9 告白

 

 ――――海月。琥珀。

 

 突然、カウンターの脇に掛けた鏡から声が聞こえた。

 藤姫の持ってきた鏡だ。

 見ると、縁取りの蔦が光り輝き、鏡の中には桜姫の姿があった。

 

 ――――なにやら不思議な気配がする。なにがあった。

 

「桜姫様?」

「……あの鏡はどういう仕組みなんですか?」

 琥珀が首をかしげる。海月は首を振った。

「わたしにもわからないわ。このようなことは初めてよ」

 

 ――――鏡? ああ、これは水鏡のかけらを具現化したもの。

 

 桜姫はぞんざいに言った。

  

 ――――そなたの星草堂にある鏡は我の水鏡とつながっておるゆえ、我が望めばいつでも通話可能じゃ。

 

(桜姫が望めば、なのね。)

 それではまるで、一方的に監視されているような気もするが、まあ相手はあやかしの王である桜姫だ、いいだろう。

 海月はにこりとした笑顔の下で、若干感じた不快な感情を処理した。

  

 ――――それで、なにがあった。なにやら獣の気配がするではないか。

 

「この、本が来たことですか?」

 海月は鏡に猫神術の書を掲げて見せる。

 鏡の中の桜姫は、すっと目を細めた。

 

 ――――ぬう。……それは獣の王の記したものか。

 

「獣の王?」

「危険なものなのですか?」

 琥珀と海月が首を傾げる。

 桜姫はゆるゆると首を振った。

  

 ――――いや、猫のあやかしのために、闘う方法を記したものだと聞いておる。一概に危険だとは言えぬ。……が、琥珀。

 

「はい」

 

 ――――今度、それをもって我が元へ参上せよ。そなたたちだけでの実践は危険が伴う故。

 

「わかりました」

  琥珀はぎゅっと、「猫神術」の書を抱きしめた。

  鏡はふっと光を失い、桜姫は消えた。

  また通常通りの店内の景色を映している鏡を見て、海月はため息をついた。

  

  

  ※


 桜ケ丘高校の学園祭が、開催された。拓人は、バンドを組んで舞台に出て、ギターを披露した。

 スポットライトを浴びて聴衆の前で演奏するのはとても、楽しくて。拓人は満面の笑顔で演奏した。

 客席に、ほたるをみつけた。ほたるもとても楽しそうに笑ってくれていて、それがまた嬉しかった。

 たった2曲の演奏だったが、高校生活最後のいい思い出になった。

 みんなとわいわい騒いで感動を共有しあい、そして別れて。拓人は、星草堂に顔を出そうと考えて、いつもの公園に足を向けた。

  ほたるは学園祭の拓人の舞台の余韻もあり、楽しく歌をくちずさみながら公園のベンチに腰掛け、スズメたちが動くのを眺めていた。一緒に来ていた琥珀や海月はもうお店に帰っていって一緒にはいなかった。

「ほたるちゃん」

 ふと呼ばれて振り返ると、ほたるの大好きな人がいた。ほたるは満面の笑みで駆け寄った。

「タクト!」


 ちらちらと舞う銀杏の中で、駆け寄ってくる白髪の少女はとても可愛くて愛しくて、拓人はすとんと覚悟が決まるのを感じた。

(今日、言おう。)

 ほたるはそんな気も知らず、舞台を見た興奮のままに拓人をぎゅっと抱きしめ、そしてはなれて拓人の手を握った。

「タクト! ギター、すごく、すごくすてきだったよ!」

「見てくれた?」

「うん! あと学園祭も楽しかったよ」

 無邪気な様子でにこにこと語るほたるに、拓人は微笑むと、そっと握られた手をほどいた。

 緊張のあまり、顔が少しひきつる。

 深呼吸した。

(言おう!)

   

「……あのさ」

「なあに?」

 ほたるが首を傾げる。

「きょう、僕。すっごく楽しくてさ」

「うん」

「ほたるちゃんがいて」

「うん」

「これから先もずっと、こうやって、楽しい時間がほしいって思ったんだ」

「うん」

 じっと、ほたるをみつめて語る拓人に、ほたるは首を傾げた。

 拓人は、何が言いたいんだろう。今日の拓人はたしかにかっこよかった。ボーカルは緊張したのか少し上ずっていたけど、ドラムは刻むリズムがだんだん早くなっていっていたけれど、拓人のギターが曲をしっかりと支えていた。

 やりきった、拓人の顔を見たら自分でもそれを感じているのはわかる。

 ほたるにだってわかるのだ。上手く伝えられないだけだ。猫はいつだって、寄り添うことでそれを表現する。だから今、拓人が何かに緊張しているのも伝わってきた。どきどきしながらほたるは拓人をみつめ返す。

  たくとは勢い込んで言った。

「だから、僕と、付き合ってください」

「え?」


 きょとん、としたほたるの様子に、拓人は少し言い直した。

 

「僕の恋人になって、一緒に東京に来てほしいんだ」


「……」


 こいびと。ほたるは、想定もしていないことばに驚いて、ぽかんと口を開けた。

 ほたるの自己認識はずっと、猫だった。しゃべる手段を得た猫。だから、拓人のことも猫として好きだったのだ。懐いていた。大好きな人。

(……だけど、恋人?)

  たしかに拓人はほたるの正体を知らない。そうか、それで、こんなかわったことをいいだしたのか。


「きみのご家庭の事情もなんとなくわかるよ。同じくらいの年齢なのに、学校にも行っていない君になにか事情があることも。できたら、その事情をおしえてほしい、そして僕と一緒に来てほしいんだ」

  拓人が言いつのる。

 きっと、拓人は病気とか障害とか金銭的な問題とか、そういった想像をしているのだろう。

 ほたるはよくわからなくて首を傾げる。そういう理由じゃない。カテイノジジョウじゃない。ほんとうは、ぜんぜん違ってて。

  あやかしの、事情だ。

『おばけは苦手なんだよね』

 夏祭りの時の、拓人の言葉を思い出す。

『不思議なこと、科学で証明できないことは苦手なんだ。理解できない。だからお化け屋敷も楽しめないんだ。理系思考でごめんね』

 

(りかい、できない)

 ほたるは、目を見ひらいて。

 唇をかんだ。

(タクトはきっと、あやかしをすきじゃない)

(だけど)

(だけど……!)

 ふう、と息を吐いて。

(……うそは、つけない。つきたくない)

 そして悲しげに微笑った。


「わたし、タクトがすき」


 ほたるの目から涙がこぼれる。

 拓人はそんな涙にもほたるの様子にも気づかず、その言葉に表情をぱっと明るくした。


「じゃあ、」


「……だけど」


 ほたるがくしゃりと顔をゆがめる。


「だけど、わたしは猫なの」


 拓人の目が、丸くなる。

 (どういうこと……?)


「タクト。ありがとう」


 ほたるは、心の中でこれまでの日々に別れを告げた。

 夏祭りも、星草堂での日々も。ほんの数か月なのに、ものすごくたくさんの思い出があって、涙がこぼれないように顔を歪めてほたるは微笑んだ。


「わたしの、ひみつを、あげる」


 目を閉じ、ふわりと宙がえりをする。

 するり、と。拓人の目の前で少女が猫に転身した。

 ひもがほどけるように。するりと髪が舞い、気が付けばそこには優美な白猫がいた。ほたると同じ、翡翠色の目をしていた。


 にゃおん、と猫が鳴いた。



 タクトは目をぱちくりとしばたいた。白猫をみつめる。

 (ほたるが、猫。……え。え?)

 目の前の現実が理解できなかった。

 この猫は、いつか拓人が噴水から助けた子で。

 耳がぴくりと動く様子や、眼差しは確かにほたるによく似ていて。

 

 だけど、人が猫に変身したという現実が、拓人には理解できなかった。

 

 猫はもう一度宙で回転し、人間の少女の姿に戻った。


「わたし、あやかしの猫なの」


 事情を説明し終えたほたるは、あきらめの笑みを浮かべて拓人の言葉を待っていた。人間に正体を知られるのはこれが初めてではない。近所に住んでいた仲良しの子に、こっそり告げたこともあった。その子は「気持ち悪い!」と叫んで寝込んでしまい、ほたるの姿を見るだけで泣きながら逃げ出すようになった。人に変身する猫など、異形なのだ。受け入れてくれる人は多くはない。そして、拓人はお化けが苦手な人だった。

 拓人の口からどんな傷つく言葉がこぼれてきても大丈夫なように、ほたるは心の準備をした。これだけ楽しい日々をもらえたのだ。どんな心無い言葉だって、受け止めよう。

 

 拓人は真っ蒼になって震えた。譫言うわごとのようにつぶやく。

「ちょっと、待ってもらえるかな。現実をうけとめきれてない。……ちょっと考えてくる」


 ほたるは、悲しげに微笑んだ。

「うん。いいよ。ばけものっていってもいいよ。何人も、そういって、ともだちをやめた」

 望むことをあきらめて、ほたるは微笑んだ。


(さようなら、たくと)


「待って!」

 拓人は焦って言った。違う、違うのだ。

(このまま、終わってしまいたくなんてない!)

 気持ちが暴走する。理性が拒否して、体中が混乱している。だけどここで引きとめなければ、ほたるは遠くへ行ってしまう気がした。

 (違うんだ!)

 拒否したいわけじゃないのだ。

「そういうんじゃないんだ、そういうんじゃない。けど、」

 ただ、拓人はひどく混乱していて、理性が全力で理解することを拒否していて、好きな気持ちと受け入れられない異物への拒否感が戦っていて、このままではほたるをひどく傷つけてしまうことしか言えない自分が情けなかった。

 拓人は、情けない顔で笑った。


「時間を、くれないか」


「僕は、君が好きだ」

 言うだけで好きな気持ちがあふれて、一方で異形への恐怖が暴れて、体と心がふたつに割れているようで吐きそうになる。

「……だからといって、僕はいまここできみを受け止めきれない。嘘をつきたくないんだ。事実をちゃんんとうけとめて、それで、きみをちゃんと好きになりたいんだ。ちょっとだけ、」


 あえぐように、拓人はつぶやく。傷つけたくない。否定とか拒否をして、傷つけてしまいたくはないのだ。ほたるは本当に大好きな人で、だけど常識ではありえない出来事に生理的に覚えてしまう拒否反応もあって、それを見せたくなくて。


(苦しい。)


(だけど、このまま終わりたくなんてない!)


「ちょっとだけ、時間をください。受け入れるから」


 拓人は必死に言いつのった。ほたるは、うなずく。


「うん、わかった。……ありがとう」


 拓人が即座に否定しない優しさが、嬉しかった。自分の存在がそこまで拓人を苦しめてしまうことが悲しかった。

(ただのひとだったらよかったのに)

 ほたるは生まれて初めて、そう思った。

 涙が、こぼれる。

 

「ばいばい。またね」


 泣き笑いの顔でほたるは身を翻し、星草堂へ帰っていった。

 

 ※


 拓人は逃げるようにその場を去った。

 ねこ。

 

 猫、猫、猫。

 

 おばけ、幽霊、妖怪。物の怪。

 

 あやかし。人じゃ、ないもの、

 

 そういったものに対する恐怖が、自分の理解できないものに対する恐怖が襲ってくる。

 超常現象は本当に苦手なのだ。科学で割り切れないものは、視界に入れないようにしてきたのだ。

 拓人は不意にうずくまった。


 大好きな少女。

 天使のように、歌う歌。

 はにかむ笑顔。

 だけど、猫。正体。人間が、猫になって、猫がまた人間になって。


「うわあああああっ」


 大声で叫んだ。周りの人の目など、気にすることもできなかった。 

 吐きそうだった。気持ちが悪い。めまいがして、あたりがぐるぐると回る。

 

「あなた、大丈夫?」

 通りがかった親切な老婦人にも、びくりとおびえてしまった。

 この人だってあやかしかもしれない、と思った。

 恐ろしくて。

 拓人は顔も上げずに、形だけ頭を下げて走り去った。

 

(とりあえず、帰ろう)

 

 どうやって家に着いたのか、覚えていない。

 混乱して、混乱して。拓人はその夜、高熱を出して倒れた。

 


 ※

 

 琥珀は、桜姫のところに神猫術を持って話を聞きに行った。

 ほたるが泣いていた。昨日などは泣き疲れて猫になって、眠ったまま動かなかった。

 あの日、泣きながらほたるが星草堂に入ってきた。海月に抱き着き、慟哭した。

 とりあえず琥珀が店番を延長し、海月が母屋へほたるを連れて行った。日が暮れそうなころ、海月が戻ってきてばたばたと店を閉めた。

「本当にありがとう、遅くなってごめんね。ようやく眠ることができたみたい」

「……ほたる」

「拓人くんと、なにかあったみたいで」

 海月は水を汲み、一気に飲んだ。ため息を吐く。

 夜が近づいている。

「琥珀くんは、帰っても大丈夫だよ。今日は遅くまでありがとう」

「だけど……」

「ごはんでも、ごちそうしようか」

「いえ、おばあちゃんが待ってるので」

 いつもはもう少し早い時間に帰るのだ。ハツが心配していることを思うと、あまり長居はできなかった。

「海月さん。すいません、妹をよろしくお願いします」

 そういって、その日は琥珀は帰宅したのだった。

 それからというもの、ほたるは毎日泣いていた。ぼんやりとしていたかと思うと、ふいにぽろぽろと涙をこぼす。その様子があまりにせつなくて、やりきれなかった。

 ほたるも拓人のことを、とても気に入っていたのだ。精神が幼くて気が付いていないようだったが、おそらく恋愛感情だってあったのだろう。泣きはらした目でぼんやりとすごし、思い出したように首飾りを見てまた涙をこぼす。

 そんな妹を見ていられなくて、琥珀は猫神術の書の件を先に片付けることにしたのだった。


 桜姫が手元に来た猫神術の書をぱらぱらとめくる。

「ふん、あやつらしく、ふざけた仕様よの」

 吐き捨てるようにつぶやく。 

「あの。獣の王の君とはどういったお方なのでしょうか」

「あれは、獣のあやかし精の主となる存在じゃ。いい加減な男での……。今はどうしておるのじゃったかのう、藤」

「獣の君は、少し前に人と夫婦めおとになるために野に下られましたでしょう」

「ほう、そうであった。人の娘と恋仲になり、人として生きるなどとほざいてどこぞの神主を頼りにいなくなったのであったわ」

 あやかしの部分はその神主の務める神社に、封じたと聞いておりまする」

「さすれば、今もその神社におるであろう。場所は、確か、ほれ、讃岐と対になっておる児島の、由加じゃったか、のう藤」

「そうですね」

 藤姫が笑顔で頷く。

「由加神社ですか」

 琥珀の住まいからは少し遠いが行けない距離ではない。

「お話を、聞きに行ってもいいでしょうか。実は、みらいのことで気になることがあって」

「ぬう……黒い影とな」

 桜姫は、考え込むように口に手を当てた。

「む……あの者、唐琴の巫女。海月を連れてゆくがよい。あの娘は神域を作るのが上手いし、あの獣はとにかく娘を好んでいた」

「獣の王の君はわたくしなどにも優しくしてくださいました」

 にこりと藤が笑う。桜姫は引きつった目で藤姫をみた。

「そなた、まさか恋い慕うものというのはあやつ……!?」

「いいえ、違います。なかなか正解なされませんね、桜姫様」

「……。藤、そなたは誰にでも優しすぎるのじゃ。その、恋い慕うもののみに見せる顔などないであろう」

「あら、ございますよ?」

 桜姫様がご存じないだけです。

 藤姫は言下に語り、笑みで問われることを封じた。

 琥珀は、礼を言って退出した。

  

 

 海月は、琥珀とともに由加神社を訪れていた。ほたるは星草堂を離れることを拒んだために、留守番役に置いてきた。こっそり閉店の札も掲げてきたので大丈夫だろう。

 由加神社は長い階段の上にある、山の上の神社だ。海月も琥珀も、駐車場から階段をあるくだけでへとへとになってしまった。

(ここに、獣のあやかしの君が……!)

 琥珀は息を呑む。

 大きな赤い鳥居をくぐると、神殿があった。


 神殿前を通過し登山道をたどり、山中にある小さな庵にたどり着いた。

 来るものもすくないような庵は廃墟のようで、かろうじて設置されている賽銭箱と朽ちかけたしめ縄がそこが神の居場所であることを示していた。

「獣の王の君。お尋ねしたいことがあります。おいで下さらないでしょうか」

 琥珀が声をかけるが、反応はなかった。

 仕方がなく、海月が持参した藤姫の鏡をしめ縄のむこうに向けた。

 鏡が光り、桜姫の声が響く。


 ――――起きよ、獣の。


 のっそりと、庵の奥から男が出てきた。

「何事だ」

 大あくびをして、二人を胡散臭げに見下ろす。男は、桐野によく似た顔に無精ひげを生えさせて野性味を増したような風体をしていた。獅子の耳やひげが人の姿に付属していて、霊体のみとは思えない迫力と人間臭さだった。


「ああ、お前はオレの子孫の“使い”か」

「使い?」

 琥珀たちは、あやかしの精になると同時に主人である桐野の両親と死に別れてしまったから詳しいことはわからないのだが、どうやら桐野の両親のどちらかが獣の王の君の子孫らしく、彼らの“使い”としてあやかし化したのだという。

「だが……使いにしては貧弱だな。鍛えていないのか」

「何をですか」

「使いと言えば、雑用から始まり主の護衛まで任される下僕のようなものだ。おまえは下僕にしては弱すぎる」

「……僕は、下僕ではないので」

 琥珀がむっとして返す。

「温いことを」

 と、獣の王の君が鼻を動かした。

「何か、きな臭いな。今何が起きている?」


 ――――獣の。


 それまで沈黙していた桜姫が口を挟んだ。

 鏡の向こうに桜姫の姿をみとめて、しゅっと獣の王の君の背筋が伸びる。

「桜の御前ではないですか。ご息災ですか」


 ――――我に変わりはない。今触りが生じかけているのは黒き冬の君のあたりだ。

 憮然とした桜姫が答える。


「玄冬王の?」


 ――――その猫の友人でもある、秋の姫がまきこまれておる。なんとか、大ごとになる前に止めたいのだがあやつは話に応じようとせぬ。


「ああ、あのおっさんあんたのこと嫌っていましたもんね」


 ――――失礼な。そなたの方がよく喧嘩していたであろう。


「そうでしたかね」

 獣の王の君は素知らぬ顔で頬をかく。


 ――――それで、その猫が書物を持っておる


「ああ。オレが書いたやつだ。懐かしいな」


 ――――それを扱う方法を教えてやってもらえぬかの。


「そういうことなら、小僧、覚悟しろ」

 獣の王の君がにやりと笑った。

 

 

 ※



 秋の風の吹く境内で。

 藤姫が、桜姫の袂をつかんだ。

 桜姫が首を傾げる。 

「おはなしが、あるのです」

 いつになく、真剣な顔で言った。

 桜姫は首を傾げる。

「いかがしたのじゃ」

「すこし……聞いていただけますか?」

「もちろん」

 桜姫は訝しんだ。もう百年近く一緒にいるがこのような藤の様子は初めて見る。

 

 藤姫は、自らの本性である藤の前で桜姫を振り返った。

「わたくしの、寿命がきたようです」

「……っ!?」

「枯れて、しまいそうなのです、」

 そっと、藤の幹に触れる。皮がはらりと剥がれ落ちた。

 桜姫は激高した。

「そのようなこと。許さぬ!」

「ありがとうございます」

 藤姫は嬉しそうに微笑む。その微笑みに、桜姫の怒りは霧散した。いやだ。恐れだけが残る。

「わたくし、ずっと桜さまをお慕いいたしておりました」

 心のひだに隠していたものをそっと差し出すように、藤姫は告げた。

 桜姫は首を傾げる。

「我もそなたを可愛いと思っておるぞ?」

「いえ。想いの種類が、ちがうのです。わたくしはもうずっと、あなたに恋い慕っておりました」

 頬を染めて、あこがれるようなまなざしで。藤姫は桜姫をみつめた。

「あなたが、好きです。殿方を想うように」

「……殿方を想うように?」

「はい」

 藤姫は晴れ晴れと笑んだ。

 桜姫は困惑した。

「そなたが先日から言っていた、恋い慕う相手というのは……」

「桜さまです」

 にっこりと、藤姫は微笑んだ。

「これから、わたくしはおそらく寝込むことになるでしょう。日々、弱っていくのを感じるのです。ですが、桜さま、あなたと過ごした日々はわたくしにとって至福のものでした。それだけは知っておいていただきたくて」

「藤!」

「お時間、ありがとうございました」

 藤姫はその場を立ち去った。桜姫には、かける言葉が見つからなかった。


 ひとり残された桜姫はひどい混乱の中にいた。

 藤姫がいなくなるなど、ありえなかった。

 だが殿方を想うように想うなど。考えてみたこともなかった。

 どういうことなのだ。

 桜姫は内心頭を抱えた。


 ※


 拓人からは、音沙汰がないままだった。静かな日々に、せつなげにほたるがため息をつく。

 遊びに来ていた琥珀が、見かねて席を立とうした。ほたるがびくりとすそをつかむ。必死な顔で首を振る。琥珀が拓人のところに行こうとしたことを、察知したのだ。今は、そっとしておいてほしい。ほたるの言葉にならない願いが伝わって、

 琥珀は、もどかしげにため息をついて腰を下ろした。


 高熱が下がった後も、タクトは悩んでいた。受け止めたい。だけど、抵抗があって。

 だって、人外だ。覚悟が……そう、覚悟がいる。

 彼女を受け入れるということは、あやかしの世界を受け入れるということだ。

 拓人の人生に、あやかしの世界がついてまわるということだ。少なくとも結婚とかできないかもしれないじゃないか。猫と結婚って、どうするんだ。だけどほたるのことは好きで。

 多少不思議ちゃんでも受け入れようと思ってて、告白したのだ。

 彼女を守っていきたいのだ。

 拓人はため息を吐いた。


 とぼとぼと歩く下校途中に、人だかりをみつけた。

 桐野が、弾き語りをしてた。

 ギターの音が、疲れた心に染みる。歌声が、ささくれた心を癒していく。

 ただひたすらに、「あなたが好きだ」という感情を歌う優しい歌。

 心情が染み入ってきて、涙が止まらなくなった。

(こんなところで泣くとか、男子としてものすごく恥ずかしいのに。)

 心が、震えて涙が止まらない。


(ああ。僕、ほたるちゃんが好きだ。)


 頬を涙が伝う。


「迷うな」

 桐野が苦く微笑んだ。

「君が迷っていることは、好きな子を待たせてまで、必要なことかい?」


(ほたるちゃん。)

 すごく、悲しい顔をしていたほたるを思い出す。

(すっと、僕が迷っている間ずっと、あんな顔をさせているのか。)

 そのことに気づいたとき、自分の悩みが大したことないように拓人は感じた。

(好きな子を、悲しませるなんて。僕は何をしていたんだ!)


 拓人は、その足で星草堂へ走った。


「ほたるちゃん! 僕は、ほたるちゃんが好きだ!」

 

 店のドアを開けて、ほたるの姿を見つけて。拓人は叫んだ。

 ほたるが、おどろいたように立ち上がる。

 そんなほたるに駆け寄り、手を握った。

「僕は、ほたるちゃんが好きだよ。……君がたとえ人じゃなくても、僕は君のことなら受け入れられると思うよ」

 くしゃりと、ほたるの顔がゆがむ。

 拓人はそっと、ほたるを抱き寄せた。

 海月はほっとして微笑み、もうしばらく二人をそっと置いておくことにした。


 ※


 琥珀の家の近くの、神社の木の洞で。

「みらい」

 琥珀が呼ぶ。

 答えはなかった。

 秋になってから、みらいが現れない。紅葉の季節は忙しいのだろうか。

 琥珀はため息を吐いた。

 しめ縄を張られた紅葉の木の、葉が少しずつ赤くなっていた。

 琥珀は『猫神術』を開く。獣の君の言葉を思い出す。少しずつ、最初の方にある跳躍の技術、尾躍術びやくじゅつができるようになってきていた。意識を集中して、頭の上にある木の枝を眺めた。

 琥珀は、足しげく獣の君の庵に通い教えを乞うた。


 獣の王の君“獅子王”の訓練は厳しかった。

「使いの小僧。そうじゃねえ、あと100回登ってみろっ」

 猫の能力を、人の姿を取っているときでも本来なら発揮できるらしい。琥珀とほたるは誰に教わることもなく、襲われることもなく、優しい人の世界で生きてきたから、必要がなくて知らなかっただけだそうだ。猫は本来、体高の5倍の高さまで跳躍できるという。

 琥珀は言われるままに、人の姿で跳ね、駆けて木の上に登り、また下りた。

 だんだん力が入らなくなってくる。

 何十回目立ったか、登り切れずに枝で頭を打ち、琥珀は枯れ葉の上に落ちた。

 痛みにうめく。

 悔しくて痛くて涙があふれた。袖で顔を覆い、嗚咽をかみ殺していたら足音がした。

 獣の王の君“獅子王”が、琥珀の頭の上に立っていた。

「おまえ、本当に温く育ってんだな」

 呆れた眼差しで琥珀を見下ろす。

「平和になったのか……。オレが餓鬼の頃は、戦の只中でな。生きていくだけで必死だったからな。おまえみたいに温く、育ったやつの気持ちはわからん」

 琥珀は涙と汚れでぐちゃぐちゃになった顔を拭った。

(そんなの、関係ない!)

 きっ、と獅子王をにらむ。

「僕は、紅葉姫みらいのためならなんだってします! これまでの僕の育ちなんて関係ない!」

 獣の王の君“獅子王”はニィっと唇をつりあげた。

「そういうの、嫌いじゃねえぜ。甘ぇけどな」

 琥珀の頭上にしゃがみこむ。

「なあ、小僧。お前の近くにオレの子孫がいるだろう。そいつを一度、連れて来いよ」

「アオトを……?」

「ああ。オレは昔、この地に封じてもらったからなー。まだ当分ここを動く気はねえんだが、おまえにちょいと加勢したくなった。もともとあの冬のおっさんは嫌いだしな」

 不敵に笑う獅子王に、果たして桐野をここに連れてきて巻き込んでもいいものなのか、琥珀には迷いが生じた。

 

 ※

 

「ねえ、アオト。ちょっと遠足に行かない?」

 次に桐野が大阪から帰ってきたときに、琥珀はわけも話さず桐野をハイキングに誘った。

「いいよ、どうせだったらくらげちゃんたちも誘おう」

 桐野は面白そうにうなずいた。琥珀がこんなことを言ってくるとは珍しい。

 琥珀は面子を想像した。

「……うづきと、ほたるならまあいいよ。タクトはやめといたほうがいいと思う。異界関係だから」

「よし。じゃあ連絡しておくよ」

 海月も楽しそうに返答し、ほたるとふたり、お弁当を持参して桐野の実家までやってきた。

 

「なんだ、獅子王さんのところに行くのだったのね」

 海月が運転しながら苦笑した。

「獅子王?」

 男? と桐野が少しむっとして助手席で、海月を見る。海月はくすくすと笑った。

「琥珀くんの師匠さんですよ。そうね、ほたるも一度はお会いしておいたほうがいいわよね」

「師匠……?」

 桐野が首を傾げる。あまり異界の情報に詳しくない桐野は、琥珀とほたるの存在はなんとなく受け入れてはいたが、自分の知らない世界に少し怪訝そうに首を傾げた。


「やっときたか、我が末裔」

 山道を登った先にある、古い小さな庵の縁側に寝そべった獣の王の君“獅子王”が言った。

「待ちくたびれたぞ」

「獅子王様、アオトはここに住んでいないからとお伝えしましたよね」

「ふん、小僧の言うことなど覚えておらぬ。……その娘も“使い”か」 

 獅子王はほたるに目を止めてつぶやいた。

 ほたるはきょとんと首を傾げる。

「巫女属か。おまえ、何ができる」

「獅子王様、妹は何も……っ」

「小僧に聞いてはいない。小僧はいつもの基礎練習をしておけ」

 言い捨てて、獅子王はほたるをじっと見据えた。琥珀は唇をかみしめると木刀を拾い、素振りを始める。

「一度解けて、また結ばれておるのか……? いや。別の主と結んだか……歌舞音曲の才が見えるな。使いの娘、そなた一度その男と離れなかったか」

 ほたるは不思議そうに、きょとんとして頷いた。

「うん。ほたる、ずっとうづきといた」

「ほう、新たな主はその女か。不思議なものよのう、おまえには二本の宿命が見える。主がふたりいるようだな。だが女、お前の家系はずいぶん古い時代のあやかしの関係であろう」

 海月は苦笑する。

「わたくしの家系は古くからの家ですが、普通の農家だと聞いております。ずっと昔にあやかしの世界に関わりがあったのかもしれませんが、伝わってはおりません」

「人の伝承は儚いものだな。……子孫よ、そなたは聞いていたか?」

 突然自分に話を振られて、桐野は目を丸くして首を振った。

「僕の家のことでしたら、何も聞いてはいません。両親が幼いころに亡くなってから、そういった話は禁句となっていましたから。……祖母に聞いてみましょうか?」

 よくわからないなりに、相手は高位の存在らしいことを悟った桐野は丁寧に対応する。獅子王は面倒くさそうに首を振った。

「いや、かまわん。貴様はオレの子孫だ。見ればわかる。それ以上は必要ない。……こちらに来い」

 獅子王は、ちょいちょいと手を動かして桐野を招いた。

「何ですか?」

 桐野が手の届くところに来た途端、獅子王が素早く桐野の頭をつかみ引き寄せ、首筋に噛みついた。

「……っ!」

「獅子王様!?」

 琥珀が慌てて駆け寄るが、噛みついている獅子王に蹴飛ばされて転がった。


 桐野の表情が痛みに歪む。

 そして獅子王は桐野を開放した。

 左肩の首筋に、血がにじむ。桐野は思わず手で押さえた。

 獅子王がにやりと笑った。

 

「我が守護の証を刻ませてもらった。有事の際には何かと役に立つであろう」

 ほたるに目を遣る。

「そなた、癒してみよ」

「え……?」

「そなたには癒しの才があるはず。心を込めて、傷口がふさがるように祈りながら撫ぜろ」

 ほたるはきょとんとしたまま、言われるように桐野の傷口に手をかざした。

 不思議な碧色の光が掌からあふれ、血が止まってゆく。何かに噛まれたような跡を残して、傷跡は消えた。

「その力、鍛えるがよい」

 獅子王はそう言うと、植物の種の入った布袋を投げた。ほたるが拾う。

「その種を植えて、毎日祈れ。祈る力が強くなれば、早く花が開く。花が開くようになればそなたの癒しの力も強くなるであろう」

 疲れた、寝る。そう言いおいて、獅子王は庵の中へ入っていった。


 ハイキングコースの東屋で、四人でお弁当を食べた。

「不思議なひとだったね」

 桐野がつぶやく。

 あやかしの世界に慣れた海月は苦笑した。

「勢いの良い方でしたねえ」


 ――――我は人ではない。


 傷跡から声が響いて、桐野が飛び上がった。

 

「獅子王、さん?」


 ――――そなたは依り代としてすぐれているな。うむ、良いぞ。また利用させていただこう。


 声しか聞こえないが、何やらほくそ笑む獅子王の姿が見えた気がして桐野はぶるりと頭を振った。 人面疽のようだ。どうやら神のような存在であるらしいので、不敬な考えだったが。

 海月には声が聞こえなかったのか、何事もないように話を続ける。

「ほたるに、癒しの力があるなんて気が付かなかったわ。でも確かに私の心を癒していてくれていたのだけれど」

「ほたる、ちから、ない」

「あるのよ、ほたる。桐野さんの傷だって治してくれたでしょう?」

「不思議なちから。……タクトに、きらわれない?」

「人を癒す力だもの。拓人くんもきっと、ほたるらしいって応援してくれるわよ」

「なら、いい。……育てる」

 ほたるはじっと種の入った布袋をみつめた。

 

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