第一幕 ⅲ


 第一幕アクトワン



     ⅲ


 魔族研究とは、簡単に言えば魔族の行動観察である。

 原則として、學園側からは一人の研究生につき一体の魔族が貸与たいよされ、研究生はその魔族と四六時中行動を共にしながら観察を行う。そのため、魔族研究生の授業は通常の教室棟ではなく、専用の特別教室棟にて開かれ、研究生は煉瓦塔の七階、八階フロアの個室で寝起きすることになる。

 一対一で付ききりの生活をする中で、ふとした拍子に見えた魔族の癖や好み、あるいは弱点を報告書にまとめ、各担当教授に提出することが研究生の主な作業である。この報告書は魔族報告書エビル・レポートと呼ばれ、教授たち──五賢者のもとで共有化、精査され、特異な例は世界の研究機関に発信されることになっていた。

「報告書は毎日書くのですか」

 翌日、さっそく寮を引き払って煉瓦塔に引っ越してきたミチルには、七階・東の一番奥の部屋があてがわれた。

「まあね。虚偽じゃなければ、内容はなんでもいいのよ。例えば、本日のコジローは牛蛙ウシガエルなま三十匹をきれいに完食しました、とだけ報告しても大丈夫」

 今日も青白い顔をして現れたミチルを、案じるというよりは呆れ、ひったくるようにその荷物を取り上げて部屋に運んだ式部は、そう言って肩を竦めた。彼女のオレンジ色の髪の上には相も変わらずコジローが載っており、先ほどから充血した目でこちらのほうを見ている。その目をじっと見返して、

「好き嫌いがないのは良いことだと思います」

 と生真面目に感心したミチルは、その日から見習いとして式部に付き、研究方法を学ぶことになった。大學二年生と高等部四年生とでは受ける授業が違うため、一緒にいられる時間は放課後に限られたが、それでも一週間も過ぎれば魔族研究のなんたるかぐらいは、自ずと知れてくるものである。



 それは愛である、とミチルは思った。

 最初からうすうす感じてはいたが、式部は自分の個体マウスを心の底から可愛がっていた。まさに目の中に入れても痛くないほどに。

 おやつのビーフジャーキーを口移しで与えるのは日常的で、なんでも食べるコジローが乞えばなんでも与え、自分の指が食われかけてもいとわない。あまり容赦という言葉を知らないコジローがじゃれるたび、腕やら肩やら首には大きなミミズ腫れができるのだが、本人それを苦に思っている節もない。むしろ、黒光りも甚だしいコジローの鋭いかぎ爪を愛おしそうに撫でさえする。連日そのような姿を間近で見るにつけ、ミチルの背筋には戦慄にも似た文化的衝撃カルチヤアシヨツクが走っていた。

 愛とはかくも大きく、恐ろしく深いものである、とミチルは思った。

 コジローと共に起床し、コジローと共に朝食をとり、コジローと共に授業をさぼり、コジローと共に昼食をとり、コジローと共にウェイト・トレーニングをし、コジローと共に風呂に入り、コジローと共に夕食をとり、コジローと共に就寝する。朝も昼も夜もコジローコジロー。いかに魔族研究が四六時中行動を共にしながら観察を行うとはいえ、式部の執心ぶりはいささか度を越していた。

 そして、ミチルの見習い期間が二週間目に突入したあたりから、その行動は目に見えて歪み始めていった。式部は次第に食事や風呂などの日常生活に関心を払わなくなり、日がな一日コジローを抱えてぼうっと過ごすようになったのである。ミチルが声を掛けても生返事ばかりで、自室にもる時間が増えていき、やがてついに部屋から出てこなくなってしまった。

 およそ式部らしからぬこの変貌ぶりに、ミチルは困惑してキング教授に助けを求めた。

 しかし、返ってきたのは『仕方ない』の一言だった。

『ある程度は予想ができていたことだ』

「どういう意味でしょうか」

『式部くんの個体は、もうすぐ年季明けなのだよ』

 それは俗に、研究生に魔族が貸与される期間終了を指す言葉だという。

『魔族の所有権はあくまでも學園側にある。研究の成果如何いかんに関係なく、借りているものはいずれ返却しなければならない。だが時に、その期日が近づいてくるとナーバスになる研究生がいるのだ。式部くんのように』

 己の個体に愛情を抱くあまり、自身の立場を忘れ、魔族を家族かそれ以上の存在にまで昇華させてしまう研究者は少なくない。過去には、別れの日が迫って精神的に追い詰められ、魔族と駆け落ちしようとした者もいたと、キングは語った。

「それは大変です」

 あの式部がコジローと手に手を取って逃げていく様を想像し、ミチルの顔から血の気が引いた。すぐに止めに行こうとして、案の定ぐらりと眩暈を起こしてしゃがみ込んだ彼女を『まあ待ちなさい』とキングがなだめる。

『式部くんとてそこまで弱くはあるまい。個体も飛竜ワイバンの子供だ。カテゴリードラコの魔族は特大級のドラゴンを除けばさほど毒性もないから、大丈夫だろう』

「毒があるのですか?」

 ますますミチルの顔色が悪くなった。這うようにして広間の椅子に辿り着くと、キングの声が隣の壁から流れてくる。

『飛竜の幼体の場合、肉体的な毒は大したことはない。牙と爪に少々の麻酔効果があるだけだ。長く噛まれ続ければ、それなりに快感を覚えることはあるかもしれないが、中毒には至らない』

 ミチルの脳裏に、コジローに親指を噛まれた瞬間の悩ましい式部の声が蘇る。なるほどそれなら、こしらえた傷を彼女が痛がらなかったのも頷ける。納得したミチルに、キングは『問題なのは、精神的な毒のほうだ』と続けた。

『詳しいメカニズムはまだ不明だが、すべての魔族は無意識に人間の精神を浸食するとされている』

「浸食?」

『影響する、と言うべきかな。浸食の結果は一定ではなくてね、人間と魔族の双方に多くの個体差があって、現在の資料ではこれといった答えが出せない。ただ、人間の持ついくつかの感情を増幅、あるいは萎縮させることは確かなようだ。そして、ほとんどの場合は中毒性がある』

 ミチルは目を瞬いた。

 眉間に皺を寄せ、懸命に説明を理解しようと努める傍らで、キングの低く抑えた笑い声が響いた。

『一口に言えば、魅力的だということだ』

「魔族が、ですか?」

『左様。人間は魔族と過ごすと、知らず知らずのうちに彼らに心を奪われていく。それは共にいる時間が長ければ長いほど強くなり、やがて執着となる。時にはその執着を愛情だと勘違いするほどに、その毒性は巧みだ。過去には、人型の魔族とその担当研究者とが疑似恋愛に陥ったとの報告もある』

 また、ミチルは目を瞬いた。

「では式部先輩もその毒に……」

『おそらくおかされているだろう。しかし、さっきも言ったようにカテゴリーDはその手の毒性が薄い上に、相手は子供だ。程度は軽い。それに、皆が皆、深く魔族の魅力に取り憑かれるわけではない。駆け落ち事件があったのはもう十八年も前のことであるし、その一件以来、學園をふくめた研究機関の魔族貸与期間は最長でも一年間と定めているから、近年では事故は起こるまいよ』

 キングはそう言ったものの、ミチルはまだ不安げな面持ちで尋ねた。

「コジローさんの年季明けはいつなのですか?」

 返ってきた答えは単純かつ明快で、残酷だった。

『本日の午後四時だ』



 果たして、その日の午後四時きっかりに、帝国學園の事務員だという五人の男が煉瓦塔に現れた。彼らは一様に長身で肩幅が広く、事務職に就いている者にしては異様に筋肉質な体を、窮屈そうに黒い化繊かせんの三つ揃いに収めていた。その段になっても自室から出て来なかった式部は、あらかじめ合い鍵を用意していた事務員たちによって廊下に引きずり出され、抱えていたコジローを取り上げられた。

「いやぁぁぁあああぁぁぁあああぁぁぁ────────」

 飛竜の体躯が指先を離れた途端、半狂乱になって暴れ出した式部を、事務員たちは慣れた様子で取り押さえ、再び自室に閉じこめた。

 次に、眼球をぐるぐる動かして興奮するコジローの尾に注射を打つと、これまたあらかじめ用意してきた鉄籠に入れて運び去る。事務員の到着から回収作業終了まで、実に三十分もかからない手際の良さであった。

 現場になった七階フロアの廊下は、式部の悲鳴が上がった時だけ数名の研究生が顔を出したものの、無事に事務員たちが昇降機で帰ると、安心したように各々の部屋に消えていった。その中に、あの中臣蒼也の姿があったような気がしたが、一部始終を見守っていたミチルの目はまるで兄のお株を奪ったように涙の堤防が決壊しており、それを確かめるどころではなかった。

「むごいです」

 誰も来ない五階フロアの広間でひとしきり泣いた後、彼女はぽつりとつぶやいた。

「あれでは式部先輩がおかわいそうです」

 しかしその哀れみは、降ってきた担当教授の声によって一刀両断にされた。

『いや。一ヶ月もすれば、憑きものが落ちたように笑顔が戻るだろう』

「そうでしょうか」

『紛い物の情は、相手の姿が見えなくなればすぐに冷める。であるからこそ毒だと言われるのだ。箱舟の異種らがと呼ばれ、その研究が危険だと敬遠される所以ゆえんでもある』

 この後コジローには、式部を始めとするカテゴリーDを担当した学生たちの魔族報告書をもとに、凶暴性をなくす矯正手術が脳に施されるという。そして、學園の魔族研究を支えるスポンサー企業の一つに買われ、飛竜の複製種を作る礎になるのだった。

『さて』

 時刻は午後五時。

 傾きだした日差しが西の空をほのかな橙色に染める頃である。しかしながら、窓のない煉瓦塔においてはその空を仰ぐことはできず、ぼんやり広間の椅子に腰掛けていたミチルは、『そろそろ落ち着いたかね』との声に反射的に頷いた。

 すると、キングに備品室から携帯端末を持ってくるように命じられる。

 三分後、指示に従った彼女の手のひらには、ちょうど親指の付け根から中指の先までと同じ長さの端末が載っていた。全体的に翼を広げたカモメの形にデザインされ、画面ディスプレイ以外はすべて銀色に塗られている。その不必要に可愛らしい造形に、ミチルの沈んだ気持ちも少し浮上した。

『脇にイヤホンがあるだろう? それを付けて、本体は電源を入れたら制服のポケットにしまいなさい』

 言われて見れば、確かにカモメの目玉に当たる部分が丸いイヤホンになっており、摘んで引っ張ると視神経のようにずるずるとコードが伸びる。何やら面白くなってきたミチルは、コードをすべて引っ張り出して、さっそくイヤホンを耳にはめてみた。ちなみにカモメの嘴は小型カメラ付きのマイクになっており、それも命じられてブラウスの襟に装着する。

『完了したかね』

 次に聞こえたキングの声は、今までのように壁ではなく、耳にはめたイヤホンを通して頭の中に響いた。

『では、地下に降りようか』

「地下?」

『そのままの格好で中央の昇降機に乗るように。端末を持っている限り、このフロアを離れてもわたしの声は届くから問題はない』

 教授の声にはいつになく有無を言わさぬ気配があった。そのため、ミチルは口を差し挟むことなくフロア中央部の円形ホールに向かい、昇降機の呼び出しボタンを押した。煉瓦塔を支える芯のようにすべての階層を繋ぐ四角い箱は、先ほどコジローを運んだ後まだ三階に止まっていたらしく、たちまち五階に昇ってくる。

 チンという音を確認してから、やたら装飾の多い蛇腹式の扉を手動で開いて乗る。

「塔に地下があるとは知りませんでした」

 再び手動で扉を閉めながら、ようやくそれだけミチルが言うと、

『ああ。通常は立ち入りが許されていない』

 とキングが応じた。

『學園の地下は特別保管庫になっていてね。學園所有の魔族が眠っている。──これからきみには、そこで自分の個体を決めてもらう』

 その言葉を裏付けるように、ミチルを飲み込んだ昇降機は、教授の遠隔操作を受けて自ら下降を開始した。

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