第二幕 ⅴ
ⅴ
雨の匂いがする。
どこかで鳥が羽ばたいた。
「…………」
「おはよう──
歪んでいた視界が、徐々に像を結んでいく。
やがてそれは見慣れた天井になり、ミチルは静かに一つ瞬いた。失神から目覚めて最初に見る景色は、帝国學園に入学して以来いつも医務室の天井の白い
いつもなら、目覚めると同時に視界に割り込んでくるはずの、兄の心配顔がない。その代わり、別の男性の声が聞こえたような気がしたのだ。声の側に顔を倒してみて、そこに居た人物にミチルは驚いた。
唇を動かそうとして、なぜか声が喉の奥でつまづく。いやに口の中が乾いており、うまく言葉が出てこなかった。
「無理しなくていいよ。まだ顔色が悪い」
そう言って、
ミチルの枕元にいた彼は、奥の机から引いてきたと思われる事務椅子に座っていた。窓が細く開いているのか、後ろで風に押されたカーテンが内側にふくらんでいる。薄い布越しに見える光は、西日になる少し前の色をしていた。午後の三時過ぎぐらいだろうかと、何度も同じ角度で同じ光を見たことのあるミチルは、ぼんやり思った。
部屋には中臣の他に人の気配はなかった。
兄はもちろん、どうしたことか常に詰めているはずの校医の姿もない。決して広くはない室内に、キャスターの音が大きく響いた。中臣が床を軽く蹴ってやや後ろに事務椅子を引いた音だった。
「
ミチルの表情を読んだのか、彼が穏やかに口を開いた。
「呼びに行っても良かったんだけどね。眠っている有栖川さんを一人で残しておくのは、ちょっと心配だったもので」
言いながら、節の目立つ長い指が白衣のボタンをいじるのを、ミチルは見るともなしに眺めていた。頭の中はまだ霞がかかったようで、今の状況が理解できない。ただ、失神した自分を医務室まで運んでくれたのは中臣であるらしい、ということだけはなんとなくわかった。
「どうしてあなたが……?」
かすれ声で尋ねたミチルに、中臣は再びキャスターの音を響かせた。派手さはないが不思議に人を惹きつける笑顔が近づいて「どうしてって」とさらに笑む。
「有栖川さんが倒れているのを見つけたのが僕だから、だよ」
「…………?」
「覚えてないの? きみ、學園裏の雑木林で倒れていたんだよ。焼却炉に向かう道から少し外れた茂みの中にいた」
ミチルは短く息を吐いた。
「あのあたりは學園の中でも野鳥が多く来る場所でね、僕は観察をかねてよく散策に行くんだ。森林公園も鳥は多いけど、雑木林のほうが管理が雑なぶん、好きに歩き回れていいものだから」
ひどく嬉しそうに中臣は続けた。
「今日はちょっと用事があって、道なりに歩いていたんだよ。そしたら、やけに
ミチルは、戸惑いながらもこくりと頷いた。
「それは……ご迷惑をおかけしました」
今ようやく、彼女の脳裏では失神前の記憶が蘇り、中臣の説明によって現在の状況と繋がろうとしていた。
中臣が小さく首を傾げた。
「大丈夫? 顔色が悪くなってるみたいだけど」
血の臭いと三羽の鴉と水溜まりから生えた腕。それらを思い出していくに従って、もともと青白かったミチルの顔から、さらに血の気が引いていた。シュウシュウという、生き物が干からびていく音までも耳の中で再生するに至って、意識が遠のきそうになる。しかし、寸前でハッと気づいて踏みとどまった。
「オズ」
「うん?」
中臣が今度は反対側に首を傾げた。その、いささかゆったりした動作とは対照的に、ミチルはまだ力の入らない体を押して、布団から起き上がった。
「彼も私と一緒にいたのです。ご存じないですか?」
中臣の表情に、やや翳りがさした。
明確に一つ頭を振って「知らない」と答える。
「僕に見えたのは、倒れている有栖川さんだけだよ」
「そんなはずはないのです」
ミチルもまた頭を振って、つい二時間ほど前に自分たちが遭遇した出来事を語った。珍しく
「知らないな」
「ですが」
「わからなかった、と言い直したほうがいいのかな」
言いかけたミチルの言葉を遮って、中臣は小さく肩を竦めた。
「干からびたきみの
「大きい鴉はいませんでしたか」
「ああ、いたね。でも上空を旋回しているのと、樹木の枝に止まって鳴いているのを見ただけだから」
そうですかと返して、ミチルは口を
しばし沈黙した後、思い立ったように顔を上げて、掛け布団を脇に押しのける。
「どうしたの?」
「ちょっと行って見てこようと思います」
「どこに? まさか雑木林?」
「はい。もしかしたらオズは、藪の中にはまりこんで動けないのかもしれません。何しろ干からびておりますから」
そう言ってベッドを下りかけたミチルは、しかし途中でバランスを崩して前のめりになった。気ばかり焦って、まだ回復しきれていない体が不意の動きに付いていけなかったらしい。ぐらりと揺れてベッドから落ちそうになったところを、傍らにいた中臣に抱き留められる。
「無理するなって、さっき言ったと思うんだけどな……」
「すみません」
慌てて身を引こうとして、なぜかミチルは動くことができなかった。どうしたのだろうと考えて、肩を抱いている中臣の腕が外れてくれないからだと思い至る。けれどもその時にはもう、目の前に彼の顔がきていた。
「そんなに心配?」
何事かミチルが言う前に、中臣が囁くように言った。
「え?」
「
「違いませんが……しぶしぶでは、あり、ません」
ミチルの言葉が途切れがちになったのは、答えている最中に中臣の腕の力が増したからである。それにより、もともと体勢の崩れていたミチルの上半身が彼の胸元に押しつけられる形になり、一気に息苦しさが増した。
「あの」
「人型の魔族ってのは厄介だよね。見た目が僕らにそっくりだと、時々バケモノだってことを忘れそうになる。その点、カテゴリーSはいいよ?」
息がかかるほど近くに迫った中臣の顔に、無邪気な笑みが広がった。
「形が固定化していないから、好きな姿になれるんだ。ビビアンはもともと鳥の気質がある奴でね、僕が望んだら一番好きな孔雀になってくれた。有栖川さんも見たことがあるよね。きれいだったろう?」
同意を求められて、ミチルは反射的に頷いていた。現在の体勢に意見を述べたい気持ちは山々だったが、ビビアンの姿が美しいという言葉に異存はなかった。
「鳥がお好きなのですね」
つい微笑ましく応じてしまいながら、そういえば当のビビアンはどこに行ったのだろうと思う。医務室にはミチルと中臣の他に動くものの影はなく、あの巨大な台車も鳥籠も見当たらなかった。
中臣の腕にまた少し力が入った。
「羽ばたく自由を知っている生き物を、籠に入れて飼うのはとても愉快なものだよ。豚や牛みたいな四つ足なんか囲っても、ちっとも面白くはないけども」
「鳥を籠に入れるのがお好きなのですか?」
これ以上息苦しくなっては困るので、ミチルは中臣の胸と自分の体との間に手を差し入れてみる。その手を使ってさり気なく距離を取ろうとするのだが、力の差があっていくら押しても彼の体はびくともしなかった。そればかりか、ささやかな画策が相手に通じてますます密着させられる始末である。
「確かに閉じこめるのは好きだよ。でも、籠から放つのも好きなんだよ? 奪われた自由を取り戻した瞬間、鳥は一番きれいに輝くと思うから」
「よく、わかりません」
「わからないだろうね」
ミチルの目の先で、中臣の喉が楽しげに震えた。
「この話をすると、みんなそう言うんだ。簡単なことなのに。言い換えれば、痛みを知らない子よりも、傷を持っている子のほうが魅力的だって話だよ」
「痛み?」
「そう。心に傷を持ちながら、懸命に笑っている女性は健気でかわいい」
間近で顔を覗き込まれて、ミチルは「はあ」と首を縮こませた。一体どこから女性の話にすり替わったのか、皆目見当がつかなかった。
「あのう。申し訳ありませんが、私はオズを探しに行かなければならないのです。お話はまたの機会ということで、そろそろ腕を──」
「彼女たちは、無意識に傷を癒す
中臣の言葉は止まらなかった。腕の力は骨が軋むのではないかと危惧するほどに強くなり、ミチルは言葉ばかりか体の抵抗も完全に無視されて、すっかり抱き締められる格好になってしまった。もはや遠慮している場合でもないので、大々的に脱出を試みようとしたのだが、
「式部先輩でさえ、その時は良いと思った」
思わぬ一言を耳にして、硬直する。
「先輩が何か……?」
「ちょっと遊んであげたんだよ。この間、個体の年季明けでショックを受けていたみたいだから、声を掛けたんだ。
ミチルの脳裏に、素通りした中臣を見て顔を真っ赤にしていた式部の姿が思い浮かんだ。単に怒っているだけではない、一口ではとても言い表せない複雑な感情を秘めた彼女の様子は、見ていて胸が痛くなるほどだった。
「何をしたのですか」
「痛みを取り除いてあげたんだよ」
与えたの間違いではなかろうか。
「不満そうだね? じゃあいいことを教えようか。僕のビビアンの好物は、人の心の影なんだ」
「影」
「悲しいとか苦しいとか思う感情だよ」
「それは食べ物ではないと思います」
「僕ら人間にとってはね。でも彼らは魔族だ。とくにビビアンはソロモン属だから。きみのオズが属するカインほどではないけど、まだまだ未解明の部分が多いカテゴリーなんだよ?」
以前、キング教授がカテゴリーSのビビアンを『有り体に言えば悪魔だ』と称したことを思い出し、ミチルは沈黙した。中臣の話はまだ終わらない。
「僕とビビアンの利害は一致している。彼は女性たちの痛みを食べて満足し、僕は美しくなった彼女らと親交を深めて満足する。良い関係だろう?」
「……どうやって食べるのですか」
その質問に、中臣は答えなかった。待っていても口を開く様子がないので、仕方なくミチルは別の質問に変えることにする。
「あなたはそれを、魔族報告書に書いているのですか?」
「残念ながら。僕は浅はかではないものでね。自分の行動が一般的に賛同の得られるものか否かは判断できているつもりだよ」
「人に言えないような関係を、良い関係とは思いません」
耳元で、低く笑う気配があった。
「そう? でもみんな一つぐらいは秘密があるんじゃないのかな。例えば──」
そこで中臣は一旦言葉を切り、やっと力を緩めて腕の中の少女を解放した。ほっと安堵の息をついたミチルだったが、次の瞬間、先ほどよりも強い力で布団の上に押し倒され、ぐるりと視界が回転する。再び天井の白い梁が見えた。その梁の前に中臣の顔がある。いつの間にかベッドの上に移動していた彼は、仰向けになったミチルを見下ろして「例えば」ともう一度言った。
「死んだ父親は
その台詞が耳から脳に達し、理解するまでミチルは少々の時間を要した。
やがてゆっくりと、その瞳が大きくなっていくのを、中臣は楽しげに眺めていた。
彼女が疑問を投げる前に、彼は答えを告げた。
「手紙を有栖川さんの部屋に入れていたのは、僕だよ」
「……あなたが?」
「さっき、用事があって林を道なりに歩いていたと言ったろう? あれは、きみに会うためさ。今日の手紙には待ち合わせの段取りが書いてあったんだけど……読まなかったみたいだね」
正確には読めなかった、である。
「血の臭いがすると言って、オズが返してくれなかったのです」
「ふうん? 血の話は知らないな。僕は手紙を入れていただけで、中身を書いていたのはうちのビビアンだから」
ミチルが絶句したのも無理はない。思わず、タイプライターを打つ印度孔雀の姿を想像した彼女に、中臣は「実は」と重ねて言った。
「初めて会った日から、ビビアンはきみにぞっこんなんだ」
「ぞっこん」
「有栖川さんの持つ痛みが、とんでもなく美味しそうに見えるらしい。式部先輩や他の子のを勧めても駄目でね。有栖川さんのじゃないと嫌だと言う。彼がこんなに執着するのは初めてのことだよ。よほど魅力的なんだな、きみは」
中臣は明らかに賞賛する口調で言ったが、ミチルはあまり嬉しくはなかった。
「どうして父のことをご存じなのですか?」
ミチルとヒロムの父・有栖川
「それもビビアンが教えてくれた」
ミチルの質問に、中臣は事もなく答えた。
「鳥たちを甘く見ないほうがいいよ? 彼らはどこにでもいて、なんでも見ている。人間の隠し事なんて、彼らのお喋りの前では何も意味を成さないんだ」
中臣の節くれ立った指が伸ばされて、動けないミチルの左頬を撫でた。
「手紙を読まなくても、結局きみは雑木林にやってきた。あの場所はビビアンの隠れ家みたいなところでね。私物がいろいろと置いてあるんだ。不用意に近づくと危ないから、段取りを立てて会おうと思ってたのに。怖い思いをさせる気はなかったんだよ? まあ無事で良かったけども」
「…………」
事ここに至ってようやく、ミチルは自分の置かれている状況がおかしいことに気がつき始めていた。こうして押し倒されている理由も不明だが、いつまで経っても校医が帰って来ないのも妙な話だった。それに──。
「オズが有栖川さんの個体になった時、ビビアンはずいぶん落ち込んでいたよ。きみの隣に他の魔族が居るのは気に入らないらしい」
斜めに動いたミチルの視線が、窓辺から布団に降り注ぐ午後の日差しをなぞった。
すでに三十分以上は話し込み、時刻は四時を回っているであろうにもかかわらず、光はなぜかさっきから同じ場所ばかりを暖めている。ミチルが目覚めた時と変わらない色で、雲に遮られて弱まることもなく、窓枠の影の位置も動いていない。
嫌な予感が頭をよぎり、ミチルは中臣の笑みを見上げた。
「オズはどこですか?」
「さあ?」
とぼけて細められた中臣の目に、ふと
「僕とビビアンはお互いに干渉しない主義でね。彼が本当は何をしたいかなんて、僕は知らない。どうでもいい。僕はただ彼に好物を与えて、時々そのおこぼれに預かっているだけだよ」
言いながら、中臣の体がゆっくり前に倒れていく。
「きっと、魔族には魔族同士の付き合いがあるんじゃないの?」
さらりとした前髪がミチルの額に触れたところで、
「人間には人間同士の付き合いがあるようにね」
と囁く彼の顔が角度を変えた。
ミチルの両腕は拘束されていて動かなかった。視界が暗くなる。顔と顔との距離が限りなくゼロに近づいて、重なろうとした瞬間。
バーン、と。
文字で表すならそれしかないほど明確な音を響かせて、医務室の扉が開かれた。
「な」
触れ合う寸前で、中臣の唇がそう声を漏らして止まったのを、ミチルは目で見たのではなく皮膚で感じた。驚きの表情で上半身を起こした彼が、入口のほうを見やる。それを追うようにミチルも首を捻ってみて、軽く目を瞠った。
廊下が、真っ暗だったのだ。開いた扉の向こうは電灯すら
すでに消灯を過ぎた時間帯であるらしい───。
そうミチルが察した時、急に布団の上の日溜まりが色褪せた。今の今まで、午後の暖かな光に包まれていた医務室の中は一気に暗く冷え、夜の静けさに取って代わった。
鼻先に、鉄錆の臭いが立ち上る。
臭いの源を辿って胸元を見下ろしたミチルは、己の制服がどす黒く乾いた血で汚れていることを知った。数時間前、オズの腕から溢れた血の染みであった。おそらく、目覚めた当初から付いていたに違いないのだが、気づいたのは今であった。さっきまでは臭いすら感じてはいなかったのだ。
ミチルは再び視線を部屋の入口に戻した。
そこには、扉を開けたポーズのままで固まっている人影があった。心なし、わなわなしているように思える。室内の電気が
わななく人影が着ている青色のスーツは、春休みに一緒に百貨店に連れ立って買ったものだった。
「兄さん」
「ええ?」
ミチルのつぶやきに、間の抜けた声を上げたのは中臣だ。信じられない表情で入口の人物を見ていた視線が、一度ミチルの顔に落ちて再び入口に向けられる。その時にはもう、医務室の一歩手前で固まっていた彼──
失った日溜まりの代わりに、窓から差し込む月の光がヒロムの顔を照らし出す。その表情は中臣以上に愕然としており、かつ憤怒に燃えていたことは、今さら特筆するまでもない。
ヒロムは、右手に荷物を提げていた。ベビーピンクのリボンが掛けられた白い箱である。その乙女ちっくなデザインを見て、ミチルの瞳に星が宿った。それは紛うことなき、あの五番街の喫茶店が毎日限定二十個で販売する、洋菓子のお持ち帰り
空中でピンクのリボンが回転するのを、ミチルはひたすら見ていた。
実際には刹那のことであったのだが、彼女の目には美しいスローモーションとなってその光景が映っていた。
ああ、と溜め息がこぼれる。
その直後、お持ち帰り箱は破滅的な音をたてて、中臣の顔面に激突した。
ややあって重力に従い、顔面から落下して布団で跳ねた後、床に転がっていった乙女の残骸を目に、ミチルはもう一度、ああああと溜め息をこぼした。医務室のリノリウムの床には、箱から飛び出したホイップクリームが、点々と甘い痕を付けていた。
「何をする!」
怒りと、たった今受けたダメージで顔を真っ赤にした中臣が怒鳴った。だが、次にヒロムが放った声量はその比ではなかった。
「貴様こそ何をしているんだこの
そう叫ぶが早いか、まだミチルの上に乗っていた中臣に躍りかかる。すさまじい剣幕に一瞬たじろいだ中臣は、おかげで逃げる隙を失い、真正面からヒロムの攻撃を受け止める形になった。お持ち帰り箱と同じく、華麗に舞い上がった兄の両足が、中臣の胸部にヒットする様子を、ミチルは下からの絶好の
中臣の体が飛ばされてベッドの反対側へ落ちる。
勢いのついたヒロムの体がさらにその上に落ち、窓とベッドの間の挟い床上で二人はもみ合った。
「なんっ、なんなんだ、あんたは!」
「なんだとはなんだ! 有栖川ミチルの兄だ! さっき妹がそう呼んだのを聞いてなかったのかこの
「ふ、ふざけるな! ビビィ! ビビィ、いないのか!? どうして結界が壊れ───?! ぐはっ」
夜の医務室に、人間の肉と骨同士がぶつかる音が響き渡った。
「やめろ! ビビィ!」
「ビービーやかましい! 男なら俺の拳を受けて立て! 医務室で密会を図るとはなんという不埒な奴っ。妹を喜ばせるために、手みやげ持参で訪ねてきたこの兄のささやかな楽しみを邪魔する資格が貴様にあるのか!? いいや、あるまいっ。部屋にいないと知ってどれだけ心配したかっ、どれだけ探し回ったかっ。何時間さまよったと思うんだっ。なのに貴様は貴様はさっきミチルに何をしようとした?! 何をしようとしたのだこの
例によって例の如く。
自分の言葉で勝手に盛り上がっていくヒロムに、そもそも不意を突かれた中臣が敵うはずもなかった。いろいろな意味で勝負が兄の優勢にあることを確認して、ミチルはベッドから下りた。いつもなら適当なところで止めに入るのだが、今回ばかりはそんな気持ちになれなかった。
なぜなら、視線の先の床上で、あの乙女のお持ち帰り箱が一人寂しく臨終を迎えていたからである。そっと拾い上げると、全身が甘い香りに包まれるような気がした。箱の隙間から押し出されたホイップクリームを指ですくって、ミチルは思わず目頭を押さえた。
今日も食べられなかった。
せめて、指に付いた白いクリームを口元に持っていこうとする彼女の耳に、その時、誰かの
背後で取っ組み合っている男二人のものではない。
開かれた窓の外から届く、人間のような、獣のような、長く伸びる声である。
クリームの誘惑に
ミチルは引き寄せられるように窓辺に寄った。
細く開いた枠の間から黄色い月が見える。満月だ。
雄叫びはまだ続いている。
よく聞けば覚えのある声だった。
知っている……。
「オズ?」
つぶやいて、ミチルは大きく窓を開け放った。
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