第二幕 ⅲ


 第二幕アクトツウ



     ⅲ


 吸血鬼というものは、昼間は墓場の棺で眠り、夜になると起き出して人間の生き血を吸うのが基本的な生活様式ライフスタイルである。鏡に映らず、流れる川を渡れず、十字架やニンニクを嫌い、太陽の光を浴びると塵になって滅んでしまう生ける屍ノスフェラトウこのように記された吸血鬼物語を、ミチルはこれまでに何冊となく読んできた。

 だから、吸血鬼に関しての基礎知識は持っているつもりでいたし、ちょっとうるさい気でもいた。ところが、実際に吸血鬼として目の前に現れたオズは、容姿ばかりが物語然としていて、他はまるで話と違った。

 そもそも、昼間ミチルに付いてだらだら時を消費し、夜もやはりミチルに付いて同室の床で就寝するという昼行性の生活様式は、吸血鬼として如何なものだろうかと思う。しかも、眠っている彼の姿は部屋の化粧鏡にばっちりと映り込み、翌朝、太陽光を浴びまくって起床しても、まぶしそうにするだけで塵にならない。學園の中庭を流れる人工の川も軽々と飛び越え、ミチルがふところに入れているロザリオを平然と眺め、どんな食べ物でもミチルが止めなければ喜んで口にしようとする。もちろんニンニクとて例外ではなかった。

 ここまで吸血鬼の規格を無視されては、ミチルも図書館から借りてきた関連書物を静かに返却するしかないというものである。研究室ではありのままを見て報告するよう指示されているため、彼女の魔族報告書は今やオズの「これ食べてもよい?」リストと化していた。

 しかし最近、そんなオズに少し変化が現れた。

 血液に対して異様な執着を見せるようになったのだ。

 なんだかんだ言っても吸血鬼であるから、もともと朝夕の血液パックには目を輝かせていたのだが、ここ数日ほどその反応が顕著になってきていた。血液パックだけでなく、人間をふくめた動物のあらゆる血液に敏感になり、たとえどんなに微量であろうとも発見して、舐めようとする。昨日などは、中等部の家庭科で使用される調理前の生肉を嗅ぎつけ、ミチルが止めなければ準備室の窓を破って突入するところであった。

 その様子を知ったキング教授が、

『明日は満月だからだろう』

 と言ったのは昨夜のことである。だが、なぜ満月だと彼が血を欲しがるのかまでは教えられなかった。この後の授業で詳しく聞くはずだったのに、とミチルはオズに引きずられながら思う。

 オズはといえば、何やら一心不乱に帝国學園の敷地内を歩いている。右手には先ほど発見した空色の手紙を握りしめ、左手ではミチルの右手首をがっちりと掴んでいた。

 先ほど発見した七通目の手紙は、ミチルには何の変哲もないように思えた。しかし、オズには違ったらしい。

 この手紙から血の臭いがするというのだ。

 人間には嗅ぎ分けられないそれを察知した彼は、以降その源を求めて動いている。

「オズ」

 引きずられながら、ミチルはしきりにその名前を呼ぶのだが、声が届いてないのか聞いていないのか、彼の足が止まることはなかった。普段は決してミチルの前に出ようとしない寝ぼけ眼の吸血鬼は、しかし血液に接した時だけは例外になるようだ。

「オズ、オズ待ってください」

 それは、言動その他の変化から見ても明らかだった。

 何度目かの呼びかけでようやく足を止めたオズは、ミチルをちらりと振り返って口の端をわずかに持ち上げた。

「血のにおいがする」

 と言った彼の言葉は一語一句はっきりしており、いつものような茫洋とした風情は感じられなかった。彼が右手の手紙を顔に近づけて深呼吸するたび、空色の封筒の上に出る目の中で小さな赤い光が瞬くように、ミチルには思われた。

「帰りましょうオズ」

 二人が立ち止まったのは、學園の東の外れにある雑木林への入口である。辺りは鬱蒼うっそうとした木々に囲まれ、中等部か高等部のグラウンドを走る生徒の声が風で届く以外、人の気配はない。この先は確か、少し奥へ入って曲がると土地が楕円形に開けていて、焼却炉と物置が並んでいるはずであった。掃除当番以外は用のない場所のため、滅多なことでは人がやってこないのだ。

 それに、今は掃除の時間ではない。ミチルはもと来た道を振り返った。やや離れて、赤茶けた煉瓦塔の影が見える。

「午後の授業が始まってしまいます」

 しかしオズは引き返そうとはしなかった。しばらくその場で、ミチルの顔と雑木林の奥とを交互に見つめた後、改めてミチルの手首を軽く引いた。どうしても、先へ行きたいらしい。その手を離しさえすれば自由に歩けるだろうに、彼の頭の中にはミチルを置いていくという選択肢だけが最初から存在していなかった。

 ミチルはオズの握りしめている空色の手紙に目をやった。

「血なんて、付いていないと思うのです」

 実際、手紙には染み一つ見られなかった。オズに先に奪われてしまったことで開封はできていないが、一見して中身に異常があるようにも思われない。

 それでもオズはふるふる首を振って、「血のにおいがする」と繰り返した。手紙を持ったまま右手で雑木林の奥を示し、

「こっちからも同じにおいがする」

 と言って、また歩き始める。

「オズ」

 体格差のあるミチルに、彼を力ずくで止めることは不可能であった。問答無用で連れられて、転ばないように足を動かすだけで精一杯である。やがて、再びオズが足を止めたのは、焼却炉に至る少し手前だった。そこは道が緩やかに傾斜カーヴしていく途中で、林の入口側からも焼却炉の側からも視覚的に外れる場所であった。ちょうど斜めに生えたクヌギの大木が根を張りだしており、風で吹き寄せられた枯れ木や葉やゴミを囲い込んでいる。

 オズはその根の裏側へ、ひょいと道を逸れて回った。

 橡の木の向こう側は藪であった。大人の腰ほどにまで成長した茂みに分け入っていく彼に、ミチルは半ば腕一本で持ち上げられるようにして、後に続いた。

「オズ」

「し」

 ミチルの声を遮って、オズがおもむろに立ち止まった。見れば、唐突に前方の藪が切れている。その先は地面が一つ下がった窪地になっており、いびつに凹んだ自然の溝には雨水が溜まっていた。おかげで格好の水飲み場になっているのか、あたりには野鳥のさえずりが響いている。

 水溜まりに一歩近づいたオズの動きに合わせて、地面で羽を休めていた鳥のほとんどが空に舞い上がっていった。しかし、その場を動かない鳥もいた。

 三羽の大きな嘴太鴉ハシブトガラスである。

 彼らはミチルたちの姿を見ても動揺することなく、平然と羽を繕いながら水溜まりに居座り続けていた。

 沈黙が落ちた。

 ミチルはなぜだか嫌な気持ちになっていた。

 理由はわからない。ただ、ひどく良くない光景を見ている気がした。

 赤茶けた水溜まりの中から、一本の枯れ枝が上へと突き出している。それを止まり木にしていた一羽の鴉が、黒い瞳を瞬かせて頸を左側に倒した。意志の読めない眼差しは、ミチルではなくオズのほうへと向けられている。

 そしてオズもまた、彼ら三羽の鴉を凝視していた。

 ややあって、手首から伝わる感触の変化に気づいてミチルが目を向けると、彼の顔に薄い笑みが広がっていた。まるで、好みの獲物か楽しい玩具おもちゃを発見した子供のような、無邪気で残酷な表情だった。

「……オズ」

 反射的に呼びかけてしまってから、何を言うべきか迷って彷徨うミチルの視線が、ふと鴉の止まり木で停止した。

 そこに嫌な気持ちの正体があった。

 あの橡の木のように、水溜まりの中から斜めに突き出した太い枯れ枝。鴉の黒い足が食い込んでいるその場所に、丸くつるりとしたボタンがあった。帝国學園の校章が彫られたそのボタンは、學園生の制服か購買部で売っているオリジナルの衣類にしか縫い付けられていないものだった。ボタンの付いている枝はワイシャツの袖によく似ており、袖の先には手首によく似た節があり、その節の先には指によく似た小枝が五本付いている。

 ──否。

 それは太い枯れ枝などではなかった。

 帝国學園のワイシャツに袖を通した人間の片腕が、水溜まりの泥に埋まっていただけなのである。

 袖のやや下に止まっていた鴉が、下げた頭を左右に動かした。ミチルの視線の先で腕が小さくたわんで、嘴に突かれた人差し指の爪が剥がれる。汚れて黒ずんだその一欠片を、鴉は器用に空中でくわえて飲み込んだ。

 漆黒の喉元が上下するのを見届けた瞬間、ようやくミチルは詰めていた息を吐いた。同時に細い悲鳴も体から外へ飛び出し、瞳を瞬かせた鴉が止まり木と化した腕から地面へと移動した。

 どこかで空気が鳴いた。

 今さらのように、最初にオズが嗅ぎつけた鉄錆てつさびの臭いが鼻をつき、ミチルの膝から力が抜ける。

 顔から血の気が引くように、縦にすとんと倒れそうになった彼女の体を、オズが手を伸ばして抱えた。それで一旦は支えを得たものの、しかしミチルは結局、不自然な間を置いて地面に尻餅をついてしまう。なぜなら、支えであったオズの左腕が、不意に肩からと落ちたからである。

 自分を掴まえた姿勢で、体を離れて落ちてきた彼の腕を見て、ミチルは改めて悲鳴を上げた。腕と共にぼたぼた降ってきた鮮やかな赤は、オズの肩口から噴出した血潮だった。

「オズ!」

 目の前の出来事が信じられないミチルとは裏腹に、当のオズは最初の衝撃でよろめきはしたが、とくに取り乱すことはなかった。わずかに眉をひそめて、痛そうにというよりは惜しそうに腕を失った左肩を眺め、右手にした手紙を傷口にかざす。見る間に赤く染まって濡れた空色の手紙は、一瞬にして彼の指でボールのように丸められ、その薄く開いた唇の間に消えた。食べたのだ。

「んん」

 己の血で赤くなった唇を舌で舐めて、オズは低く唸った。

「まずい」

「いっ、いけません」

 あんまりと言えばあんまりな光景に、ミチルは思わず口を挟んだ。

「そんな自給自足はしちゃ駄目なのです」

 オズの表情に困ったような色が浮かんだ。

「しちゃ駄目です?」

 と訊く彼の右手が、裂けた黒いローブ越しに左肩を押さえて、離れた。その、時間にして一秒にも満たない掌の接触の間に出血は完全に止まっていたのだが、涙目で何度も大きく頷いているミチルはそのことに気づくどころではなかった。

「は、早くお医者様に……」

 どこかでまた、空気が鳴いた。

 同時に、ミチルの眼前で黒い筋が幾本か舞う。それがオズの長い髪の毛だと察した時、ミチルの体は彼によって茂みの上に押し倒されていた。血臭に青い草の臭いが混じる。弾みで少し大葉子オオバコの茎を食べてしまったミチルが顔を上げると、覆い被さっていたオズはもう体を起こしていた。傍らで片膝をついている横顔に赤い筋が走り、まばらになった髪が割れて、尖った耳が剥きだしになっている。

 頬を流れる血を気にすることなく彼が見つめる先には、同じくこちらを見つめる三羽の嘴太鴉の姿があった。続いて上半身を起こそうとしたミチルを遮って、

「ミチルさんは寝てること」

 オズは顔を前に向けた状態で言う。

「ですが」

方陣ほうじんに触ると切れます」

「ほうじん?」

「そこらじゅう方陣の糸。あいつらはただの見張りだけど、糸を動かすことはできる」

 あいつらとは無論、鴉たちのことであろう。見張りと聞いて、ミチルは無意識に持っていたオズの左腕を抱きしめた。視界の隅に、水溜まりから生えたもう一本の腕が見える。あの腕もオズのように切断されたものだとしたら、残りの体のほうはどこへ行ったのだろう。そう思ってぞっとした。

「ミチルさんはだいじょぶです」

 青ざめた彼女の心情を読んだように、オズが目だけで振り向いた。

「あんなの平気」

 言って、視線を前方に戻す。笑んでいる。

「わたしが平気だからミチルさんも平気だ」

「どうしてオズが平気だと私も平気なのですか」

 ミチルの素朴な疑問に答えることなく、オズは無事なほうの右腕を静かに持ち上げた。三羽の鴉がゆっくりとこちらへ近づいてくる。その羽ばたきの音と、足が草を踏みしめる音に、不吉な音が重なったのは、約一秒後のことだった。

 以前にも耳にしたことのある、空気が抜けるようなそれにミチルの体が強ばる。恐る恐る目線を傍らに移していくと、予想した通り、オズの体から白濁した煙が上がっていた。

「およ?」

「オズ!」

 自分でも驚いたような声を出した後、煙と共にミイラ化していく青年を、ミチルは為す術もなく見守った。たちまちに骨と皮だけになって崩れ落ちたオズに、必死で這い寄って呼びかけてみるものの応答はない。いつの間にか、ミチルが抱えていた左腕も、主人である体と同様に干からびていた。

「そんな……」

 何があったのか、ミチルには理解できなかった。

 腕を切断されたダメージが遅れて現れたのか、それとも自分の血で浸した手紙を食したのがいけなかったのかと考えているうちに、すぐ脇で青草を踏みしめる音がする。はっと振り向けば、そこに黒い鳥たちが端然と佇んでいた。

 息を飲んだ彼女の前で、六つの瞳が瞬く。たのしげに笑ったような動きだった。

 同時に、鉄錆の臭いが色濃く横たわる雑木林に、何者かの声が響き渡った。


「血が足りていないね、その吸血鬼」


 高く弾んで、男か女かもわからない声であった。

 ──誰。

 振り返ろうとしたミチルは、しかし直後、強い眩暈めまいに襲われた。いつもの貧血とは質の違う、歪んだ黒い塊を頭の中に押し込められた感じがして、堪らずに崩れ落ちる。そのまま、闇が支配する眠りに引きずり込まれて意識を失った。

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