第7話

 川べりで、僕はりんごを手に座っていた。ジジッとりんごがつぶやくと、解放されたように頭を上げてその場所を見渡す。そこは以前誰かといた場所で、その誰かの姿は無い。

 両岸が森。川がさらさらと音を立て、立ち上がると風景がゆらりと揺れる。角度の変わった光は水の上を踊らない。ひんやりと冷気が木々の間から吹き抜けて僕の背中を洗った。

 

「この奥から、彼女はやってきた。」


 僕は振り向く、森の奥を見つめる。木の幹や枝が重なって、暗く影を落としている・・・その先は自分に属さない異世界なのだ。その森が僕を誘っているのか拒んでいるのか、それすらわからない。今まで、こんな気持ちになったことは無い。

 僕は手のりんごを鼻に付けて息を吸い、目を閉じると気持ちを固める。僕はこの先に行かなくてはいけない。僕は彼女に会わなくてはいけないのだ。さくりと川辺の草を踏みしめると、魚のたてる水音が「さようなら」と耳に響いた。


 ぱり、ぱりぱり・・・ぱり、そう枯れ葉が音をあげている。この森に苔は生えない。湿り気が足りないのかもしれない。木の葉が、僕の目の前でひらりと舞い降りた。乾涸びた枝が何本もの指に見える。幾つも空に伸びるひび割れた手、長い指先。

 枝が毛細血管のように伸び、重なり合う、そこから覗く空は暗い。夜の暗さでは無く、もっと根の深い暗さだ。それはその場所の暗さであり、その場所の色・・・くすんだ空、ドブ川に浮かぶネズミの腹、そんな色だ。

 もっともそんな場所にも夜はやってくる。そんな闇は重たく、染みるように拡がっていく。僕は暗くなる前に何処かに辿り着きたかった。でも、何処に?この森はどこまで続いているのだろう?はらりと木の葉が舞い落ちる、僕はそれを乾いた音で踏み締める。

 それから半時間、小一時間歩いたところで森の風景は変わらなかった。後ろをふりかえり、僕はあまりに深く来てしまった。そこには均一に茶色い風景が拡がっている。木の葉が雪の結晶のように遠くで落ちている、降り積もっている。

 闇は音も無く空から降ってきた。その気配に気付く頃、闇はすでに深く降り立っている。少しずつ、少しずつ、増す勢い、その微妙な変化に気が付かない。信じたく無い、だけど闇は確実に濃くなり、暗くなる。

 目が風景をぼやけて捕らえるようになり、そこに幹があると思って伸ばした手は何も掴めずに宙を切る。ふとしたあせりが僕のなかでふくれあがり、それが恐怖という化け物を呼び起こす。

 僕は進まなければと思う、足を速めなくてはと思う。でも急げば急ぐほど闇は僕を包むこむ。


結局、僕は前になど進んでいないのではないだろうか?


 闇の触手が僕の喉笛をつかむ。ぬるりと、その感覚が冷たい汗を触発させる。僕は息を飲む、身体の動きを止めてしまう。闇はするりと僕を包み、「このままでは飲まれる」と思った時に思い出した。僕は以前、闇に飲まれた事がある。僕はそのなかで呼吸をし、手足を動かし存在することが出来た。それなら今も、できるはず・・・そうして僕は闇と同化した。

 

(全く前も後ろも無い空間で、僕は闇になることで自分を認識することができた。僕には手も無い、足も無い、しかし僕という意識はそこにあった。その意識は何かを求めている、前に進もうとしていた。

 光の存在しない世界はそこにあった。そこに物質というものは存在しない。闇が薄く、濃く、渦巻く事でその空間が捩じれているだけだ。しかしそんななかでも意識を保つことができた。それはかつて覚えた感覚に従うだけでよかった。自分の意識を闇に飲ませ、それを客観視することで僕の意識は流れていった。形というものを放棄することにより、その存在は崩す事のできないものへと変わる。形の無いものを壊す事は出来ない。

 僕の意識は「求める者」として歩みを続けた。何も存在しない世界から、何かを見付けようとしていた。

 僕はそんな全てを放棄して状態で、自分のなかに生じる流れにより「待ち受ける」彼女を見付け出した。それは見つけるとも言わないのかもしれない。ただ、流れがそこに辿り着いた。僕たちの意識は絡みあい、意識と意識とのぶつかり、エネルギー、深い空間の歪みが生じ・・・そこに一粒の光が生まれた。)

 

そして、

僕は光のなかに存在している。


 強い光のなか、僕は真っ白な廊下を歩いている。天井がやけに高い宮殿の廊下、大理石の床に僕のたてる足音が響いている。

 その空間に生気というものは存在しない。全てが冷たく、そして乾いている。空気のなかに身に刺す危機感のようなものが充満しており、それを感じた僕は自然と歩みを早めている。

 彼女がこの世界の何処かにいることはわかっている。きっと彼女はそんな何処かでうずくまっているのだ。そして彼女は待っている。僕が辿り着くのを待っているのだ。

 白い廊下はずっと続いている。床と天井が伸びるように先の一点に吸い込まれており、その一点で光の粒に変わっている。そんな先まで僕は歩けるのだろうか?僕はなるべく辿り着く事を考えないようにする。今、自分の目の前にある一歩を歩く。今、その一歩を見つめるのだ。

 しばらく歩いただろうか、気が付くと天井が低くなったように感じる。空間が狭まったことを圧迫感として感じ、その力は目に見えて強くなる。

 彼女はこんな圧迫感に押されうずくまっているのだろうか?僕は首を曲げ、肩をすぼめずには耐えられなくなる。そして、一度そうすると、伸ばすことができなくなる。実際にそうなのかわからない、でも壁や天井がそこまで迫っているように感じるのだ。

 圧迫され、縮こまり、それでも歩き続け、圧迫され、圧迫され・・・目を反らさずにはいられない。両腕を胸の前で畳み、目を閉じてしまう。膝が自然に曲がり、前に進む歩みが小さくなり・・・ついに立ち止まってしまう。

 一度立ち止まると、しゃがまずにはいられない。閉じた瞼に力が入り、腕は痛いぐらい身体に押し付けられる。僕が小さく押し潰されるほど縮こまり、それでも彼女に会いたいと思った時、ふとその空間の圧迫感が消え去った。


そして僕は瓶のなかにいる。


 ガラスのつるりとしたやつ、口の所が丸く厚くてコルクの栓のついているやつだ。僕は瓶の底に座って外を眺めている。色の付いた風景はまるでぽっかりと雲のように左から右へ流れていた。それが彼女の記憶だ。触れる事の決して無い安全な場所で、僕は断片的な映像を無意識の内に鑑賞する。

 それはもちろん記憶に残らない。それは通り過ぎるだけで留まらない。それは、色の付いた過去の痛みに過ぎない。彼女の後ろに影が見える、それが笑っている。それが彼女の望むものを彼女に与え、そして彼女が泣いている。

 その風景に痛みは無い。それは麩菓子のように僕を通り過ぎる、夏の風のように何も残さない。僕は瓶のなかにいるのだ、閉じられた空間、滞る意識。僕はそこで時間を失って呆然と座り込んでいた。

 どのくらいそうしていたのだろう?いきなり、そう感じた僕は長い間そこに座っていたかもしれない。とにかく僕はその場所で突如、彼女の存在を感じた。「彼女に見られている」そう思った時、手のリンゴがジジッと鋭く熱を持っていた。

 膝にまわしていた手を解いて、瓶の底に付き、見回してみる。ガラスの壁、歪んだ景色、そこから彼女を見付ける事はできない。でも、未だに感じている彼女の気配。僕はもう一度目を強く閉じ、心を落ち着かせる。

 まず、その場所の湿度が変わった。ひたりひたりと肌に水気が刺し、呼応するように細かい震えが身体に走る。僕は吐く息が白く留まる感覚に、目を開ける。


そこは、コンクリートに囲まれた窓ひとつ無い地下室だ。


 そして、僕は重く閉じられた鉄の扉に背を向けている。聞き慣れた、耳に残るベルの金属音が響く。部屋中央の木の机に黒いダイヤル式の電話があった。ジリジリと、その音が僕に呼びかけている。ジリジリと、ジリジリと、早く電話に出るんだ、ジリジリと、ジリジリ、ジリジリ、早くしろと。

 僕は一歩ずつ机に近付いていく。その音が本当は止んでしまえばいいと思いながら、僕は近付いていく。一歩、一歩、距離が縮まっていく、叫び声を止める様子は無い・・・僕はその受話器を取らなくてはいけないのだ。

 息を飲み、手を伸ばし・・・受話器を持ち上げる。するとそこに騙されたような静寂が訪れた。僕は電話の向こうに耳を傾ける。

「もしもし・・・」

そう語りかけた声はサァーっと微かに流れる音にかき消される。僕はじっと向こうの世界に耳を傾けた。

 騒音は徐々に音量を増し、その音に重なった息を聞き取った。すぐ近くで聞こえる音、その呼吸が何かを言おうとしている。ザァーっとその騒音が強くなる。呼吸が騒音に消されそうになる。呼吸が激しくなる。何かを伝えようと、誰かが、強く思っている。

「もしもし?!」

騒音が大きくなる。

「誰かいるんですか?!」

ザァーっと、大きくなる。

「もしもし?!!」

大きくなり、大きくなり、何も聞こえなくなり、切れてしまう前に僕は聞いた「助けて・・・」。そう消えるような声で言ったのは、彼女だった。ツーッツーッツーッツーッ、定期的な音が僕の耳もとで響いていた。ツーッツーッツーッツーッ、そう繰り返される音、ツーッツーッツーッツーッ、ツーッツーッツーッツーッ。

 

 ツーッツーッツーッツーッ、ツーッツーッツーッツーッ、定期的な音がツーッツーッツーッツーッ、ツーッツーッツーッツーッ、僕の耳もとでツーッツーッツーッツーッ、ツーッツーッツーッツーッ、響いていたツーッツーッツーッツーッ、ツーッツーッツーッツーッ。

 

 ツーッツーッツーッツーッ、ツーッツーッツーッツーッ、そう繰り返される音、ツーッツーッツーッツーッ、ツーッツーッツーッツーッ。駅の改札を出た所、その奥にある公衆電話、僕はその受話器を握りしめていた。ふと気が付き、受話器を下ろし、見回した。

 

いつも仕事に降りる駅だった。


僕は、呆然と人波を見据えていた。

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