第三幕 ⅲ


 第三幕アクトスリイ



     ⅲ


 鳥の羽音が耳につく。

 沈んでいた意識が浮上して、オズは瞼を開いた。

 まず見えたのは、あの一対の黒い瞳ではなく、黒い空だった。ところどころ星が塗り潰されているのは、間で木々の枝が揺れているせいだろう。空も木も墨を流したような夜の色に染まっていた。

 雨でも降ったのか、空気が少し冷えている。

 オズはぐるりと眼球を動かした。

 風の流れと葉ずれの気配から、現在地が意識の途絶える前とさして変わっていないことを確認する。即ち、帝国學園の南東部に存在する二ヘクタールあまりの雑木林内、入口から直線距離で百二十三メートルの地点だ。

 焼却炉に向かう道を逸れ、藪に分け入った先にぽっかり開いた窪地である。その、雨水が溜まってできた自然の水場に、オズは仰向けで寝かされていた。どういうわけか腰から下が窪地の泥水に浸かっており、辺りには金気臭さが充満している。

 嫌ではなかった。

 血のにおいである。それも人間の。

 おもむろに、オズは半ば泥に埋まっていた右腕を上げた。ばしゃりという濡れた音に続いて、近くで鳥の羽ばたきが起こる。どうやら水場の周りには、数羽の嘴太鴉ハシブトガラスたむろしているらしい。闇に溶ける色の鳥たちが、遠巻きにこちらを窺っているのを感じつつ、オズは次に左腕も持ち上げた。

 先ほどと同じく水音があがり、骨ばった白い手が目の前でゆらめく。意識の途絶える前は切断されていた左腕が、いつの間にかもとに戻っていた。手指を動かして、何度か掌を開閉していると、

「やっと復活したの?」

 甲高い声が降ってきた。

 再びオズは、頭の位置はそのままに眼球だけを動かした。すると、自分の右斜め上付近に赤いものが見えた。限りなく円形に近く、けれど歪んだ物体であった。

「血が足りないくせに、腕を落とされるなんてヘボいね」

 甲高い声と共に赤いものがくるりと回転した。

 それが傘であるとオズが気づいたのは、声の相手が右斜め上から自分の視界の中心にまで移動してきたからだった。

「今日はいつだか知ってる?」

 雨でもないのに赤い傘をさしたその人物は、黒い顔をしていた。造作も暗くてよく見えない。大きすぎず小さすぎず、太からず細からず、見事に中肉中背のシルエットが、逆光の中でうっすらと浮かび上がっている。

 なぜ逆光なのか、その理由をオズが悟るのと、

「満月だよ」

 相手が答えを口にするのとが、ほぼ一緒だった。

 赤い傘の背後に、丸く満ちた月が昇っている。地面に倒れているオズからは雑木林の葉陰が邪魔して完全には見えなかったが、体がそれを認識していた。通常は血の摂取によって蓄えられる力が、上空に満ちる月光を感じて増幅していたからだ。水溜まりに染みた人間の血液に加え、この満月の光があったからこそ、オズはミイラ状態から復活したようなものだった。

「そう。今日は吸血鬼に優しい満月なんだよ」

 もう一度、念を押してシルエットは言った。

「約束の日だ。なのにあんたは何もしていない。ボクが呼び出さなけりゃ、ずーっと學園の中でぬくぬくしている気だったんだろ」

 赤い傘が責めるように揺れる。相変わらず声は高く弾んでいて、子供か大人か、さらに男か女かすらも判別がつかなかった。中肉中背の体がまとった衣服も、見方によっては燕尾服のようでもあり、丈の長いワンピースドレスのようでもある。オズが目を凝らして見極めようとすると、その気配を察したのか、シルエットがさっと遠ざかった。

「じろじろ見んな。いやらしい!」

 言って、今まで広げられていた赤い傘がすぼめられる。顔どころか頭部をすっぽり傘で覆った姿は、まるで大きなマッチ棒だった。

「なんであの方は、あんたみたいなお間抜けを起こしたんだ」

 傘の内側で、甲高い声がぼやいている。

「ボクだけでよかったのに。わざわざ手間ひまかけてさぁ」

 起こした、という言葉で、オズには赤い傘人間の正体がなんとはなしに知れた。

「──シドの使い魔か」

 音になるかならないかの声量でつぶやいた一言に、しかし相手は敏感に反応した。

「呼び捨てにするなっ」

 もともと高い声が裏返る。

「シドー様だ。シドー様。ほら、シドー様と呼べ!」

 オズは、持ち上げていた両手を再び泥の中に下ろした。首を少し動かすと、水溜まりの中央には今もなお、誰のものかわからない人間の右腕が生えているのが見える。昼間、空色の手紙に付いた血のにおいの源がそれだった。

「おい、聞いてるのか?!」

 一旦遠ざかっていた使い魔が、憤然ふんぜんとオズの前に近寄った。躊躇ちゅうちょなく水溜まりに踏み込んだ黒い足が、激しい水音をたてる。勢いよく跳ね上がった泥が上等な燕尾服、あるいはワンピースドレスに染みを作っても、構う様子はなかった。否。そもそも、使い魔は最初から衣服など着ていなかった。

 なぜならそれは、ただの黒い影だったからである。

 地面に落ちた人の形の影に相応の厚みができ、実体化した存在とでも形容すればいいだろうか。近づいても遠ざかっても、太陽の下でも建物の中でも、常に黒ずんでいる影法師──それが使い魔の体だった。異彩を放つその容姿は、本人の感情や意志で自由に変化すると見え、現在、高圧的にオズに詰め寄る姿は、少し離れて見ればプライドの高い青年貴族を思わせる。とはいえ、頭部を赤い傘の中に突っ込んだままなので、不格好であることに変わりはない。

「いいか。あんたは感謝しなくちゃならない。あの方がいなかったら、あんたなんかいつまで経っても眠りっぱなしの爆睡吸血鬼だったんだから」

「それでいい」

 起きればどうせ腹が減る。

 月光のおかげでよく夜目のきく空をぼんやり眺めて、オズは独りごちた。

「それがよかった」

「なんて起こしがいのない吸血鬼だ」

 ますます使い魔は憤った。

 それとは別に、オズはなぜか心がざわつくのを覚えた。月光と血のにおいに体が刺激されているからではない。無性に落ち着かないのだ。何か足りない。近くにあるべきものがないような、そんな気分であった。

「起こす必要なんてなかったんだ」

 使い魔はまだぼやいている。

 そろそろ、名前でも訊いてやったほうがよいかとオズは考える。

「九人も狩るのは面倒だったんだぞ。あの方は食ってはいけないと言うし。でも、その代わり十人目はボクの自由にさせてくれるって言うから、たくさん物色して、探して選んでやっと良い子を見つけたと思ったのに……っ。他でもない、あんたが邪魔をした」

「邪魔をした」

 聞き返すのではなく、ただ同じ言葉を繰り返しただけのオズに、使い魔はふんと鼻息を荒くした。

「そうだ。あんたが彼女の個体マウスになったりするのがいけないんだ。おかげでボクは、あの方にお伺いをたてなくちゃならなくなった。あんたが関わることは全部、報告しなくちゃいけないんだ」

「お伺い」

「そうだよお伺いだよ! そうしたらあの方はなんて言ったと思う? 彼女は駄目だってあっさりと、駄目だって言ったんだ! ボクはずっと頑張ってきたのに!」

 興奮する使い魔の声が、口惜しげな色をにじませて震えた。

「こんな學園の中でさ、ソーヤとも上手く付き合ってやってさ。そりゃあ、家畜をかじったり、女学生の傷をすすったりしたこともあったけど、ほんのちょっぴりだ。基本的には大人しくしてたんだ。九人の狩りだってうまくやった。なのに駄目だなんて! それもこれもみんなあんたのせいだ」

「あんたのせい」

「そうだ。え? ああ、いや。だから、あ・ん・たのせいだっ。あんたが彼女と繋がりを持ったから、駄目になったんだ。きっとそうだ。そうに違いないんだ。あの方は同族には甘いんだ」

 使い魔の話はよくわからない。オズはかすかに首を傾げた。

「そうかな」

「そうだよ! おかげでボクはどうでもいい奴を十人目にしちゃったじゃないか。山羊一頭かじっただけなのに、やっぱり魔族が犯人だとかって大声を上げるからさ! 人間だって食べる家畜を、ボクが食べることの何がいけないんだ。あんなの、やけ食いにも入らないのに」

 愚痴の止まらない使い魔は、つい数時間前、家畜小屋に忍び込んだところを張り込んでいた畜産部長に見つかって騒がれたため、仕方がないから手にかけて殺したことを、訊いてもいないのに白状した。

「ふうん」

 とオズはどうでもいいような顔をする。これにまた、使い魔は明らかに憤りを覚えたようだったが、文句を言われる前にオズがまた口を開いた。

「ところで、お前はなんていう?」

「はあ?」

「私はオズという」

 束の間、使い魔は沈黙した。ややあって、完璧に呆れた様子で「んなことは、今さら名乗ってもらわなくてもわかってる!」と叫んだ。

「あんた、ボクを馬鹿にしてるのか!?」

 使い魔の感情がたかぶるのに合わせて、遠巻きにしている鴉たちが落ち着きなく左右に移動を繰り返している。その大きな羽音を耳に、オズは唐突に「ああ」と何かに思い当たった声を出した。

「わかった。お前はビビアンだ」

 最初から、どこかで会ったような気はしていたのである。

 そう考えて記憶を辿れば、煉瓦塔の渡り廊下ですれ違った中臣蒼也なかとみそうや印度孔雀インドクジヤクが、目の前の使い魔と同じにおいであった。

「今日は色が地味だからわからなかった」

「……あんた、ボクの話をまったく聞いてないだろう?」

 いかに怒りをぶつけようとも、一向に態度の変わらない吸血鬼に失望し、使い魔のビビアンは萎えた様子で肩を落とした。

「どうしてこんな腑抜けのために、ボクが彼女を諦めなくちゃならないんだ。先に見つけたのはボクなんだぞ。研究棟の廊下で会った時、ボクがどれだけ驚喜きょうきしたと思う? 彼女の美味しそうな闇は、ボクが父親の命を奪ったから出来たものなんだ。つまり、今の彼女にはボクの存在が欠かせないんだ。この意味があんたに理解できるか?」

 音をたてて、赤い傘が開いた。

 親骨がすべて外側に折れたいびつなチューリップの下から、ビビアンの顔が現れる。満月の光を受けて浮かび上がったのは、鳥の頭であった。体は人間の影法師かげぼうしだが、首から上は背後に屯する鴉と瓜二つである。その黒いくちばしが上下に動いて、甲高い声を発した。

有栖川ありすがわミチルはボクのものなんだよ」

 その名前を聞いた瞬間、オズの体に電流が走った。いや、実際に走ったわけではなかったのだが、それと同等の衝撃を体が感じた。

 まるで天啓を受けた修道士のように、今まで心がざわついていた原因を、彼は瞬く間に理解した。足りないものが見つかった、と思った。

「そうだミチルさん」

 もはやすっかり舌に馴染んだ名前をつぶやいて、オズは勢いよく水溜まりの泥から身を起こした。ぎょっとして飛びすさろうとしたビビアンの腕を、しかし一瞬早く捕らえて引き寄せる。

「ミチルさんは?」

「な──っ」

 水溜まりに浸り、通り雨に打たれたオズの体は濡れていた。長いローブはところどころ大きく裂け、すでに左肩は剥きだしになっている。頬に張り付いた髪や顎先、肘からは泥の雫がしたたっていた。

 その雫で己の体を濡らしたビビアンが、腕を振り払おうとした。しかし、細くはないが太くもない、見た目以上に筋肉がついているとも思えない吸血鬼の腕は、軽く押し返したぐらいではびくともしなかった。

「ミチルさんはどこにいる?」

 そう問いかけながら、オズは彼女の居場所を探るべく全神経を集中させた。半径一ヘクタール以内には存在を感じない。この雑木林内にはいないことを察し、學園の校舎内にまで意識を飛ばしていく。初等部、中等部、高等部、大学、大学院……いない。どの校舎にもいない。煉瓦塔にも体育館にも森林公園にもいない。いない。いない。

「どこにいる?」

 二度目の問いは、先ほどとは響きが違った。海の底を思わせるオズの黒い目に、血のような赤い色がにじみ出している。口調にも言い知れぬ凄味が宿り、ビビアンは咄嗟に答えを飲み込んだ。

 その間も、オズは帝国學園の敷地内に神経を張り巡らせていった。が──いない。依然として見つからないミチルの気配に、彼が苛立たしげな表情を浮かべた時、ようやくビビアンが「彼女はソーヤといるよ」と低く告げた。

 オズの二つの眼球が音をたてるほどに強く動き、ビビアンの鳥顔をめつける。使い魔は、片手で器用に赤い傘をすぼめた。

「もうすぐあの方がここへ来る。あの方に目醒めさせてもらったボクの仕事は、あんたを覚醒させるために九人の人間の血を短剣に吸わせることと、學園であんたの監視をして満月の日にあの方と引き合わせることなのさ。でもその場所に有栖川ミチルが同席するのは好ましくないと、あの方はおっしゃった。しょうがないから、少しの間だけソーヤに任せることにしたんだ」

 言いながら、ビビアンはひどく不本意そうにした。

「ずっと、ボクとソーヤは自分の好きなものを分け合って過ごしてきた。ボクがいればソーヤは満足できる。だから彼はボクの行動に干渉はしないし、アムリタンの投与も控えてくれる。あの薬は厄介だからね、最初に取引をしたんだ。ボクは人間の闇を啜るのが好きだけども、ソーヤは闇のある人間の女の子に興味があるらしい。それなら話は簡単だ。ボクが好みの子を見つけて闇を啜り、ソーヤはそれをきっかけにして彼女らと親しくなればいい」

「ミチルさんもそうしたのか」

「まあね、でも」

 付け足そうとした台詞を、ビビアンは最後まで言うことができなかった。なぜなら、途中でオズに捕らえられていた右腕が音をたてて潰れたからである。傘が水溜まりの中に落ちた。それに続いて、あまりの衝撃に悲鳴を上げることもできず、潰れた腕を押さえて転がった黒い鳥人間を、オズは無感動に見つめた。

 正直なところ、どうして相手の腕を握り潰してしまったのか、自分でもよくわからなかった。話を聞いているうちに、いつしか掌に必要以上の力が入り、ついには入れすぎてしまったのである。今しがた掌に伝わった、骨に似た硬い芯が砕ける感触を確かめるかのように、彼は左の手指を緩慢かんまんに動かした。

 周囲が騒然としている。

 主人の様子に興奮したのか、ビビアンの下僕である嘴太鴉の群が、これまでの沈黙を破って一斉に鳴きだしたのだ。耳をつんざくその声は、木々の幹や枝葉にこだまして跳ね返り、音の塊となって雑木林全体に響き渡った。それは林の中だけに留まらず、数百メートル先の校舎や寮にまで達するほどのボリュームであった。日が落ちたとはいえ、夜半にはまだ早すぎる時刻である。けれどもなぜか、鳥たちの声に驚いて人が外に出てくることはなかった。

 敷地内に意識を飛ばしてそれを認識したオズは、ここでようやく、今いる雑木林がビビアンが張った結界の内側にあり、外界と遮断されていることに気がついた。もし、ミチルもこれと似たような結界の中にいるならば、いくら探りを入れても簡単に見つかるはずがない。

 そう判断し、ひとまず雑木林を出ようと体を反転させた時、どこかで異質な音がした。何と頭が思う前に、体が反応する。ついと半歩退いたオズの胸が、横一文字に薙がれた。一拍ほど間を置いて、ざっくりとローブが割れる。露わになった白い皮膚に赤い線を刻んだのは、昼間、彼の左腕を落としたものと同じ糸であった。

 いや、単に糸と呼ぶのは正確ではないかもしれない。おそらく正体は靱性じんせいのある金属の線である。窪地の水場を中心にして、方形に金属糸の陣が敷かれているのだ。そういえばそうだったと、干からびる前の状況を彼が思い出したところ、ごていねいにも正解を教えてくれるように、糸が次々に飛んできた。

 相変わらず鴉たちはかまびすしく鳴いている。おかげで聴覚が乱されるのに加え、集中力も削がれてオズの動きが鈍くなる。四方八方から襲い来る糸に容赦はない。見る間に血まみれとなり、ものの五分で片膝をついた彼の前方で、甲高い笑い声が上がった。

「だめだよ吸血鬼! あんたはここにいなきゃならない。シドー様に会わなくちゃ!」

 見れば、いつの間にか起き上がっていたビビアンが、泥の中で仁王立ちをしていた。潰れた右腕が、不自然な方向に曲がってだらりと垂れている。その周囲では三十はくだらない数の鴉が群がって、警戒の声を上げていた。

「心配しなくても、ソーヤはミチルを殺したりしないよ。彼にそんな度胸はない。せいぜい人間同士でむつみ合うぐらいだ。……ボクだって愉快ではないさ。でもまあ、それでミチルが減るわけじゃなし」

 左手で、泥にまみれた赤い傘を拾い上げ、使い魔は笑う。とはいえ、鳥の顔に表情が現れることはない。その鳥顔に向けて、

「減る」

 オズは手近にある泥を掴んで投げた。しかし不出来な泥団子は、目的の場所に達する前に、横合いから飛んできた糸によって叩き落とされてしまう。

「幼稚だな吸血鬼」

「減ると言っている」

「ああ?」

「ミチルさんが減るのは嫌だ」

 むすりとつぶやくオズの体は、金属糸で傷つき、絶え間なく血が流れていた。地面に染み込む赤い色は、回復途中の力をも、一緒にこそげ落としていく。

「中臣蒼也のものではない。お前のものでもない。は──」

 オズの目の中に再び赤い色がにじんだ。

 ざわりと空気がこごえて、ビビアンが無意識に一歩退く。

 だが、そこまでだった。

 皆まで言えずに力尽きたオズは、短い息を吐くと顔面から泥の中に突っ込んで倒れた。それきり数秒が経過しても動く様子のない彼を見下ろして、ビビアンが「はん!」といくらか引きつった調子で独りごちた。

「話には聞いていたけど、イっちゃってるね。とても、あの方と同族とは思えないな。僕らの主人がこいつじゃなくて良かった」

 やたら大きな声でまくし立てた後、考え込むように沈黙する。しばらくして赤い傘を掲げた使い魔は、嘴の間から人の言葉ではなく、鳥の鳴き声を発した。それは、鴉というよりは木菟ミミズクによく似た声であった。

 下僕たちの喧騒よりも一つ沈んで響く声に呼ばれ、たちまち雑木林の中から青い鳥影が飛んでくる。豪華な上尾筒じょうびとうをたなびかせた鳥は、一度ゆっくり窪地の上で旋回して、掲げられた赤い傘に止まった。言うまでもなく、いつも中臣蒼也が台車に載せて連れていた、あの印度孔雀である。一つ瞬きをした孔雀は、傘から使い魔の右肩に飛び移ると、青いくびを傾げて潰れた右腕を軽くつついた。

 呻き声が落ちる。

 だが、その一秒後には時間を逆再生したように腕の捻れが正常の位置に返り、骨が砕かれてへこんだ肉がもとの厚みに戻った。

「……まったく」

 回復した腕を動かしつつ、鳥顔が気怠そうにつぶやいた。その右肩に止まった孔雀の足は、すでに肩の肉と融合して繋がっている。鳥人間と印度孔雀、そのどちらもがビビアンであった。

 変形自在の魔族は、右肩に付いた孔雀に問いかける。

「首尾は?」

 孔雀はまた頸を傾げた。けれども、分身同士の会話にはそれだけで事足りるのか、訊いた側は「へえ」と感心したような声を出した。

「そんなによく喋ってくれたんだ? 素直な子だね」

 小さく笑いながら、孔雀の鮮やかな青で彩られた細い喉に左手を伸ばす。「どれ」と人差し指と中指をたてて、腹の付近から撫で上げていけば、不意に途中でぼこりと楕円の丸みが生まれる。そのまま丸みを押し上げてやると、やがて孔雀のいっぱいに開いた嘴を割って一個の卵が吐き出された。

 ウズラよりは大きく、鶏よりは小さい卵である。手の中にちょうど収まるそれを指で転がして、ビビアンは感嘆の溜め息をついた。

「やあ、思った通りだ。美しい!」

 孔雀の嘴からこぼれ落ちた卵は、薄い空色をしていた。さらに殻の表面には、空を流れる雲に似た白いまだらの紋様が描かれている。

 それは、有栖川ミチルが抱える心の闇であった。

 孔雀のビビアンが、半ば催眠状態の彼女に語らせて得た、痛みの結晶である。過去の物語を内包した卵は、皮肉にも闇が深ければ深いほど殻に美しい色と紋様を浮き上がらせ、甘い蜜の香りを発した。その絶望の香りを、使い魔は何より好んだ。

「きっと美味いんだろうなぁ。啜ってしまうのはもったいないなぁ。もう少し取っておこうかなぁ。それとも、ちょっとだけ啜ってみようかなぁ」

 楽しげに、卵は黒い手の平の上を転がった。その、右へ左へと揺らめく球形を追っていたビビアンの視線が、ふと停止する。卵の底の殻に一カ所、なぜか他とは違う色に染まっている部分があったのだ。まるで絵の具で塗ったような原色の赤。描かれている紋様もんよう幾何学的きかがくてきな斑ではなく、もっと抽象的な赤い──。

「花?」

 一瞬、訝しげな声を上げたものの、すぐにビビアンは機嫌を良くした。

「おもしろい。素敵なアクセントじゃないか。こんなに変わった卵ができたのは初めてだよ。やっぱり、もったいないから取っておこう。ボクは美味しいものは後でゆっくり頂くタイプなんだ。なあ?」

 同意を求めるように鳥顔が右肩の孔雀に向き、その斜め下の地面で倒れている吸血鬼に向く。満月の位置がだいぶ高くなってきたおかげか、意識のない彼の体が干からびてしまうことはない。だが、今の状態を保つのが精一杯で、動けるようになるにはまだ時間が要りそうである。そう判断した使い魔の中に、むくりとある誘惑が湧いた。

 好奇心とも言うべき感情に押されて、肩から孔雀を生やした異形の影がオズの傍らに膝を落とす。

「ねえ聞いてよ。いいことを思いついちゃった」

 反応のないオズの後ろ頭に話しかける声は、興奮のために通常よりもさらに高かった。

「ボクね、人間の闇で作った卵は腐るほど食べてきたけど、まだ魔族の卵は作ったことがないんだよね。そこでちょっとお願いがあるんだけど、あんたの体で試してみてもいいかな?」

「…………」

「いいよね? うん。じゃ、そうゆうことで」

 答えなど返らないことをわかりきった上で、勝手に良しとしたビビアンは、改めてまた右肩の分身に視線を移した。それだけで、承知を示すように孔雀の頸が震える。ややあって、これまでずっと後ろに垂らすだけだった上尾筒が持ち上がり、しなやかな音を伴って開いた。

 扇形に広がった孔雀の羽根が、月光を受けて極彩色に輝く。

 途端、オズの頭の内側に何か異物が侵入した。

 うっすらした意識の中で、彼は反射的に侵入物を排除しようとした。が、暴力的な勢いで脳髄のうずいに食い込んでくる黒い思念は、予想外に手強く、うまくはいかない。そのうちに異物の一部が精神の糸に鋭い爪を立てた。


 っ!


 オズの痛苦つうくの叫びは、声として喉から外に漏れることはなかった。

 しかし、その衝撃で生じたわずかな綻びを突破口に、侵入物は脳から全身に回って無造作に暴れ回った。肉体ではなく、精神を食い荒らされるおぞましい感覚に、オズは声にならない声で喚いた。

「抵抗するからだよ。ミチルみたいに大人しくしていれば、痛くもかゆくもないのに」

 使い魔が甲高く哄笑こうしょうする。

 やがて痛苦に耐えるオズの脳裏に、自然に彼女の名前が浮かんだ。

 ミチル──ミチルさん。

 足りない。

 欲しい。

 我知らず、吸血鬼は雄叫びを上げていた。

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