第三幕 ⅱ
ⅱ
オズは〝眠り〟を厭わしいと思ったことはなかった。
あのノックの音さえ聞こえなければ。
突然、前触れもなく暗い棺の蓋を震わせたその音は、しつこく、うるさく、そして少しばかり懐かしい癖を持っていた。ノックは「起きろ」と言っていた。音の強弱や間隔で、しきりに「起きろ」「起きるべきだ」と言っていた。
とても煩わしかった。
ひとがせっかく穏やかにくつろいでいるというのに、なんて非常識な奴だろうとオズは思った。それから、いつもあいつはそうだ、と思い直した。変に生真面目で細かいあいつは、いつもひとの楽しみに平気で割って入ってくる。放っておけというのに放っておかない。だから、昔から私とは破滅的に気が合わない。ああ嫌だ。あいつなんかに邪魔されたくない。嫌だ嫌だあっちへいけ。
しかし、ノックの音はやまなかった。
むしろ、よりいっそう強くなり、ついに棺の蓋に亀裂を入れた。
「貴殿はいつまで
直接耳に届いた声に、オズは大きなお世話だと返した。
亀裂のせいで溶液が漏れだし、棺の内側の
「着つけ薬を用意した」
だからいらないと言うのに、お節介も極まりない仲間は、穴から鋭い何かを差し入れてきた。棺の蓋に空けられた穴は、ちょうどオズの胸の上の位置にある。適度な太さと長さを持つその何かは、棺に差し込まれると同時に易々とオズのローブを裂いて皮膚を割り、肋骨の隙間を縫って一息に心臓の中心にまで達した。
──────っ。
ノックとは比べものにならない衝撃に、思わずオズは
胸に打たれたのは、白木の杭ならぬ一本の短剣であった。
銀の柄から生えた刃が血の色に染まっているのを、オズは目で見て確認した。
余計なことを。
これまでの、中途半端な苛立ちとは比べものにならない憤りが全身に広がった。だが、その感情の変化すらも、覚醒に至る要素のひとつにしかならなかった。
オズの身の
それらはすべて、短剣が殺めた人間たちの顔であった。数えて九人。ごていねいにも老若男女偏ることなく、短剣が吸い取った命の一滴一滴は、吸血鬼の萎えた体に活力を
九の叫びと。
九の恐怖と。
九の死と痛みがオズの中で咀嚼され、嚥下された。
それと共に、禍々しく染まった短剣の赤は色褪せていき、やがて心臓の鼓動に吸い取られるようにして消えた。代わりに下から現れたのは、優美な曲線と鋭い切っ先を併せ持つ
オズは低く呻いた。
もはや〝眠り〟は完全に退けられた。
いつの間にか、あの心地よかった溶液は半分以下にまで減っており、抗いようのない外気のにおいに肌が粟立っている。何より、今しがた得た血液の作用で、体が興奮状態に入っていた。
腹の底から湧き上がる衝動に任せ、オズは棺の蓋に組み付いた。穿たれた穴に指を入れて力を込めれば、ぼろりと崩れる。そのまま無理に両手を割り込ませて、左右に破いた。
暗い
呆気なく砕けた蓋の残りを押して、オズは長らく眠っていた棺から外へ出た。が、さすがに気の遠くなる年月を睡眠に費やしていたつけは大きく、足元がおぼつかずに、ものの一歩でばったり倒れてしまう。途端に空腹を覚えた。
ぎゅぅるるるるぅるるるぐぅるるる。
気づけば、久しく忘れていたひもじさが復活していた。動けない。どうにもこうにも腹が減って動けない。これだから目覚めたくはなかったのだ。オズは鳴り続ける腹の虫に舌打ちをした。この感覚を思い出すのが憂鬱だった。ああ憂鬱だ。どうしてくれるのだと、心の中で全力でぼやきつつ、起き上がろうとする。が、やはり腕に力が入らず、冷たい床の上を這うことしかできなかった。
そんなオズの眼前に、黒い革靴がぬっと出た。
「お目覚めかな我が兄弟。気分は
几帳面によく磨かれた靴先を、舐めるほどに近接した位置でオズは睨んだ。
まだうまく声帯が機能しないらしく、言葉が出ない。なのに、相手は淡々と成立しない会話を進めていく。
「眠りすぎは体に悪いと思いましてね」
やはりこの男は嫌いである。
「空腹なら腹ごしらえをしたらいい」
そのうちこの場所に人間が下りてくるだろう、と彼は言った。つまり、勝手にひとを揺り起こしておきながら、彼自身では食料を用意する気遣いはないということだ。意地悪である。嫌いだ嫌いだ。ああ腹が立つ。ああ腹が減る。
「エリクシヰルの作用はあるだろうが、目を閉じて食いつけば問題ないでしょう」
ぎゅぅるるるるぅるるるぐぅるるる。
腹で返事をしたオズの鼻先で、革靴が方向転換をした。
「落ち着いたら迎えに来ますよ。裏切り者の始末を手伝ってもらいたいので。腹さえ満ちれば、仲間を
ちょっと待て。
とオズは叫んだが、いかんせん、腹が空きすぎていて最後の「て」しか声にならなかった。それでも遠ざかりかけた靴音が止まったのを察し、枯渇気味の栄養分を総動員して声帯を動かす。
「シド」
なんの話だ。
そう続けるつもりが続かず、力尽きて床に額を激突させたオズに、彼は「今度ゆっくり話す」とだけ告げて去った。昔からそうだったが、今も非常に不親切な男だった。むっとしていたオズは、しかし次第にどうでも良くなった。空腹で何も考えられなくなったのである。息苦しい俯せ寝を正す力もなかった。ただ腹が空いていた。ひたすらに腹が空いていた。
……どれだけ腹を鳴らし続けただろうか。
ふと、地下墳墓の空気が変わった気がして、オズは指先を動かそうとした。だが、もう動かない。そろそろ限界であった。早く何か食べなければ干からびる。そんなことを思っているうちに、自分の周囲に何者かの気配が近づいて、俯せていた体が裏返しにされた。
誰だ。
人間だろう。
食べなければ。
しかし、人間にしては妙である。
あのいけ好かない仲間とも似た、けれども似つかないにおいがする。
──混じっている。
おかげでオズは、これが獲物なのかどうかの判別がつかなかった。
迷っていると、ぺち、と額を叩かれ、反射的に瞼が開いた。
そこに、やけに大きくて澄んだ一対の黒い瞳があった。
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