第8話


「さて、」


 水を吸ったスポンジのように重くなった頭を、なんとかする必要があった。震える手で受話器を戻し、壁を伝うように歩く。まるで吸い寄せられるように、光を放っていた売店に辿り着いた。

「いらっしゃい」

そう歯の抜けたおばさんが笑っている。

「大丈夫ですか?」

僕はふらりと身体を起こすと笑いかけてみた。

「大丈夫ですか?」なるほど、そういうことか・・・。

「冷たいコーヒーと煙草を下さい。」

これでいいんだろ?僕は大丈夫なんだろう?

「どれになさいます?」

そうおばさんは笑っている。

コーヒーが欲しい、どれになさいます?

煙草が欲しい、どれにするんですか?

ちゃんと選んで下さいよ、大丈夫ですか?

どうしたんですか?警察呼んだ方がいいんじゃない?

この人おかしいわよ。

僕は、

冷たいコーヒーと煙草が

欲しいんだ。


 押し付けられるようにしてもらった缶コーヒーとキャスターマイルド。僕は光の落ち着いた場所を探してようやく腰を下ろした。


なぜ、こんな場所にいるんだろう?


 最後に覚えているのは部屋で見つめていたリンゴ、リンゴは何処に行ったのだろう?その時不意に思い出した。僕は地下室で彼女と話したのだ、電話越しに・・・。

 煙草に火を付けると缶コーヒーを開けた。この場所と地下室は電話で繋がっていたのだ。だから、僕は、ここにいる。何故かいつもより落ち着いていた。混沌の真只中で、僕はその方程式を単純に理解していた。


僕はここに居るべくして連れてこられたのだ。


 自分の身の回りで何かが起ころうとしている、それを単純に理解していた。僕は落ち着き、煙草をふかし、コーヒーを飲み・・・周囲に神経を張り詰めた。

 僕の身体から細く柔軟な糸が周辺に張り巡らされ、それに触れる人、空気、音、色、その全てを吸収し、理解する。何一つ逃さない、今の僕にミスという言葉はあり得ない。

 そうして5分、彼女が現れた。人込みのなか、ほんの一瞬を縫うように長く黒い髪が揺れた。僕は手の物を投げ捨て、弾けるように後を追う。

 人の隙間から覗く彼女は昼間と同じ格好だ。ブルージーンズの上に白いワンピースを着て、それを皮のベルトで締め付けている。慣れた様子で人波をかき分け、速度を緩めずに進んでいく。駅から離れて、彼女はネオンが濃くなる方角に足を進めている。

 しばらく歩くと人波の速度が変わった。人がぬめるように、ゆらゆらと流れ始めた。道の隅から人が声をかけ、そんな人達がお互いに言葉を交わしている。酔った親父が笑っている、赤い口紅が微笑んでいる。

 彼女はそんな色付いた路地の一つを曲がり、一つのビルに姿を消した。黄色にピンクの文字で書かれた電飾看板、エレベーターが一つあり、それが3階で止まった。

 僕は彼女の後を追う。ボタンを押してエレベーターを呼び、乗り込み、またボタンを押して順番に光る数字を見つめ・・・3階で降りた。

「いらっしゃいませ」そう蝶ネクタイの男がにやついた笑顔で囁く。それは声ではない、耳には届かない。でも、はっきり聞こえてくる「ようこそ」「いらっしゃいませ」と。

「当店のシステムは御存じでしょうか?」

今度は聞こえる声でそう言った。カウンターの突き出した部屋に黄色い照明が弾け散っている。赤い絨毯、その上にカウンター、ガラステーブル、皮張りの黒いソファーが二つ。その先に続く廊下、それを区切った白いカーテン、青く薄暗い照明が漏れている。

「お客様?」

そう蝶ネクタイが僕を覗き込む。

「システムですか?」

僕が聞き返すが早いか、蝶ネクタイは壁に掛けられたボードの数字と文字を読み上げる「当店では女の子の嫌がる行為は一切禁止ですので御了承願います。」


「どのコースで御希望でしょうか?」

「さっき、ここに来た人は?」

「はあ?」

「女性の人なんですけど」

「ああ、あの娘ですか?」

「髪が黒くて肩まであって」

「はいはい、」

「白い服にジーパンを履いて」

「お目が高いですね」

「靴はスニーカーで」

「それでは別に指名料金がかかりますがよろしいですか?」

「料金ですか?」

「彼女の方で準備が整うまで待っていただく事になりますが、それでもよろしいですね?」

「待つんですか?」

「それでは先に料金の方を計算させていただきます。」

 

 財布に入っていた金を渡すと、僕はソファーに座って待った。蝶ネクタイがグラスに入った麦茶をテーブルに置いていった。

 

 20分ほど、そして彼女がやって来る。白いカーテンが揺れたかと思うと、ゆっくり、透き通った手で持ち上げられる。ネグリジェの彼女がそこにいる。部屋を見回してから僕と合わす彼女の目に色は無い。まるで僕の後ろを眺めるような目に一瞬だけ微かな色が映り、そんな驚きはすぐにかき消される。

「どうぞ」

彼女はその先の青い空間を僕に差し出す。僕は立ち上がる。彼女の側に行くと甘い柑橘系のにおいがして、彼女がふわりと僕によりかかって手を握る。

 廊下の先、そこには幾つもカーテンに区切られた空間があり、男と女の声が漏れている。彼女の肌はさらりとして、羽のように、まるで彼女はそこにいない。僕はとても不安になる。この場所に見覚えは無く、彼女はそこにいない。彼女はそこに存在しない。

 僕は手を引かれるまま廊下を曲がり、カーテンの開かれている一つの空間に通される。シーツの張ったベットが一つ、小さなテーブルに時計とボックスティッシュ、灰皿、一脚の椅子の上に洋服籠、そのなかにバスタオルが2枚、壁にかかったハンガーが二つ。

「ここが私の部屋なの」

そう彼女が言う。

 何を言えばいいのだろう?

彼女がシャツのボタンを外しにかかる。

「何も言わなくていいのよ」と、

僕のシャツを脱がせる。

「しゃべりたいんだ」

そう僕が言うと彼女が色の無い目を細める。

「まず、シャワーを浴びましょう。」

 身体をバスタオルで包み、シャワールームに移動する。彼女の肌を滑るようにお湯が流れ、彼女は手とスポンジで、僕の身体を泡立てる。泡を流し、僕はうがい薬でうがいをする。

 僕らは部屋に戻る。はらりと、唐突に、彼女がバスタオルを床に落とす。目を奪われた僕は裸の彼女、いきなりの唇を感じる。彼女は森の木の実を集めるリスのように落ち着いて無駄が無い。僕のタオルも床に落ち、僕らはベッドに素肌を横たえる。

 彼女の唇が湿り気を保ちながら首筋を伝ってその下に流れていく。そんな彼女の唇は刺すように、痛い。溶ける気配さえ無い氷、そんな肌を焼く冷たさだ。彼女は僕の身体に浮いている様々な線に指を這わせる。フラッシュが焚かれる。泣いている女の子。ぼやけた青い天井が見える、フラッシュが焚かれる。瓶の外の白い雲。あばらに沿って湿り気を残す長い舌、フラッシュが焚かれる、彼女の頬に残った涙の跡、フラッシュが焚かれる、うずくまって膝の間に顔を埋める彼女、フラッシュが焚かれる、フラッシュが焚かれる、瓶のなかの彼女・・・「僕は瓶の底に居たんだ。」血の気が抜けていく頭で僕は言う。熱くほてり始めた僕、そんな一部を触れる彼女の手がピクリと振れて、止まる。

「雲が流れている、そのなかに覚えられない幾つかの話があった。」

彼女はへその辺りに頬を当てたまま動かない。

「それで?」

そう彼女が言う。

「うずくまっていた。」

「ずっとうずくまっていたの?」

「ずっとじゃない、でも長い間そうしていた。」

「どれくらい?」

「わからない。」

「どうして?」

「時間なんて無いんだ。」

「時間が無いの?」

「正確にはあるんだと思う。でも、自分の意識が伸びたり縮んだりするから時間ってものを客観的に見れなくなる。」

「時間という観念がくずれるのね?」

「そう、そこで僕らの意識は行ったり来たり、ゆっくり歩いたり急いで走ったり、何度も同じ所を廻ったりする。」

「その内にそれが初めて見たものか何度も聴いた話か思い出せ無くなる・・・」つぶやくように、彼女が言う。

「そうだね、だって思い出そうとしたらその場所に意識が戻ってしまうからね。」

「それは辛いことなの?」

「辛いという気持ちにしがみついていたら、そうかもしれない。でも、意識に痛みは存在しない。感覚は無いんだ、通り過ぎるだけだから・・・。」

「そうね、通り過ぎるだけよ。」

「いつも、そうなのかい?」

「そうね、何も残さないわ。」

彼女は身体を引き上げて僕の隣りに頭を並べる。

「それから逃れたいとは思わない?」

「何の為に?」

彼女は初めて僕の目を見た、深い森のようだ。

「救われる為だよ。」

深い森の奥で木々が風に揺れる。

「あなた、救われたいの?」

「何かを、待っていたんじゃないのかい?」

彼女が俯き、こうつぶやく。

「私を連れ去って。」

僕がうつむき、こう呟く。

「今、ここで?」

「私は望めないの。」

「君に望む権利はあるよ。」

「権利なんてどうだっていいの。私は望めない、あなたが望むしか無いの。」

「望むだけでいいのかい?」

「あなたが望み、それを強くイメージすれば、それは現実になるわ。あなたはその為にここに来たんでしょ?」

僕は身体を起こす、息を吐く。

「思い浮かべるだけじゃ駄目よ。」

「君がそこにいる、僕がここにいる。」

「それが現実ね。いいわ、そこから始めましょう。」

彼女が身体を起こす、目を輝かせる。

「まず、君が僕にキスをする。」

「私が?どうして?」

「それで僕が立ち上がる、きっかけになるんだ。」

「きっかけはいつも熱い口づけなのね?」

彼女が楽しそうに笑う、笑っている。

「それから?」

彼女が楽しそうに笑っている。

笑っている。


 口づけを受けた僕は、蛙の王子様がお姫様を抱え上げたように、立ち上がる。「立ち上がったあなたは何処に行くの?」彼女の手を引いてこの部屋を出る。「駄目よ!こんな姿で?」なるほど、シャツとズボンを手に取る。「あら?レディーを差し置いて?」僕は思いとどまる。彼女の服は?彼女より先に身だしなみを整える訳にはいかない。彼女の服を取りに行かなくては・・・。でも、その服は何処に?「更衣室よ」更衣室だ。「廊下に出て右のつきあたり、左手にあるロッカーの一番奥」場所もわかっている。脇腹に風を感じながら彼女に目配せをしてカーテンを閉じる。青い照明は絨毯を灰色に見せる。僕は絨毯を踏みしめ耳を澄ます。人に出くわす気配は無い、息は鼻から吸って口から吐く、進めるあいだに、すばやく、進めるだけ進む。「あなた今、すごい格好なのよ」余計なことは考えない。もし誰かに出くわしてもトイレは何処だと聞いてやればいい。まだ幾らでもごまかしが効く。僕は廊下を右に曲がる。裸足の足音はあがらない。「そのつきあたり」決してあせらない、あせってはいけない。僕はつきあたりのカーテンの前に着く、人の気配は無い。僕はカーテンをくぐり、それをしっかりと閉じる。「場所は覚えてる?」左手の一番奥・・・タイル張りの床、左側に並んだスチールロッカー。一番奥まで抜き足で歩く。「知ってる?あなた今、裸なのよ」廊下の先にドアが一つある、5メートルと離れていない。「それ、支配人の部屋なの」ドア越しに男の声が聞こえる。「誰かいるのかも・・・」ぺたり、ぺたり・・・ちいさいながらも足音があがる、動悸が速くなる、肩で呼吸をしないと音が消せない。ロッカーに身体を押し当て蝶番を滑らせ開ける。そこに見付けた彼女の服を両手にかかえる「ハンドバックも!」ハンドバックもかかえる。後は逃げるように廊下を戻って部屋に帰る。彼女のワクワクした瞳を見つける。「それから?」服を着る。「それから?」彼女の手を握る。裏口から外へ出る。「裏口なんてあるの?」裏口なんてあるのか?「あるわよ、更衣室の奥よ」非常口から逃げるようにその場所を去る。少々の物音は気にしない、でも扉はゆっくりと後ろ手に閉める。「外に出たら走るのね?」息が切れるまで出鱈目に走る。「何処に行くの?」人通りの多い喫茶店に入ってコーヒーを飲む。「それから?」時間をつぶして終電間際の混んだ電車で家に帰る。「それから?」おやすみのキスをする。裸になって全てを忘れて寝る。僕らは幸せに眠りにつくんだ・・・。


「うまくいくといいわね。」


「うまくいくさ。」


彼女は目を閉じながら熱いキスをくれる。

口元に浮かんでいる笑みが催眠術をかけたように、


僕を立ち上がらせた。

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