7 デート
秋も深まったある日の、夕方のこと。
今日は琥珀はお休みの日で、ほたるもおつかいに出ていた。海月がカウンターで経理の書類を処理していると、星草堂のドアがひらいた。近所の高校に通う女子生徒が顔を出す。
「くらげさん」
「あらいらっしゃい。ひかりちゃん、だったかしら?」
少女はこくんとうなずいた。
みのりが連れてきた少女だ。サラサラの飾り気ない黒いロングヘアに眼鏡、典型的文学少女だった。
これまでにも何度かよく訪れて、文庫本を買っていた。星草堂カードの会員さんだ。
「あの。ご相談があるんです」
「はい、どうぞ?」
ひかりは店の奥の他の客の姿をちらちら気にしながら、こそこそと言った。
「女子力を、上げる雑誌ってどれですか?」
「あら」
海月は目を丸くした。
「めずらしいわね、ひかりちゃん。いつものミステリーじゃないの?」
「わたし、女子力がいるんです。……彼氏が、その、できたんですけど、すごいモテる人で。素敵な人なんです。私も彼に似合うひとになりたいんです」
顔を赤くして語るひかりは、とてもかわいらしかった。海月はふわりと微笑んだ。青春ね。
「了解。じゃあ、これなんてどうかしら」
そういって、一冊の王道十代向け雑誌を手渡す。これならファッションの他の特集も充実していて、読書家のおめがねにもかなうかもしれない。
「これ、ですか」
「そうね、これとこれあたりで、自分のこだわりが見えてきたらこっちの方にも手を出してみればいいと思うわ。いろいろな雑誌があるから、きっとひかりちゃんがピンとくるものもあるはずよ」
「ありがとうございます。じゃあまずは、これを読んで勉強してきます!」
ひかりは王道雑誌を購入していった。海月は笑顔で手を振った。
「がんばってね。まいどありがとうございます」
先ほどの少女が去って行ってしばらくして、またドアが、今度は勢いよく開いた。カランカランとねこのかたちのドアベルが鳴る。今度はショートボブの、元気な女の子。おなじみのみのりだ。
「くらげちゃん!」
「あらみのりちゃん、いらっしゃいませ」
「新しいガトーショコラの作り方、入ってる?」
「ふふ。まだ彼とケンカしてるの?」
「だって。このあいだのレシピのは粉っぽいっていうんだよ。めっちゃふるいにかけたのに。もう、悔しい、絶対に超おいしいって言わせてやるっ」
「……じゃあこっちはどうかしら?」
と、海月は取り寄せた本を手渡した。
「お料理やお菓子作りの初歩の本なんだけど、すごく丁寧なやり方が書かれているの。今の簡単に手順三つで作りたい流行とは違って、すごく手間がかかるけどおいしいのよ。……ガトーショコラも載ってるでしょう?」
「あ、あった。それに他のも、めっちゃおいしそうだね。ありがとう、これに挑戦してみる!」
ニッコリ笑顔で、少女は入ってきた時と同じようにつむじ風のように去っていった。
「ありがとうございました」
またベルが鳴る。
今度は男子学生がそっと姿をのぞかせた。真面目そうでひょろりと背の高い男の子だ。見るからに理系っぽい。
「あの、あなたがくらげさんですか」
「はい、こんにちは。何かお探しですか?」
「はい。……その、彼女からあなたのことをお聞きして。ピッタリな本を進めてくださるとか。いいでしょうか? ……僕は、恋愛小説を読んでみたいんです。彼女と一緒に楽しめるような」
「あら、そうなのですか。普段はどのようなジャンルを読まれているのですか?」
「あまり小説は読みません。伝記とか、学術書とか、研究書なんかが好きなんです。宇宙の本とか……」
「ああ、じゃあSFの名作なんていかがですか。こちらなんておすすめですよ」
と猫が表紙にいるSFの名作を手渡す。
「それにこちらも。アンドロイドの青年と、人間のお嬢様との恋の話です。恋愛だけじゃなくてですね、二人の生き方とか、ほとんど人のふりをしたアンドロイドとか、これも古典的名作ですがこれからのAI時代に、と思うととても興味深い内容ですよ」
「ありがとうございます。これ、いただいて帰ります」
男子高校生は2冊買って帰った。
「ありがとうございました」
海月は笑顔で見送る。
また、扉が閉まった。
次に、扉が開いて入ってきたのは拓人だった。
「こんにちは! 『君に届いて』のバンドスコアありますか!」
「あら、いらっしゃいこんにちは。このあいだ言ってたものね? おいているわよ」
海月が取り置き棚から取り出す。慌てたようにお金を置き、釣りを受け取ると、拓人は本をそのまま受け取った。拓人はどうやら高校生活の思い出に、学園祭でバンドを組んで演奏することにしたらしかった。
「ありがとうございます! まだ練習してるんで、失礼します!」
拓人はつむじ風のようにダッシュで出ていった。
くすくすと、海月は笑う。音楽と受験勉強との両立で悩んでいるようだったが、今の様子だとふりきれたのだろうか。
人波がひと段落したところで、奥のソファで珈琲を飲みながら読書していた桐野がくつくつと笑った。
「飛ぶように売れていくね。君はまるで魔法使いだ」
「そんなことありません。たまたまですよ。読書の秋ですしね」
「だがきみが、的確な本を勧めているせいじゃないかな」
「どうせなら、読んで面白かったって思える本と出会ってほしいじゃないですか」
桐野はまた、嬉しそうにくつくつと笑った。
当然のこととして語る海月は、いろんなジャンルの本を把握したり類書を予測して取り寄せたりする手間を手間と思っていないのだ。その真摯な仕事への向かい合い方が好きだった。
「君が最後の、拓人の前の子に勧めてた本、まだ在庫ある?」
「夏への扉ですか? ありますよ?」
「じゃあ、それ僕にも売ってよ。読んでみたくなった」
「まあ。ありがとうございます」
会計をすませながら、海月は笑った。
「ところでさ」
「はい?」
珈琲を飲み、一息ついて、桐野が少しおかしそうに言った。
「『くらげ』ちゃんって?」
「ああ……。小学時代からの友人がね、呼んでた私のあだ名ですよ。海月ってくらげとも読めるんですって」
「へえ。海の月でくらげか。詩的だな」
桐野は目を閉じて、しばし海の中をくらげが月のようにふわふわと漂う姿を想像した。
彼女らしい。
「よし、僕もくらげと呼んでもいいかい?」
「え」
海月はきょとんとした。思ってもいなかった言葉だった。桐野が不思議そうに首を傾げる。
「……ダメ? いやだった?」
「……いやじゃないですよ?」
ただ、恥ずかしいというか照れくさいだけで。
ちょっと上目遣いで、桐野の表情をうかがう。桐野は、はじけるように笑った。
「じゃあ、よろしく、くらげちゃん。早速だけど僕はおなかがすいたんだ。もう少しで閉店だろう? そのあと何か食べに行かないかい?」
「いいですよ。何が食べたいですか?」
「うん、肉がいいな」
「ああじゃあ、あそこのステーキ屋さんなんてどうですか。私、車出しますよ。閉店処理をするのでもうちょっとだけ待っててくださいね」
「了解。ありがとね、くらげちゃん」
星草堂の二階に置いている服はほんの少しで、海月は大慌てで着替えた。夏祭りはそのままの格好で行ったが外食となるとそうはいかない。上はジャケットでごまかし、下はスカートにして、それでも地味目な格好にせめてもの彩をと髪留めに花をつけて。なんとか外食できる格好にした。逆に、時間がないのがよかったのかもしれない。時間があったらずっと着替えなおしてしまいそうだった。
海月の行きつけのレストランで、二人は乾杯した。
「星草堂の繁盛に乾杯」
「ご来店いただける素敵なお客様方に、乾杯です」
グラスを合わせる。海月はオレンジジュース、桐野はワイン。
「おいしいね」
「そうですね」
桐野は宣言通り肉を注文し、海月はチーズフォンデュにした。
会話ははずみ、楽しい夕食だった。
あつあつのチーズに浸した野菜で舌をやけどして海月が涙目になった。
「それってどんな味なの」
「あついですよ」
「ひと口ちょーだい?」
首を傾げてねだられて、チーズを絡めた海老を海月は小皿に乗せようとした。桐野の目がいたずらっぽく瞬く。
桐野が、肉を一切れ差し出した。
「はい、あーん」
「は?」
「僕のも味見、したいでしょ?」
「…………いえ?」
「ほら、あーん」
口を、開けなければこのまま平行線だろうか。海月は内心だらだらと汗をながした。
手元の海老が気になる。はやく渡したい。
仕方がなく海月は、何事もないように口をあけた。温かいお肉が口の中に入ってきて、肉汁がじんわりあふれる。もぐもぐと咀嚼した。
「おいひいですね」
「でしょ? はい、つぎは僕にあーんしてよ」
「ふぁ?」
(え、ちょっと、それはさらに難易度が高いですけど。……ええい、もうしらない)
ちょびっと投げやりになって、震える手で海月は海老を桐野の口につっこんだ。恥ずかしくて顔が熱い。
桐野は美味しそうににこにこしていた。
「ねえ、どうしてねこの@しっぽさんなんだい?」
「……っ」
手が止まった。
「その、はなしを掘り返します?」
「うん。聞きたい」
にっこり笑顔できかれて、海月の自分からも封印してきた記憶の壁が崩れた。
ふう、とためいきをつく。当時の記憶がいろいろとよみがえってきた。
「猫のしっぽって、ゆらゆらと気まぐれに動いて超かわいくないですか」
「うん。わかるよ。それに星草堂って猫好きな店だよね」
「あ、わかっていただけます? 飲食店で猫にいていただくわけにはいかないので、ついつい猫モチーフがふえてしまって」
「うん。で、猫のしっぽ?」
「はい。猫のしっぽみたいな曲が作りたいなと思いまして」
桐野は首を傾げた。
「……そうなんだ? ニュアンスはわかる気がするけど」
海月は恥ずかしくなって、うつむいた。
「……いわゆる厨二です、過去のことなんです。忘れていただけたら」
「いや、ねこの@しっぽさんって素敵な名前だと思うよ、忘れないし」
桐野は慌てて、それからにやりと笑ってつづけた。
「それはともかく厨二って、くらげちゃん動画投稿したの数年前でしょ、けっこうな大人だったんじゃ」
ぐ、と海月の息が止まる。あえて素知らぬ顔をしてみた。
「その件は触れなくて結構です。心は永遠の14歳なのです」
たちきるように海月は言った。桐野の目がおもしろがってくりくりと動く。
「……。ねえ、くらげちゃんは何歳?」
く、と海月は息をつめた。
「知らないんですか? 女性に年齢は聞いてはいけないのですよ?」
あえてにっこりと、海月は答えた。
「うん、でもちょっと興味があって。僕は今年三十二歳になるんだけどさ、僕より同じか年上、だよね? 高校生の子供がいる幼馴染がいるんだもんね?」
何を言っているかわからないけど、それ以上踏み込むとひどいことになるよ、という無言の笑顔で、海月は桐野の質問をなかったことにした。
「……わかった、サンキュ、もう聞かないよ」
「そうしてください。むしろ忘れて」
実際の海月の心中はぐるぐるしていた。若く見えるといわれたいのか実際の年齢を知られたくないのか、とにかく混乱していた。本当は言ってしまってもいいのだが。隠す理由なんて、ない。だけど、三十二歳か……。若いなあ。桐野が少し離れてしまった気がした。
「ところで、猫はまだ好き?」
「はい? 大好きですよ?」
「じゃあさ、失礼なこと聞いちゃったお詫びに、これから猫の琥珀と遊びに来る? 実家だとほぼ猫姿なんだ、あいつ。ほたるちゃんも連れてさ。琥珀の猫姿、超かわいいんだぜ。ほたると並ぶと白猫と黒猫で、ほんと可愛かった」
白猫と黒猫ときいて、海月の目が輝いた。
「ぜひ、行かせてください! ……夜遅くにご迷惑になりませんか?」
「まだ七時だし。大丈夫だよ。だから、僕をばあちゃんちに送ってって?」
首を傾げた桐野は、あざと可愛かった。
「……いいですよ」
桐野のおねだりに、不覚にも海月はきゅんとしてしまった。反則だ。
「家の場所の地図を送るから、メアド教えて?」
「いいですよ。udukineko-h......」
と携帯しているメモ用紙に海月は書いていく。
「僕のアドレスこれね。メール送るね。ついでにメッセージアプリのも教えてよ。このあいだ星草堂にきたら店休日だっだんだ」
「すいません、一人で営んでおりますので。Twitterやお店のホームページには書いているんですけどね」
「うん、でも君の連絡先が知りたいな」
「わかりました。……ええと。QRで表示にすればいいですか?」
「うん、よろしくねー」
桐野はスマートフォンを取り出し、笑顔で頷いた。
夜の倉敷を、海月は水色の軽自動車の助手席に桐野を乗せて、ドライブしていた。後部座席ではほたるが猫姿で丸くなっている。まるで二人きりのようで、話がはずんで、とても楽しい道のりだった。
沈黙もまた、楽しくて。桐野がうとうとしているようだったので、海月はついはなうたをくちずさんでいた。
「くっろとしろ、ふんふんふん~」
黙って聞いていた桐野が口を開く。
「ねこの@しっぽさん」
「ひゃあっ。あ、寝てらしたんじゃなかったんですか」
「寝てないよ」
「すすすいません、耳汚しなものをお聞かせしてしまって」
「ううん、全然? 君の歌声はやわらかくて、むしろ癒されるね。今度ちゃんと歌ってよ」
「ふあ、いえいえ、私の歌はへたくそなので。歌うなと、言われましたし……」
海月の顔が曇った。
「誰に?」
しばし遠い目をして、それから顔を上げて、海月は首を振った。透き通った笑顔。
「昔の、友人です」
「……そいつのいうことを、今も信じてる?」
ふと目を開いて。でも、海月はためいきをつく。
若いころに、付き合っていた男性。大好きで、大好きで。いうことを何でも聞いてあげたかった。染められたかった。
だけど彼には、別の家庭があって。
(くだらない、話だ。この素敵な夜にする話じゃない。)
海月はきゅっと、唇をかみしめた。
「すいません、ちょっとしたトラウマなので、そう簡単には覆せないですね」
凛とした笑顔で言った。
その笑顔に、桐野は目を見張る。
(……強いなあ。)
桐野はますます海月に興味を惹かれていくのを感じた。
「ふうん。じゃあ急がないよ。でもいつかは君の歌が聞きたいな。おぼえといてね。……それはともかくねこの@しっぽさん、新曲は『くろとしろ』でぜひよろしく」
「おぼえてらしたんですか」
「あたりまえだよ。僕は今楽しみでたまらないんだ。全世界で一番にねこの@しっぽさんの数年ぶりの新曲が聞けるなんて!」
「そんなたいそうなもんじゃないですよう……うう。ハードルが上がっていく」
「あははは。まあ、気楽にね。僕は君の曲の、その楽しげな雰囲気が好きなんだ」
「……桐野さんはアレンジとかできる方ですか?」
「うん? 一応自分の曲とかあと友人に頼まれた分とかはやってるけど?」
「ではその、原形を作るので、あとをおまかせしてもいいですか」
「もちろん! 楽しみに待ってるよ」
「よろしくお願いいたします」
※
着信を告げた携帯のメールを見た琥珀が叫んだ。
「ハツ、たいへんだ、蒼がカノジョとほたるをつれてくるって」
「あらまあ」
桐野の祖母は目を丸くして微笑んだ。
「大変だ、かたづけをしなくっちゃ」
琥珀はかっぽう着姿でぱたぱたと走り回った。
※
桐野の祖母の家は倉敷中心部から数十分離れた、畑やたんぼなど程よい自然にかこまれた場所だった。
「ここだと静かだし、中心部に出やすいし、素敵なところですね」
「だろ?」
桐野は荷物を降ろしながらにかっと笑った。
「それに、うちの実家にもちかいです。ほたるちゃんは迷子になったとき、ここから来たんですね」
「あたりは大分探したんだけどね」
「車で十分くらいはありますもの。なかなか探しきれないでしょう」
「ほんとうに、君に拾われててよかったよ」
桐野はにかっと笑った。
「さあ、ばあちゃんが待ってるよ。さっきメールしといたからさ」
「……。いまさらながら、私なんかがお邪魔してもいいのでしょうか」
「いいっていいって。曲作りのためだよ、さ、行こうぜ」
※
「まあまあ、お世話になりました、蒼斗を送ってくださってありがとうございます」
「いえ、遅くにお邪魔してしまってすいません。星村と申します、はじめまして」
桐野の祖母は、80代から90歳くらいの、腰が曲がったかわいらしいおばあちゃんだった。
「蒼斗の祖母のハツです。です。私一人の気楽な住まいです、お気遣いなく。ほらほらクロちゃん、お客様がいらしたけぇの」
にゃおん、と黒猫が優雅に階段を下りてきた。
「あら、こんにちは。琥珀くん?」
黒猫と目を合わせて、海月はにこりと微笑んだ。
「かわいこさんですね」
そっと伸ばした海月の指に耳元をなぜられ、気持ちよさそうに目を細める。目を開けるとその指をぺろりと舐めて、黒猫は居間へと入っていった。海月に抱かれた白猫ほたるが、後に続く。
「あら、琥珀ちゃん気に入ったんやねえ。星村さん、よかったら居間の方へ入ってやって」
「よろしいんですか? すいません、お邪魔いたします」
猫の可愛さに遠慮も何も忘れて、桐野に背を押されて居間にあがりこんだ。
「まあ!」
二匹がはしゃぐように駆け出した。お互いを追いかけ、構え、とびかかり、逃げ出す。キャットタワーをのぼり、飛び降りる。楽し気なワルツを踊っているような二匹の攻防に、海月は破願した。
荷物を簡単に自室に運んで、桐野は台所に立った。
「ばあちゃん、コーヒー淹れさせて」
「おや、あんたがいれるのかい」
「うん。彼女は珈琲屋さんだからね。たまには僕の淹れたコーヒーを飲んでみてほしいんだ」
ふんふん、と嬉しそうにコーヒーメーカーやカップを用意する孫を呆れたように見守る。
「……青春じゃの」
ハツは聞こえないようにぼそっとつぶやいた。余計なことをしてひっかきまわすおせっかいおばあちゃんになるつもりはない。
「ばあちゃん」
「ん?」
「体調は、どう?」
桐野は背を向けたままさりげなく聞いた。
「ああ、心配してくれとるん、ありがとうな。いまんとこ、ぼちぼちやっとるよ」
桐野の脳裏に春の祖母の姿がよみがえる。長年の伴侶をうしなって、ほうけたようになっていた祖母。
「無理すんなよ」
「わかっとるよ」
ちゃんと会話ができる様子に、桐野はほっと、息をついた。
桐野がコーヒーを淹れて戻ると、海月はすっかり猫とうちとけていた。白猫ほたるは膝の上に丸くなり、黒猫琥珀は横にねそべりくつろいでいる。海月は至福の表情だった。
桐野はテーブルにお盆を置いた。
「どうぞ」
「あら、いい香りですね。桐野さんが淹れてくださったんですか?」
「たまには、ね。逆もいいんじゃないかなってね」
「ふふ。ありがとうございます。……あ、おいしい」
にこにこと、海月は微笑んだ。
にゃおん、と白猫が鳴く。海月はほたるを抱き上げた。
「あら……今日は泊まっていきたいの?」
海月は困ったように桐野を見上げる。
「いいよ。何なら君も泊ってく?」
桐野の笑みに、海月は笑顔で首を振った。
「いえ、私は実家に用事があるのでそちらへ帰ります。それではすみません、お手数をおかけしますがよろしくお願いいたしますね」
「了解。ここはほたるの実家のようなものだし、気にしないで」
「すいません、よろしくお願いします」
そろそろいい時間になったし海月は帰ることにした。
「すっかり長居をしてしまって」
「いいえぇ、また遊びに来ておくれね。琥珀ちゃんもご機嫌やし。星草堂さんにも行ってみたいねえ」
「ぜひお越しください! 今夜は本当に、ありがとうございました」
海月は丁寧に頭を下げた。
祖母と猫たちに見送られて玄関を出た。桐野が車までついていく。
「今日はありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました。……夜はもうさむいですね」
「うん。風邪ひかないようにね」
「ありがとうございます。桐野さんもお気を付けください」
二人はふふっ、と微笑みあった。
「じゃあ、また。曲、できたらメールしてよ」
「期待しないでお待ちくださいね」
海月は二人の間の言葉にならない気持ちを断ち切るように微笑んで、ドアを開け、車に乗り込んだ。
脇に立つ桐野に手を振り、エンジンをかける。
軽く会釈をして海月は去っていった。
※
「やさしげな子やね」
玄関に戻った桐野を、祖母が出迎えた。
「うん。ばあちゃん、まだいたの」
「ええんよ。……あの子も音楽をする人?」
「うん。今は、違うけどね」
「ふうん。ええ理解者になればええんじゃけど」
「うん。……そんなんじゃ、ないけどね? ばあちゃん」
「はいはい。老人はさっさと寝るよ」
「おやすみ。今日は、ありがと」
「わたしゃ何にもしとらんよ。おやすみなさい」
※
にゃう、とほたるが猫語で鳴いた。
「アオトとうづき、いいかんじ」
ふあーあ、とあくびをしながら琥珀も応じる。
「ふたりがつきあってくれたらいいね」
「ほたるはうれしい」
「ぼくもだよ」
二匹の猫はひとつの毛玉のように、寄り添って丸くなって眠った。
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