第5話

 僕は小屋の前に立っていた。深い森のなか、その小屋は朽ちた木々で組まれており、苔であちこちが変色している。僕はぐるりと周り、見付けたドアに手を触れる。すると、ドアが滑るようにそっと内側に開いた。

 窓が一つも無い空間、壁の隙間から漏れる光が浮かんでいる。木で組まれたテーブルが一つ、テーブルの上にリンゴが一つ。

 僕は幾筋も浮き上がる光のエーテルを横切り、テーブルのリンゴを掴み、その匂いを胸いっぱいに吸い込む。表皮を通して果実の甘い香りがし、その奥に冷たく流れる水を感じた。「水が、僕を呼んでいる」突然、全身の毛が逆立つ感覚を覚える。

 僕はとっさにその小屋を出て、走る。走りながら風のなかに水を探し、頬に感じるまま足を向ける。犬が臭いを追うように、空気中に含まれる微かな水気を確認しながら木々の合間を走り抜ける。歩くより走る方が解りやすい。

 逸る気持ちもあるが、一度駆け出すと急かされるように歩みが進む。「はやく、はやく・・・もっとはやく!」と声が響く。それは不意に始まった鬼ごっこのようだ。肩を並べて歩いていて、それがいつの間にか早足になり、いつの間にか駆け出している。口元で押さえていた笑いがいつの間にかこぼれ出し、訳も無く大笑いしながら追いかけっこしている・・・そんな感じだ。

 明るく見えていた木々をくぐった瞬間、強烈な光に目を洗われた。僕は目を閉じて立ち止まり、それをやり過ごす。目が小さく鋭利な痛みを残しながら徐々に馴染んでいく。僕は覚悟を決めると、ゆっくりと目を開けた。

 強い光は水に照り返されたものだった。流れに揺れる水面がうろこのように輝き、砕かれた光が所狭しと駆け巡っている。僕は目を見開いて気が付かない内に声を上げていた。

 川の向こう岸にリンゴの木が群生しており、重そうな赤い実が無数に垂れ下がっている。枝が水の上に張り出しており、リンゴは今にもトポンと飛び込みそうに見えた。

 僕は川に近付き腰をかがめると手のリンゴを洗う。まるで人慣れしていない魚が驚いたように逃げ、それから不思議そうに寄ってくる。手を伸ばすと、つるりと手を横腹で撫でて川上に泳いでいった。

 水は透くように冷たかった。手を入れた時はそうでもなく思えたのに、リンゴを洗っていると染みるように水の冷たさを感じた。山の雪解け水なのだろうか、底に行くほどそれは冷たい。

 僕はその時にふと人の気配を感じた。「誰かに見つめられている」僕ははっと息を飲み、向こう岸を見据えた。

「誰?」

僕の声にびくっと震える空気を感じた。

「誰かいるの?」

語りかけるように言った。

 長い髪が影を切ったようにさらりと流れ、向こう岸の彼女は木の陰から姿を見せた。

「ごめんなさい、かくれる気は無かったのよ。」

横合わせの白いワンピースを革のベルトで締め、ジーンズにスニーカーをいう格好の彼女。肩下まで伸びた髪が胸元にかかり、前髪は眉のあたりで揃えられていた。

「びっくりしちゃった」

彼女は白い歯を覗かせて笑った。

 彼女は川岸の辺りまで歩き、それから水面と自分のスニーカーを見比べた。

「あっ、いいよ、僕が行くから。」

そう言うと立ち上がった。すねの辺りまでズボンを巻き上げ、水に足を入れた。

 水の流れは目で見るよりずっと、速かった。足にまとうように波が立ち、両足で踏ん張らないと足をすくわれる。川の石に見えないほどの細かい藻がついており、ぬるりと安定が難しい。力を入れて足場を固めると砂がわっと湧き出て水を濁らせた。

 彼女を気にしながら、速く渡ってしまおうと思う。だけど急ぐ度に不安定になり、それを支えようと引き抜いた足が水に取られてバランスが取れなかった。「あっ!」と言う彼女の声、僕は水のなかでしりもちをついた。

 「大丈夫?」と覗き込む彼女、僕は汚さずに持っていたリンゴを彼女に放ると「気持ちいいよ」と苦し紛れに笑ってみた。彼女は僕とリンゴを照らし合わせ、目を細めると気持ち良さそうに笑った。

 

「素敵な所ね、羨ましいわ。」

彼女がそう言った。僕たちは川べりに並び座っている。太陽が真昼の角度を通り越し、空気中から刺すような激しさが消えていた。

「羨ましいってどう言うこと?」

「私、リンゴの匂いに誘われたの。」

彼女は確かめるようにリンゴを顔に近付けた。

「間違い無いわ、この匂いよ。」

「何処から来たの?」

「私はこの匂いに誘われて来たの。」

「何処に居たの?」

「あなた、いろいろと尋ねるのね。じゃあ聞きますけど、あなたは何処から来たの?今までどこに居たの?」

「僕は向こう岸に居たんだ。森に苔が拡がっていた。」

「私はこの奥の方から来たけど木なんて一本も生えてなかった。白くて無機質な部屋でぼおっとしてたの、厚いガラスに囲まれたビンのなかみたいな所に居たわ。じいっと座っていたの。」

「この先にそんな場所があるのかい?」

彼女は目を薄めている。

「どうなってるの・・・私?」

「ずっと座ってたのかい?」

「そうよ、あなたは何をしてたの?」

「ずっと歩いてたよ。」

「歩いてたの?」

「そう、」

彼女はしばらくふさぎ込むように沈黙を守った。何を考えているのか、そんな彼女は時折居眠りでもしているようにふらりと頭を揺らし、ぼんやりと物思いにふけっていた。僕は神妙な彼女の様子に声をかけられず、そのうちに僕までふらりと頭を揺すり、考え事を始めていた。


僕はどこを歩いていたのだろう?


この森はどこから来たのだろう?


 僕の周りに薄い膜が張り始め、風景が霞みがかった頃、彼女が声を上げた。

「私、多分待っていたんだと思う。何かが来るのを、ずっと待っていたの。」

「それで、その何かは来たのかい?」

「リンゴの匂いはしたわ。」

「それで?」

「それで私は歩き出した。」

「リンゴを見つける為に?」

「わからない、それはきっかけだったかもしれない。」

ポチャリと川魚が音を立てた。

「僕は何の為に歩いていたんだろう?」

「目的はあったの?」

「始めはあったんだと思う。でも、それが歩いているうちに失われたかもしれない。」

「ずっと歩いていたんでしょう?」

「そうだよ、」

「あなたはきっと歩くべき人なのよ。」

「歩くべき人?」

「そう、」

「じゃあ、きみは待つべき人だったの?」

「そうかもしれないわ。でも、私は誰にも会いたく無かった。ずっと一人でいたかった、自分の身体が溶けちゃってガラスの瓶の底でさらさらとした液体になりたかったの。」

「じゃあ、僕にも会いたくなかったのかい?」

「そうね、あなたにも、会いたくは無かったわ。」

彼女が僕の目を見てきっぱりと言うと、世界が渦をまいて濁り始めた。彼女の目が細く、まるで僕を哀れ見るように透き通り、彼女は白い渦に消えていった。残ったのは真っ暗な闇と幾筋かの白い余韻、僕はその渦の中心を見つめている。


 僕はコインランドリーの乾燥機を目の前に、じっと見つめて座っていた。ごとり、ごとりと無機質な音が響いており、僕の意識は覚醒しているにも関わらずそれに引きずられていた。危機感を感じ、ともかく右手を上げようと・・・その手がびよんと跳ね上がり、それからやっと身体が自由に動くようになった。

 乾燥器に近付いて中身を確かめる。見た事も無い服ばかり、その隣を見ると・・・なるほど、自分の物だった。僕の座っていた隣に自分のバッグがあり、洗濯物を詰め込むと片手に持つ。ガラスの引き戸と向かい合い直立姿勢をとってみる。


僕は何処にいたんだろう?


ガラス越しに外は真っ黒く塗りつぶされており、洗濯物はいつのまにか冷たく冷めきっていた。

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