序幕 β


   序幕プロロオグ



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「ミチルぅぅぅぅう、死ぬなぁぁぁぁあ!」

 今日も今日とて耳を打つ泣き声に、有栖川ミチルは目を覚ました。

 重い瞼をどうにか持ち上げて、お馴染みになった医務室の天井を見る。飴色あめいろに塗られたコンクリート壁を伝って視線を斜めに下ろしていくと、ほどなく涙と鼻水の堤防が決壊した兄の顔に行き当たった。

「おはようございます。兄さん」

 にっこり笑ったミチルを目に、今度は百八十度方向を転換した涙が兄の顔を濡らしたのは言うまでもない。

「よ、よ、よよよよ良かった、ミチルが生き返った……っ」

 両手で妹の右手を握ったまま、彼──宇都宮うつのみやヒロムは盛大に鼻をすすった。

「さっきから生きています」

 握られた手を笑顔で振りほどきながら、ミチルは見るに耐えない惨状を呈している兄の顔に心を痛めた。もとは悪くない造作なのに、どうしてご自分でここまで崩してしまえるのかしらん、と小首を傾げた胸のうちで思う。

「だ、だってだな。今度こそ目覚めないかと思ったんだぞ、兄ちゃんは」

 どうやら本気で言っているらしいヒロムの背後には、二つの人影があった。

 ミチルが五番街の喫茶店から運び込まれた時この医務室に詰めていた当直医と、宇都宮の家からヒロムにあてがわれている秘書である。二人とも、ヒロムが駆けつけてきた当初より室内に同席しており、時間が進むにつれて壊れゆく兄から徐々に距離をとった結果、今や狭い医務室の入口に不自然に並んで立つはめになっていたのだが、無論そんなことはミチルが知る由もない。

「気持ち悪くないか? 目眩めまいはしないか? どこも痛くないか? 喉は渇いてないか? 腹は減ってないか? まだ寝ていたほうがいいんじゃないのか?」

 ほどかれた手をまた握り直し、怒濤どとうの勢いで質問攻めをしかける兄を、賢明な妹は、逐一「大丈夫です」といなしつつ、起き上がった。

 幼少のみぎりから、息切れや立ちくらみの症状が日常的に起こるミチルにとって、この程度の失神はすでに慣れっこになっている。一昨日、教室移動の際に視界が真っ暗になって階段を踏み外した時も、その前の週に朝ふらりとして寮のベッドから転げ落ちた時も、二時間ほど眠れば目が覚めた。なのに、何事も大げさな兄だけはいつまでも慣れず、毎度この世の終わりのような顔をして、枕元で待ち構えているのだ。

「ミチル。もしお前が死んだら、きっと兄ちゃんも後を追うからな。お前のためなら地獄インヘルノの鬼だって怖くないぞ。血の池だって飲み干してやる」

 どこか的を外した決意を聞きながら、ミチルは不意に、ある残念な事実に気づいて顔色を悪くした。

 倒れる直前、自分が美しい苺のシャルロットを前に幸せな気分に浸り、今まさにフォークを突き立てようとしていたことを思い出したのである。

「ああ……」

 と無念の息を漏らす妹を心配したヒロムが騒ぎ、部屋の入口で秘書と身を寄せ合っていた医師が慌ててやってくる。診察の結果は異常なし。だがミチルの顔色はすぐれなかった。

 医師の話によれば、五番街の喫茶店で倒れたミチルは、心優しき店主の厚意で學園の医務室まで丁重に送り届けられたという。つまり、時間の経過から考えて、あのシャルロットが店に残されている可能性は限りなくゼロに近いということになる。

 かわいそうなシャルロット。

 そう思うとミチルはますます悲しくなって、つい、薬だの水だのと甲斐甲斐しく世話を焼く兄の手を取り、自らの膝上へと引き倒し、その髪をぐしゃぐしゃとかき回してしまうのであった。これは、何か悲しいことがあると出てしまう、ミチルの悪い癖なのであった。

 布団に顔面を埋もれさせて、ヒロムがと苦しげにもがいた。

 それには構わずに髪をかき回していたミチルの手が、しかしふと止まる。

 指先に違和感があったのだ。

 いつもなら絹のようにやわらかい兄の髪が、なぜかある一箇所においてのみ途絶え、じかに指が頭皮に触れてしまっている。不思議に思って視線を落とすと、後頭部の隅に何やら怪しい円ができていた。髪の生えていないそこを、ミチルはしげしげと見つめた。

「兄さん」

 ぐむ? と布団に潰されたヒロムの声が返る。

「とても申し上げにくいのですけれど、ここに──硬貨大こうかだい禿はげが」

 言って、怪しい円をミチルがつつくと、それまでもがいていたヒロムの動きが不自然に停止した。ややあって右手がそろそろと上がり、自身の後頭部を確かめる。指が地肌に触れた瞬間、またしても硬直した彼の体は、すぐに大変な勢いで跳ね上がって医務室の洗面台に突進した。正確には洗面台の前に掲げられた鏡に用があったわけだが、それはもう、ミチルも医師もそして遠くに控えたままの秘書も暗黙のうちに了解していた。

 なんとはなしに、一同が洗面台から目を逸らしがちになる中、しばらくしてヒロムの声にならない悲鳴が上がった。



 ──思えば、死んだ父も若禿わかはげだった。

 洗面台の悲劇から十分後、ベッドの端に腰掛けてがっくりと項垂れた兄の言葉に、ミチルは胸の奥で空っ風が吹くのを覚えた。

「ご自分では隠されていたが、僕は知っている。昔の写真を見ても、父さんのおでこは普通より広かった」

 誰に言うともなく、ヒロムは一人で語っている。

「毎朝毎晩、洗面室から漂ってきた茉莉花ジヤスミンと牛皮が混ざったようなあの匂い……あれはハイドゥ社製の高級ヘアトニックだったに違いない!」

「お高いのですか?」

「一本六萬円ろくまんえんもするのだ! それを生前あの方は湯水のように使い潰しておきながら、透けていく頭頂部を食い止められなかったのだ! そして僕のこの体には、同じ血が流れているのだよミチル!」

「ご安心ください兄さん。私にも流れています」

 自分の言葉で勝手に興奮する兄を落ち着かせようと、ミチルはなるたけ平和的な声音で言って、己の肩にかかった長い髪をつまんだ。

「でもほら、無事です」

 妹の黒々とした髪と白い相貌を、ヒロムが無言で見つめた。その切なげな視線に気づくことなく、ミチルは続ける。

「それに、兄さんのは若禿ではないと思います。本で読みましたけれど、確か円形脱毛症えんけいだつもうしょうと言って、ストレスなどが原因で起こる病気の一種なのです」

 病気と聞いて、さらにヒロムの肩が落ちた。慌ててミチルはよりいっそう平和的な声音で付け加えた。

「しかるべきお医者様に相談すれば、すぐに治ります」

「すぐに?」

「ええ。おそらく」

 これまでの記憶を鑑みるに、兄が脱毛症になったのは自分のせいかもしれないと思ったからである。頻繁に倒れる妹を持つことが、心理的に負担となるのは想像に難くない。ましてや母が入院し、父が他界し、己は養父のもとで仕事の成果を出さなければならないとあっては、それは禿ぐらいこしらえるであろう。

 加えて、この半年は父が亡くなった悲しみを紛らわすために、ミチルは幾度となく兄の頭をかき回す例の悪い癖を出してしまっていた。それが毛根の発育によろしいとは思えない。

「ごめんなさい、兄さん」

 一人、結論を出して謝罪した妹を、ヒロムが不思議そうに見返した。

「なぜ、お前が謝るんだい?」

「だって」

 先ほどの自分の所行で、四方八方に髪が立ちまくっている兄を前に、ミチルは思わず言葉を詰まらせた。それをどう解釈したのか、髪の状態にそぐわない真摯しんしな表情になったヒロムの目が、おもむろに室内へと向けられる。

 薬棚の前に佇む医師と、入口付近に待機していた秘書が、視線を感じて顔を上げた。次いで、それがヒロムによる人払いの目配せであることを悟り、静かに医務室を退出していく。ややあって、妹と二人きりになった室内で、ヒロムが「ミチル」と改まった声を出した。

「そろそろ、寮を出て宇都宮邸うちに来ないか? お前さえ良ければ、局長も喜んで歓迎すると言ってくれてる。また一緒に兄ちゃんと暮らそう」

 局長とは、箱舟管理局はこぶねかんりきょくを統べる宇都宮公義氏のことである。父の死後、自分たちの後ろ盾になってくれた人物を、兄はよく、義父ちちではなく職場の上司としての肩書きでそう呼んだ。現在、彼らは共に宇都宮邸で暮らしている。

「私さえ良ければ……?」

 耳に残った文句をミチルが聞き返すと、ヒロムがさもうれしそうに笑った。

「そうだよ。ゆくゆくはミチルも養子にと、考えておられる。もちろん、お前の意志は尊重するが、悪い話じゃないだろう?」

 ミチルは反射的に眉をひそめた。

 そうしてしまってから、やや慌てた風に「でも」と顔を俯ける。

「在学生は、寮に入るのが規則ですし」

「高等部まではな。しかし大学からは退寮が自由だ。お前は本来なら飛び級で大学三年生のはずなのだから、文句はあるまい」

「…………」

 帝国學園に限らず世の学校成績というものは、通常の定期試験と潜在学力検査PATと呼ばれる科学検査の二つの結果から成っている。

 潜在学力検査とは、役所に保存された家名と血統の資料を参考に、遺伝的に継承される学力と将来的に飛躍が期待される学力を測定する検査である。検査は、出生時、初等部入学時、中等部進学時、高等部進学時、大學進学時の計五回行われ、第二次からは通常の学力検査と併せて結果が出る。総合成績はレベルで表されることになっており、標準値はレベル二五にじゅうごであった。

 ミチルの場合、高等部進学時の検査でレベル四九よんじゅうきゅうという好成績を弾き出していたため、それを受けて、學園側からは三つほど学年を飛び越す旨を勧められていたのだ。しかし、虚弱体質を理由にそれを辞退していた。

 ゆるく頭を振った妹に、ヒロムは力強く言い足した。

「大丈夫だ。學園との交渉なら、兄ちゃんがうまくやってやる」

「そういう問題ではないのです」

 ミチルは、兄の爆発した頭髪からベッド右手の窓へと視線を逸らした。クリーム色のカーテンに、屋外灯の青白い光が透けている。外はもうすっかり日が落ちて闇に包まれているらしい。

「交渉ができるのは、宇都宮さんが學園の副理事でいらっしゃるから、でしょう?」

 溜め息がこぼれ落ちるような一言は、ヒロムの顔色を少し暗くさせた。それがわかるからこそ、ミチルは窓の外の光ばかりを見つめていた。

「ミチル……」

 ヒロムがベッド端から妹の近くへと移動する。そろりと手が伸びて、背中に流した髪をなだめるように撫でた。

「局長は、頼れる方だよ」

「はい」

「父さんの葬儀も仕切ってくれたし、母さんの治療費も出してくれている」

「はい」

「僕が管理局で働いていられるのも、お前がつつがなく學園に通っていられるのも、あの人のおかげだ」

「……はい」

 ミチルは一つ一つ頷いてから、ようやく兄を振り向いた。

「ですから、これ以上はご迷惑をかけられません。私は大丈夫です」

 硬い硝子のような視線を受け止めて、ヒロムがわずかに苦笑する。

「お前の体が本当に丈夫なら、それでもいいんだがな」

 言われて、ミチルは我が身を改めて見下ろした。確かに、喫茶店へ行ってお菓子も食べずに倒れて帰ってくる人間が、ベッドの上でいくら大丈夫だとのたまったところで説得力の欠片もないのであった。

「ごめんなさい」

 こんなことだから、兄の頭髪にダメージが出るのだ。

 デリケートな問題もふくめて反省した妹を、ヒロムは「だからなぜ、お前が謝るんだい?」と言って笑った。

「まあ、今すぐ答えは出さなくてもいい。養子の話は先のことだし、退寮もお前がその気になった時で構わない。ただ、考えておいてくれ」

「はい」

「よし。良い子だ」

 まるで子供のように頭を撫でて、兄は妹を優しく抱きしめた。

「もうちょっとの辛抱だぞミチル。今に、兄ちゃんが必ずお前のことも母さんのことも助けてやるからな」

 耳元で囁かれたのは、昔から呪文のように何度も聞かされている台詞であった。ミチルは骨張った兄の肩口に顎を載せながら、茫洋ぼうようと視線を動かす。

 見慣れた學園の医務室である。

 消毒液の匂いも、壁の染みも、カーテンのひだがゆるんできていることも、頻繁にお世話になるミチルには手に取るようにわかっている。敢えていつもと違う部分を探すなら、正面の壁に真新しい張り紙がしてあることぐらいだろうか。

 それは、學園内の掲示板によく貼られている、五分に一度、文字がホログラムで浮かび上がってくる特殊製紙とくしゅせいしであった。ちょうど今、文字が浮かび上がってきたところで、ミチルの視線は自然にそこへ吸い寄せられた。



 【研究生募集のお知らせ】


 春光うららかな季節が近づいて参りました。

 卒業生の新しい門出を祝しますと共に、この度、魔族研究室まぞくけんきゅうしつより研究生の募集を行います。

 我が帝国學園では、野心あふるる教授たちの指導の下、最先端の技術を駆使して多角的な魔族研究に取り組んでいます。の箱舟より発見されたる異形の生命に興味のある大学生諸君は、ぜひ教務課へ詳細を聞きに来られたし。意欲ある人物を歓迎いたします。

 〆切は三月末日マデ。

 尚、研究生には、毎月微細ながら研究費が支給されます。


 ※ 優秀な成績(レベル三〇さんじゅう以上)を有する高等部以上の学生も、特別研究生として所属が可能です。該当する学生は一度ご相談を。


  帝国學園 第一教務課より


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