第三幕 ⅳ


 第三幕アクトスリイ



     ⅳ


 有栖川ミチルは、グラウンドを横切る足を止めた。

 ……まただ。

 また聞こえる。

 呼んでいる。

 なぜそう思うのかは自分でもわからなかったが、耳にはっきりと雄叫びが届く度に、予感は確信に変わっていった。この声はオズである。オズは私を呼んでいる。ここまで盛大に呼ばれているのだから、行かなくては相手に悪いというものである。

 従って彼女は、中臣蒼也のことはひとまず兄に任せ──いまだに激闘の最中にある二人の邪魔をするのは気が引けたので、声を掛けることなく窓からそっと抜け出し──高等部特別教室棟一階にある医務室を、決然と後にしたのだった。

 再び歩き出したミチルの靴に、点々と泥の跳ねが上がっている。グラウンドがぬかるんでいるのだ。中臣と話している時は窓の外は晴れていると思っていたが、実際は通り雨でも降った後だったと見える。

 しかし今はもう夜空に雲はなく、皓々こうこうと明るい月が一つ昇っていた。

 今宵は満月である。

 グラウンドから學園内の遊歩道に出る際、ミチルはちらりと背後を振り返った。校舎の正面に設置された大時計の針は、夜の九時過ぎを指している。付近に動く人影はない。いつもならば、外にいても校舎に残っている職員や寮生の声などが聞こえてくるのだが、今日はそれもなかった。

 何かが変だった。

 とうの昔に授業が終了したとはいえ、學園の敷地内には少なからず人間がいるはずなのに、まるで気配が感じられない。いっそ無人だと言われたほうが納得できるような気が、ミチルはした。

 そんな彼女の耳に、また。

「!」

 彼の叫び声が届く。

 音として空気を伝わってくるのではなく、頭の中にじかに響いてくる。

 それは、ミチルから些末さまつな疑問や思考をことごとく奪った。声の源を確かめないことには、何も考えられなくなるのである。

 気づけば足が、声を辿って走り出している。

 いつもの虚弱体質が嘘に思えるほど、彼女の走りは軽やかだった。遊歩道を東へ東へと向かう。やがて南下し、さらに走って行き着いた先は、やはりあの雑木林であった。

「オズ!」

 昼でも暗い鬱蒼とした木々の連なりは、夜ともなればいっそう闇が深くなる。その黒い空間に一歩足を踏み入れた途端、ミチルはたまらずに声を張り上げていた。

「どこにいますか?!」

 彼の姿が見えたわけではない。

 ただ、夜のせいだけとも思えない、昼間とは明らかに違う林の雰囲気に気圧されて、黙っていることができなかったのである。

「オズ!」

 周囲では、さして風もないのに絶え間なく葉ずれの音が響いている。どことなく、鳥の羽ばたく音に似ていた。時折、遠くで上がる高い鳴き声は鴉かもしれない。

 否応なしに、昼間の大きな嘴太鴉ハシブトガラスと切断された誰かの腕を思い出してしまい、ミチルは大きく身震いをした。嫌な胸騒ぎがする。林に入ったあたりから、オズの雄叫びがぷっつり途絶えて聞こえなくなったせいであった。

 道なりに進んでいくと、前方に斜めに生えたくぬぎの木が見えた。

 橡の裏には丈の高い藪が生い茂っている。その藪の先はややひらけた窪地になっており、陥没した地面には雨水が溜まって、鳥たちが群がる自然の水場を作っている。そこが、数時間前にオズと離ればなれになった場所だった。

 空に輝く月の光を頼りに、藪をかき分けて目的地に辿り着いたミチルは、目の前に現れた光景に思わず立ち尽くした。

「オ──」

 口にしかけた名前が途中で消える。

 果たして、そこに彼はいた。

 雨を吸って泥と化した窪地の中心に、長い黒髪を広げて俯せている。常にまとっているローブのほとんどは切り裂かれ、今は上半身に申し訳程度に絡み付いているぐらいしか存在していない。剥き出しになった腕や肩には、無数の細かい切り傷が付いている。そのまだ真新しい傷からは、彼が荒い息を吐くごとに赤い血が溢れていた。

「──ズ」

 消えた名前の続きを強引に発して、ミチルは彼に駆け寄ろうとした。

 が、できなかった。

 苦しそうなオズの傍らには、闇に同化するような黒い人影があり、さらにその背後には数十羽の鴉の群れが控えていることに気がついたからである。

 それだけではない。

 オズの傍らに佇む黒い人は、右肩に見覚えのある印度孔雀インドクジヤクを生やしていた。その上、左手には雨でもないのに傘をさしていた。

 赤い傘だ。

 親骨がすべて外側に折れ、いびつな形をしている。

 見方によっては、チューリップを逆さにして被っているような形を。

 闇の中で鮮やかに浮かび上がる赤い傘を、ミチルは無感動に見つめた。瞼の裏で、ちかちかと白い光が瞬いている。眩暈めまいがした。

 それは半年前、倒れている父の前に転がってきたものと、そっくり同じ傘だった。

赤の帽子屋クリムゾン・ハッター

 ミチルの唇から虚ろな声がこぼれる。

 風にさらわれそうな声を耳ざとく聞きつけて、黒い人がこちらを向いた。被っていた傘が持ち上げられて、月光に顔面が晒される。次の瞬間、悲鳴を押しつぶしたミチルの喉が奇妙な音をたてた。

 そこに現れたのは、鴉に似た鳥の顔であった。

 右肩に魔族の印度孔雀を生やし、いびつな赤い傘をさした鳥人間だ。ミチルは比較的想像力は豊かなほうだったが、これにはさすがに言葉がなかった。自分が考え得る生き物の範囲を超えている。まるで悪夢を見ているようだった。

 愕然と硬直した視線の先で、悪夢の住人はおどけたような仕草で傘をすぼめた。

「これはこれは有栖川ミチルさん」

 鳥の顔をしているにもかかわらず、くちばしの間からは人の言葉が発せられた。

「一人? どうしてまた戻ってきちゃったの?」

 老若男女どれにも当てはまり、どれにも当てはまらない声である。昼間、この場所で意識を失う直前に聞いた声もそんな声だったことを、ミチルは思い出した。

「困るなぁ。まだあの方が来ていないのに。ソーヤもてんで役に立たないね」

 ミチルの視線が、鳥人間の右肩に流れる。そこに居る孔雀は、確かに中臣蒼也の研究対象であった。けれども現在その美しい鳥は、極彩色の羽根を広げてディスプレイをしたまま、じっとくうを見つめて動かなかった。

 代わりに鳥人間のほうは、しきりに首を動かして大きな独り言を繰り返している。

「あれえ?」

 その黒い頭が、訝しそうな声に合わせて明後日の方角に向いた。

「もしかして、結界がけてる? なんで? ソーヤの気配も変だな。もう一人あの部屋に人間がいるみたいだ。ミチルはここにいるし、誰だあいつ」

 おそらく、今も医務室で怒りの鉄拳制裁中のヒロムのことを言っているのであろう。

 そうとは知らない鳥人間は、一人で疑問を並べた。

「おかしいぞ。なんで結界が解けたのにボクがわからなかったんだ? お前、さっき首尾はオッケーだって言ったじゃないか」

 と、己の右肩を振り返る。そこに居る孔雀は相変わらず無反応だった。微動だにしない青いくびが、先ほどに比べて少し色が悪くなった気がして、ミチルは眉をひそめた。

「なんだか嫌な臭いまでする……麝香ジヤコウか?」

 だが鳥人間のほうは別のことに意識が向かっているらしい。一度ぶるりと、頭の頂きから足の先まで体を揺すってから、「ふん」と息を荒くした。

「まあ、いいや。後で調べてやる。ええと、ミチル? きみも待っててね? 今ちょっと取り込み中なんだ」

 言うだけ言って、鳥人間は返事も待たずに体の向きを変えた。傍らに這いつくばっているはずのオズを見下ろして、たちまちに「あ?」と目を点にする。視線をやった場所に彼の姿はなかった。つられてそちらを見ていたミチルも首を傾げ、だが、ふと気配を感じて己の足元を見た。

「!」

 オズがいた。

 いつの間にか、ミチルの真下に移動してきていたのだ。

 泥を掻きながら這い寄ってくる様は、さながら死体ゾンビのようで、瞬間的に湧き上がった恐怖にミチルの足が退く。しかし、途中で泥まみれの手に掴まれて動けなくなった。

「…………」

 彼の腕は、かすかに震えていた。その濡れた感触と、皮膚に刻まれた切り傷の痛々しさを目の当たりにした途端、ミチルは逃げようとした自分を深く恥じた。

「オズ」

 雨だれが落ちるように、泥の上に膝をついて屈み込んだミチルを、オズはもう一方の手も伸ばして引き寄せた。同時に泥の中から上半身を起こして、体と体をぶつけるように己の胸にかき抱く。それは疑問も抵抗も許さない、すさまじい力だった。

 窒息しそうな抱擁の後、

「ミチルさん」

 力を緩めたオズが、少し体を離してミチルの顔を覗き込んだ。

 白く美しい顔が微笑んでいた。

 これで額と頬に潰れた泥団子さえ付いていなかったなら、さぞ眼福だったに違いないのにと、余計なことを考えるミチルの視界が暗くなる。少し前に同じことを中臣蒼也がしようとした時は、寸前で突入してきた兄はここにはいない。

 ややあって、唇に触れたオズの吐息は、凍えるほどに冷たかった。

 羽のように柔らかい氷の感触が、ミチルの下唇を軽く吸って移動する。それは頬をこすって右の耳朶じだまで辿り着き、ゆっくり首筋を伝って鎖骨の近くに下りていった。

「こ、こらこらこら」

 そこで横合いから茶々を入れたのは、オズの背後に佇む鳥人間であった。

「なーに勝手なことをしちゃってるんだよ!」

 明らかに不機嫌を露わにした声で、手にした傘を振り回す。

「ボクの目の前で! あーそうか。まだ痛い目が足りないんだな? ようし、わかった。ならまた苦しませてや」

 だが、甲高い鳥の言葉は不自然に途絶えた。

 それというのも、これまで少しも動くことなく右肩に生えていた印度孔雀の羽根が、突如として崩れ落ちたからである。唖然として鳥人間が振り向いた時には、もう遅い。先ほどから変調をきたしていた孔雀の青い頸は、今や目に見えて色褪せ、急激に黒の色に染まっていた。

「な、な、な」

 信じられない風情の声をよそに、闇に浸食された羽冠はねかんむりが縦に割れる。その一筋の亀裂はあっという間に全身に及び、まさに崩壊としか言いようのない状態で孔雀の容姿を砕いていった。すべもなく悲鳴を上げる鳥人間に呼応して、遠巻きの鴉たちが騒いだ。

 オズの肩越しにそれを見ていたミチルは、緩慢に一つ瞬きをする。

 視界の中で起こっている光景はとんでもなく異常なもののはずなのに、なぜか今はどうでもよかった。

 耳元で、低く囁く声がした。

「そう──足りない」

 切なげに言ったオズの唇が、ミチルの首の付け根で深呼吸をするように開く。生理的な反応で肌をあわ立てたミチルは、問わずとも彼の言わんとしていることが理解できるような気がした。

 だって、足りないと嘆く彼は、吸血鬼なのである。

「ミチルさんミチルさん」

 くぐもった声でオズが呼ぶ。

「はい。なんですかオズ」

「よい?」

 何をとは言わない。

 こんな状況でもいつもと変わらない声の調子に、ミチルは少し笑う。

 たまには「駄目です」以外の言葉を口にしたいと思っていた。

「はい……いいです」

 そう答えてしまった瞬間、首元の冷気が増した。

 端正な唇がめくれ上がり、普段は目立たない長く伸びた上顎犬歯じょうがくけんしが表に現れる。その鋭い二本の牙が、皮膚を破って首の肉に沈むのを、ミチルの体はつぶさに感じていた。

 冷たい。咄嗟にしがみついた腕ごと、強く抱き返される。

 覆い被さってくる大きな肩の向こうに、やはり大きな満月が見えた。

 天空高く昇っている。

 その満月の斜め下にもう一つ──よく似た大きさと色をした月が昇り始めている。

 第二衛星セカンド・ムーンだ。

 今宵は二番目の月も満ちている。

「────」

 魂が吸い出されるような、怖ろしくも甘美な疼痛とうつうが背筋に走り、彼女は細く長い息を吐いた。吸血鬼の腕をきつく掴んでいた指が次第に力を失い、するりと滑り落ちていった。

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