第三幕 ⅰ


 第三幕アクトスリイ



     ⅰ


 時を遡ること数時間前──。


 一方的に切られた電話を見つめて、しばらく宇都宮うつのみやヒロムはその場に硬直していた。

 頭の中では、たった今聞いた「兄さんのいけず!」という可愛い妹の捨て台詞が響いており、その衝撃で脳髄がぐわんぐわんと揺れていた。

 帝都の二番街に位置する箱舟管理局はこぶねかんりきょく本部、その一階の外線電話コーナーである。もはや物言わぬ受話器を握りしめて悲嘆に暮れているヒロムの後ろを、数名の職員たちが行き過ぎていく。先ほどまでは、妹のラヴレター話に血圧を上げて叫びまくる彼を見て、避けるように楕円の形をとっていた人の流れも、今では元に戻っていた。

 その中の一つの足が、流れを逸れて声を掛けてきたのは、ヒロムが重たい腕を動かして受話器をフックにかけた直後だった。

「班長」

 聞き覚えのある声にのっそり振り返ると、茶山さやまがいた。ヒロムと同じく自然遺物係しぜんいぶつがかり・第一班に所属する後輩である。大食漢のくせに一向に太らない体質の彼は、頬骨の目立つ顔に不吉な表情を浮かべていた。本人は愛想笑いのつもりなのだろうが、いつもそれが失敗している。

 今日も、どうにも胡散臭く唇を引きつらせながら、

「さっき局長が探してましたよ」

 と茶山は言った。

伊勢崎いせざきさんはご一緒じゃなかったんですか?」

「ああ」

 常に一歩引いた位置で控えている秘書のことを訊かれ、ヒロムは曖昧に言葉を濁した。

「昼休みだよ。さすがにそこまで引っ付いているほど、あの人だって物好きじゃない」

「へえ。そうですか」

 茶山が少し意外そうな顔をした。

 ヒロムに付いている伊勢崎という人物が、秘書とは名ばかりの護衛役ボデイガードだということは、すでに管理局内では周知の事実だった。本当は、昼休みといえども同行するのが護衛の務めだが、今日は妹からの電話を受けた時にヒロムが無理を言って外してもらったのである。

 電話機の隣にある柱時計を確認して、ヒロムは改めて茶山に向き直った。

「局長はどちらに? もう戻っておられるのかな?」

「はい。今日の昼は外食されないようで、ずっとお部屋にいます」

「そうか。ありがとう」

 軽く片手を上げて、ヒロムは茶山と別れた。



 箱舟管理局とは、文字通り、かの箱舟の本体とその内部から出てきた魔族や遺物を管理する政府機関である。それぞれの研究に関しては民間に委託している場合が多いが、基本的な監督権は国にあり、実際にその役割を果たすのが管理局であった。つまり、帝国學園などが所有する魔族も、ひいては国の所有であり、例えば有事の際に回収作業を行うのは管理局の仕事になっているのだ。

 宇都宮公義うつのみやこうぎという男は、四十八歳という最年少で局長になった人物である。ミチルとヒロムの父・有栖川実秋ありすがわさねあきとは大学の同級生であり親友であった彼は、現在はヒロムの義父となり、今年で五十四歳になるはずであった。

 地下五階、地上十五階から成る本部ビルディングの最上階に向かったヒロムは、昇降機の前にある物々しいかしの扉は無視し、廊下の奥にある一回り小さい扉をノックした。

 応答はなかったが、構わず「失礼します」と告げて把手とってを捻ると案の定、扉はなんの抵抗もなく開いた。

 四畳半ほどの広さしかない小部屋内は、いつものように雑然としていた。扉と窓以外はぐるりと背の高い本棚で埋まり、収めきれない書物が応接セットのテーブルやソファや床の上にはみ出して、山を作ってはところにより雪崩を起こしている。それらのほとんどは古い歴史書の類で、中には真偽のほどもわからない奇書もあった。

「局長、お呼びでしょうか」

 ヒロムの言葉に、書籍の山の向こうから「おお」と応答があった。

「いいところに来た。ちょっと、これを頼むよ」

 声の方向にヒロムが山を迂回すると、本の占拠をわずかに免れたソファの隅で、肩幅の広い壮年男性が幕の内弁当を広げていた。「これ」と言って彼が差し出したのは、弁当のおかずにかけるソースの小袋である。反射的に受け取ってしまってから、

「これから昼食でしたか」

 ヒロムは室内を見回した。本棚の一角に押し込められている置き時計は、そろそろ昼休みが終わる時刻を指していた。

「いや、だってなヒロムくん。その袋がどうやっても切れないんだ。ソースがなくては、この肉じゃがコロッケが食べられないだろう」

「はあ」

 さかんに指で引っ張った跡がうかがえる、伸びきった小袋を手の中で転がして、ヒロムはまた室内を見回した。先ほど、置き時計を見つけた棚の隣にペン立てがあるのを見つけて近寄る。中から取りだしたハサミであっさりビニールの口を切ってやると──宇都宮公義は少し悔しそうな顔をした。

「そうか。その手があったか。相変わらず賢いな」

「普通ですよ」

 と返しつつ、まさかそんな理由で呼びつけたのではあるまいなと、ヒロムは頭の片隅で危惧した。あり得そうなことだから困る。この義父は、肩書きに似合わずそういうことを平気でする人物なのであった。

 そもそも、本来は秘書用の部屋を私的な書斎に改造した挙げ句、外出時以外ずっと入り浸っているというのは、公僕として如何なものか。血税で建てられた本部の一室を改造した時点で駄目だろう。そう思いはするが、注意したところで生返事をするだけで聞かないのだからどうしようもない。

 どこか諦めの心でヒロムが眺める先では、上着を脱いでワイシャツの襟をくつろげた管理局長が、ソースをたっぷりかけた肉じゃがコロッケを美味そうに頬張っている。胸元が開きすぎて下着のランニングシャツが見えている姿は、単なる中年男そのものだった。

「それで局長」

「ん?」

「茶山から、局長が僕を探していると聞いて伺ったのですが」

 くぐもった声を出してから、公義が口の中のものを咀嚼しながら何かを探す素振りをした。三度室内を見回したヒロムが、応接テーブルの角にあった開封済みの牛乳パックを渡すと、半分ほど飲んで「ああ」と言う。

「まあ、その、なんだ。うん。ミチルちゃんは元気かい?」

「……なんですか急に」

 今しがた、電話で口喧嘩をしたばかりだとはさすがに言えず、ヒロムは「とくに変わりはありません」とだけ答えた。

「いつも通り元気ですし、いつも通り貧血で倒れています。以前、局長からお話を頂いた養女のことなら、本人には話しました。でもまだ父が亡くなって半年ですから、答えを出すのにはもう少し時間が必要です」

「うむ。やっぱり私は嫌われているみたいだね」

「年頃の娘なので」

「否定しないんだな、ヒロムくんも」

 いくらか傷ついたような顔をして、公義は残りの牛乳を飲み干した。ややあって息を吐き出すと共に、「今日はその話ではないんだ」と付け足す。

「きみは、三体のはぐれ吸血鬼の話を聞いたことがあるかね?」

 吸血鬼と聞いて、ヒロムの肩がぴくりと反応した。当然のことながら、思い出したのは妹の背後霊のオズのことである。しかし、公義が言っているのはあのけしからん魔族のことではないようだった。

「いえ。初耳ですが」

「そうだろうな。現在では禁句も同然だ」

 十八年前でも禁句だったのだけどね、とつぶやいて、公義はソファの背もたれに体を預けた。色素の薄い焦げ茶色の瞳が、ヒロムではなく天井に向けられる。

「──リュカイン、シグルド、ヘンゼルギウス」

 天井ではなく、どこか遠い景色を眺めながら、彼は言った。

「それが三体の正式名称だ。もっとも、我々が発音しやすいように表現した場合での、という注釈は必要だが」

「本当は違うと?」

「さてね。吸血鬼という種は、体の機能に優れているだけでなく、頭も良い。どの国の言語でも、一日その土地にいればネイティブと同じように話すことができると聞く。その彼らが、人間に友好を示すために自ら名乗った名前だ」

 最初の吸血鬼が仮死状態から目覚めたのは、箱舟の内部調査が入った直後のことだったという。今から百二十年以上も前の話である。

「彼らを短縮名の、カイン、シド、ゼルと呼ぶ場合もある。どちらかと言うと、こっちのほうが多用されるので有名だな」

「カインというのは、魔族のカテゴリーに使われていますね」

 オズの一件が原因で、改めて学んだ知識をヒロムが掘り起こして言うと、公義が浅く頷いた。

「リュカインは、三体の中でも一番我らに友好的だった吸血鬼だ。好奇心旺盛で、人間にとても興味を持っていた。持ちすぎたと言ってもいいぐらいに」

「どういう意味ですか?」

「覚醒してから百年を経た後、彼は人間の女性と恋に落ちた」

「はあ」

「相手の女性は、彼の担当になった何番めかの研究員だった。おそらくは魔族が持つ毒に当てられたのだろう──彼女もリュカインを愛した。二人は揃って研究施設から脱走し、駆け落ちを図った」

 まるで女子学生たちが好きなメロドラマである。話している公義にもその自覚はあるようで、「結果はお決まりの通り」と先に繋げた。

「駆け落ちは一旦は成功したが、長くは続かなかった。しばらくして所員らに発見された二人は、研究施設に連れ戻され、引き離されることになった。だが、そこでリュカインがある提案をした。もし、自分たちを夫婦と認めて平穏な生活をさせてくれるなら、眠っているすべての吸血鬼なかまの数と、その制御暗号コードを教えると言う。つまりは取引だな」

制御暗号コード?」

「彼らを服従させる、もう一つの名前だ。その発音方法もふくめてな。吸血鬼たちは、ある特殊な発音で名前を呼ばれた時のみ、呪縛ロックされるらしい。リュカインの提案は、魔族研究者たちにとって喉から手が出るほど欲しい情報だった。取引は行われ、箱舟に乗っていた吸血鬼の総数が九体であることと、彼らを御する名前が判明した」

「それが……カテゴリーカイン

 独りごちたヒロムに、「左様」と公義が神妙な顔をした。

「ところが、この取引を知ったシグルドとヘンゼルギウスが激怒した。折悪しく、世間は大変事カタストロフの初期状態で騒然としており、研究施設の警備は手薄になっていた。二体の吸血鬼は夜陰に紛れてリュカインのいる施設を襲撃。制御暗号の韻譜いんぷを焼却し、リュカインを血祭りに上げた。彼らは激しく傷つけ合ったすえ、一昼夜の後に行方をくらました。襲撃の跡に残されていたのは、リュカインの妻となった研究員の女性だけだったそうだ」

「では、彼らは今も?」

「うむ。まだどの情報機関も三体の生存および死亡の確認をしていない。例によって一般人は蚊帳の外の話だがね」

 ヒロムの唇が引き結ばれる。十八年前の大変事に暴走したはぐれ魔族に関しては、世間の混乱を避けるため、すべて掃討されたことになっている。が、実際はまだ野放しの存在が少なからずいることを、彼もまた管理局の一員として知っていた。

「それでその、はぐれ吸血鬼が何か?」

 嫌な予感がして問うと、天井に向いていた公義の視線が落ちてきた。

「これは未確認である上に極秘事項だが」

 と前置いて、いくらか慎重に口が開かれる。

「実はもともと、そのうちの一体は我が国にいるとの情報があった」

「……誰です?」

「リュカインだ。彼の妻になった女性は日本人だった」

 事件後、体調不良を訴えた彼女は研究施設のあった北半球の孤島から帰国し、実家に戻されたという。そのため、リュカインも彼女の後を追って来たのではないかと疑われたのである。

「実際、彼女のもとには時々、国内で買ったと思われる差出人不明の花束が届くことがあった。メッセージ付きのね」

「どんな内容ですか」

「他愛ないものだよ。『オゲンキデスカ?』『キョウハ ヨイ テンキデスネ』……いつも、一言しか書いていない。だがたまに、イニシャルが入っていた」

 それが、リュカインの頭文字である『エル』だったのだと公義は言った。

 ヒロムは難しい顔をして唸った。

「その女性の実家はどちらに? 今もご健在ですか?」

 何気なく視線を上げると、公義が表情の読めない目でこちらを見ていた。先ほど牛乳を飲み干したばかりの唇がもう乾いている。

「リュカインと彼女が駆け落ちをしたのは、大変事が起きる直前のことだ。つまりほんの十八年ほど前の話だから、もちろんまだ生きている。彼女のほうは常に我々の監視下にあるので問題はない」

 事務的に答えて、彼は再び天井を眺めた。

「問題なのは、どうやらここ一年の間に、リュカインを追ってもう一体のはぐれ吸血鬼が入国したらしい、ということだよ」

 目をみはったヒロムの言葉を待たずに、公義は続けた。

「詳しい事情は定かではないが、シグルドとヘンゼルギウスはいまだにリュカインを追っているものと思われる。ゆえに、リュカインの潜伏が疑われる我が国では、他二体の侵入を阻止するために海路も空路も厳しい監視体制を敷いていた。しかし、一時だけその警戒が緩んだ時期があったのだ。いつだったかわかるかい?」

「箱舟の移送が行われた時、ですか」

「ご名答」

 口の端だけで笑んで、公義が短い息をついた。

「あの時期だけは、国の全神経が箱舟ばかりに集中して、それ以外の出入国はいささか疎かになっていた。そこを突かれたらしい。ここ数ヶ月、我が国で起きている事件で未解決のものがいくつあると思う?」

 赤の帽子屋クリムゾン・ハッター事件、鉤爪公爵フック・プリンス事件、一眼獅子ワン・アイ・リオ事件……と頭の中で列挙していき、ヒロムは思わず「まさか」とつぶやいた。

「みんなその、はぐれ吸血鬼の仕業だというのですか?」

 しかし公義は、それにはあっさり首を振った。

「すべてではないよ。『審判年間』などと都合の良い言葉でぼやかしてあるが、箱舟の移動と共にはぐれ魔族がやってくるのは、今に始まったことではない。シグルドあるいはヘンゼルギウスもそのうちの一人だという話にすぎん」

「じゃあ」

「リュカインの妻に贈られていた花束は赤いチューリップだった、と言えば?」

 ヒロムの脳裏に、自宅の専用通路に転がっていた赤い傘が思い浮かんだ。

 ──赤の帽子屋。

 日常の生活の中に訪れる、かすかな隙間に入り込んで家族を奪うその通り魔は、被害者や犯行時刻は一定していなかったが、三つの共通項があった。まず、現場が帝都内にあること。次に、殺害方法が刃物による刺殺であること。そして最後に、現場にはいつも犯人の物と推測される赤い傘が残されていることだった。意図的にすべての親骨が外側に折られ、半分ほど閉じると大きなチューリップハットに見えなくもないその異様な傘は、ヒロムの父・有栖川実秋の遺体の傍にもあった。

「どうしてそんなことを」

 顔色の変わったヒロムを見て、公義が「それは犯人を捕まえてみないことにはわからないな」と答えた。

「だが無目的ではあるまい。事件の被害者たちに、吸血された痕跡はない。となると、食事以外の何か理由があって殺害されたはずだ。シグルドかヘンゼルギウスか……いずれにしても最終的な狙いがリュカインであることに変わりはない」

「どちらが関わっているのでしょうか」

「なんとも言えないな。さっきも言ったように、吸血鬼は知能が高い。自ら手を下す危険は犯さないだろう。おそらく、赤の帽子屋──実行犯は使い魔だ。吸血鬼がいるのはその裏ということになる」

 淡々と分析をする声を聞きながら、ヒロムは胸の奥がわずかにささくれ立つ気がした。それが何か自覚した時にはもう、言葉は口を突いて外に出ていた。

「その話、局長はいつから知っておられたのですか」

 最初からに決まっている。

 わかってはいたが、訊かずにはおれなかった。現在では義父となった宇都宮公義とは、昨日今日の付き合いではない。父の事件の以前も懇意ではあったが、事件以降はとくに親しく話し合ってきたつもりである。なのに、今ここで聞いた話はどれも初めて知る内容ばかりだったのだ。

 公義が苦笑した。

「これは箱舟管理局長として私が知り得る最上級の情報だよ、ヒロムくん。加えて、これらを裏付ける確たる証拠は現時点で何もない。そんな話を、例え相手が事件の被害者家族であろうと、おいそれと明かせるわけがないだろう」

父子おやこでも?」

「無論」

 躊躇いもなく頷いてから、公義は「本当なら話すつもりではなかったんだが」と表情を改めた。

「四人目の吸血鬼が覚醒したと聞いて、気が変わった。きみも知っておくべきだろうと思ってな」

 ヒロムは軽く息を飲んだ。四人目とは、言うまでもなくオズのことである。こう考えるのはしゃくだが、オズに関することは即ちミチルに関することでもあった。

「オズが問題ですか」

「いや。今のところ問題ではないが……気になってな。保管されていた棺が劣化し、壊れたことで覚醒に至ったとの報告は本当か?」

「と學園側からは説明を受けましたが」

 公義が不満そうに腕を組んだ。

「私はね、吸血鬼が自然に覚醒することはまずないと思っていたのだよ。リュカインの一件で研究は凍結したも同然だった。あの仮死状態の著しい吸血鬼が、棺の劣化程度で目覚めるものか? そもそも、あの棺は劣化するのか?」

 自問するように言って、彼は目を細めて首を振る。

「副理事でありながら情けない話だが、帝国學園の魔族保管体制には、一抹の疑問を抱かざるを得ないな」

「局長」

「構わないさ。私あたりが言わなければ、誰も言うまい。あそこは因幡いなば博士の栄光にばかり頼って、中身は半分腐っている。……この一年、妙な覚醒の仕方をした魔族はオズで二体目だ。一体目は昨年の夏で、確かカテゴリーSだったと思うが」

 ヒロムは首を傾げて相槌を打った。勉強したカイン属以外はあまり詳しくはない。

「あれも、やはり仮死魔族だったはずだ。覚醒した理由も同じ、棺の劣化だという報告を受けている」

「それは妙ですね」

 ヒロムの胸の奥で、ささくれ立った感情が、収まらずに小さなざわつきとなって広がっている。気のせいで済ませられないのは、先ほどの妹の電話があるからだった。

「あの、局長」

「うん?」

「僕たちの父親が赤の帽子屋の被害者であることを、最近どなたかに話されましたか?」

 公義が一瞬、質問の意図を取りかねて目を瞬く。ややあって返ってきた答えは、予想した通り『否』であった。

 そう。父の事件は易々と漏れる話ではないのだ。他の関係者に訊いても同じ答えが返ってくるのは目に見えている。にもかかわらず、ミチルにラヴレターを寄越した不届き者は知っていた。ということは。

 そこまで考えて、ヒロムは急に妹の身が心配になった。一度この心配の虫が騒ぎ始めると、ミチルの顔を見るまで仕事が手につかないことは、自分が一番よく知っている。おそらく公義の話はこれで終わりだと判断した彼は、すぐさま上司である義父に半休を申し出て、午後から妹の様子を見に行くことにした。

 しからば善は急げである。

 早々に、本の海と化した元秘書室を退出しようとするヒロムを、公義が「ああ、ちょっと」と呼び止めた。

「良い物があるんだよ。ミチルちゃんを喜ばせてあげてくれ」

 言って、彼がよれた財布から引っ張り出したのは、五番街の喫茶店が毎日限定二十個で販売する、お持ち帰り箱の引換券だった。



 なぜ義父が、早朝から並ばなければ手に入らないと評判の引換券を持っていたのかは、謎である。しかし、まさにこの喫茶店のフルーツサンデーが原因でミチルの機嫌を損ねていたヒロムにとっては、願ってもないプレゼントだった。

 これを手みやげに持って行けば、おそらく──いや、きっと絶対に、妹は瞳に星を浮かべて喜ぶであろう。その笑顔を想像しただけで、ヒロムの頬は緩みに緩んだ。それは、管理局の建物を出る時も、地下鉄に乗る時も、五番街の石畳を歩いている時も、目指す喫茶店の入口を開けた時もまだ持続しており、券との交換でベビーピンクの愛らしいリボンが掛けられた白い箱を手にした瞬間に、頂点に達した。

 箱の隙間から漂う生クリームの香りと、ほんのわずかに垣間見えるスペシャルショートケーキの苺を確認して、うっとりしているスーツ姿の男に、会計の釣り銭を渡そうとした店員の手がぎこちなく止まる。

「あの、お客様」

 言いかけて、そこで店員は傍らに近づいてきた人の気配に振り向いた。

店主マスター

 軽く目配せをして従業員を下がらせたのは、いつもはカウンターの内側に引きこもっているこの店の主人であった。珍しく接客を買って出た彼は、まだ明後日の世界へ行っているヒロムの手に、従業員から引き継いだ釣り銭を無理矢理にねじ込んだ。

 それから、薄い唇で欠片ほどの感謝もにじんでいない言葉を紡ぐ。

「どうもありがとうございました」

 おかげで我に返ったヒロムは、店主のいつも通りの無愛想顔を見て、「あ、どうも」と会釈をした。

「この間はごちそうさまでした」

「こちらこそ、綺麗に平らげて頂きまして、大変ありがたく思っております」

 先頃、ヒロムが行ったフルーツサンデー乱れ食いの件である。

 物言いこそ丁寧なものの、相変わらず店主はにこりともしない。まるでよく出来た絡繰からくり人形と話をしているようだと、ヒロムは毎度のことながら思う。その絡繰人形はさらに珍しいことに、今日は店の表まで見送りに出てきた。

 彼の、無言の圧力に促されて外に出たヒロムは、思わず空を見上げて立ち尽くした。店に入るほんの十分前までは晴れていた昼空が、いつの間にか黄土色の嫌な雲に覆われていたのだ。

「降りそうだな」

 誰に言うともなく言うと、背後で同じく佇んでいた喫茶店主が頷く気配があった。

 続いて、

「一雨降れば、またすぐに晴れるでしょう」

 との言葉に、ヒロムが振り向く。

「そうですか?」

「ええ」

 もう一度頷いて、彼は店の軒下に掛けられた吊り鉢を眺めた。視線の先では、花を咲かせた赤い衝羽根朝顔ペチユニアが、鉢から身を乗り出している。その鮮やかな色に吸い寄せられるようにして、どこからともなく黒い揚羽蝶が訪れた。ふわりと花に止まって蜜を吸う様子はなんとも言えず優雅であった。つい見惚れたヒロムの耳に、

「今宵は満月ですから」

 抑揚のない店主の声が滑り込む。

「満月が近づくと、天候が不安定になるとよく申します」

「そうでしたっけ?」

「知人の受け売りですが。月の引力の影響が最大になるからだと聞き及んでおります」

 ついと店主の長い影が動いて、吊り鉢の花に止まっている黒い揚羽蝶の翅を、指でつまんで捕らえた。

「天気だけではありません。生き物の体内を流れる体液も影響を受けるそうです。そのため、満月の夜は生き物たちがしばしば異常な行動に出る」

 妙な刺激臭がした。

「異常な行動?」

「満月の夜は、犯罪件数が増加するとよく申します」

「それは聞いたことがありますが……」

「月のせいで、どうにも血潮が騒ぐのでしょう。お客様もお気を付けを」

 そう言う店主の白い顔をちらりと見て、ヒロムは彼の指先でもがいている黒いはねに目を移した。先ほどから二人の間に流れる異臭が、捕らえた揚羽蝶から発せられていることに気づいたのである。

 ヒロムの視線を追って、店主が軽く蝶を持ち上げた。

「これは毒虫です」

「蝶がですか?」

「幼虫の頃に食べた草の毒を、腹の中に溜めているのです。ゆえに、鳥もこの麝香揚羽ジヤコウアゲハは食べません。うちの店の周りが鴉を寄せ付けないのも、この蝶のおかげです」

 かすかに、店主の唇が横に引かれた。笑ったのかもしれないとヒロムが思う前に、その顔は瞬く間に無表情に戻る。

「一つ、面白いおまじないを教えましょう。嫌らしい鳥のせいで部屋の扉が開かなくなった時には、この鱗粉を床にお撒きください。少々臭いますが、それで扉は開きます。しかも鳥に悟られることはありません」

「はあ」

 真顔なので、それが冗談なのか本気なのかわからず、適当に頷いたヒロムの前で、店主は捕らえた麝香揚羽を解放した。すっかり弱った蝶がよろよろと飛び去っていくのを横目に、彼は懐から店の紙ナプキンを取り出して、指に付いた鱗粉をなすりつける。そうしてその紙ナプキンをヒロムに差し出した。冗談ではなかったらしい。

「結構ですよ」

「そうおっしゃらず」

「いや本当に。使う機会もないと思いますし」

「まあ、そうおっしゃらず」

 変わらぬ声のトーンで言って、店主は釣り銭と同じように紙ナプキンをヒロムの手にねじ込んだ。異臭が立ち上り、反射的に彼が振り払おうとするのを押さえて、「先ほど渡しそびれた、会計のレシートも挟んでございます」と付け加える。

 そんな工作をされては突き返すわけにもいかず、ヒロムは眉をひそめて紙ナプキンを開いて見た。

「…………」

 確かに、そこにはレシートが挟まれていた。

 しかし、ヒロムの視線が釘付けになったのは、お持ち帰り箱の金額明細ではなく、その隣に記された伝言だった。

 愕然と目を上げたヒロムに、店主が悟り顔で頷いた。

「ご心配には及びません。他言無用と心得ております」


     †


 妹の名前をつぶやいてから、帝国學園の方角へ駆け出して行った青年を見送って、喫茶店『スワロウテイル』の主人は、再び空に目を転じた。

 黄土色の雲はますます重く垂れこめ、今にも泣き出しそうだ。

 今しがた、宇都宮ヒロムを驚かせたレシートのメモ書きは、彼が来店するほんの五分ほど前に、箱舟管理局長の宇都宮公義から受けた電話の内容であった。

 およそ次のようなものである。

 ──本日午後一時過ぎ、八番街のゴミ集積場にて右腕欠損の男性の刺殺体が発見されたとの報せあり。遺留品から犯人は赤の帽子屋と推測される。被害者は帝国學園の生徒である。きみは大至急、ミチルくんの安否を確認されたし──と。

 店の入口に下げられているベルが鳴った。

 いつまでも雇い主が表にいるのを気に止めたのか、従業員の因幡が物言いたげな顔を出している。それに軽く手を挙げて応じつつ、主人は踵を返した。

「客が切れたら、店仕舞じまいの札を掛けたまえ」

「? まだ十四時前ですよ?」

「言わなかったかな。うちの店は雨が降る時は営業をしないんだ」

 そんな説明をした後で、この手の戯れ言に付き合ってくれるのはあの小説家の友人だけだったことを思い出し、彼は唇を歪めた。


     †

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