序幕 α


   序幕プロロオグ



     α



 私の友人に、奇妙なる男がいる。

 人にも物にも金にも執着がなく、ひどい出不精でぶしょう厭世家えんせいかのくせに、どうしたことか喫茶店などを営んでおり、これがまたどうしたことか繁盛している。とくに珈琲豆のき方が上手いわけでも、紅茶葉の種類にこだわっているわけでもない。薄荷色はっかいろの菓子皿に載って出てくるパウンドケーキもアップルパイも普通の味である。なのに彼の店は常に満席で、私が珈琲を飲みに行く時は決まって裏口から失敬しなければならない。客として反則なのは百も承知だが、弁解をさせてもらうなら、そうでもしなければカウンターの内側から一歩も出てこない偏屈な店主と話す術がないのである。

 先だって『最新流行ア・ラ・モード』とかいう雑誌に紹介された影響か、店には一段と客が増えた。最近では専ら女子学生たちに評判であるらしく、しがない文筆業で食いつないでいる私にはすっかり敷居が高くなってしまっている。

 今日もまた、裏口を開けた途端に漂ってきた洋菓子と珈琲と女の子たちの匂いに、私は数秒ほど浮ついた妄想に囚われ、しかしすぐにうらぶれた気持ちになって足を止めた。と言うのも、喫茶店がある五番街の通りは現在開発の真っただ中にあり、今しがた私は来年度完成予定の帝都タワーなる電波塔を見学してきたばかりだったからだ。工事現場の埃で汚れた三十路男の一服と、帝国學園の制服に身を包んだ初々しい乙女たちのティータイムとでは、干し柿と苺のシャルロットほどの差があることは言うまでもない。

 果たして同じ店に入ってよいものかと、今さらながらに迷っていたところ、ややあって迷惑そうな店主に見つかり、結局は中に引っ張り込まれた。



 カウンターの内側に二つ並んだサイフォンの、右斜め裏。

 店内の客席からは死角になるそこに置かれた一脚の椅子が、私の指定席であった。

 彼は私にいつものウインナー珈琲をれてから、食器棚の前で布巾を手に取った。

 これほど店が繁盛しているにもかかわらず、ここの店主は一向にうれしそうな顔をしない。接客はいつも雇いの若い子に任せ、自分はカウンターの内側で飲み物を淹れるか、さもなければグラスをひたすら磨いている。今も食器棚から出した半透明の赤いタンブラーに布巾を当て始めたのを見て、私はそっと息をついた。

 軽やかなベルの音が聞こえ、新たな客が入ってきた気配がする。

 見れば、また女子学生の集団である。急いで接客に向かったのは、この店で働いてそろそろ半年になろうかという店員であった。目元の涼しい好青年なので女性客に人気だが、少しばかり慌て者なのが玉にきず……などと思って見ていると、案の定、入口に気を取られた彼の腕が、椅子に座っていた別の客の肩に強く当たった。

「も、申し訳ございません!」

 即座に謝る店員に、当てられた客──彼女も帝国學園の制服を着ていた──がにこやかに「いいえ」と返す。抜けるような白い肌が印象的な、線の細い少女であった。

 彼女は笑顔で「大丈夫です」と続けて、直後、その言葉とは真逆の行動をとった。つまり、当たった右肩を左手で押さえた格好で、椅子から斜めに滑り落ちたのだ。

 それが、当人が意識を失ったために起こったことだと気づくのに、私をふくめて周囲の者はしばらくの時間を要した。それほどに彼女の動きは自然かつ芸術的で、また嫌味なく手慣れていた。昏倒に慣れている人間がいるなど聞いたこともないが、実際そんな感じであった。

 当然のことながら店内は騒然となった。

 店員や客たちが慌ただしく動き始める様子を、私は椅子から伸び上がって眺めた。同級生の女子学生らに抱き起こされた少女に、目覚める気配はない。その姿は奇妙に危うげで、そして美しかった。今しがた浮かべた邪気のない笑みを残した顔は、わずかに開いた唇が苺の色を宿している以外はまるで紙のようである。

他人ひと様の寝顔をじろじろ観察するのはよしたまえ」

 茶色の液体を満たしたカップを持ったまま、前のめりに腰を浮かした私に、店主の煩わしそうな声が掛けられた。

「少女趣味も大概にしないと、そのうち捕まるぞ」

「失敬だな」

 私は二つほど大きく咳払いをして、浮いた腰を椅子の上に落ち着けた。

「きみこそ何を悠長な。お客が倒れたというのに」

 斯様な事態になってもなお、カウンターの内側でお気に入りのタンブラーを光らせている男に店主の資格などあるまい。そう思って非難した私に、しかし彼は「大丈夫だ」と事も無く告げた。

因幡いなばくんが心得ている」

 その言葉に再び店内に目を向けると、先ほどの青年店員が、倒れた少女を抱えて奥の休憩室へ入るところであった。後から少女の連れらしき数名の女子学生が続き、『従業員専用』と木札の下がった扉が閉められる。それに合わせて、一時は不安げな色に満ちていた店内の空気も、ころりと落ち着きを取り戻した。

「病院に連れて行かなくていいのか?」

「いつもの貧血だろう。保護者の連絡先は聞いているから、じきに迎えが来る」

 相変わらず眉一つ動かさない彼の答えに、私はやや鼻白んだ。いつも、という言葉の先にある物語を想像しかけて、やめる。にわかに盛り上がろうとする好奇心を抑えるべく、冷めたウインナー珈琲を啜っていると、

「気になるかね?」

 店主が意地悪く尋ねてきた。

 普段は無愛想なくせに、こんな時ばかり多弁になる彼は、私の返事を待たずに次のような内容を口にした。


 少女の名前は、有栖川ありすがわミチル。

 四月二十五日生まれの十七歳。

 現在は帝国學園高等部の三年生で、来月の四月から四年生に進級する。

 身長は一六〇センチ。体重は四十五キロ。

 スリーサイズは上から───


「ちょっと待て。誰がそういうことを知りたいと言った?」

「そういうことを知りたいのだろう?」

 瞬く間に切り返されて、思わずぐっと詰まってしまった自分が恨めしい。

 心なし、気分の良さそうな店主の手の中で、タンブラーがキュイキュイと音を立てた。

 こういうところが、彼のもっとも奇妙な点であった。

 ある一部分を除いて、決して人付き合いの良いほうではないにもかかわらず、この男はどうしたことか帝都のあらゆる情報に精通しているのだ。それは世の奥様方らの好むゴシップ的な噂話に始まり、政財界の黒い話に至るまで幅広く、人物のプロフィールを探ることにかけては、私の知る限り右に出る者がいない。一体どこでどうやって知り得ているのかはいまだ以て謎であるが、私が足繁く彼のもとに出入りする理由も、ここにあった。

 彼と話していると仕事のネタに困らないのだ。

「彼女は、生まれつき原因不明の失神症しっしんしょうを患っている」

 私が思案に耽っている間も淡々と彼は語っている。

「失神症?」

「きみもさっき見ただろう? どうかするとすぐに倒れ、どうかしなくても倒れるのだよあのお嬢さんは。虚弱体質とでも言うべきか……母親も同じ体質で、数年前に倒れてからずっと聖グリプス病院に入院している。今も意識が戻らないそうだ」

「それは可哀想に」

 聖グリプス病院と言えば国内でも有数の私立病院である。金はかかるが、そのぶん第一級の医療設備が整っていると聞く。

「では、家は裕福なのだな」

「表向きはね」

 意味深長に言って、彼は磨き上げられたタンブラーを食器棚にしまった。


 有栖川家は四人家族であった。

 夫妻にはミチルの上に年の離れた長男が一人おり、父親と同じく、帝国大學を卒業してすぐに役人となっている。二人の収入は、ミチルと夫人の医療費でほぼ消えたものの、まだその時点では一家が生活に困ることはなかった。

 しかし半年前、有栖川氏が突然の奇禍に見舞われてこの世を去ってしまうと、事態は一変する。まだ年若い長男が一人で家族を支えるには、夫人の病状はあまりにも重すぎた。この先、父親の保険金がなくなれば困窮するであろう一家に、しかし手を差し伸べた人物がいた。

 宇都宮うつのみや公義こうぎという男である。


「宇都宮とは、あの宇都宮かい?」

「その宇都宮だ」

 私の問いに、彼はとてもシンプルに頷いた。

「政府の箱舟はこぶね管理局長にして、帝国學園副理事長──彼は有栖川氏の親友でもあった」

 聞けば、かねてより有栖川家の長男に目をかけていた宇都宮は、もし長男が自らの養子となるなら、金銭面をふくめて一家を全面的に援助すると申し出たという。

「その話を有栖川の息子は受けたのか」

「でなければ、今頃は入院中の母御もこの世の人ではなくなっているだろう」

 不謹慎なことを平気で言って、彼は、ふ、と視線を動かした。つられて振り返った私の目が、従業員用の休憩室を出てこちらに歩いてくる因幡くんの姿を捉える。

 涼やかな青年店員は、まっすぐにカウンターへやってくると雇い主に告げた。

「宇都宮さんは仕事中みたいで、連絡がつきませんでした。一応、秘書の方には言づけを頼んでおきましたけど……」

 どうやら、先ほど貧血で倒れた有栖川ミチルの件であるらしい。

 それを聞いて、珍しく店主が片眉を動かした。

「どっちの秘書かね? 公義氏のほうか、兄貴のほうか」

「お兄さんです」

「なら、一時間もしないうちにすっ飛んで来るな。──きみ、悪いが今からあのお嬢さんを學園まで送り届けてくれたまえ。うちのイカロスを貸そう」

 はあ、と因幡くんはわずかに躊躇いの表情を見せた。

「でもまだ目覚めてませんよ?」

「構わん」

 素っ気ない店主の一言に、青年店員はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、すぐに頷いて踵を返した。これに疑問を投げかけたのは私である。

「迎えを待つのではなかったのかい?」

「あの兄貴はやかましい。営業妨害になる」

 普段、店の経営に熱心ではないはずの主人はそう言って、次なるタンブラーを手に取った。

「そんなによく来るのかね? 大体きみはいつから宇都宮氏と知り合いになったのだ?」

「有栖川ミチルがうちの常連客というだけで、それ以上の関係ではないよ」

「にしては詳しいじゃあないか」

 それは、知る人ぞ知る帝都の情報屋にとっては愚問だったのだろう。口を尖らせた私を彼は呆れたように眺めた。それから、色も厚みも薄い唇をほんの少し横に引いた。

 それが、今日初めて見る彼の笑みであった。


 このあと、私は出版社に立ち寄る用があったので、店を辞することにした。

 来た時と同様に裏口から失敬する私の隣を、有栖川ミチルの食器を下げた別の店員が厨房へとすり抜けていく。菓子皿には、まだ手のつけられていない苺のシャルロットが残されていた。

 外はいつの間にか西の空が重たい雲で覆われており、私は無意識に首を竦めて外套の襟を合わせた。さっきまで照っていた穏やかな三月の日差しが、今ではすっかりなりを潜めてしまっている。

 近くで馬蹄音ばていおんがした。

 すくめた首を巡らせて見ると、先ほど店を出て行った因幡くんが、黒い幌の馬車を裏口に回してきたところであった。今どき馬車とは時代遅れも甚だしいが、繋いでいる馬がただの馬ではないので致し方ない。

 イカロスと店主が名づけたその栗毛は、背に大きな一対の翼を持つ天馬ペガススであった。とはいえ原種オリジナルではなく、人工繁殖させた複製種レプリカなので空は飛べない。それでも普通の馬よりは速く走って丈夫だというので、好事家こうずかたちには喜ばれる生き物である。

 ……近ごろ、この好事家とやらがいやに増えた。

 最新流行に群がる女子学生と同じく、天馬のように十八世紀にサルベージされた箱舟の異種に興味を示し、愛玩しようとするやからが横行している。

 愚かなことだと私は思う。箱舟のもたらした生き物のほとんどは、今もなお研究過程の中にあり、その安全性が保証されていないことは、十八年前の大変事カタストロフ以来、周知の事実であるはずなのに。

 だからこそ、あれらはこう呼ばれているのだ。


 魔 族エビル・カインド────と。


 心の中で嘆息をつきながら、こちらに気づいて頭を下げてきた因幡くんに会釈を返す。天馬の目は、御し易くするためにあらかじめ潰されており、私はいつものようにイカロスの白濁した眼球を直視できずに背を向けた。

 懐中より時計を取り出すと、一緒に入れていた万年筆が転がり落ちた。私の足元で跳ねたそれは、地面の傾斜に沿ってころころと石畳を移動していく。この五番街一帯は、地下に古い隧道ずいどうが通っている影響で、路面が水平ではないのだ。ようやく万年筆を捕まえて時計を見れば、長針が四時をいくらか過ぎたあたりを指していた。

 昨今の帝都はひどく物騒である。赤の帽子屋クリムゾン・ハッターだの、鉤爪公爵フック・プリンスだの、一眼獅子ワン・アイ・リオだのという怪しい通り名の殺人鬼や猛獣が跳梁跋扈し、大の男ですら夜の一人歩きは危険になった。

「世もすえだ」

 誰にともなくつぶやいて、私は足早に五番街を後にした。

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