第12話

 僕はあるはずも無いものを認めるつもりは無かった。しかし否定すればするほど少年は存在を強めていく。

 少年は身動き一つしない。肩で息を殺し、瞬きすらしない。動きひとつ無いそれに「人形だ」と念じると、それが胎動し、呼吸をするのが耳に付く。それが瞬きをする、その肩が上がり、下がり・・・それは生きているのだ。

 それが生きていようと、そこに存在していようと、僕には関係の無い事だった。僕は認めない、僕はそれを見つめ続けた。時間という波が流れる。しかしそれは僕を、少年を、取り込む事はできない。時の川が僕と少年という石にぶつかり渦を巻く、それがぐるぐると空間を歪め始める。

 見つめている少年の像が乱れ歪んで目に映る。ぐにゃりぐにゃりと空気を抜かれたゴム人形にように揺れる少年、その実は身動きすらしていないのだ。僕は歪んだ先に鎮座した、それを見つめ続ける。

 歪んだ空間は様々なものを呼び寄せ吸い込んでいった。面長におかっぱ頭の小鬼がいた。全身に皺のよったサラリーマンがいた。目の潰れたロバに乗る落ち武者がいた。それらは渦のなかから模様の様に現れ、掠れて見えなくなる。水玉模様の蝶がふわりと漂ってはきらりと鱗粉を残し消えていった。金色の鳥が羽繕いをして、何かに気付き飛び立とうと、消えていく。

 時間が朝という区分けされた場所から昼という場所に流れ移り、それは夕方という一点を通って夜に辿り着いた。それでも少年はそこにいた。膝をかかえ、乗り掛かるように身体を預け、休め、座っていた。

 夜の間、何度か眠っただろうか・・・。意識が大きく揺らぎ、あわてて自分を確かめると同じ意志と視線、時間だけが見覚えの無い形に波打っていた。

 時間は伸び縮みしながら確実に流れ、夜が深まり、そして明けた。明け方の音が、光が、少年の横顔を洗う。僕は憔悴していた。僕は大きく息を吸うと吐き出し、身体の芯をぐにゃりと崩し、目を閉じた。

「もういいよ。もう、いい。君は存在する。」

顔を上げると少年が身動き一つしないままに、ゆっくり笑った。

「やっと認めたね。よかった、」

少年が機械的に笑う。

「良かったかどうか・・・。」

「いいことさ、これで前に進めるじゃないか。」

そう少年が言う。

「悪いけど僕は寝るよ、疲れたからね。」

「いいよ、時間が来たら起こしてあげるから。」

僕はおやすみも言わずに布団をかぶる。いいさ、認めただけで受け入れたわけじゃない・・・そう思いながら僕の意識はいつの間にか失われていた。


 それが次の日だったのか、その日だったのか、少年は昼過ぎに僕を揺り起こした。まだ眠り足りない気はしたが身体は軽かった。

「さあ、出かけるよ。」

そう少年は肩をぐるぐる回してけたけた笑う。

「何がおかしいんだい?」

「楽しいんだよ。」

「楽しい?」

「これから起こる事を思うとね、」

少年はまたぐるぐるけたけたと笑う。

「何か食べたい」そう僕がいう。

「欲しいものは全て手に入るのさ、君はただ黙ってついてくればいい。」

 少年と僕は道を歩き、公園を通り過ぎる。ねずみ色のサニーを通り過ぎ、苔のついたコンクリート塀を通り過ぎる。少年は商店街に出る、裏路地に入る「こっちだ!」と少年が手招きをする。そこはベーカリーの裏、パンを焼き終えたエプロンの人がごみを出している。

 少年はおじさんの横で手招きをしている。おじさんは少年に気が付かない。僕は少年の口真似どおりに声を出す。

「こんにちは」

おじさんが顔をあげる。

「ああ、こんちわ。」

エプロンで手を拭いて、おじさんが笑う。

「いいたんきですね。」

口真似どおりに声を出す。

「たんき?ああ、天気ねえ。裏路地じゃ天気もくそもねえけどな、」

そうおじさんは空を見上げる。

「でも、確かに良い天気だ。」

僕は半透明のごみ袋を見つめる。なかにはいくつもパンの欠片や固まりが入っている。

「ああ、これか?もったいねえけどな・・・古くなったり焦げちまったり、客には出せんのよ。」

ピザみたいなのが入っている、サンドイッチが入っている、あんパンが、クリームパンが、入っている。

「まだいくつか店のなかにあるんだが、食うか?」

エプロンおじさんは「ちょっと待ってろよ」と店のなかに消える。

「あとで食おうと思ってたんだが、食い飽きたよ。昼は天丼でも食うさ。」

そう差し出したビニール袋にはサンドイッチやメロンパン、他にもいくつか入っている。

「別に汚ないもんじゃねえから安心して食ってくれよ。お前さんが天気の話なんかするから気分はすっかり天丼よ!」

そう言って、ぐわっはっはと笑う。おまけに牛乳までつけてくれた。

「飲み物無しじゃつらいだろ?」

そう言って、ぐわっはっはとおじさんは笑った。

 駅のベンチで昼食を取る。「食べるかい?」と聞いた僕に「いらないよ」と少年は即答した。

 

 それから電車に乗って、幾つか乗り換えた。窓からの景色に緑が目立つようになり、流れ込む空気が柔らかくなる。

「ここは何処?」

優しく身体の奥を揉みほぐされる感覚はどうしても僕を不安にさせてしまう。

「何処に行くの?」

少年にその言葉は届かない。

 僕はあきらめて電車の窓枠に頭をもたれかけ、目を閉じ、胸を風でいっぱいにする。それは僕の身体を、こころを、やわらかく解きほぐしていく。何処かで痼りになっていた結び目がほろりと解け、「何を心配していたんだろう・・・」怯えていた自分が可笑しく思えてくる。

 安らいだ僕は必然と眠くなる。「眠っちゃいけない」そう言い聞かせながら、あらためて自分を見つめる。今、こうして、僕がいる、恐れも、敵意もなく、暖かく、幸せ・・・全てがこれでよかったんじゃないか?そう思えてくる。この気持ちを覚えておかなくては、この自分を僕という本質にしなくては・・・そんな気持ちになれた時、僕は凄まじい力で現実と引き離される。暴力的な眠りが僕を襲い、幻想が僕を奪い去る。僕はその誘いに打ち勝たなくてはいけない、この気持ちは現実、この僕は現実だ。僕は強く思う、心から願う。自分を失いたく無い。そう純粋に望んだ。


純粋に望む力、それは現実となる。


 その眠りは嘘のように、穏やかに僕から遠ざかっていった。僕はゆっくりと目を開ける。少年の目の奥、その透き通った闇が僕を見つめている。

「おはよう」

「寝てないんだろう?」

「うん。」

そう僕は少年に笑いかける。

「言っただろ?全てが思い通りになるって。どんな形にしろ、全ては君の思うようにしかならないんだよ。」

「もし、そうならないとしたら?」

「本当にそう思っていないか、イマジネーションが足りないからだね。」

少年と僕は声も立てずに笑い合う。

 電車はそれからふっと揺れを止めて扉を開いた。それがあまりにも自然だったから、僕は従うように席を立つ。

「降りるんだろ?」

少年は、ゆっくりと頷く。

 

 少年と僕は、バスを待ち、乗り込み、そのバスは揺れる、地面の凹凸に合わせてコトコト揺れて、コトコトコトン、トコトントン。バスが揺れる、コトコトコン、トコトコン、少年が揺れて、コトコトン、コトコト、コトコトン、僕が揺れている。

 バスは山を登り、少年と僕は外を眺める。その風景に見覚えは無い、だけどその風景が持つ何か、目に見えないものに覚えがあった。

「何処に向かっているか解るかい?」

「誰かに会いに行くのかな・・・」

窓の外で風がくるりと舞う。

「しばらく会って無い懐かしい人だと思うな。」

風はするりとバスをすり抜け、木々のなかへと消える。

 バスは細い道をいっぱいに登り、しばらく走ると人を吐き出し、また登った。駅で乗り込んだ人が一人一人と減っていき、たくさんのなかの幾らか、幾らかのなかの一人、そうして僕らもバスを降りた。

 油のすっかり飛んでしまったアスファルト、バスがばたりとドアを閉め、去っていく。燃え残ったガソリンの匂いを嗅ぎながら、僕らはバスを見送った。

 

 その場所から歩いて登る。「もうしばらくすれば、それがある」自分に言い聞かせながら「それって一体何なのだろう?」と思う。少年は僕の足元を見つめている。「彼は一体何なんだろう?」ふと思う。「ここで彼は何をしているんだ?」ふとそう思う。

 

ひとつの分かれ道・・・。


 それは遠く無い場所にあった。二つの可能性、一つは先に繋がる道、もう一つは結果的に歩まない道。僕は、ダムへと続く道を選んだ。その道を半分ほど行ったあたり、ダム湖の一番深い所、そこに白い人影が立っている。

それが誰か僕には解っていた。弱々しく僕を見つめる瞳は、様々な思いを起こさせる。なるほど、僕はこうして自分に出会う為、今までを歩いて来た。


「やあ、」

と僕はぼやけた自分に言う。

「やあ・・・」

と僕が僕に向かって言う。

「しばらくだね、」

「忘れたかと思ったよ。」

「忘れたわけでは無かったんだけどね、」

「でも考えないようにはした。」

「そうだね、」

「でもうまくはいかなかった。」

「うまくは・・・いかなかった。」

少年は僕らを見比べるように立っている。

「握手でもしたら?」

少年が微笑む。

「そうだね、」「そうするよ、」

僕はほぼ同時に口にする。

 白い自分が差し出す手をほんの少し観察し、それから僕は自分の手を重ねる。細かく震える電流のようなものが走り、反射的に身構えはしたが、それは何と言う事も無く退いていった。僕はひとりの僕になり、ゆっくりと目を開ける。

 僕は堤防の上に立っており、真直ぐな道に砂ぼこりがくるくると行き場を失った犬のように回っている。誰かの側をずっと歩いていたような不思議な気持ちだけが残っていた。

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