幕間 α


 幕間インタアルウド


     α



 私の友人が開く五番街の喫茶店は、木曜日が定休日である。

 最初は水曜日だったのだが、気まぐれな店主がいつの間にか木曜日に変えてしまった。なんでも、木曜日は雨天が多いというのが理由だそうだ。雨の日は客と共に靴に付いた泥が店に入って、床を汚すのが嫌らしい。店主曰く、以前は水曜日が雨天になることが多かったが、少し前からそれが木曜日になったので、定休日も変えたのだという。

 情報屋の彼のことである。断言するからには根拠があるのだろうと私はその話を一度は信用した。しかし、実際に木曜日だけが突出して雨天になっているようにはどうしても思えず、最近になって再び理由を問うてみた。すると今度は、木曜日は天馬ペガススのイカロスがよく腹を下す曜日だと彼は言う。そうなると魔族専門の医者に診せなければならないから、店を開くどころではない。だからあらかじめ休みにしてあるのだと。しかし長らく彼のもとに通っている私には、これまでにイカロスが体調を崩した記憶など一度もなかったのである。

 つまり……最初から理由などないのだ。

 ただ気が向いたから、というのがもっとも真実に近かろう。雨天の話もイカロスの腹下しも、すべて彼の口から出任せであったと私は思う。いや、気づいていたと告白すべきかもしれない。わかっていて敢えて理由を訊いた。それを承知して彼も答えていたようである。我ながら不可思議なものだが、私と彼との間には時にそういう暗黙の遊びが生じることがある。

 そして今日もまた、私は虚言妄言も甚だしい男の喫茶店に足を運んでいた。

 本日は木曜日。だが主人は定休日でも店におり、裏口には鍵が掛かっていないことを私は知っている。いつものように厨房の脇を過ぎて店内に入っていくと、カウンター付近でキュイキュイという乾拭きの音が聞こえた。

 珍しくも今日の店主は、タンブラーではなく、それをしまう食器棚のガラス戸に布巾ふきんを当てていた。内心軽く驚きつつ、私はサイフォン裏の指定席に座る。ふと、何か異臭がしたような気がしたが、すぐに店主が淹れてくれたいつものウィンナー珈琲の匂いに紛れてわからなくなった。

 最近、彼が好んで揃えている半透明の赤いグラスから、香ばしい湯気が立っている。耐熱グラスのカップらしい。ほとほとグラスの好きな男である。

「外はよく晴れている」

 舌に慣れた一口を啜って、試しに私が言ってみたところ、

「見ればわかる」

 と棚磨きを再開した彼に一蹴された。実際、四月も最終週に入った今日は、朝から抜けるような青空が広がっている。陽気もまるで初夏のように暖かかった。

「木曜日は雨が降るのではなかったのかい?」

 少し意地悪く言った私に、彼はやや間を置いてから食器棚に背を向けた。キュイキュイという音がやんで、代わりに我々以外は誰もいない店内に短い溜め息が落ちる。

「何か嫌なことでもあったかね?」

 質問に質問で返され、視線を泳がせたのは私のほうだった。

「そんな話は振っていないぞ」

「振らずとも顔に書いてある。いい加減に自覚したまえよ。きみの顔はきみの口以上に器用に物語りをする──また例の、失神症のお嬢さんか?」

「私の顔にを付けるのはやめてくれ」

「また學園の近くまで見に行ったのだな。下手を踏むと本当に捕まるぞ」

「勝手に話を進めるな」

 取り敢えずの抵抗を試みたものの、結局、追求姿勢に入った彼をかわしきることはできず、私の不機嫌のもとは暴かれることとなった。



 今から二時間ほど前。

 私はここのところ日課となっている散歩に出かけた。

 散歩のコースはいつも決まっており、立ち寄る場所の一つには帝国學園が所有する森林公園があった。そこは唯一、身分証の提示と入園料さえ払えば一般人でも立ち入りが許される學園の敷地内で、私は好んで頻繁に通っていた。

 青い木々のさざめく公園は空気が良く、平日は人も少なかったため、小説の構想を練るのに最適だったのである。断っておくが、時に學園側から散策にやってくる女学生たちとの歓談を夢想していたわけでは決してない。あわよくばその中に、有栖川ミチルの姿があることを願っていたわけでもない。わけではないが……まあ結論から言えば、この散歩のおかげで私は彼女と遭遇する幸運に恵まれた。これは運命、もとい不可抗力というものであろう。

 髪型を阿蘭陀風ダッチカットに変えた有栖川ミチルは、よく火曜日と木曜日の昼休み時に現れた。

 いつも青白い顔でふらふらと小径こみちを歩いてきて、公園の中ほどにある人工池で立ち止まる。そうして畔のベンチに腰掛け、小脇に抱えていた雑誌を膝の上で開くのだ。残念ながら、近くの四阿あずまやに身を潜める私にはそのタイトルまで確認することはできなかったが、おそらくは人気の『最新流行ア・ラ・モード』のような、乙女心をくすぐる類の雑誌だと推測される。少し物憂げに誌面を見つめる彼女の姿は、ひどく無垢で愛らしく、かけがえのないものに私には見えた。

 そう。私は週に一、二度、彼女の顔が見られればそれだけで幸せだったのだ。

 あの男を目にするまでは。

 今日もいつものように四阿で待機していた私は、やはり昼休みの時間に小径をやってきた有栖川ミチルを覗き見て、愕然とした。いつもは誰もいないはずの彼女の背後に、若い男が従っていたからである。

 長く垂れる黒髪に、彫刻刀で削ったような目鼻立ち。男の私が見ても美しいと形容できる顔をしたその男は、長身を魔法使いのような黒いローブですっぽり包み、その裾をずるずる引きずりながら、有栖川ミチルの辿ったルートを忠実になぞって歩いていた。彼女が小径に張り出した木の根をぴょんと飛び越えれば、男も真似てぴょんと飛び越え、花を咲かせた紫木蓮シモクレンの枝に軽く触れれば、いくらか遅れて同じ枝に触れる。それは、森林公園に相応しからぬ異彩を放つ光景であった。

 見るからに怪しいその男を、しかし有栖川ミチルは追い払おうとはしなかった。むしろどこか気を遣うように彼を手招いて、いつもの人工池のベンチに腰を下ろした。十数秒遅れてベンチに寄りついた男は、なぜか彼女の隣ではなく、脇の地べたに茫洋と座って膝を抱えた。いわゆる体育座りをしたわけだが、すでに動揺が極限ピークに達していた私には、その格好を奇妙に思う余裕はなかった。

 有栖川ミチルが男と並んで──正確にはベンチの上と下の差があったのだが──座っている。この事実は私にとって想像以上に衝撃的であり、相手の男の不審さには興味と嫉妬がない交ぜになった悪感情を覚えた。そして、そんな自分に嫌気がさした。私は彼らが立ち去るのを待たずにそっと四阿を離れると、森林公園を出た。

 その足で、ここ五番街に向かったのである。



「なんだそんなことか」

 話を聞き終えるなり、店主はつまらなそうに言って食器棚に戻った。また飽きもせずにガラス戸を拭き始めたのを見て、私は憤慨した。

「なんだとはなんだ。きみが話せと言うから話したんだぞ」

「どうせ話したくて来たのだろう?」

 まったく、ああ言えばこう言う。苛立たしさに任せて、私が冷めた珈琲を一気に飲み干すと、

「おそらく、その男はオズだ」

 ガラス戸をキュイキュイ鳴らしながら、彼は言った。

「おず?」

「魔族だよ。吸血鬼バンパイヤらしい」

「バ、」

 昼間の光景に匹敵する衝撃を受け、絶句した私を尻目に、彼はここ一ヶ月の有栖川ミチルの行動と、その身に降りかかった出来事について語った。

 曰く、理由は定かではないが、彼女が帝国學園内でもっとも敬遠されている魔族研究室に所属したこと。そこで己が観察対象を選ぶ際、不測の事態が起こったこと。その結果、本来は研究生への貸与が認められていない魔族を、彼女が個体にせざるを得なくなったこと。それこそが、私が目撃した男──オズであること。

「なんてことだ」

 相変わらずの情報通に舌を巻きつつも、私は有栖川ミチルの不幸を思って頭を抱えた。

「吸血鬼というのは、あれか。人の血を食料にして、ニンニクと十字架と太陽の光が苦手という」

「一部の伝承ではね。しかし箱舟の異種が伝承それとまったく同じとは限るまい。実際、きみは太陽光が降り注ぐ公園内で、オズが散歩しているのを見たのだろう?」

 確かに、おかげで私は彼を不審人物だとは思ったが、吸血鬼どころか魔族とも思わなかったのだ。もし知っていたなら、あの四阿から颯爽と躍り出て有栖川ミチルの手を取り、斯様かような危険きわまる學園生活から救い出してやっていたものを。………………百歩譲ってそこまでの勇気はなかったとしても、あのまま立ち去ることはしなかったろう。

「では箱舟の吸血鬼とはなんだ?」

「それがわからないから研究されている」

 にべもなく言って、定休日でも何かを磨いている喫茶店主は布巾を裏返した。

「そもそも吸血鬼は、箱舟が発見された当初から凍結状態が著しかった。いまだにほとんどが眠りについていて、世界的にも覚醒したと記録されているのは三体のみだ。過去にそのうちの一体が、眠っている仲間の数と名前を研究者に教えたため、吸血鬼たち彼らの固有名詞は判明したが、その他の特徴についてはまったくの白紙だと聞く」

 特殊な魔族なのだ、とつぶやく彼に私は異議を唱えた。

「名前だけではなくて、他の特徴も教えてもらえばよかったじゃあないか。その親切な吸血鬼とやらに」

「カインだ」

「?」

「その、仲間を人間に売った吸血鬼の名前だ」

「売ったって」

 彼はようやく食器棚のガラス戸を拭き終わると、こちらに向き直った。

「ただの協力ではなく、取引をしたのだ。そのせいで彼は仲間から制裁を受けた」

 カインは、仲間の情報を人間に明かした直後、覚醒していたもう二体の吸血鬼から襲撃を受けたそうである。その争いで互いに傷つけ合った彼らは、十八年前の大変事カタストロフに紛れていずこかへと姿を消した。三体はそれきり行方知れずになっているという。

「ということは、つまり」

「現在、身柄が確保されている吸血鬼で覚醒しているのはオズ一体だけ、ということになるな。そして、その監督者は有栖川ミチルだ」

「なぜ彼女なんだ? そんなややこしい魔族を一介の学生に任せられるものか」

 にわかに、私の頭に血が上った。何も有栖川ミチルの能力をあなどって言ったのではない。彼女の繊細なる心が、魔族によって傷つけられることをこそ案じたのである。

「きみが指摘するまでもなく、その手の意見は學内で出し尽くされている。議論も行われた。が、いかんせん、刷り込み薬の効果が尋常ではないらしい。今のアムリタンは大したことはないが、その前身は劇薬も同然だ。永久仮死魔族として棺に収められていたオズには、実に百年以上も劇薬が投与されていた」

 ──悪名高き『エリクシル』。

 彼はと言ったが、私の頭にはまざまざとその薬品名が浮かんでいた。

 それは、投与された魔族から自我を奪い、人間に隷属化させ、いずれ狂わせる毒薬であった。かつて、この毒薬が世界で大量に消費された結果、研究中だった魔族の多くは暴走状態となり、各地の施設を脱走した。大変事と称される歴史の汚点である。

 脱走した魔族の多くは自滅して果てたが、中には薬の作用を克服し、人間を襲う者もいた。それらのはぐれ魔族は、大変事から十年の歳月をかけて念入りに掃討され、現在では生き残りはいないとされている。が、怪しいものだと私は思う。先ほどのカインたち吸血鬼の件もそうだが、現に、掃討作戦から十年が経過した今もなお、魔族の仕業だと噂される怪奇な事件が各地で起こっているからだ。

 世界の混沌はこの薬のせいで始まった。なのに、いまだに開発会社は名前を変えて生き残っており、消費者が無知であるのをいいことに、いかがわしい薬の販売をやめようとしない。あのハイド……いや、よそう。考えていても詮ないことだ。

 店主の話は続いている。

「中和剤を打っても変化はないそうだ。オズは有栖川ミチルにしか関心がなく、彼女の言うことにしか耳を貸さない。他の者ではぎょせられないということだ」

 つまり、いくら周りが駄目だと結論付けても、当事者同士の結びつきが出来てしまった以上、もはや二人を引き離せる状況ではないらしい。

 私は、有栖川ミチルの後を金魚のフンよろしく付いて歩いていたオズの姿を思い出し、またぞろ心の中に嫉妬めいた感情が湧いてくるのを覚えた。その行き場のない想いは、しれっとして、汚れた布巾を金だらいの水に浸した友人に向いた。

「いやに詳しいのだな、きみは」

 言葉にふくまれた微妙な棘を察して、彼が顔を上げる。

「いつもいつも、そういう話はどこから得ている? まさか喫茶店に来た客が、都合良く話を落としていくわけでもあるまい」

 私の詰問に、彼が「ああ」と少し眉を動かした。

「いつもは違うが、今回の話に限ってはきみの言う通りだ」

「どういう意味だい」

「この間、宇都宮ヒロムが店に来てね」

 有栖川ミチルの兄の名前を出して、彼は顎で前方のカウンター席を示した。

「そこで、今話した内容を泣きながら愚痴って、うちのフルーツサンデーを全種類、右から左にやけ食いしていった」

「……全部?」

「そうだ。閉店間際だからよかったものの、昼間だったら大変だ。あんな乱れ食いを見た日には、他の客はかえって食欲をなくして帰ってしまう」

 どんな人物だそれは。

 私の心の声が聞こえたかのように、

「迷惑な男だ」

 本気でそうつぶやいて、彼は布巾を洗い始めた。

 何かはぐらかされた気がしないでもなかったが、私の小さな苛立ちはすでにサンデーの海に飲み込まれ、呆気なく消え失せていた。奇特な男もいるものだと、無意識にカップを口に運んだ私は──そこで今さらのように、中身が空であることに気づいたのだった。

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