第一幕 ⅰ


 第一幕アクトワン



     ⅰ


 時を遡ること一七五六年六月十六日。

 太平洋のマリヤナ海溝を調査中だった日独合同の観測船「デウカリオンごう」は、一万二〇〇〇メートルを越える世界最深部の発見に伴い、その海淵に横たわる正体不明の沈没船団を発見した。

 後に箱舟はこぶねと名づけられるそれらは全部で五そうあり、大きいものは約四万総トンにも達していたという。当初は独逸ドイツ主導による限られた数の調査団のみがこれに関わっていたが、一人の学者の呼びかけをきっかけに協力を申し出る国が続出し、一年後に国際調査団が組織された。

 船体は地上にない黒い石で造られ、巨大な重力場を形成していた。また、強い電磁波を放っていたため調査は難航し、五艘すべてをサルベージし終えたのは、発見から実に一世紀半が経過した一八九〇年代であった。

 サルベージの翌年から開始された箱舟内部の調査がいかなるものであったのか、その詳細はいまだ一般には開示されていない。

 ただ、内部は尋常ならざる低温状態にあり、そこには異形の生物たちが氷漬けで眠っていたとされている。多くは仮死状態あるいは死亡状態で発見され、その形態は翼や角を付けた蛇──いわゆるドラゴンとしか呼べない幻獣から、半人半獣ケンタウルスなどの亜人や怪物まで、およそ神話や伝説の中にしか登場しない生物たちに酷似していた。

 世界中を驚かせたこれらの生物は、やがて箱舟の異種──魔族エビル・カインドと呼ばれ、多くの学者や研究者の手で生態の解明が行われるようになる。これにより、天馬ペガススの人工繁殖など数種類の魔族に対しては一定の成果が上げられた。しかし、研究は百年以上経った今も途上にあり、依然として謎に包まれている魔族も少なくないのが実情である。また、魔族らの他に有史以前の遺物が眠っていたとされる箱舟本体についても、その正体は明らかになっていない。

 現在この五艘の箱舟は、欧羅巴ヨーロッパ亜細亜アジア阿弗利加アフリカ大洋州オセアニア亜米利加アメリカの五大陸にそれぞれ一艘ずつ保管されている。保管国は安全のため輪番制りんばんせいとなっており、箱舟は四年間ごとに国境を越えて所在地を変える。

 この四年間を、俗に「審判年間しんぱんねんかん」ともいう。

 それは、箱舟の保管を任された国が往々にして、その四年の間に特筆すべき事態に見舞われることによる。その内容は国によって様々で、ある国では六十六日間も豪雨が降り続いて街が水没し、ある国では大干魃だいかんばつで砂漠となった湖底から古代遺跡が現れ、ある国では二人に一人の割合で双子が生まれ、ある国ではスズメとヒバリとハトとカラスとコマドリが死に絶え、ある国では国中の猫が道路みちのいたるところで発情して交通を麻痺させ、ある国では大量の山百合が一斉に開花して国民は鼻血が止まらず、ある国では生まれたての赤ん坊が突然『千夜一夜物語アラビアン・ナイト』を語り出したと──記録されている。

 そして、昨年二〇二三年四月一日をもって、亜細亜の箱舟は日本国に移動した。

 本日は、審判年間ちょうど二年目突入の佳日かじつである。



「はーい、以上でスライドの上映を終わりまーす」

 帝国學園の記章が流れると共にナレーションが終わったところで、教務課の男性職員が声を上げた。それを合図に映写機のスイッチが切られ、窓辺にいたスタッフが暗幕を次々と開けていく。午後の日差しが入り、今まで闇色だった三〇三号教室は一転して明るい白に彩られた。

「この後は各研究室の方にお任せしますので、皆さんはそちらの指示に従ってください。では、お願いします」

 先ほどの職員がそう言って、教室の右端に並んでいた五名の研究生のほうを見た。促された研究生たちが教卓の前に移動を始め、職員はこれで自分の役目は終わったとばかりに映写機の片付けに入る。控えていたスタッフもふくめ、手際よく教室をオリエンテーション前の状態に戻した彼らは、研究生たちがマイクの設定に戸惑っている間に、迅速に退出していった。

「あー、えー」

 教卓の前に立った五人のうち、一人の男子研究生が、手にしたマイクに激しく衣擦れの音を混入させながら進み出た。顔が海亀に似ている。

「皆さん、魔族研究室に応募いただきまして、どうもありがとうございます。僕はビショップ研究室所属の鶴丸つるまるといいます。えー、あんまりニュースに出ないので初耳だったかもしれませんが、スライドにあった通り、現在わが国にはあの箱舟が来ています。『審判年間』という説明がありましたけども、我々みたいに魔族研究を志す者にとっては『勝負年間』とも言いまして、この四年、もうあと三年ですな、この間になにがしかの新発見をすることが命題になっております。はい。というのも、研究の成果によっては国内にある箱舟を直接この目で見られる恩恵に預かれるかもしれないわけで。あー、皆さんもよくご存じのポテンシャル・アビリティ・テスト──潜在学力検査を提唱された、かの有名な因幡いなば博士も────」

 そこで、もともと調子の怪しかったマイクがハウリング現象を起こし、長期化の気配を見せていた鶴丸の話は途絶えた。持ち手や角度を変えてもハウリングは直らず、もたもたしている彼にしびれを切らした別の女子研究生が前に立った。

「まあ、細かい話は改めて各々の教授ボスにでも聞いてください。では、今から皆さんの所属研究室を発表します」

 マイクを使わなくとも十分によく通る、凄味のある低い声である。

「教室は全部で五つあります。それぞれ、私たち五人が担当教授の部屋まで案内しますので、名前を呼ばれたら前に出てきてください」

 と言って、彼女は教卓の上から紙片を取った。

 名前が読み上げられるのに合わせて、広い階段教室の中で椅子を引く音がいくつか響いては、すぐに消える。研究生が五人なら、読まれた名前も五人分──本日「新人研究生のためのオリエンテーション(魔族研究室)」の会場として指定された収容人数約二百名の三○三号教室は、ある意味、春の日だまりのような静けさに満ちていた。

 大いなる空席を横目に集合した大学生たちの照合を終え、ハスキーヴォイスの女子研究生が凛々しい眉を曇らせた。

 一人足りなかったのだ。

 しかし、参加人数に見合わない巨大な教室は、一目で他に該当する学生のいないことを教えてくれている。念のため、彼女はもう一度リストの名前を読み上げた。

 すると、二秒ほど遅れて「は、はぁぁぁい」と返答があった。

 居並ぶ一同がぎょっと顔を見合わせたのも無理はない。返事と共に彼らの視界に入ったのは、教室の左端の机に現れた生白い手だったからである。一同を代表して件の女子研究生が駆けつけたところ、手の主は机の後ろに死にそうな顔色で座り込んでいた。制服からして高等部の学生らしい。

「あなた……大丈夫?」

「はい」

 とても大丈夫とは思えない、紙のような笑顔を浮かべて、その阿蘭陀風ダッチカットの学生は口を開いた。なんでも、スライド中にあったスズメとヒバリとハトとカラスとコマドリの死亡映像で気が遠くなり、そのまま椅子から滑り落ちてしまったのだという。「はあ」と応じて、女子研究生は持っていた紙片に目を落とした。

「あなたは確か、高等部からの特別研究生ですね? ええと、四年十六組の……」

有栖川ありすがわです」


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