第二幕 ⅱ


 第二幕アクトツウ



     ⅱ


   アリスガワ ミチル サマ


  トツゼン コノヨウナ オテガミヲ サシアゲル コト

  オユルシクダサイ

  ボクモ ズイブン ナヤミマシタ ガ

  ヤハリ コノキモチヲ オサエルコトハ デキマセン

  ボクハ ハジメテ アナタヲミタヒカラ

  アナタノコトガ ワスレラレマセン

  マイニチ アナタノコト バカリ カンガエテイマス

  アナタノコトハ ナンデモ シリタイデス

  ドウカ ボクノキモチヲ ワカッテクダサイ



 ────────────────────────────



  マゾクケンキュウシツ ニハ モウ ナレマシタカ

  アナタガ ホカンコデ サイナン ニ アワレタ コト

  ボクモ シッテイマス

  デキレバ ボクガ カワッテ アゲタカッタ

  アナタガ 〝オズ〟 ト イルノヲ ミルタビニ

  ボクノ ムネハ クルシク ナリマス



 ────────────────────────────



  オトウサマ ノ コトハ ザンネンデシタネ

  デモ コワガル コトハ アリマセン

  アナタニハ ボクガ ツイテ イル

  アナタヲ ハッター ガ キズツケルコトハ ナイ



 ────────────────────────────



  アナタノ ホシイモノハ ナンデスカ

  プレゼント シテ アゲマス



 ────────────────────────────



  コンド ボクト アッテクダサイ



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「ラブレタァあっ?!」

 語尾が完全に裏返ったヒロムの大音声に、ミチルは受話器が割れるのではないかと本気で心配をした。

「ララララ、ララ、ブレターって、あのラッヴが綴られた手紙のレターかっ?」

「落ち着いてください、兄さん」

 電話線の彼方で、いやに発音が美しい「ラッヴ」を連発している兄を見習い、ミチルも巻き舌で答えてみる。

「そのラッヴレターだと思います……たぶん」

 四月最後の木曜日に発見した手紙は、あの日を皮切りにして、数日おきに届けられるようになっていた。

 手紙はいつも空色の便箋にタイプライターで書かれ、同じく空色の封筒に入れられて赤い心臓ハアト型の封蝋が押してある。そして、いつもミチルが授業等で部屋を空けている間に、ドードー鳥の扉の下に差し込まれているのだった。差出人は相変わらず不明である。とはいえ最初はあまり気にしていなかったミチルも、今日の昼食後に六通目を発見すると、さすがに困惑せざるを得なかった。

 そこで、まずは兄に相談するべく、職場の昼休みを見計らって煉瓦塔三階にある外線電話機にコインを入れたわけだが──受話器から伝わってくる尋常でない狼狽ぶりに、ミチルは自分の選択が誤ったかもしれないと思い始めていた。

 実は、相談の相手を式部にするか兄にするかで迷ったのだ。小一時間ばかり頭を悩ませたすえ、最終的に兄を選んだのは、手紙には亡くなった父に関する記述があったからである。そのことをさっそく兄に伝えると、

「けしからん!」

 受話器の向こうの鼻息が荒くなった。

「なんだその失礼なトンチキ野郎は! ひっ、ひとの弱みにつけこんで自己アピールをはかろうとは不届き千万! 火刑に処されても文句は言えまいっ。ええい、そんな手紙は焼いておしまいなさいミチル!」

「落ち着いてください、兄さん。それはできません」

「ああああ、お前はなんて優しい子だろう。でもそれではいけないのだ。いいかいミチルよくお聞き。世の中にはお前が考えもつかないような、いかがわしい妄想で脳髄のうずいを満たした魑魅魍魎ちみもうりょう共がどっさりいるのだ。そんな悪鬼羅刹あっきらせつから身を守るために、人は時に非情に徹しなければならないのだよっ」

 ひとしきりまくし立ててから、ヒロムは急に声のトーンを落とした。

「……で、だ。……あー……そもそも、本当にラ、ラララッヴなレターなのかね? 學園内のお知らせとか友だちからの季節のお便りとか百貨店のダイレクトメールのような、兄ちゃんを笑顔にしてくれる手紙の勘違い、ということは、ない、か?」

 かすかな期待をにじませた問いに、しかしミチルは一台ずつ仕切られた電話コーナーの中で、ゆるく首を左右に振った。

「勘違いではないと思います……たぶん」

 そう前置いて、手紙の赤い封蝋印の話をする。

「心臓型はラッヴの意味ではないかと」

破廉恥はれんちな!」

 話を聞いた途端、ヒロムは先ほどよりもいっそう憤慨ふんがいして叫んだ。

「なんというなんというなんという、奥ゆかしさの欠片もない! 若さゆえの直球勝負がうまくいくとでも思っているのか甘いぜちくしょう! もはや情状酌量じょうじょうしゃくりょうの余地はない。そんな破廉恥な手紙は、やはり焼いて捨てるべし! お前ができないなら兄ちゃんがらしめてやるから、全部まとめてこっちに送りなさいミチル!」

「落ち着いてください、兄さん。ですから、それはできない相談なのです」

「遠慮するな水くさい!」

「だって、もう捨ててしまったのです。破いて」

 一瞬、兄の反応が遅れた。

「や……破いて……?」

「はい。びりびりに」

 それはまだ母が意識を保っていた頃、差出人不明の怪文書を受け取った折には、とにもかくにも破いて捨て去るがよろしいとの教えを、ミチルが忠実に守った結果だった。その際の注意点は一つ、万が一にも誰かに拾われて内容が公にならないよう、あたかも親のかたきであるかの如く、細かくちぎること。それもミチルは完遂していた。

 ヒロムが、気の抜けたソーダ水のような口調になった。

「じゃあ、もう手元にはないんだな」

「はい。あ、いいえ。今日のはまだあります」

 ふと思い出して、ミチルはスカートのポケットから、ていねいに四つに折り畳まれた白い紙を取り出した。つい二十分ほど前、学食から戻った後に例によって扉の下に差し込まれていた手紙である。どういうわけか、今回だけはいつもと違って空色の封筒には入っておらず、中身が剥き出しのまま、便箋の色も白かったのだ。中には、タイプライターの黒い文字で『イツモミテイル』という一文のみが記され、奇妙なことに一文の下には『L』と名前らしき文字まで打たれていた。

 差出人不明ではなかったため、すぐに破かずにおいたことをミチルが口にする前に、兄の「しかし変だな」という声が発せられた。

「學園の中で父さんのことを正確に知っているのは、ほんの一部だ。それもみんな局長の知人ばかりだから、みだりに話が漏れるはずがない。学生はもちろん、お前の担任教師だって知り得ないことだ」

 ミチルとヒロムの父は、半年前に不運にも自宅の階段を踏み外して転落死したと世間的にはなっている。だが、それは本当の死因ではなかった。

 ヒロムの声がぐっと潜められる。

「だいたい、関係者には箝口令かんこうれいが敷かれている。報道も制限されているし、手紙にそんな言葉が出てくること自体がおかしい」

「はい。私も気になっています」

 空色の手紙には、他人が決して知るはずのない、父の死因に直結する一文があった。

 ──アナタヲ ハッター ガ キズツケルコトハナイ──

 それゆえに、ミチルは手紙を景気よく破り捨て去ってもなお、心が晴れなかったのである。

「僕のほうで少し調べてみるが、お前も用心しておけよ。差出人は何か魂胆があるのかもしれない。なるべく一人で行動するのは避けたほうがいい」

 かすかに警戒色を帯びた兄の声音に、ミチルは大きく頷いた。

「それは大丈夫です。いつもオズがいてくれますから、一人ではありません」

 言って後ろを振り返ると、今日も今日とて真っ黒いローブで全身を包み込んだ長身の美青年が、電話コーナーの隅に茫洋ぼうようと立っていた。ローブから出した両手の指を黙々と折っているのは、今やすっかり習慣になってしまった時間のカウントである。四月最後の木曜日以降、彼はよくこうして次の食事までの間を数えて過ごすようになっていた。声に出さないのは、先日、ビショップ研究室の鶴丸室長に「やかましい」との苦情を受けたためだった。

「あいつか……っ」

 オズの名前を出した途端、せっかく落ち着いたヒロムの声に再び乱れが生じた。

「今も奴と一緒なのか!?」

「はい。私のひなですから」

「ひっ……」

「研究者と個体の関係とはそういうものだと、キング教授が言っておりました」

 一瞬、絶句したヒロムは、ややあって「雛なものかぁあっ!」とラブレターの時よりも遙かに見事な裏声を出した。思わずミチルは少し受話器を耳から離してしまい、そこから漏れた音で談話室にいた学生の何人かが、怪訝そうに周囲を見回した。

「あんな雛がいてたまるかっ。あいつはな、あのでくの坊は雛でもなければ人間でもないのだ。魔族なのだ。なまっちろい顔で、長髪なびかせちゃってる姿に惑わされてはいけないぞミチル。何しろ、腹がいてウン百年の爆睡から目覚めやがった意地汚なぁぁい魔族野郎だ。しかも血を吸う!」

「はい。吸血鬼ですから」

「ああああ、そんな奴とお前が朝も昼も一緒に、よっよよよ夜まで同じ部屋で寝ているかと思うと、兄ちゃんは心配で心配で心配で夜も眠れない!」

 それは由々しきことだとミチルは思った。

「だめです兄さん。睡眠はきちんと摂ってください。でないと、また毛髪に支障をきたします」

 妹の思いやり溢れる忠告に、にわかに兄が沈黙したのは言うまでもない。

「もしかして、この間お腹を壊したのも、寝不足で体調を崩したからではないですか?」

 先月の終わり頃、ヒロムが原因のはっきりしない腹痛でのたうち回っていたことをミチルが指摘すると、深い悲しみをたたえた声が受話器の向こうで「いいや」と答えた。

「あれは……ただの食い過ぎだ」

「まあ。何をそんなに」

「ちょっと五番街の店でサンデーを」

 言い差して、途中でヒロムは何かに気づいたように口を噤んだが、すでに遅かった。ぽろりとこぼれた言葉はしっかりミチルの耳に入り、頭の中でたちまち『五番街にある喫茶店のスペシャルフルーツサンデー』という、一部に余計な尾ヒレの付いた単語に構築されていた。

「兄さん」

 静かなる呼びかけに、ヒロムが「違うんだミチル」と慌てて言ったが、もはやそれは妹の耳に入っていない。

「ひどいですあんまりです」

 彼女の脳裏には、先々月に食べそびれた苺のシャルロットの面影が、切ない思い出となって鮮やかに蘇っていた。あれから、ミチルはまだ一度も五番街の喫茶店に顔を出していなかった。兄の助言で、店内で失神したお詫びはひとまず文書にして送り、後日改めて伺おうと思っていた矢先にオズのことがあって、行きそびれてしまっていたのだ。

「私には行くなと言ったのに、ご自分だけ至福のひとときを過ごすなんて」

「い、行くなとは言ってないよ。これには深い理由があって」

「私だって美しい苺に惚れ惚れしたいのです。ウサギ耳のりんごをフォークでつつき回したいのです。キウイの酸味に鳥肌を立てたいのです。それをバナナの甘さで癒したいのです。だのに兄さんばっかり兄さんばっかり、ホイップクリームの海に埋もれて……!」

「お、落ち着きなさい、ミチル。だから違うんだって。別に兄ちゃんは抜け駆けするつもりじゃなくてだな」

「言い訳は結構です。兄さんはそういう方なのです」

「っ!? な、ななな何を、ミミミチっ、それはどういう意味」

 皆まで言わせず、ミチルは心のままに唇を動かした。

「兄さんのいけず!」

 ガシャン。

 直後に聞こえたヒロムの悲鳴を無視して、受話器を下ろしたミチルの目には涙がにじんでいた。手にしていた六通目の手紙を丸めて談話室のゴミ箱に放り込み、昇降機を待つのももどかしく、一気に階段を七階まで駆け上がる。自室のドードー鳥の彫刻が見えたところでやっと足を止め、荒い息を整えていると、

「ミチルさんミチルさん」

 きっちり後ろを付いてきていたオズに話しかけられた。

「怒っています?」

 少し考えて、ミチルは正直に頷いた。

「でもオズにではありません」

「泣いています?」

「大丈夫です」

 薄く微笑んで自室に入ろうとしたミチルの視界に、その時、見慣れた物が映り込んだ。扉の下に半分ほと差し込まれた空色の封筒──通算七通目の手紙である。

 本日は二通目になるそれを、小首を傾げて拾おうとしたミチルは、しかし自分よりも早く伸ばされた別の腕に先を越されてしまった。オズだ。

 驚くミチルの前で、彼は空色の手紙に顔を近づける。

 冷たい色の目がわずかに細められた。

「……血のにおいがする」

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