第一幕 ⅳ
ⅳ
そこは通称、
帝国學園の地下深くに位置し、五賢者の承認のもと、煉瓦塔の昇降機でしか降りることのできない巨大施設である。その創設は古く、迷宮とされる理由には諸説ある。一説には最初は小さな倉庫であったものが、箱舟から運び出された魔族が到着するたびに変則的な拡張を重ねた結果の産物だとし、また別の一説ではもともとこの場所には學園創立以前から地下遺跡が存在し、そこを利用したために形が歪んだ施設だとする。いずれにしても、異様な広さと入り組んだ通路は迷宮の名を持つに相応しく、今や全通路を把握しているのは五賢者のみとされている。ゆえに、彼らのナビゲートなしに立ち入れば、遭難は必至だという。
昇降機を降りてまず、通常の三倍は高い天井に圧倒されたミチルは、次いで視線を前方に移し、通路を構成する壁のすべてが黒い石で造られていることに驚いた。
『
カモメの目玉のイヤホン越しに、キングが先回りして解説をした。
夜水晶とは、大陸の黒い岩石砂漠で採れる鉱物である。透明度は低いが硬度が高く、非常に風化に強いため建造物に使用されることもある。が、ここまで巨大なものは滅多にない。
『箱舟の内部に似せてある。と言っても、箱舟に夜水晶が使われていたわけではない。あくまでも雰囲気作りだ』
逆に、壁を除く天井と床には白い人工石が張られている。電灯の見当たらない地下でも視界が効くのは、天井部分の白い石が薄く発光しているせいであろう。
『ここには、三百二十三体の
教授の言葉に耳を傾けつつ、ミチルはゆっくり周囲を見回した。昇降機の前は煉瓦塔のフロアと同じく円形のホールになっており、そこからは無数の通路が伸びている。その数は普通の施設では考えられないほどに多く、全部で八つもあった。しかも一つとして幅が揃っていないときている。まさに本物の迷宮のように、少し覗いただけでは奥行きがさっぱりわからない通路を前にして、さしもの彼女も足がすくんだ。
「それで、私はどうすればいいのでしょうか」
突然、心の準備もなしに自分の個体を決めろと言われ、あれよという間に地下迷宮に連れて来られれば、戸惑うのが普通である。しかし、これまでに多くの学生をこの場所に案内してきた教授は、ミチルの問いに含まれたかすかな緊張を黙殺した。
『まあ適当に通路を歩いてみたまえ。研究室で観察対象にするのは魔族の原種だ。それさえ守れば、どのカテゴリーを選んでも構わない。大事なのはインスピレーションだよ』
あくまで淡々としたキングの助言を、ミチルは真剣な表情で吟味した。
そうしてから意を決したように顔を上げ、
「わかりました。やってみます」
と人差し指を立てる。続いて「どれにしようかな
『ずいぶん古い数え歌だ。よく知っているね?』
「子供の頃、母に教えてもらいました」
迷宮の内側に向かって大きくカーヴを描く通路を進みながら、ミチルは襟に付けたカモメの嘴に答えた。
「母は父に教えてもらったと聞きました。まだ私がお腹に宿る前だそうです。迷った時はこの歌に頼ればうまくいくからって」
言葉の通り、ミチルは次々に現れるモノトーン通路の分岐を、同じ数え歌で選んで曲がっていく。通路は、徐々にではあるが幅を広げ始めていた。そしてそれは、先へ進めば進むほど程度が大きくなり、ついにある一つの角を折れた地点で最大となった。
「──!」
目の前に現れた光景に、ミチルは思わず息を飲んだ。足がまるで床石の上で縫い止められたように動かなくなる。
そこには、多種多様な形容と大きさの
幅が五メートルほどにまで広がった通路の左右にところ狭しと、黒い壁に固定されて奥まで果てなく続いている。卵嚢の表面は磨いたように滑らかで、どれも内側から白く発光しており、中に入っているモノが透けて見えた。
背中に羽を生やした子供、蒼白い顔の男女、頭が三つに分かれた犬、下半身が鱗に覆われた兎、親指の先ほどの虎、
「これは」
『魔族だよ』
この施設には部屋というものが存在しないのだと、キングは言った。
すべての通路は仕切られることなく、一定の間隔を置いて拡張され、魔族を収納した卵嚢が十数体ごとに陳列されている。通路の形が不自然に歪んでいたり、必要以上に分岐が多くなっているのは、そのせいでもあった。
『壁と同じく箱舟の内部に似せてある。ドクター・イナバの箱舟に関する論文はいまだ封印されたままだが、漏れ
「その神話は本で読んだことがあります」
牛と人間の混血である怪物は、その乱暴な力を恐れられて、王が作らせた迷宮の奥深くに閉じ込められたという。
しかし、どちらかと言えばこの不思議な光景は、迷宮よりも博物館か水族館と呼んだほうが似つかわしいとミチルは思った。人型の魔族や獣は石膏像のように艶めかしく、巨大百足は芸術家の抽象的オブジェを思わせ、蠢く粘液などは居るだけでクラゲの遊泳に勝るとも劣らない神秘的な観賞品になる。
そんなことを思いながら粘液を凝視しているミチルを、しかしキングは恐がっていると判断したらしい。
『安心したまえ。魔族はどれも仮死状態にある。卵嚢を破らない限りは覚醒しない』
と自信満々に言った。
『ここは原種の
促されて、ようやくミチルの足が動き出した。
「卵嚢から、自分で出てくることはないのですか?」
『確率は一パーセント未満だろう。全卵嚢は、學園の中枢にいる
同時に、魔族は深い眠りの底から浮上するとキングは言った。
『そこで、研究生たるきみがまずしなければならないのは、覚醒した魔族の視界に入ることだ』
「視界に」
『左様。魔族には、卵嚢内で常に
ミチルは、わずかに思案げな顔をした。どこかで聞いた名前だと思ったのである。が、うまく思い出せないまま、キングの言葉は続いていく。
『言わば魔族用の媚薬でね。〝目覚めて最初に見た人間に友好的な感情を抱く〟という効果がある。よく、雛が親鳥の後を付いて歩く姿を見るだろう? あれと同じようなものだと思っていい』
つまりは薬を使用することで、研究者は親鳥となって雛である魔族の覚醒に立ち会い、手なずけるというわけである。
「……式部先輩とコジローさんの関係も、親鳥と雛だったのでしょうか」
にわかに、脳裏にコジローから引き離された時の式部の様子が蘇り、ミチルはしみじみ通路の両脇に並ぶ魔族たちを眺めた。
『どうかな。刷り込み薬の効果には個体差があるからね。投薬は魔族の覚醒後も一日一回行われ、これを打ち切った時点で効果は切れる。おそらくもう、あの飛竜の子供には中和剤が打たれているだろうから、また式部くんが会ったとしても懐かない可能性もある』
さびしい話だと、ミチルの胸は痛んだ。
卵嚢で眠る魔族は美しく静かであった。彼らの間を歩く自分の靴だけが、床に触れて音をたてている。その響きを聞きながら歩いているうちに、いつしか通路に並んだ卵嚢の陳列は終わっていた。
『……個体は見つかったかね?』
「わかりません」
もう一度見てみようかと通路を振り返ったミチルは、だがその時、おかしな音を聞いて動きを止めた。
それは犬が唸っているような、カエルが鳴いているような、猫が喉を震わせているような、とにかく聞き捨てならない音であった。
「あれは」
『うむ?』
音は、今いる通路とは別の方向から流れている。なんとはなしに、ミチルはその音源を辿って歩き出した。イヤホンの向こうでは、『なんの
ぎゅぅるるるるぅるるるぐぅるるる……。
次第に大きくなっていくその音は、通路を一つ曲がって近づくたびに切なげに音階を上げた。どこか恥ずかしくも懐かしい、生き物の本能を刺激する音に導かれ、ミチルはトコトコと進んでいく。やがてまた、ある一つの曲がり角を折れたところで、目の前に広がる景色が変化した。
通路の先に下り階段が現れたのだ。
数十段はあるであろう長い階段の奥は、今いる位置よりも深く沈んでいるためか、天井の石の光が届かず薄暗い。例の気になる音はその階段の下から聞こえていた。
『有栖川くん』
階段を下りて行こうとしたミチルを、キングが呼び止めた。
『その先は
「カタコンベ?」
『完全に死亡している魔族、あるいは我々の手ではまだ仮死状態を解く手段が見つからない魔族が保管されている。当然、きみの個体にはなり得ない。一部、帝都地下の古い
「でも、音はそこから聞こえます」
『それはそうだが』
やけに人間くさい言葉の濁し方をして教授が黙ったのを機に、ミチルは薄暗がりに足を踏み出した。下り始めてしまえば思ったほど長くなかった階段は、けれども最後の一段に嫌な染みを付けていた。
白い床石に、黒い落とし物がある。
吸い寄せられるように、しゃがみ込んで顔を近づけてみたミチルは、次の瞬間、かすかに声を漏らして身を引いた。
それは蝶の死骸に見えた。
「教授、」
『魔族ではないな。ただの
問うまでもなくキングが答える。
『
「どうしてこんなところに……?」
よろめきながら立ち上がったミチルの顔は、真っ青であった。生き物の死骸を見るのは苦手なのである。
キングが『ふむ』と子細ありげな声を出した。
『おかしなことがあるものだ。地上に生息する昆虫がこの地下保管庫で自然発生するはずはないし、自力で地下に下りられるはずもない。人と一緒に昇降機に乗ってしまったとしても、揚羽蝶ほどの大きい昆虫ならば気づくだろう。普通はナビの五賢者が追い出させるものだが』
「出口を探していて力尽きてしまったのでしょうか」
沈んだ声でミチルがつぶやいた。
『かもしれん。それにしてもこの雑音は……』
麝香揚羽の検証を続けている間にも、ぎゅぐるるの音は続いていた。最初の頃よりもますます激しく強く、まるで何かを訴えかけるかの如く鳴り響いている。あまりにも非常識なその音量に、ミチルは目的地が近いことを察してふらりと歩き出した。
階段から数メートルと離れていない夜水晶の壁を左に折れる。
と──そこは、あの魔族陳列区画とよく似た空間だった。やはり、いびつに幅の広がった通路の左右には、異形の姿が延々と奥まで続いている。ただ一点、先ほどと大きく違うのは、彼らを収めているのが淡く発光する卵嚢ではなく、半透明の赤い
なぜなら、彼女が通路を曲がってすぐの床上に、人が倒れていたからだ。
ぎゅぅるるるるぅるるるぐぅるるる……。
そして、例の音はその人の体からしていた。
正確には腹から聞こえた。
「教授、大変です」
音の正体がようやくわかり、ミチルは急いで倒れている人物の傍らに両膝を落とした。
「行き倒れです」
『…………』
腹を鳴らして床の上で伸びているそれは、暗闇を長く引き延ばしたような人だった。
背中まである髪も黒ければ、全身をすっぽり包んでいるローブも黒い。几帳面にも気を付けをした格好で俯せているその人を、ミチルは懸命に裏返した。なぜだか無性に助けなければいけない気がした。
薄暗がりの中に白い顔が浮かび上がる。若い男性である。
高く通った
ぺち。
本人は優しく触れたつもりだったのだが、実際にはその意に反する小気味良い音が鳴った。男の体が陸に揚げられた魚の如く跳ね、閉じられていた瞼が開く。同時に、上から覗き込んでいたミチルの目と目が合った。
深い──湖の底に沈んだ
そこに一瞬だけ野性的な赤い光が宿り、すぐに萎えて消えていく。
再び瞼が落ちた途端、これまでバックミュージックになっていた腹の虫が、一際高く鳴いた。そしてそれを合図に、男の体が急速に干からび始めた。
「!」
まるで映像を早回しするかの如く。
瞼が窪み、頬が痩け、肉が落ち、あっという間に骨と皮だけのミイラになった男の体を抱えて、ミチルはありったけの悲鳴を上げた。これに彼女の虚弱な体もまた悲鳴を上げたのは言うまでもない。
やがて、広大なる地下迷宮に、新たな昏倒の音が一つ、もの悲しく響いたのであった。
それから一分後。
帝国學園の事務局には、ヨナサン・キング・ワイズマン教授より救難信号が届いていた。
『現在、地下特別保管庫の第一
そこまで言って、教授はやや間を取ってからこう付け加えた。
『
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