第4話

 週末だ。リズムが掴めない。朝、目を覚まし、やるべき事が見付からない。ベッドから出たいと思う。でも、僕は怯えている。

 自分が石像になったところを想像してみた。人があまり通らない場所で、すわっている姿勢がいい。時々誰かが来てくれたなら、無言で会話が出来たらいい・・・。


僕のなかで時が流れる、流れる、時間が流れる。

 

 僕は台座から跳び下りる。石の身体のまま部屋を横切る。石像になった時には動き回るのを自粛しなきゃ、そう思いながら片付けを始める。石像が歩いていたら人を驚かしてしまう、驚かせたくは無いな。僕はそのまま掃除機をかける。

 僕は「どこにも行きたく無い」と思いながら洗濯籠の服をバッグにつめる「ずっとベッドで眠っていたい」と服を着る「陽の光に求めるものは無い」と靴を履く「自分の意識が無くなってしまえばいいのに・・・」と僕は部屋を出て、歩き始める。


 昼間の光が溢れている。遮る雲も無い、空気が柔らかく優しい。陽の光がかつての自分に呼びかける。いつかこんな気持ちになった事がある。僕の記憶では無い、身体が覚えている感覚の記憶。

 いつの事だったろうか?一人じゃ無かった気がする。隣を誰かが歩いていたように思う。顔を覗き込んでみる、影がかかってよく見えない。でもわかる、そいつが笑っている。笑い声が聞こえる。そいつの声じゃ無い、僕の声だ。僕が楽しそうに笑っている。

 その頃の僕には向かっている場所があった。その先ばかり見つめていた。まわりの状況や現実など関係無く、そこに向かっていた。僕は辿り着いたのか? かつての記憶は刺激が強すぎる。正しく思考出来なくなる。

 僕は深く息を吐く。目を強く閉じて、開ける。僕は何も覚えていない。僕は呼吸をして、歩き、行かなければいけない場所に向かっている。それだけだ。右手に下げたバッグを強く握り締める、深く息を吐く。それだけだ。何も覚えていない。

 通りを二つ横切り、左に曲がる。大通りを右に曲がり、蕎麦屋の隣、そこにあったコインランドリー。僕は洗濯機に洋服を放り込み、100円玉を幾つか入れる。がしゃりと音がして、ごとりと機械が動き始める。しばらく水に耳を傾け、僕はその場所を離れる。

 行く場所を知らない僕は公園のベンチに座っていた。フェンス越しに見える隣家のブロック塀を見つめながら、ふと考える。彼らは公園に来るのだろうか?我が家を目の前にしながら公園で気を休めるのだろうか?

 子供が公園でサッカーボールを蹴っている。フェンスめがけて球を蹴り、木の横をすり抜け、ベンチの足の間にボールを通している。「御飯だから早く帰って来なさいよ!」そう台所からお母さんが呼び掛ける。「はーい」そう声を上げ、それでもボールを蹴っている一人の子供。今日の夕食は何だろう・・・コロッケ、からあげ、焼き魚。

「よう、」

そう言って男は隣に座った。振り向いた僕を見ようともせず、塀に目を細める。ベンチに手をつき、何かを探すように塀を見つめている。

 僕は男を観察し、鼻のすらりと伸びた顔が何も語りそうに無いことを悟ると、塀に視線を移した。えーと、何だっけ・・・何を考えていたんだろう?隣の家の塀、ブロックで出来ている。フェンスと重なるように立っているその塀、クリーム色の家壁、そのほぼ中央に開けられた窓一つ・・・「おーい、御飯ですよーってか?」

そう男がつぶやいた。

 男は胸のポケットから煙草を出して火を付けた。目を軽く閉じ、煙草を口から離し、そっと煙を吐き上げた。僕はこの男を知っているのだろうか?その仕草に見覚えがあった。

「俺たちの世代は野球だったよな、なにがなんでもよ。ポヨポヨのボールとプラスチックのバットだった。」

そう男は笑った。

「プラスチックじゃ飛ばないんだ。」

僕が言った。

「強く叩いても球が歪んでしまう」

「それはおまえが球を運ばないからだ。叩いたって遠くには飛ばねえよ。」

そいつが言った。

「おまえはよくホームランを打ったよな。」

そう僕が言う、

「覚えてるのか?」

「いや、何も覚えていない。」

そいつは声を立てて笑った。

「いつもの喫茶店に行くか?」

「いつもの?」

「いいから黙ってついてこいよ。バッグ、忘れるんじゃねえぞ」

なるほど、僕のバッグがここにある。

「おまえは不思議なやつだな。」

「俺にはおまえが不思議で仕方ねえよ。」


 喫茶店は駅前にあった。古びた木を重ね合わせた店内は、薄暗く居心地が良かった。ひしりと照りつけていた太陽が戸をくぐった瞬間に僕の背中から離れた。乾いて痛みの無い光ではあったが、部屋を出た時から呪いのように照りつけていた。呪いとはこんな簡単に取れるものなのか・・・。

 男は店の奥まですたすたと歩いて腰をかける。麻編みの帽子を被った男がカウンターから振向いて、僕に笑顔を送った。

 角の席に座り、机のものを見つめる。ザラメの入ったあめ色のシュガーポット、「コーク・ザ・ベスト」と文字の入った赤い灰皿、白い陶器の塩胡椒入れ。

 男は胸ポケットの煙草を取り出し素早い動作で火を付ける・・・黄金色のマルボロの文字。人さし指に引っ掛けて灰皿を引き寄せ、火を付けたばかりの煙草でその縁をトントンと叩いた。

「仕事はどうだい?」

「仕事?」

にやりとそいつが笑う。

「ちいさいやつらの事だよ。」

「あいつらは旅をしてる、僕はその助けをするんだ。」

「ちゃんと行ってるんだな?」

「あいつらは休まないからね。」

麻帽子の男がサンドイッチを運んできた。

「マスター、ありがと。」

麻帽子が柔らかく笑って頷いた。

「コーヒーは?」

「いいコーヒーは時間がかかるんだよ。食えよ、好きなんだろ?ミックスサンド」

きゅうりとハムのサンドイッチ、ゆで卵とマヨネーズ、ミックスサンド。そう言えば朝から何も食べていなかった。

 喫茶店に古い曲が流れている。アメリカ、72年、サンフランシスコ。僕は曲に乗せてサンドイッチを食べる。僕にはリズムは聞こえない、でも満開の花が目に浮かぶ。決して萎む事の無い約束が交わされた黄色、水色赤色の花びら。甘ったるいお香の臭い、小川を裸で泳いでいる。バイクを走らせる。VWワゴン、60年代から洗っていない髪、緑の閃光、LSD。

 あいつが紫煙のカーテン越しに目を細めている。口からこぼれて立ち上るそれは、魂・・・。


あいつだ!


笑っている、あいつだ!


 僕は改めて手に持っていたものを見つめてみる、黄色いたまごのサンドイッチ、僕はもうそれを半分以上腹に納めている。

手からサンドイッチがこぼれ落ちる。

「おまえ、おれ、なに食った?」

「たまごだよ、黄色いやつ。」


あいつだ、


やはりあいつだ。


 あいつは手に持ったマグカップを顔に近付ける、黒い液体を喉に押し流す。

「おまえ、それ何?」

「コーヒーさ。」

そう言ったあいつが、突然、天を仰ぎながら快笑する。

「最高にうまいコーヒーだ!」

あいつが人さし指をぐるりと回してテーブルをびたりと指す。

そこに、マグカップに入った僕のコーヒーがある。

「最高にうまいコーヒーさ、」

声のした方を向くと麻帽子が僕を見つめている、にやついている。


「さあ、飲めよ。」


あいつが言った。


「さあ、飲めよ。」


マスターが言った。

 

 僕に歯向う事など出来やしない。僕の身体には黒く澱んだものが染み込んでいる。冷汗をかきながら僕はマグカップを持ち上げ、その手が震えている。僕は拒みなどしない、受け入れる。僕は深淵の闇に触れるべく生きる人間だ。熱いはずも無いコーヒーを唇で吹き、カップに口を付ける、目を閉じる・・・一気に喉に流し込む。瞬間にそれが僕に襲い掛かる。眉間に刺さる電流を感じる、後頭部を棍棒で殴られ、目を開ける。


「全ては音楽と共に蘇るんだ」


あいつが両手を拡げている。


「うまいコーヒーだろ?」


麻帽子が緑黄色の歯を剥き出している。

今、思い出した。

僕はこの男たちを知っている、ここを知っている。

見た事がある、訪ねた事がある。


「今の今まで、どこに行ってたんだ?」

あいつが聞く、

「答え探しだよ。」

そう、僕が答える。

「見付けたか?」

「まだだ。」

僕が答える。

あいつが聞く、

「でかけるか?」

「どこによ?」

「水のある所さ、」

「なるほどね。」

僕たちは立ち上がる。

 あいつが煙草を放る。僕がそれを受取る。僕が煙草をくわえる。あいつがライターを放る。ライターを受け取る、マスターに金を渡す。火を付ける、けむりを吸い込む、息を止める・・・それを吐きあげる。僕たちは呪いを受けに外へ、マスターは木陰から僕たちを懐かしそうに見つめている。


 店の扉がカランと閉じる。いきなりの陽光に手で日よけ、目を細め・・・通りの向かいに見つける赤いバイク。CBホンダ400フォア、4本のシングルマフラーが失われる最後の年。

「まだ持っていたのかよ、気付かなかったな。」

「おまえ、見る度にそう言うよ。」

「えっ?」

「なんでもない」

 あいつが跨がり火を付けた。独特の、ハモり奏でる4重奏。その演奏は始め、ぎこちなく、僕の腹中に合わせ、弾け・・・心地よく緊張する。機械に命が灯されて、呼吸をくりかえす。自らの力を確かめるように、自らの使命を確認するように、くりかえし、ボルテージをあげる。ボルテージがあがり、あがり、4000回転に、吹き上がる。走り出す準備は整っている。

 呼吸を静めた赤い馬に跨がり、あいつが僕を見上げる。「乗るのか?」そう言い終わるか終わらないか、有無を言わせず後部座席に飛び乗る。バイクがゆらりとバランスを崩し、あいつが身体で立て直す、一二度吹かし、つながりを見てから一気にクラッチを離す。僕たちは服を着たまま風になる。


 僕たちを乗せたバイクは国道を走り、川沿いに抜けた。水の気配が感じられるようになり僕たちは速度を落とす。景色がゆっくりと流れるようになり、初めて僕は風景に気が付く。

「おおっ!川があるぞ!!」

「知ってるよ!」

僕たちは川沿いに走り下流に流れる。線路が上を跨いでいる、そこまで来るとバイクを降りる。

 川べりに座り込むと、目の前の橋桁を見つめる。風が吹く、雲が流れる。言いたいと思っていたことが、やっと形になり口をつく。

「おれ、長い間気を失っていた気がする。」

「実際良く似たものさ、」

あいつはコンクリートの壁を見つめながら言う。

「おまえは自分のやった事をまるで覚えていないんだ。」

僕は一息飲んで、聞く。

「まったく覚えていないのか?」

「まったくじゃ無い、覚えていることもある。でも、覚えようとしないものは何も残らない。」

あいつが手元にあった石ころを握った。

「覚えていないのか、おれは」

あいつが「そうだ」と言いながら石を投げた。

「今は?」

「すぐに忘れるさ。いつもとおんなじ、しばらくしたらポイだ。」

「しばらくしたらポイ?」

「すぐ忘れるってことさ。」

あいつは吐きすてるように言った。

「悪気はないんだぜ、」

「そりゃそうさ、悪気があったら殴ってるよ。」

「殴ったのか?」

「殴ってないよ、まだな。」

あいつは川岸に歩き始める。

「どれくらいになる?」

「2年だ、2年と3ヶ月。2年前の俺の誕生日の時だ。レコード一式と消えてよ・・・2、3週間ぐらいしたらふらりと帰ってきやがった。何聞いても『ああ、』とか『うん、』しか言わねえで、」

「そうか、」

「何処行ってたんだよ?」

「覚えてない」

「そればっかりだ。」

あいつは幾つかまとめて石を投げ込んだ。

僕は唾を飲む、

「どう?最近?」

あいつは、すぐには答えない。

「最近か・・・悪くないね。」

そうあいつが言う。

「まだ弾いてるのか?」

「ああ、」

「スタジオでか?」

「ああ、」

「大したもんだな、プロだぜ、プロ。」

あいつはゆっくりと、僕の顔を見る

「おまえ、同じことしか言わねえよ。」

「いつもか?」

「いつもだ」とあいつが言う

「いつもだ。」

「何から何まで」とあいつが言う、

「何から何までな・・・同じレコードをすり切れるまで聞いているのと同じだ。俺にはおまえの次にする仕草までわかる、おまえが何を考えているかもだ。」

頭が痛い、煙草が欲しい、あいつが煙草を投げ付ける。

「これか?おまえが欲しいのは」

あいつが煙草を投げ付ける、デジャブだ。  

「デジャブでも何でもねえよ、おまえに能が無いだけだ。毎回一緒なんだよ、使う言葉から不意に思うことまで」

白い光が見える、フィルムに出来た焼跡のようにそれが拡がっていく。

川辺の風景が白く消されていく。

「見えるんだろ?光が、」

「拡がっているんだろ?」

あいつの声が聞こえる、

「その先が見たいんだろ?」

「こんな場所には居たく無いんだろ?」

「自分のなかに籠りたいんだろ?」

あいつの姿はもう見えない、

「楽しいか?小さく自分に縮こまっていて、」

「おまえの意識はもうすぐ飛ぶんだよ」

「それで何も覚えていない」

声が僕を光のなかに引きずり込んでいく、

「いつものことだよ」

「覚えておくような事じゃ無い」

僕は光のなかで裸になる。

「気持ちの問題なんだろ?」

胎児のように膝を抱く、背骨が痛む

「それが膨らむように大きくなるんだ」

光が背骨の一つ、その一つ一つのなかで大きく膨らむ。

「いつ弾けないか心配じゃないのか?」

それがミシミシと僕の身体を壊そうとしている。

身体のなかで光が増殖している、

「光に飲まれると身体を失うんだぞ。」

僕は痛みに悲鳴を上げる。

悲鳴は光に変わる、

口から真っ白な光を吐き出して、

光に飲まれた僕は形を失った。



スイッチON&OFF、切り替え場所、一休み、小休止。


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