第二幕 ⅳ


 第二幕アクトツウ



     ⅳ


 あの日は、大変よいお天気でした。

 朝から青い空が広がっていて、お洗濯日和びよりだったのです。

 兄はもう出勤しておりました。父は午前中がお休みで、病院の母を見舞ってから出勤する予定だと話していました。私は学校が秋休みに入っていたので、寮から一時帰宅をして家事にいそしんでいました。普段は男所帯なので家の中はとても汚れていて、お掃除やらお洗濯やら、こなさなければならない仕事がたくさんあったのです。

 ……本当にたくさんありました。

 あまりにも家事が溜まっていたので、二日に一度は記憶が飛びました。兄が言うには、ときどき家事の途中で廊下に倒れていたそうです。情けないことです。でも慣れているので大丈夫です。

 心配性の兄は私の体を労って何もしなくていいと言います。けれど、廊下の隅に綿埃が五センチも積もっていてはお手洗いに忍び足で向かわなければなりませんし、昼夜を問わず台所の床をチャバネゴキブリが軽快に走り抜けていく様を見るのは、心臓に良いものではありません。一度うっかり夜中に水を飲みに行って、怖ろしい思いをしました。

 ですからその日は、前の晩に近所の薬屋さんで購入しておいた駆除剤を撒く心づもりだったのです。父を見送ったら、洗っておいたシーツを干して、燻煙剤くんえんざいを焚いて、お買い物に行こうと綿密な計画を立てていました。

 ──じゃあ行くよ。

 九時を少し過ぎた頃、父がそう言って玄関に向かいました。

 私は飲み終わった珈琲のカップを流しのたらいに入れてから、後を追いました。もう父は靴を履き終えていて、私に白い靴べらを手渡しました。

 ──あとでお前も病院に来なさい。先生が話があるそうだ。

 先月、私と母はお医者様の勧めで血液検査を受けていました。そういえば、その結果が出る頃だったのです。私が頷くのを待って、父は玄関の扉を開けました。

 我が家の前には、玄関から表の通りまでまっすぐ十メートルほどの専用通路が通っています。通路には砂利が敷いてあり、両脇には花壇があります。母が入院してからは雑草の憩い場になっていましたが、その時は白い秋桜コスモスの花が咲いていました。たぶん以前に植えたものの種がこぼれて、自然に芽を出したのだと思います。

 専用通路を歩いて行く父の背中を、私は何とはなしに見ていました。

 表の通りを、右から赤い傘をさした人が歩いてきます。

 変わった傘です。親骨がすべて外側に折れているのです。まるで季節外れのチューリップを逆さにして頭に被っているようでした。

 傘の上には青空が広がっていました。

 対照的な色合いがとてもきれいで、私は少し見とれました。

 それから、お天気雨でも降り出したのかしらんと、思いました。

 父は傘を持って出かけませんでした。けれども、まだ今なら追いかけていけば間に合います。父はちょうど専用通路を出て、赤いチューリップ傘の人とすれ違うところでした。

 私は一旦家に戻ると、父の蝙蝠傘コウモリガサを取り、すぐにまた玄関の扉を開けました。突っかけサンダルのまま専用通路を走って、傘を父に渡すつもりでした。

 でも、父はそこにはいませんでした。

 いいえ。正しく言えば、私は咄嗟に父を見つけることができなかったのです。

 驚いて見回して、やっと見つけたのは、地面に平行するように倒れた姿でした。

 父は、上半身を表の通りに、下半身を専用通路の側に置いて俯せていました。

 動転して、はっきりとは覚えていないのですが……確か、私は父のもとへ駆けつけて、どうしたのかと呼びかけたように思います。でも返事はなかったように思います。

 持っていた蝙蝠傘が、手の平を滑り落ちる感覚がありました。

 専用通路の花壇が水を撒いたように濡れていて、秋桜の花が散っています。白いはずの花びらが、悲しいことに赤く染まっています。むっと、地面から鉄錆の臭いが立ち上ってきて、私は父の隣にしゃがみ込みました。

 平日の午前中の、人の通りが絶える時間帯です。

 あたりには誰もいません。

 空には雲一つありません。

 雨など降っておりません。

 快晴でした。

 頭の上の電線で、雀がさえずっています。それを聞いている私の瞼の裏で、ちかちかと光が瞬きました。いつもの貧血が起こる前兆でした。私は大きく息を吸いました。けれども体調は悪化するばかりです。どこからか暖かい風が吹いきて、遠くなったり近くなったりしている目の前の景色に、赤い色が混じりました。

 傘でした。

 親骨がすべて外側に折れた変な形の。

 それが風に吹かれて転がってきたのです。

 まるで、さしていた誰かが、開いたままの傘を地面に置いて、忘れて行ってしまったようでした────。


 ここで、私の記憶は途絶えています。

 たぶん意識を失ってしまったのだと思います。

 でも、どうやったのかは忘れてしまいましたが、なんとか兄に連絡を取ることはできたようです。兄がやってきた時、私は父の隣に座り込んでいたと聞きました。眠っていたのではなく、放心状態だったそうです。周りに他の人の姿はなく──もしかしたら、私が気づかなかっただけで誰か通った人はいたのかもしれませんが──兄が見た時は父と私の二人だけだったそうです。

 後のことは、みんな兄と宇都宮さんが対応しました。警察への連絡や病院の手配、お葬式の段取りなども……。

 父が白い布で包まれて自宅に帰ってきた夜、兄がすべて話してくれました。

 あの快晴の朝、父が殺されたこと。

 胸の中心を刃物で突かれていたこと。

 刺した犯人は通り魔であるらしいこと。

 おそらくは有名な赤の帽子屋クリムゾン・ハッターであること。

 赤いチューリップ傘がその証拠だということ。

 たくさんの話をいっぺんに聞いたので、私は息が詰まってしまい、呼吸困難になりました。兄がとても心配をして、落ち着くまであれやこれやと世話を焼いてくれたのをとてもよく覚えています。

 その時はまだ、悲しいとは思いませんでした。

 ただ、洗濯したまま干せなかったシーツが、籠の中でしわしわになって乾いているのを見て、全身の力が抜けました。私はそれからまた失神して寝込み、目覚めた時にはもう父のお葬式は終わっていたのです。

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