第6話

「おはようございます」

毎日に変化など無い。

「おっ!おはよう。」

同じものが少しずつ姿を変え、同じ弧を描く。それを一定のリズムでなぞり、そうして時間が過ぎていく。だから、昨日の僕は基本的に今日や明後日の僕となんら変わりは無い。それが入れ代わった所でどうなろう?つまり、今日の僕がそのまま明日の僕になって失われるものは無い。

「おまえ、今日は下界な。よろしく頼むよ」

 週末は終わった。何日かが過ぎたのだろうか?しかし、まだ休日まで日があるように思う。

「昨日の時間外に来たのはこれだけか?」

 僕はいつからか自分の周りで起きている事へのコントロールを失った。何もかもが望む方向から外れ、目に写る全てが怒りの対象となった。日々、何処にぶつければいいか解らない負のエネルギーを抱き、そのエネルギーはふつふつと僕を蝕んでいた。それがある日、耐えられない衝動に変わった時、僕は望んでいた全てを自ら放棄し、そして望むことを止めた。

「何階ですか?」

 今、考えてみると、元々僕が望むべきだったものは僕の知り得ないものだったのかもしれない。望むものだけを何度も心に描き、その空想に安心していた。それが現実との歪みを生み、それが黙認できない状態になった時、僕は気付かなければいけなかったのかも知れない。

「いつも、ごくろうさん。」

もし、自分の間違いに気付き、執着さえしていなければ、僕は見合ったものを手にしていたかも知れない。ほんの少しの間違いだったかも知れない。僕にだって望むことはできたんだ。

「ちょっと、ちょっと!君!!」

誰にだって望む権利はある。自分の生きたい生き方があって、もしそう生きれないとしても望む権利はあるはずだ。

「あのさ、悪いんだけど。郵便物をまとめるゴムをきつく巻くの、止めてくれないかな?」

このハゲで太った親父にも権利はある。

「ちょっと、聞いてるの?」

その権利を行使しているかどうかは別にして、

「こうやってきつく巻かれると曲がるじゃないか・・・ねえ!聞いてるの?」

この親父には権利がある。

「あなたは望んでいるのですか?」

「ハア?何言ってるの?」

「あなたは、望んでいるのですか?」

「課長!駄目ですよ、この人・・・」

人は数え切れないほど存在している。そして、そんな一人一人の望むべき世界があるはずだ。

「えっ?何?・・・あっ、そうなの。」

自分が存在する理由すら理解できない存在。

「あなたには権利があるんですよ。」

「すいません、いつもありがとね。課長はもういいですから」

「あなたにも権利はあるんですよ。」

「わかりましたから、いつもありがとね。」

「ごめんね、」

「もういいですから!」

「・・・・。」

「僕にも権利はあるのでしょうか?」

「えっ?そりゃあもちろん、ちゃんと仕事をすればお金だってもらえますよ。当然権利だって、ねえ・・・。」

「そうですね、きちんと仕事をしないといけませんよね。」

僕が仕事をこなしていないとでも言うのだろうか?そうすれば僕にも権利があたえられるのだろうか?でも、そうしたとして・・・僕は一体何を望めばいいのだろう?権利、権利・・・それは一体どういう事なのだ?


「おまえ、4階の課長さんともめたんだって?」

おっちゃんは煙草をくわえながら灰皿に手を伸ばす。

「あの親父はうるさいからなあ・・・まあ、気にすんなよ。」

おっちゃんは灰を落とす、ポケットから小銭入れを取り出す。

「何かおごってやるよ、何がいい?お茶か?コーヒーか?おまえお茶しか飲まないからなあ・・・玉露にしといてやるよ。」

ごとり、ごとり・・・そう自動販売機が音を立てる。

「はいよ、」

ことりとお茶の缶が音を立てる。

「いいか?気にするんじゃねえぞ!おまえはちゃんと仕事してんだから、輪ゴムかけりゃあ手紙ってのは曲がるんだからよ。」

お茶の缶は深緑が主体のデザイン、その表面がゆっくりと汗をかいている。

「今日はもう飯にするから、ちゃんと時間内に帰ってこいよ。いいな?」

おっちゃんは煙草をくわえ、缶コーヒーを握ると立ち上がり、休憩室を出ていった。僕もお茶の缶を握ると立ち上がり、外へ出た。


 石の外は暖かい。いつからか人は屋根の下に籠るようになり、いつしか屋根は人を閉じ込めるようになった。始めは暑い陽射しや雨から逃れる為だったのかもしれない、そしてそれは自らを守るものから束縛するものへと変わった。

 僕はいつもの場所でお茶とおにぎりを買う。いつもの値段を払い、ビニール袋につめてもらい、歩いている途中で気が付いた。お茶は買わなくてもよかったんだ。

 2本のお茶をどうするか、そのことを考えながら公園に着き、ベンチに座って考えようと思い、そこに座っている人に気が付いた。黒髪の女性、革のベルト、白いワンピースにジーンズを履いている。

 そこは僕の場所だ、その思いに間違いは無い。だけど、見知らぬ人にそう声をかけていいものだろうか・・・。僕はとりあえず横に、邪魔にならぬように座る。それから、そうかと思う。2本ある1本をあげればどいてくれるかもしれない。

 僕はビニールの袋から一缶取り出し、彼女に渡そうと横顔を覗き込んだ。その時、僕はどきりとする。切り揃えられた前髪の下で、色の無い彼女の目が細く透き通って見えたからだ。

 彼女は前を見つめていた。前方の生け垣、その先に視点を合わせ、頭が風に揺られてふらりと振れた。彼女はゆっくりと頭を戻して、こちらを向いた。

「だれ?」

やっと、口からこぼれた声はうまく響かない。視点の合わないまま彼女は僕を見つめ、それからお茶の缶に目を落とした。

 それに手を伸ばし、両手で添えるように持ち、それでようやく僕にもらったのだと理解したようだ。「ありがとう」と色の戻った目で笑顔をくれた。

 かん、かん・・・かん、と彼女が缶を開けようと音がする、うまく開けられないのだ。

「森のなかを散歩してたのかい?」

そう聞いた僕の声は、こん・・・と彼女が缶を開けた音と重なって響いた。

「苔の道が、気持ちよかったの」

お茶を一口飲んだ彼女が言った。

 かん、かん、と僕は2度ほど音を上げてからお茶を開ける。一口、お茶を飲んでから袋のおにぎりを思い出した。

 プラスチックを引寄せ、がさりと音をたてる。包んであるフィルムを剥がし、のりをうまく巻き付ける。がぶりと噛み付くと、焼き海苔が小気味良い音をあげた。

「えらいわね、ちゃんと食事なんかして。」

「きちんと食べないと動けないからね。」

「わたしなんかここ何日ろくに食べて無いわ」

「食べなきゃ身体に悪いんだよ。」

「一昨日ぐらいに桃を食べたわ。ぐしゅぐしゅして、ぼたぼた冷たい汁を落としながら素手で食べたの。食感を食べたと言う方がいいかもね、おいしかったわよ。」

「おいしかったのなら、また食べればいい。」

「駄目ね、2個も食べると吐き気がするの。無理に食べると吐いちゃうわ。」

「よく倒れないね、」

「倒れるわよ、仕事中によく気を失うの。」

「ふーん」

ぱりっと僕の噛んだおにぎりが音を立てた。お茶は4、5回ほど噛んでから飲むのが一番いい。それ以上噛んでからだと口のなかにねばりが出るし、それ以下だとおにぎりの味がうまくわからない。僕は口に入っていたものを喉に流し込むと、一口飲んで喉をきれいにした。

「りんごは?」

「りんごがどうかしたの?」

彼女は両手をベンチに、胸をのけぞり反らしている。

「好き?」

「そうね、好きよ。でも、しばらく食べてないわ。」

「そうか食べてないのか・・・」

「残念だけど。」

彼女はほうっとため息をついた。

「もう行かなきゃ」

僕は立ち上がった。

 お茶を飲んでいる彼女に残ったおにぎりを渡し、「食べないと駄目だよ」と言った。目を細めて「がんばってみるわ」と彼女が言った。僕はその場所を去る。最後に風が強く吹き、何処かでざわりと聞き覚えのある声が上がった。


きっかけは変化を生む。


 時間より早く戻った僕は缶コーヒーを飲みながらその時間を待っている。机を指でこつこつ叩きながら、目の前にあった灰皿をくるりと回してみる。妙に煙草が吸いたかった。

「よう、早かったじゃないか」

声を掛けてきたおっちゃんに笑顔だけで答え、やはり迷ってから煙草をもらっていいか尋ねる。

「たばこ?」

おっちゃんは頭の裏あたりから声を出す。

「おまえ、煙草なんか吸ったか?」

「昔、吸ってたんです。」

そう答えた僕におっちゃんは「コーヒーまで飲んでるな」と、缶を珍しそうに持ち上げる。

「まあ、欲しいと言うならかまわんけど・・・それにしてもどうした?ほんとに。」

「別に、そんな気分になったんです。」

おっちゃんはそれからも妙な勘ぐりを入れる。

「4階に何か言われたせいか?」

「変なクスリでもやったか?」

「女でもできたか?」

女?

 僕はもらった煙草をくるりと回して口にくわえ、貸してもらったライターで火を付ける。煙を口に溜めてゆっくり吹き上げる。頭がくらりとし、それから霞みが晴れていく。早くこの場所を離れたくなった。早く一人になりたかった。早く、求めている何かを満たしたいと思った。

「そろそろ仕事にかかりましょうよ。」

半分ほど吸った煙草を消して言うと、おっちゃんがとまどったように「そうだな、時間だな」と口にした。


 1時間、1分、1秒・・・仕事場での時間をあんなにいまいましく思った事も無い。急がなくてもいい作業なのに駆け足になった。やる必要も無い仕事まで引っぱり出しては片付けた。とにかくじっとしていられない。一つの作業を終えると腕時計をチェックし、次の作業に取りかかった。

「おっちゃん!!次は?!」

そう聞いた僕に戸惑いながらおっちゃんは仕事をくれた。

「別に今やらなくてもいいんだけど・・・」

そうつぶやく言葉は僕に届いていなかった。身体のどこかに火がついた。ポンプのようにそれは全身にエネルギーを送り、僕の身体をぱんぱんに膨らませた。


僕にはやらなければいけないことがある。


意識が身体という物質を乗っ取る。僕はじっとしていることが出来なかった。


僕には辿り着かなくてはいけない場所がある。


動作の一つ一つに汗が滲み、それが冷たく乾涸びてはまた滲んだ。そして終業時刻の1時間前、おっちゃんがおどおどした調子で僕に告げた。

「おまえ、今日はいいだろ。やることも無いし、帰っていいぞ。」

その声を聞いた僕は「おつかれさまでした」と即答をした。


 僕は歩く。僕は駅に着く、電車に乗る。僕は、電車に乗り、駅に着く、僕は歩く。

 

商店街の店先で目についたリンゴを買い、僕は歩く。

 

 自分の部屋に戻るとカーテンを引いて暗くする。鞄からリンゴを取り出すと机に並べる。僕は座り込み、その一つを手に取り、じっくりと見つめる。

 いびつな球形、縦に赤く筋の入った物体、その奥にはねっとりと香ばしい甘味が練り固まっている。浮き出た筋が、もぞもぞ、もぞもぞと、動いている錯覚に捕らわれる。黄色い斑点、それが流れ星のように、いびつな球形・・・その頂点のくぼみを目指し流れている。

 僕は心を落ち着かせ、全神経を目の前の物体に注ぎ込む。身体に散らばった自分という破片を集めてすり潰し、それを目から赤い物体に注ぎ込む。自分が、もぞもぞと蠢く赤い筋になるのだ。

 するすると糸を解くような脱力感と共に指先が細かくしびれ、視界もぼやけてくる。そんな襲いかかる虚無の力を利用して、身体中の力をさらさらとリンゴに注ぐのだ。リンゴ、リンゴ・・・僕の求めるものはリンゴと繋がっている。

 手のなかのものが熱を帯び始め、指と触れあいパチリパチリとちいさな火花があがる。りんごがゆっくりと脈動を始め、そのひとつの宇宙へと僕の意識は導かれる。

 僕はリンゴ、立派なリンゴになれるだろうか・・・?

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