第10話
僕らはふとしたきっかけを頼りにベッドを抜ける。どんなものでもいい、きっかけになりさえすれば。冷蔵庫のスイッチが入る音、鳥が窓ガラスを蹴飛ばす音、彼女がはっと吐きあげる吐息。その日の僕は、自分のなかでゆっくりいっぱいになったグラス、その溢れ出る水の音で起き上がった。
下着を身に付けようと扉を開ける。でも、新しいものは一つも見付からない。
「洗濯に行くよ。」
上半身を起こし、背中を向けていた彼女に声をかける。
彼女の応えを待ちながら、僕はバッグに服を押し込める。彼女は僕のようすを見つめ、思い出したように声をあげる。
「私も洗濯に行きたい。」
「じゃあ、用意しないとね。」
彼女はぺたりとベッドを降り、下着を集め始めた。
僕らは汚れた服と「洗濯をする」意識、それだけを持って扉を閉じる。正確に辿り着くには、そうするのが一番早い。頭では無く、身体がその場所を記憶しているのだ。気が付けば、僕らは洗濯の出来る場所に辿り着いている。
「さあ、着きましたよ」辿り着くとニコリと笑う。「ほんと、着きましたね。」彼女も笑ってくれる。僕らは用事を済ませ、散歩に出る。そうすることが僕らの義務なのだ。
いつもの公園、僕らは必然とそこに着く。ベンチに腰掛けると、こんな気持ちになるのだろうと思っていた気持ちが拡がる。僕らは現実を幻想で薄めながら、無気力に貪るのだ。そんな僕らに声をかけたのは、いつかの男だった。
「見慣れない奴が見慣れない女を連れてるなあ・・・。」
耳の奥から聞こえた声に振り返る。聞こえた気がした、誰かが何か言ったのか・・・?幻かもしれない。
陽の光のなか、男が口を吊り上げ笑っている。
「今日は、夕食のことを考えてないのか?」
「彼女のことを考えていた。」
僕が、彼女を指さす。
「彼女はおまえのことでも考えてたのか?」
「そうね、」
ベンチに手をついたまま、彼女は微笑む。
「つまり共同作業というわけだ。」
「そうね、」
「そうだね。」
僕ら3人は風に乗せて笑う。
僕ら3人は麻帽子の部屋に行く。空のバッグと紙袋を持って、落ち着ける場所に腰を下ろす。
「コーヒーでいいだろ?」
「うん、いいよ。」
「彼女は?」
「冷たいコーヒーがいいわ。」
何も知らない彼女が言う。
「冷たいコーヒー?」
あいつが眉をひそめる。
「そんなもん無いぜ、コーヒーはアツイかヌルイかだ。」
「コーヒーはアツイかヌルイか、」
モゴモゴと麻帽子、あいつの後ろで見え隠れしている。
「冷たいのは『あいすこーひー』って飲みもんだ。ここにはねえよ、」
「ここには無い、『あいすこーひー』無い。」
麻帽子がつぶやく。
「じゃあ紅茶でいいわ。」
「紅茶ねえ・・・ミルクティーでいいのか?」
「それでいいわ。」
麻帽子が「こーひー2つにみるくてぃー」とくり返しながらカウンターの後ろに戻っていく。
「こーひー2つにみるくてぃー、こーひー2つにみるくてぃー・・・。こーひー2つにみるくてぃー・・・。」
彼女が僕を覗き込んでそっと聞く。
「どうしてアイスコーヒーはコーヒーじゃないの?」
ちょっと間を置いてから、僕は答える。
「それは、アイスコーヒーに氷が入るからだよ。」
「室温にさらされた氷が、どうなるか知ってるか?溶けるんだよ」
あいつがコーク・ザ・ベストの灰皿を引寄せ、煙草をくわえる。
「氷が溶けりゃあ水になる、味が変わる」
あいつが煙草に火を付け、煙を吸い込む。
「味が変われば品質が保てない。品質が保てなきゃ2級品だ、俺たちは扱わない。」
あいつが煙を吸い込む、息を、止める。
「なあ・・・違うか?」
息を止めたまま、そう口にする、あいつが吐きあげる紫色の煙。稲妻のように立ちのぼる、それは夏の雲・・・夕立の予感がする。
「ああ、そうだな」と相づちを打つ。
「おまえも吸えよ、」とあいつが煙草を一本、僕に投げつける。
「それともコーヒーが先か?」
テーブルの上にはマグカップが2つ、もうすでに置かれている。
「これは熱いやつか?ぬるいやつか?」
「試してみろよ」
あいつはにやりと、そのマグカップを口に運ぶ。
僕も、あいつにならう。
口をつける、カップを傾ける・・・。
それはぬるい、喉をするりと通って落ち・・・
腹にずっしりとした重みを残す。
ぬるい。
「ぬるい、」
「その通りだ。」
ぬるい、
コーヒーがぬるいのはより多くそれを摂取する為である。体内に取り込められたそれは毛細血管より血液中へ、血液中のそれは動脈を通って脳の毛細血管へ、毛細血管より脳細胞へ、それに脳が反応する、ドーパミンが放出される、それが刺激する、脳を刺激する。ドーパミンそれが僕の脳を刺激して刺激して刺激するそれが僕の脳を刺激してドーパミン刺激して刺激するそれがドーパミン僕の脳を刺激して刺激して刺激して刺激する。さらに欲する、コーヒーを飲む。それが僕の脳をドーパミン刺激して刺激してドーパミン刺激するそれがドーパミン僕の脳をドーパミン刺激して刺激して刺激するドーパミンそれが僕の脳を刺激してドーパミン刺激して刺激するドーパミン。コーヒーがぬるいのはより多く、それを摂取する為である。
僕は全く新しい頭であくびをする。
「わかるかい?眠いんじゃない、脳が酸素を欲しているんだ。」
あいつににやついて見せる。
「血に飢えたハイエナのようにか?」
「そうだ、イボイノシシのようにさ。」
僕たちは楽しそうに笑う。
「ひさしぶりだな、」
「そうでもないさ、」
あいつが言う、
「おまえが覚えてないからだ。」
「覚えてない?」
あいつは黙って煙草の火を見つめる。
「まだ弾いてるのか?」
「ああ・・・」
あいつが応える。
「スタジオでか?」
「ああ・・・」
「大したもんだ、プロだぜ、プロ。」
あいつはゆっくり僕を向く、
「ああ、もういいだろ?いつもの繰り返しだ。」
「繰り返し?」
「その女、誰だか覚えてるか?」
あいつが僕の隣を、指をさす。女がそこに、座っている。紅茶を飲んでいる。
「誰なんだ?彼女?」
僕が聞く、
「おまえが聞いてみろよ。」
僕はせき払いをする、ゆっくりと訊ねる。
「君は誰だい?」
彼女はすぐには応えない。
「僕の友だちなのかい?」
僕が言う。
「そばにはいたわ、」
彼女が言う。
僕の脳裏に覚えのある風が吹く。この匂いを知っている、この音、水の流れる音・・・川が近くにある、生きた匂いがする。土の香り、生臭さ・・・目を閉じながらふうっと息を吐く、コーヒーで軽いはずの頭がぐらりと揺れる。
「無駄だよ、こいつは覚えて無いんだ。思い出す気も無い。」
冷たく吹き込むような不安を感じる。
「おれは何をすればいいんだ?」
あいつは、口に溜めていた空気をふうっと、吐きあげる。
「いいか?おまえはある一日を境に変わったんだ。その一日が知りたい。その一日をおまえが取り戻せば元通りになる。」
不安は背中に貼り付いている、それが冷たく痺れている。
「思い出さなくちゃいけないのか?」
「それはおまえの義務だよ。」
「義務?」
「過去から逃げることは出来ない。現実からもだ、おまえはどこにも行かない。この会話があったことすら忘れる。」
「それはいけない事か?」
「逃げている間は前には進まない。幾らおまえが歩いてるつもりでも、それはどこにも辿り着かない。」
「正論だよ。おまえの言う事は、いつも正しい。」
あいつは苦い顔をして煙草をもみ消す、マグカップのコーヒーを一気に空ける。
「こんな事は言いたく無い。だが認めるよ、おまえが羨ましい。そうやって生きているおまえが憎く、羨ましい。」
「おまえはおれに言ってるのか?」
「おれって誰だ?」
いったい『おれ』って誰なんだ?
「おれはおれ、おまえはおまえだ。」
短い沈黙が走る。
「弱いのは、おまえだけだと思うか?」
「おれの苦しみが、おまえにわかるか?」
「おれは、おまえが羨ましい。羨ましく、憎いんだ!」
その日の僕が、僕と重なった。
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