第一幕 ⅱ


 第一幕アクトワン



     ⅱ


 毎年、桜咲く四月の帝国學園は華やかさを極める。

 始業式を終えた生徒たちの闊歩かっぽする敷地内では、部員獲得に励むサークルが呼び込みの鬼と化し、あちこちの教室で開かれる部会や委員会では、役職の取り合い、あるいは押し付け合いで血煙が上がる。その中にあって、閑古鳥に愛された魔族研究室のオリエンテーションに参加した有栖川ミチルは、上機嫌でゴチック建築の空気が漂う大學研究棟の廊下を歩いていた。

 あれから、無駄に広かった三〇三号教室を後にした新人研究生たちは、それぞれ先輩方の案内で各研究室へと足を運ぶことになったのである。

「本当に休まなくて大丈夫なの?」

 何度めかの質問を口に乗せたのは、オリエンテーションの際にひとり気を吐いた女子研究生であった。彼女はミチルが所属することになったキング魔族研究室の先輩で、式部しきぶ李子りこといった。

「はい。大丈夫です」

 にっこり答えるミチルの顔色は、しかし相変わらず血の気がなかった。その、限りなく信憑性の薄い返答を聞くたびに、式部の目には呆れをふくんだ諦めがにじんでいたのだが、無論そんなものはミチルの視界には入らない。

 今、彼女が惚れ惚れと見つめているのは、一歩先を行く式部のたくましい足取りと、オレンジ色に染めたベリーショートの髪なのであった。

 なんという健康美だろう、と思う。

 女性であるにもかかわらず、まるで外の目を気にしないさばけた身のこなしに、衣服の上からでもさり気なくわかる適度な筋肉。均整の取れた体躯はまるで男性のように骨っぽく、とくに肩胛骨けんこうこつから上腕三頭筋あたりの張りが素晴らしかった。

「先輩あのう」

 太陽を溶かしたような髪に憧れの眼差しを当てて、ミチルは頬にかかった自分の髪をぎこちなく耳にかけた。春休みに一念発起してばっさり切ったはいいが、どうもまだ慣れない。気を抜くと、喋った拍子に内側に巻いた髪が口に触れたりして、つい食べてしまいそうになるのだ。

「キングというのは、私たちの担当教授のお名前ですか?」

 歩きながら、式部が斜めに振り返った。その角度も絶妙だとミチルは思った。

「ええ。フルネームは、ヨナサン・キング・ワイズマン教授」

「ワイズマン教授……どちらの国の方なのですか?」

「もともとの生みの親は英国人だって話だけど、それを引き取って、今のように大學の教授に仕立て上げたのは因幡博士だったはずよ」

 因幡博士というのは、サルベージされた箱舟の内部調査に立ち会った人間の一人だとされている。多くの発明や理論を残した有名な科学者で、確かに魔族研究の第一人者でもあるが、すでに鬼籍きせきに入って久しい。その養子だとしても相当な年配者のはずであった。

「お元気なのですね」

 微笑ましく言ったミチルに、式部は「そりゃあね」と肩をすくめた。

「資料は膨大だわ、経験値は高いわ、思考力は半端ないわで、うるさいったらありゃしないもの。老獪ろうかいってのは、ああいうのを言うんだと思うわ」

「喜ばしいことです」

 おそらくは百歳を越えているであろう教授のぶりを、ミチルは素直に賞賛した。しかし、式部は微妙な表情で苦笑する。

「どうかな。それと、魔族研究室の教授は五人ともみんなワイズマン姓だから、呼ぶ時はファーストかミドルネームでね。でないと混乱するよ」

「まあ。ご親戚同士なのですか?」

「親戚……って言うよりは兄弟じゃないかしら。ひと昔前はキング、クイン、ナイトの三賢者スリー・ワイズマンだったそうだけど、今はビショップとルークが追加されて五賢者ファイブ・ワイズマンになってるの。五人とも同じ腹よ」

「それは、すごいです」

 ミチルは五つそろった老人の顔を思い浮かべて、弾んだ声を出した。同じ學園内でも、高等部と大學とではずいぶん様相が違うものである。少なくとも、高等部以下の教師に百歳を越える五人兄弟はいなかった。

 しみじみ感服するミチルを、式部が訝しげに見やった。ややあって「ああ」と、短く立った髪に右手を差し入れる。大理石の床に響いていたヒールの音がやんだ。

「あなたは高等部からの特待生だったね。知らないのも当然か」

 続いて立ち止まったミチルに何事か告げようとした式部は、しかしふとその後方に目を向けて口を閉ざした。

 ほぼ同時に、鉄製の車輪が回転する甲高い音が聞こえ、ミチルも式部の視線を追って振り返る。二人が歩いていたのは、研究棟三階の中央を貫く長い廊下である。すでに他の研究室の生徒たちとは別行動になって久しく、まだ授業の行われていない大學内は人気ひとけがない。その閑散とした廊下の向こうから、手押しの台車と共に一人の男子学生がやってきていた。

 廊下の幅すれすれに移動する異様に大きい台車には、これまた異様に大きい鳥籠が載っており、中に一羽の鳥の姿がある。遠目でも青い頚部けいぶの鮮やかさがよくわかる、雄の印度孔雀インドクジヤクであった。その、近付くごとに光沢の増す羽の見事さに、ミチルは思わず溜め息をついた。

 ほどなくして目の前に迫った台車が、

「こんにちは先輩」

 と動きを止めた。

 通過させるつもりで廊下の隅に身を寄せていた式部が、意外そうな顔をする。声を掛けてきた台車の学生は、一度ミチルを視界の中心に入れてから式部のほうに目を戻した。

「オリエンテーションはどうでしたか?」

 穏やかに笑む細い目が印象的な男子生徒である。「どうもこうも中臣なかとみくん」と、式部が髪に入れた手をわしわし動かしながら応じた。

「鶴丸のアホンダラが、階段教室なんか希望したおかげで恥かいたわよ。そんなに来るわけないって言ったのに」

「教務課に問い合わせなかったんですか?」

「やったわ。でも答えが来たのは今日。しかもオリエンテーションが始まる十分前ってあり得る? それじゃあ変更できるわけないじゃない」

魔族研究室うちは嫌われてますからね」

「そう──なのですか?」

 驚いて二人の会話に割って入ったミチルを、台車の男子学生が見た。その視線に某かの思いを感じ、ミチルが自己紹介をして挨拶をすると、彼も「ナイト魔族研究室の中臣蒼也そうやです」と軽く会釈を返した。

「有栖川さんって、あの有栖川さんだよね」

「?」

 はて、どの有栖川だろうか。

 疑問符を飛ばすミチルに、中臣は小さく笑った。

「噂は聞いてるよ? 潜在学力検査で好成績を出した才媛とか、他にもいろいろ」

「それは」

 思いがけない話を持ち出され、ミチルは恐縮して頭を振った。

「私ではなくて、父や母から受け継いだ血の成績なのです」

 潜在学力検査とは、筆記で行われる通常の学力検査とは異なり、対象者から採取した血液をもとに、遺伝的に継承される学力と将来的に飛躍が期待される学力を測定する検査のことである。出生児に行われる第一次検査から始まり、これまで常に普通以上の数値を残していたミチルではあるが、実はそれを褒められるのがあまり得意ではなかった。

 せっかくご先祖様が良い成績を出しておられるのに、自分はのべつまくなく倒れることしか能がないので、返って申し訳ない気持ちになってしまうのである。せめて、倒れる時ぐらい潔くいこうと心密かに誓いつつ、彼女は話題を戻すことにした。

「それで、どうして魔族研究室は嫌われているのですか?」

「まあ簡単に言えば、危険だからってことかしらね」

 ミチルの質問に口を開いたのは、式部のほうだった。

「観察中の魔族はみんな原種で、矯正された複製種とは違うの。新規の研究生を入れるのに、通常の研究室とは違って募集という形を取るのも、完全なる有志で集まる人材じゃなければこの研究が務まらないからよ」

「きけん」

 ぽつりとミチルがつぶやくと、式部は慌ててフォローするように中臣の台車に視線を送った。そこには相変わらず、鳥籠の中で微動だにしない鮮やかな印度孔雀がいる。

「でも必要以上に怖がることはないけどね。魔族って言ったって、大學の研究室で扱うやつはこの中臣くんの個体マウスみたいに大人しい子がほとんどだし。それに、職員には嫌われてるけど、學園自体には大事にされてるのよ? 魔族研究生には、毎月少しずつ學園から研究援助金が出されるの。知ってる?」

「それは知っています」

 自信満々に即答して、ミチルは鳥籠の中を覗き込んだ。孔雀が一つ瞬いて、黒い瞳でこちらを見た。ような気がした。

「この孔雀が魔族……ですか?」

「そうよ」

魔族番号エビル・ナンバーエスの一〇〇〇六五番──ビビアンです」

 式部の返事を引き継いで、中臣が言った。しかし、感心したミチルが鳥籠に手を伸ばした途端、それを避けるように台車を動かしてしまう。

「これから身体計測なんです。年季明けに引き取ってもらう予定の企業が、定期的に報告しろってうるさいもので」

 中臣の台詞は、ミチルの頭を飛び越して式部に向けられていた。

「そういえば、先輩の個体も近いうち年季明けでしたよね?」

「まあ、ね」

 曖昧に頷いて、式部が台車から視線を外した。まだその場にしゃがみ込んでビビアンを眺めていたミチルの腕を取り、共に廊下の端へ身を引く。それが「行け」という暗黙の合図だと察して、中臣が軽く首を竦めた。

「じゃ失礼します」

「ナイト教授によろしく」

 短いやりとりの後、再び動き出した巨大な台車は、やがて廊下の一角を左に曲がって消えた。その車輪の音が完全に聞こえなくなるのを待って、

「珍しいこともあるもんね」

 と式部が漏らす。彼女の声に何か苦いものが混じっているのを感じながら、ミチルは依然として掴まれたままの腕を振りほどくべきか否か思案した。

「普段は挨拶もしないくせに」

「オリエンテーションの様子が気になったのではないですか?」

「そんなの口実に決まってるでしょ。人が憂鬱に思ってることを、よくもまあ平然と指摘してくれるわ!」

 憤懣ふんまんやるかたないといった体で、式部は勢いよく振り向いた。驚いて口を丸く開いたミチルを前に、切れ長の目がすがめられる。

「注意してね。地味な顔して、あいつは手練れよ。付き合った子はみんな泣かされてるって噂だから」

「泣かされてる?」

「妙にモテるのよ。中には捨てられて、休学するほど傷ついた子もいるらしいし。あとは別れたショックで腑抜けになって病院に入ったとか、退寮したとか、失踪したとか……とにかく良い話を聞かないわね。にもかかわらず、本人は反省の気配なし。さっきのもおおかた、新人研究生あなたに興味を持って声を掛けてきたクチだと思うわ」

 式部が白衣の内ポケットから、なぜか一本のビーフジャーキーを取り出した。どうやら手作りらしいビックサイズのそれを、煙草のように口にくわえて「ちなみに」と言う。

「私はあちらさんに嫌われてるみたいだけどね。前に一回ちょっかい出してきた時、殴り倒しちゃったからさ」

 そこで、ようやくミチルの腕を拘束していることに気づき、苦笑いで解放してから歩き出した。



 ほどなくして、ビーフジャーキーの謎は解けた。

 魔族研究室は、その特殊性ゆえに、研究棟の東側に独立して建つ窓のない煉瓦塔を拠点にしている。研究棟三階の渡り廊下からしか入れないその塔は、八つの階層で構成されており、キング教授の研究室は五階のフロアにあった。

 塔の各層を繋ぐ昇降機は使用中だったため、やはりゴチック建築の空気が拭えない石造りの階段で五階まで上ったミチルたちは、フロアに到着した直後、どこからともなく飛来した黒い影に襲われた。

 その未確認飛行物体は、二度ばかり空中で旋回した後、咄嗟にファイティングポーズをとったミチルは無視して、影に気づいた式部が伸ばした腕へとまっすぐに下りた。そうして、彼女の口元で揺れるビーフジャーキーに食いついたのである。

 体長約一メートル。灰がかった緑色のそれは、晴れた日に中庭の花壇から花壇を渡り歩くトカゲに著しく形が似ていた。ただし、トカゲは足が四本あるのに対し、それは後ろ足に当たる二本しかなく、代わりに背中に一対の翼が生えていた。その翼でバランスを取りながら、ほぼ口移しに近い格好でジャーキーをついばむトカゲもどきを、式部はうっとりと見つめている。右腕にはトカゲもどきの三本爪が食い込み、上着の袖には明らかに穴が空いていたのだが、それを気にする様子はまったくなかった。

 間もなく、大きめのビーフジャーキーすべてが食い尽くされると、

「この子、コジローって言うの」

 と、彼女はミチルを振り向いた。

「私の個体マウスよ」

 かわいいでしょう?

 言葉にこそしなかったものの、全身から立ち上る雄弁なオーラを読みとり、ミチルはさり気なくファイティングポーズをやめた。

 聞けば、このトカゲもどきは飛竜ワイバンの子供だという。すでに生後一年は経過しているが、研究のために薬品で敢えて幼体を維持させており、現在はキング魔族研究室が預かって飼育しているのだそうである。

「そのコジロー……さんも、魔族なのですか?」

 初対面で呼び捨てにするのもどうかと思い、慎重に尋ねたミチルに、式部が嬉しげに頷いた。

「カテゴリードラコの一〇二九一四番。名付け親は私」

 先ほどまで中臣に腹を立てていた表情はどこへやら、頬が緩みっぱなしの式部の目は、一心にコジローへと注がれている。そのコジローが動くたび、彼女の袖口に徐々に血がにじんでいくのを観察しつつ、ミチルは「カテゴリードラコ?」と聞き返した。

 式部の目が、一瞬だけ飛竜から外れてこちらを向いた。

「ええ。魔族はね、一部の例外を除いてほとんどが類別されてるの。この子みたいに翼のある有鱗類ゆうりんるいタイプはディー──要するにドラゴンの枠ね。他にもB・C・G・S・Xといろいろあるわ」

「体の特徴で分けているのでしょうか?」

「Dの場合はね。でも、すべてがそうじゃない。他にも、性質だったり、魔族が登場する神話の名称だったりで区切られていることもあるわ。まだ研究が追いつかなくて、曖昧に類別されただけのものもある。ほら、さっき中臣くんが連れてた個体があるでしょ」

「ビビアンさんですね」

「そうそう。あの子、見た目はまるきり印度孔雀だけどカテゴリーはソロモンになるのよ。どうしてかと言うとね──あらぁん」

 唐突に、語尾にハートマークの付いた声を発し、式部は説明を中断した。見ると、式部の腕を血まみれにしている飛竜のコジローが、あんぐりと彼女の親指に噛みついたところであった。

「どうしたのコジロー? まだお腹が空いてるの? もうジャーキーはないわよ? でも食べたい? 食べたいのね? うんもう、しょうがない子ねぇ」

 自分の親指の状態には怖ろしいほどに頓着せず、陶然と飛竜を見つめて式部は頬を紅潮させた。次いで、愛しいコジローのリクエストに応えるべく、食糧食糧と口ずさみながら走り出して行ってしまう。すでに会話が途中だったことは遠い記憶の彼方に飛んでしまったようである。

 そんな愛玩精神の塊と化した式部を目の当たりにし、ミチルは不思議な気分になった。なぜか、兄のことを思い出す。今の式部の姿は、ミチルが倒れた時のヒロムとよく似ていた。どうやらあの暑苦しい過保護ぶりは、兄だけの特殊技能ではなかったらしい。そのことに、彼女が言いしれぬ安堵感を覚えていると、

『ナイトさんちのビビアンくんは変態なのだよ』

 そう後ろから話しかけられた。

 聞き心地の良い、壮年男性の低い声であった。

「へんたい」

 誘われるように振り返って、だがミチルはすぐに瞬いて首を横に倒した。周囲に声の主と思われる人物が見当たらなかったのだ。ミチルが佇む五階フロアの入口は扇形の広間ロビーになっており、そこから三方に向けて通路が走っている。現在、右手の通路をツーステップめいた怪しい動きで式部が遠ざかっていく以外、人影らしい人影は皆無であった。

 なのに、声は聞こえた。

『変形能力がある、と言ったほうが正しいかな。あれは容姿が一定していない魔族でね、よく人を惑わす』

 声はすれども姿は見えず。

 なぜか音が四方八方に残響して、位置が特定できないその人を、ミチルはうろうろと探した。終いには広間の椅子を持ち上げて裏を覗き込んだところで、

『もしかして、わたしを探しているのかね?』

 笑み含んだ声にまた話しかけられる。

「どこに隠れていらっしゃるのですか?」

『どこにも』

 即答されて、ミチルはさらに首を深く倒した。しばらく思案したものの、わからないので諦めて「それで、カテゴリーSというのは……?」と先を促すと、ますます笑み含んだ声が返ってきた。

『Sは、グリゴリカインと並んで研究が遅れているカテゴリーの一つだ。覚醒している魔族そのものが少なく、類別も確定的なものではない。名称は、七十二の悪魔を使役したというソロモン王の伝説から付けられている。つまり、Sに類別された魔族を一口に言うと悪魔ということになるね』

「魔族と悪魔は同じではないのですか?」

『我々が普段から使っている〝魔族〟という言葉は、箱舟より発見された異形の種族に対する総称だよ。対して、その中で類別された〝悪魔〟とは主に性質の部分を指している。姿形や能力はそれぞれ違うが、一様に使い魔のさがを持つものがカテゴリーSに分けられているということだ。わかるかな?』

「あんまり」

 あっさり首を振ったミチルに、声は『ほお』と興味深げな色をにじませた。

『正直だな。まあ、わからないことを、わからないと認めることは大事だ。──カテゴリーSの魔族は、変幻自在にしてよく人を惑わし、主よりも従を好む。己がこれと定めた主人を持った時にもっとも力を発揮する、と言われている。この場でわたしが簡単に説明できることはそれぐらいだろう。一つ訊いてもいいかね?』

 ミチルは相変わらずあたりに視線を彷徨さまよわせながら、軽く頷いた。

『きみのような子が、どうして魔族研究室になぞ入ろうと思ったのだね?』

「はい。お金をいただくためです」

 なんのてらいもなく、ミチルは答えた。相手がまた『ほおお』と返す。

『それは研究援助金のことかな?』

「毎月いただけると聞きました」

『確かにその通りだ。で、他に理由は?』

「ありません」

 一瞬、声が途絶えた。だがすぐに、いっそう楽しげな調子で『立ち入ったことを聞くようだが』と続ける。

『なぜ金が欲しい?』

「プレゼントを買いたいのです」

『ふむ。予想外の答えだな。高価な物なのかね?』

「はい。そのために六萬円ほど貯めなければなりません」

 実を言うとその六萬円は、本来、高等部三年から解禁となるアルバイトで調達するはずであった。しかし、春休みにミチルが一大決心をして臨んだ試みは、自らの失神症と心配性の兄による妨害工作でことごとく失敗に終わった。そこで思い出したのが、先月医務室で目にした魔族研究生募集の張り紙だったというわけである。募集は基本的に大学生向けであったが、高等部の生徒でも成績次第では受け入れると聞き、ミチルは初めて普段は気が引けている潜在学力検査の成績に頼ったのだった。

 そうこうするうちに、右の通路から式部が帰ってきた。

 腕には相変わらずコジローが止まっており、空いたほうの手には数本の魚肉ソーセージを持っている。

「教授、全室共通の音声で個人的な会話をするのはやめてくださいって、前にも言いましたよね? さっきから、備品室まで筒抜けですよ」

 やや呆れた風に言いながら、彼女は右腕から椅子に移動させたコジローに餌付けを始めた。魚肉ソーセージの皮はもちろん、手ずからていねいに剥いている。

「教授? この透明の方が?」

 この、と何もない空間を指さして驚くミチルに、

『左様』

 と例の声が答えた。

「ヨナサン・キング・ワイズマン教授は人じゃないの。人工知能AIよ」

 剥いた皮をゴミ箱に捨てながら式部が後を引き取り、ワイズマン姓を持つ魔族研究室の五人の教授たちはすべて同じ母体スーパーコンピューターから生み出された人工知能なのだと告げた。彼らはいわゆる電子回路の上に存在する人格で、それぞれがこの煉瓦塔にてワンフロアずつ拠点ベースを構え、學園内であればすべての端末から面会アクセスすることができるという。ちなみに、この五階フロアはキング教授の完全なる管理下にあり、壁に埋め込まれたスピーカーを通して、どの位置にいても会話が成立する仕組みになっている。

『つまり、きみたちは今、わたしの腹の中にいるというわけだ』

 いやに嬉しそうに、キングが付け加えた。

『どこで何をしていても、わたしには手に取るようにわかる。例えば、さっき備品室に向かった式部くんが、廊下の角を曲がるしなに下着ブラの肩紐を直したことも承知している』

「教授!」

 弾けるような怒鳴り声と共に、広間の椅子が蹴り上げられた。驚いて逃亡しかけたコジローが、問答無用で式部に捕まってギョエと鳴く。

「セクハラですよっ?!」

『単なる例え話だよ。新人に説明するための』

「そんな説明はいりません」

『いるだろう? 知らないでいて、彼女がこのフロアで着替えをしたらどうするのかね。後ですべて監視されていたことを知ったら傷つくではないか。余計な不安要素を排除するためにも、知らせておくべきだ。そして、説明には例え話がいるのだ』

 式部が舌打ちでもしそうな形相で、天井を睨み上げた。「もっともらしいことを、べらべらと」と口の中でつぶやいて、ますます目尻をつり上げる。

「なら、ご自分の研究室に所属する学生に恥をかかせない例え話を捻出してください。お言葉ですが、おそらく取り越し苦労です。有栖川さんはこんなところで不用意に着替えたりしません。ねえっ?」

 式部に熱く同意を求められ、ミチルはやや遅れを取りながらも頷いた。

「はい。素面しらふで脱ぐ趣味はありません」

 ほらみろ、と胸を反らす式部とミチルの周囲に、キングの笑い声が降り注ぐ。

『それなら結構。良い研究生が入ってくれたものだ。実は、キング魔族研究室うちは先月でほとんどの研究生が卒業してしまってね。今は式部くんとあと一人、不登校の生徒しかいないのだよ──有栖川ミチルくん、我が研究室はきみを歓迎する』

「恐れ入ります」

 教授の実体がないので、とりあえず広間の中心部に向けてミチルは頭を下げた。それから一拍ほど置いて、『ついては式部くん』とキングの声が改まる。

『きみの個体の年季明けまで、彼女にいろいろ教えてやってくれたまえ』

 式部が、かすかに眉間を開いた。血まみれの腕の中では、コジローが大人しく翼を畳んで大きな眼球を左右に動かしている。ややあって、

「わかりました」

 と響いた答えは、先ほどまでの勢いから一転して、ひどく硬かったようにミチルには聞こえた。

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