第二幕 ⅰ


 第二幕アクトツウ



     ⅰ


「ミチルさんミチルさん」

 自分の左斜め下から、消え入りそうな声量で話しかけられ、有栖川ありすがわミチルは雑誌に落としていた視線を上げた。

 見ると、ベンチの隣に体育座りをしていた若い男が、地面をしきりに指さしている。そこには一匹のアリがいた。時折、触覚をもたげつつ地面を忙しなく動き回る姿を、彼の指は一度も逸れることなく追い続けている。

「それは蟻です」

 ミチルの言葉に、男の俯いていた顔が上向いた。それでもなお、蟻を追う指が外れることはない。

「食べてもよい?」

 期待に満ち満ちた眼差しで問われて、ミチルは真面目な顔で首を傾げた。

「どうでしょうか。昆虫同士や鳥にとっては食べ物かもしれませんけど、オズさ……いえ、オズの食べ物とは違う気がします」

 ミチルの真似をするように、オズが同じ方向に首をかくんと倒した。

「だめです?」

 くどいようだが、彼の指は相変わらず蟻の尻を追い続けている。その指から視線を一旦外して地面を観察したミチルは、じきに「ああ」と声を漏らして首を振った。

「食べてはいけません。この蟻は引っ越しの途中なのです」

 よくよく目を凝らせば、オズが腰を下ろした傍らには真新しい蟻の巣穴ができていた。直径一センチほどの穴の周りは小さな土の塊で覆われ、穴からは絶え間なく蟻が出入りしている。さらに目を凝らすと、蟻たちはそれぞれ白く丸い物体を顎に挟んで運んでおり、一定の距離を置いて連続して繋がっていた。いわゆる蟻の行列である。

 オズが指で追っていたのは、その行列からはぐれ出た一匹だった。

「お邪魔をしてはご迷惑です」

 ミチルからはっきり駄目だと言われ、オズはがっかりして項垂うなだれた。その心情を代弁するかのように、ぐぎゅるるるぅと盛大なる腹の虫の声が響き渡り、人工池で水浴びをしていた鳩が驚いて飛び立った。

「ミチルさんミチルさん」

「はい。なんですかオズさ……いえ、オズ」

「どれなら食べてもよいです、か?」

 再び問いかけるオズの黒い目は、人工池を泳ぐ真鯉まごいから始まり、池の周りで羽ばたく紋黄蝶モンキチヨウを捉え、続いて上空を覆う青葉とその木陰に留まる四十雀シジユウカラの群れを撫でて、五メートルほど離れた右手前方に佇む四阿あずまやに移り、最後にミチルの顔で静止した。

 ミチルは少し考えてから、

「どれも駄目です」

 と答える。

「この公園は學園のものなのです。乱してはいけないと思います」

「これも、それも、學園のです?」

 先ほどまで蟻を追いかけていたオズの白い指が、池の真鯉とその上を飛ぶ紋黄蝶をさして尋ねた。

「鯉は中等部の学生さんが稚魚から育てたものですから、學園のものです。蝶々は違いますが、食べてはかわいそうです」

「?」

「今が盛りの命なのです。もしどうしてもと言うのなら、自然に飛べなくなるぐらい弱ってから食べることを提案します。あと、鳥も學園のものではないですが、食べてしまうと他の仲間が怖がって次から公園に来なくなってしまうかもしれません。それは悲しいことです」

 ミチルに先手を打たれ、四十雀の群れをさしかけたオズの指が残念そうに曲がった。しかし、また思い直したように右手前方の四阿をさした。

「あれは?」

「あれは生き物ではないのです」

「いました」

 オズの言葉に、ミチルがきょとんと目を見開く。

「生き物がさっきまで。あれも食べては駄目です?」

 基本的にはそうだと頷きつつ、ミチルは栗鼠リスでも木から下りてきていたのだろうかと思った。



 地下迷宮の一件から一週間が経過していた。

 あの後、無事に魔族保管庫の深部より救出されたミチルは、二日ほど微睡みの中を彷徨さまよったすえに、いつもの医務室で目を覚ました。室内にはいつにも増して取り乱した兄がおり、距離を置いてその秘書と当直医、さらに距離を置いて黒い三つ揃いの學園事務員が二名と、その事務員に両脇を拘束されたあの行き倒れの青年がいた。

 青年はミチルが倒れる直前に見たミイラではなく、美しい人間の姿をしていた。聞けば彼も學園が保管する魔族だという。しかも希少価値の高い吸血鬼で、どういうわけか仮死状態が解けて棺から抜け出ていたところを、偶然にもミチルが発見してしまったものらしい。一旦ミイラ化した体を復活させるのにはおよそ五㎏もの人間の血液を要したと説明しつつ、事務員は彼をミチルに引き合わせた。

 初め、茫洋ぼうようと虚ろな様子だった吸血鬼は、しかしミチルと目が合うなり、一転して顔を輝かせた。続いて両脇の事務員を軽々と跳ね飛ばすや、満面の笑みで彼女に抱きついたのである。

 刷り込み薬の影響を改めて確認した学園側は、翌日、ミチルの研究対象を彼──吸血鬼オズとする旨を正式に言い渡した。本来、個体マウスは研究生自身が選ぶものだったが、すでにキング教授の許可は出ており、ミチルに否やの言えるはずはなかった。

 この日を境に、二人の共同生活が始まった。オズは、外見的な年齢はヒロムと変わりないものの、その言動は中等部の生徒よりも幼く、頭を働かせることが苦手だった。少しでも難しい話になると答えられなくなり、例えば彼が覚醒するに至った理由を尋ねても要領を得なかった。

 食事は朝と夕の二回、二五〇㏄の輸血用の血液パックが學園から支給されたが、それ以外は何も与えてはいけないことになっているため、彼は常に眠たそうにして腹を空かせている。ただ、そのぶん食事の時だけはいつもほうけている顔にも喜色が浮かび、言動に理知的な光が灯るようであった。



「ミチルさんミチルさん」

「はい。なんですかオズさ……オズ」

 何度目かの言い直しをして、ミチルは小さく溜め息をついた。いくら魔族とはいえ、人型の、それも明らかに年上だと思われる容姿の相手に対し、敬称を抜いて呼びかけることに抵抗があったのだ。けれども、二人の関係を明確にしておくためには、「さん」付けなどしてはいけないと、これもまた學園の事務員に命じられていた。その場合、しゅはミチルのほうで、オズはじゅうとなるらしい。例の刷り込み薬がもたらした結果である。

 オズ、オズと口の中で呼び捨ての練習をしてから、ミチルはもう一度「はい。なんですかオズ」と言った。

 長身を小さく折りたたんで、彼は抱えた膝に顎を乗せた。

「お夕飯は、まだです?」

 その質問を後押しするかの如く、再び腹の音が切なげに鳴り響き、梢にいた四十雀の群れが飛び立っていく。ミチルはおもむろに腕時計を見た。

「あと五時間後です」

「五時間はどれぐらいです?」

「三百分です」

「三百分はどれぐらいです?」

「一万八千秒です」

「じゃあ、一万八千回かぞえれば夕飯ですね」

 言って、いーち……にーい……さーん……と数え始めたオズを見て、ミチルはひどく感心した。

「それは思いつきませんでした。とても新鮮な発想です」

 微笑みながらミチルがオズの顔を覗き込むと、彼も「ななー」と言いながらにこりと笑った。その笑みの形になった目が、だが次の瞬間もとに戻り、ミチルを通り越して背後へと注がれる。

 同時に、草を踏み分ける音が耳に入り、反射的に後ろを振り返ったミチルは、

「先輩」

 と顔を輝かせた。

 木々の間から姿を見せたのは、式部しきぶ李子りこであった。ラフな普段着の上に白衣を羽織った彼女は、起き抜けのような気怠い表情で人工池への小径こみちを歩いてくる。ジーンズのポケットに両手を突っ込んだまま口にくわえているのは、あのお手製ビーフジャーキーではなく本物の煙草だった。その煙草が、人工池の畔にいるミチルとオズに気づいた途端、唇を離れて地面に落ちた。

「………」

 コジローの年季明け以来、最初こそふて腐れて自室に閉じこもっていた式部は、しかしキング教授が言った通り、時間の経過と共に徐々に以前の顔つきを取り戻していった。最近では、煉瓦塔の中や學園の敷地内をふらふら歩き回るようになり、ミチルはその姿を見かけるたびに声を掛けようとするのだが、なんと言うべきか考えているうちに、いつも見送っていたのである。

 瞳に星を浮かべ、明らかに待ち構えている様子のミチルを見て、式部が諦めたように肩を竦めた。地面に落ちた煙草を拾ってまた口にくわえると、人工池のほうに歩みを進めてくる。

「こんなところに来てていいの?」

 そう言った彼女の声は、三週間前とほぼ同じ調子だった。すっかりうれしくなったミチルは、

「もう授業は終わったのですか?」

 と尋ねつつ、いそいそとベンチの端に寄った。けれども、目の前まで来て足を止めた式部は、一人分のスペースが空いたベンチを見ても座ろうとはしなかった。

自主休講サボりよ。そっちは?」

「火曜日と木曜日は研究室で勉強することになっているので、午後の授業がないのです」

「ああ、そうだったわね。で? 研究室には行かなくていいわけ?」

「はい。教授が、しばらく魔族の勉強はいいからオズと一緒にいなさいと」

 式部の目が、ベンチの隣の地面に体育座りをしている黒い男へと流れた。「はあん。それが噂の個体ね」とつぶやく口から、煙草の白い煙が立ち上る。頭のてっぺんから足の先まで一通りオズを観察した後、視線はミチルへと戻った。

「でも、ここに来たらまずいでしょ」

 魔族の行動は、担当の研究生が帯同していれば、帝国學園の敷地内に限り基本的に自由である。しかし一部には例外もあり、この森林公園のように學園の外部にも開放されている場所は、立ち入りが禁じられているのだ。

 一度たしなめるような言葉を投げた式部は、周囲を見回して他に人気ひとけがないことを確かめてから、少し表情を緩めた。

「ま、気持ちはわかるけどさ。どこに行っても注目の的になるものね。さっきも、うるわしい黒衣の吸血鬼サマが学内を徘徊してるらしい、って高等部の女子が中庭で騒いでたわよ」

 愉快そうな式部の情報に、ミチルは一つ瞬いて隣のオズと顔を見合わせた。

「昨日まで〝麗しい〟は付いていなかったと思います」

「その手の話に尾ヒレは付きものなのよ」

 小さく苦笑して、式部もならうように再びオズを見る。個人の価値観は様々だろうが、確かに冷たく整った彼の容貌は人の目を引きつけるものがあった。もっとも、当人だけは我関せずの様子で、最初に一瞥いちべつを寄越した以外は式部に目もくれず、一万八千秒を数えることに余念がない。その、外見を裏切る朴念仁ぼくねんじんぶりに彼女の苦笑が深くなった。

 魔族研究室において、人型の魔族が研究生の個体に選ばれることは極めて珍しい。そのため、ミチルとオズの存在は非常に目立っていた。魔族には慣れているはずの煉瓦塔の研究生たちでさえ、二人を見かければ立ち止まって遠巻きに様子を窺う始末である。一般の生徒となれば尚さらで、今や噂は噂を呼び、ミチルたちの行動範囲は日に日に狭められていく事態となっていた。

「なるほど森林公園ここなら隠れる場所もあるし、悪くないアイデアだわ。でもやっぱり、」

 くわえ煙草で話す式部の手が、オレンジ色の髪をかき回した。

「ハイリスクね。魔族が入ったってバレたら、大目玉じゃ済まなくなる。一般学生に見られるのもうるさいけど、鶴丸つるまるあたりに知られるとちょっとした騒ぎになるわよ。あいつ、新人のあなたが吸血鬼を個体にしたのが悔しいらしいから、絶対に告げ口するわ」

 彼女の煙草から、長く伸びた灰が風に吹かれて散っていく。それを目を細めて眺めながら、ミチルは「すみません」と肩を落とした。

「そこまで深くは考えていませんでした。毎週ここで休憩をしていたので、つい今日はオズも連れて来てしまったのです」

 ミチルがしょんぼり閉じた膝上の雑誌には、半裸の男性が己の筋肉を主張するポーズで表紙を飾っていた。その写真の上には銀のエンボス文字で『俺たちの浪漫商品型録ロマンアイテムカタログ』と題されていたのだが、式部は敢えて見なかったことに務めた。

「ま、まあ、会ったのが私で良かったわよ。あんまり長居して誰か来ても困るし、ひとまず研究室に行きましょう」

「はい」

 なぜか視線を大きく外した式部に促され、ミチルが雑誌を抱えてベンチを立つ。すかさずそれに反応したオズもまた、のそりと立ち上がって後に続いた。ローブに付いた土を払いもせず、依然として「よんひゃくー」とつぶやいているのを耳に、式部が凛々しい眉を持ち上げて振り返った。

「ところで、さっきからあれは何を数えてるの?」

 ミチルがわずかに得意げな顔をして、微笑んだ。

「夕ご飯を美味しくいただくための、おまじないです」



 そのおまじないが千秒に達する頃、一行は煉瓦塔に到着した。

 人目につきやすい昇降機は避けて、脇の階段に向かおうとしたミチルたちは、しかし研究棟と繋がった塔内三階フロアの騒がしさに足止めをくらうこととなった。

 実質、煉瓦塔のエントランスに当たる三階は、七階や八階と同じくいずれの五賢者ワイズマンの監視も受けず、生徒たちは自由に使用することが許されている。廊下から入って左手の空間は談話室になっており、作り付けの椅子やテーブルの他に給湯器や外線電話等が設置されていた。そのいつもは数名しか人影がない談話室が、今日は二十名を有に越える生徒の姿で賑わっていたのである。

 階段は談話室を横切った先にあるため、三人はその場でしばし立ち尽くした。ミチルとオズを渡り廊下まで退がらせ、式部が様子を見に行くと、どうも談話室内で学生同士の口論が起こっているらしい。それを見物あるいは応援に来た野次馬が、二重三重に取り囲んで入口を塞いでしまっている。

 さらに伸び上がって輪の中心を確認した彼女は、瞬間、短く舌打ちをして身を翻した。

「最悪だわ」

 苦々しい顔で戻ってきた式部は、ミチルの顔を見てかすかに首を振った。

「畜産部の連中が乗り込んできてる」

「ちくさんぶ?」

「大学のサークルよ。校舎の裏手に小屋を建てて、ブタニワトリ山羊ヤギなんかを育ててるの。何が楽しいんだか知らないけど、おかげで夏はそっちから家畜の臭いが漂ってきて参るわ。ったく、畜産やりたいんだったら農大に行けってのよ」

「どうしてその方々が煉瓦塔に?」

 ミチルが問うと、式部はもはや完全に火が消えた煙草を唇から離した。

「去年の秋ぐらいから、連中の大事な家畜たちが頻繁にいなくなってるのよ。そう……例えば、ある月の第一週は鶏一羽、第二週は豚一頭、第三週は山羊一頭、最終週は鶏三羽、という風にね。いなくなった家畜は二度と生きては戻らない。いつだったか、高等部の校庭から認識票タグ付きの鶏の足が見つかったことがあってね。それ以来、死体は出ないもののおそらくすべて死んでるだろうって思われてるの」

「ひどい話です」

「まあね。で、連中は、原因はうちら魔族研究室にあるんだって言い張ってるわけ。要するに犯人は魔族で、研究室は犯人を隠匿あるいは野放しにしてるってうるさいの」

「そうなのですか?」

 まともに聞き返したミチルに、式部は「言いがかりに決まってるでしょ」と、指先で丸めた煙草を廊下のゴミ箱に放った。空中できれいな放物線を描いた煙草は、だが途中でそれを目で追っていたオズにパシッと掴まれて、あえなく着地点を見失った。

「ミチルさんミチルさん」

「はい。なんですかオズ」

「これ食べてもよい?」

 ミチルはオズの手の平に乗った、ちびた煙草を見て無言で首を左右に動かした。

 それを受けて、今回もがっかりと項垂れたオズが、無造作に煙草を握り潰す。開いていた指を閉じる──その動作だけで完全にちりと化した煙草を目に、式部が驚きと呆れがせめぎ合った表情を浮かべた。オズはと言えば、一時やめていた例のおまじないを、中断時間も入れた秒数から平然と再開している。

 ややあって、我に返った式部は「えーっと、なんだっけ」とオレンジ色の髪を掻きむしった。

「ああ、そうそう。言いがかりよ。研究室の魔族には、いつも研究生が付き添っているんだから、家畜なんて襲えるはずがないでしょう。そもそも、アムリタンが投与されている間は、よほどのことがない限り魔族は自分の意志で行動しないわ」

 とはいえ、現実には今年に入っても家畜が消える事件は続いており、そのたびに感情的になった畜産部が煉瓦塔に乗り込んでは、魔族研究室の生徒と衝突しているそうである。

「警察に相談はしないのですか」

「してる。學園を通じて正式にね。でも、あっちもほら、赤の帽子屋クリムゾン・ハッターとか鉤爪公爵フック・プリンスとかで忙しいらしくて、あんまり真剣になってくれないみたい」

「赤の……」

 ふと暗い瞳をしたミチルには気づかず、式部は面倒くさそうに煉瓦塔のエントランスを見やった。

「中で、畜産部長と鶴丸が金切り声でやり合ってるわ。断片的に聞こえてきた話じゃ、また豚だか山羊だかがいなくなったようね。どうする? 当分おさまらないよこれ。今、無理に入っても目立つだけだし、少しどこかで時間を──」

 彼女の言葉が不自然に途切れたせいで、ミチルは俯けていた顔を上げた。

「先輩?」

 なぜか、式部は急に落ち着きなく視線を泳がせ、先ほど自分でかき回した頭髪に手でくしを入れていた。そうしながら、微妙な間隔を置いて動きを止め、耳をそばだてる素振りをする。怪訝に思ってミチルも真似てみたところ、ほどなくして覚えのある車輪の音が聞こえてきた。

 振り向けば予想通り、音の正体は、オリエンテーションの日に遭遇した巨大な台車であった。上にはやはり巨大な鳥籠が載っており、中には鮮やかな青い頚部の印度孔雀インドクジヤクが入っている。その台車を押して、研究棟三階と煉瓦塔とを繋ぐ渡り廊下をこちらに向かってやってくるのはもちろん、あの中臣なかとみ蒼也そうやだった。

 彼は、渡り廊下の中程にミチルたちが佇んでいるのを見つけると、一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに淡い笑みを浮かべて近づいてきた。式部の体が硬くなる。隣にいたミチルにはそれがわかった。台車を通すために廊下の端へ避ける式部の顔は、どうしたことか車輪の音が大きくなるにつれて赤みを帯びてきていた。そして、台車が目の前に達したあたりで、短い髪から剥き出した両耳の先まで真っ赤になった。

 しかし、先日は停止した台車の車輪は、今日は回転し続けることを選んだらしい。

「こんにちは有栖川さん」

 それだけ言って細い目をいっそう細めた中臣は、最後にちらりとオズの姿を視界に入れて、すげなく通り過ぎていった。ミチルはまさか自分が声を掛けられるとは思わず、面食らった挙げ句、彼が巨大な台車に物を言わせて人だかりを突破した後になって、

「こんにちは中臣先輩」

 慌てて頭を下げた。

「彼、あなたと同い年よ。飛び級の大学生だから」

「え、あ、じゃあ。中臣さん、でよろしかったのでしょうか」

 それでも学年が上なのだから先輩と呼ぶべきではないだろうかと思い、振り向くと、傍らの式部はまだ赤面したまま、目に薄く涙を溜めて空中を睨んでいた。その表情は切なさと悔しさと苦しみが混合した複雑な色をしており、ミチルをにわかに心配させた。

「先輩、大丈夫ですか」

「なにが」

「とても申し上げにくいのですけれど、顔がのようになっています」

「…………」

 束の間の沈黙を置いて、式部の口から太くて深い息が勢いよく吐き出された。一度は整えたはずの髪を再び手で乱して、

「わかりにくいわ、それ」

 泣き笑いのような顔をする彼女を、ミチルは少しはらはらした気持ちで見つめた。では改めて言い直すべきだろうか、それともの説明をするべきだろうかと思案しているうちに、「まったく、私もどうかしてる」と独りごちた式部に腕を取られる。

「行くわよ」

「どちらへ?」

「気晴らし。ちょっと付き合って」

 どうせ夕方まで畜産部は帰りやしないんだから。

 そんな理由でミチルが連れて行かれたのは、帝国大學の体育館であった。

 大學の体育館は高等部以下とは違い、競技用のコートだけでなく、二階や三階に武道場やトレーニングジムをあわせた運動施設になっている。式部はそこで、タンクトップと短パンに着替え、心おきなく体を動かした。彼女が十キロのバーベルを上げ下げしたり、空手のカタを披露したりするのを、ミチルはオズと一緒に感嘆しながら見学した。そうこうする間に、四月最後の木曜日はほとばしる汗のきらめきとなって暮れていったのである。

 その日、シャワーを浴びてから帰ると言う式部と別れ、一足早く煉瓦塔に戻ってきたミチルは、ようやく静かになった三階のエントランスを通って七階の自室に上がった。

 東側の通路の突き当たりにある彼女の部屋は、通称ロダンと呼ばれていた。漆黒に塗られた木製の扉に、食卓の皿の上で物思いにふける一羽のドードー鳥が彫刻されているからである。彫刻のタイトルがロダンなのか、鳥の名前がロダンなのかは不明だったが、ミチルはこの扉をとても気に入っていた。

 今日もその前に立って、己の運命に思いを馳せるドードー鳥の横顔を満足げに眺めた彼女は、続いて制服のポケットから鍵を取り出そうとして、扉の下に何かが挟まっているのを発見した。

 それは一通の手紙であった。

 扉の隙間から半分ほど部屋の中に差し込まれ、残りが廊下にはみ出している。その、きれいな空色の封筒を拾い上げ、ミチルは何とはなしに後ろを振り返った。

 いつでもどこでも背後に付いているオズは、直立不動の格好で目を閉じていた。体育館にいる間もずっと数えられていた例の一万八千秒は、帰り道にめでたく終焉を迎え、つい先ほど研究室に寄って夕飯を済ませたばかりなのである。

 立ったまま寝ているオズから、ミチルは視線を手紙に戻した。

 表には『アリスガワ ミチル サマ ヘ』とタイプライターで打たれているので、自分宛に来た手紙と思ってまず間違いはないだろう。くるりと封筒を裏返してみる。

 差出人の名前はなかった。

 ただ、空色にはあまり似合わない赤い封蝋ふうろう心臓ハアト型の印が押してあった。

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