靴を見て、絶望的だったビビアンが「ああ」と溜め息をついて顔を上げた。

我が主人マスター

 その声に、五羽目の鴉を捕まえたオズが振り向く。

「よお」

 相変わらずの彼の笑顔に、しかしさざなみのように某かの感情が浮かんでいた。

「遅かったな」

「これは失敬」

 冷静に返して、喪服の如き黒いスーツの男──シグルドは浅く唇を引いた。それは、五番街の喫茶店主が時たま見せる、あの独特の笑みと寸分変わらなかった。

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