第3話

 世界はまず、臭覚からやさしく、強烈に僕を支配した。湿り気のある、土が空気中に溶け込んだ臭い。それが眠っていた細胞を振るい起こす。僕は沸き起こる生命力に瞼を押し開けられる。

 そこは一面に緑・・・深く、濃い森だった。手のとても回らない木が天空を突き刺し何本もそびえている。びっしり苔に被われた地面が波打って、かすむ霧の先まで拡がっている。それは緑とは呼べない、蒼く透く様な大地だ。あちこちで地面が盛り上がって、落ち込んでいる。僕は苔の絨毯を歩いている。こぶを登る度にぐわりと足に力が入り、落ち込む地面を下る度にふわりと身体が軽くなる。

 僕は靴を脱いで、裸足のまま、そんな森を歩く。踏みしめた緑が足型に沈み、苔の短い毛が足の指をくすぐる。僕の口から思わず笑みが溢れる。息づかいも快調だ。額に汗が滲んで、軽快な疲れが、ふっふっと僕のなかで弾けている。僕は微笑んでいる。木が大きく、力に溢れかえった森「太刀打ちできない」と僕が感じる無力感は心地のよいものだった。

 森はかすみに導いていく。その先に何があるかは教えてくれない、ただ進めと僕を促すだけ。僕は進む、そう森に言われたと信じながら、前を進む。そう言われたはず・・・森に問いただすと森は不思議なくらい静まり返っている。

 鳥の声はしない。りすの駆け足も聞こえない。生きものの、気配はする。森中の生きものが、僕を見つめているよう・・・彼らは木々をすりぬけ、こっそりと僕を見つめているのだ。彼らは知っている「僕はどこに行くんだい?」

 かすみは色んな物を見せる。僕がそこに望むもの、心で恐怖するもの、僕そのものを映すのだ。滲んだ先に人の姿が見える。緑の霞んだ先にちいさな小屋が見える。人が木を切っている、音までは聞こえない。

 一人の男が斧をもって大木に挑む。一振りにはびくともせず、幾度もそれを振り下ろす。幹に刃物がめり込んで、それを抜こうとする。足を木にかけ、引き抜こうとして、男は木のあげる悲鳴を聞く。おまえにその一撃の痛みが解るだろうか?光と水を集め、時と練り合わせて作った身体。私の痛みが解るだろうか?木が斧を放す。男は反動に足をふんばり、そして、また振り下ろす。

 木が痛みをこらえて呻く、男が汗を弾ませ、また斧を振り下ろす。「家を建てたいんだ」そう男が語りかけ、斧を振るい下ろす。呻き声、木片が飛び散り、それが男の頬に貼り付く。

 「家を建てたいんだ」男が言う。「僕の家族が住む家を、」男の手から斧が滑り、木の幹がそれを受け止め、話を聞いてやる。「とても素敵な家なんだ」男は言う「娘が二人いて、笑い声の絶えない家族なんだ。新しい家もきっと娘たちのお気に入りになる。この家から出たく無いと言うかもしれない。そうなったなら・・・こまったものだ。お前達も誰かを一人前にしてやらなければいけない。家を出たく無いとは、こまったものだ。」木は黙って聞いている、斧が振り下ろされる、痛みに身体が歪む。

おまえに私の痛みが解るだろうか?私はここで朽ちる事を恐れてはいない。振り下ろされる斧、弾け散る肉片、吹き上げる血しぶき、森にこだまして記憶される私の痛み。

 血に塗れた男が私を見上げている。望むことで光り輝いている男の瞳、私の血が頬をつたい、男が私に涙し、希望に笑っている。なるほど、私の命はここで途切れるのか、私の痛みが形になるのだ。私は死んで違うものになろう・・・。

 かすみが晴れればそれはただの幻想にすぎない。それを記憶しているかも知れない、していないかも知れない。そこに意味があるのかも知れない、無いのかも知れない。ただ、そこに風が吹いて、森の記憶があるだけだ。僕は歩く。幻想が現実となって僕の前に差し出されるまで、ただ歩くのだ。

 かすみが晴れて、緑が続く。かすみがかかり、緑が滲む。そしてかすみが晴れ、その先に何かを見つける。現実の形だ。今までの曲線とは明らかに違う。岩?倒木?いや、小屋だ。苔がびっしりと被ったちいさな小屋だ。

 その時僕は聞く、耳障りな電子音。聞き覚えのある、僕を引き戻す、現実味のある、形ある音。それを聞かまいと、耳を塞ぐ。でも、それは響きつづける。緑の風景を歪め、風の唄をかき消し、身体を引き裂こうとする。僕はもう存在することが出来ない。現実的な音、僕を呼んでいる。解っている、現実だ。電子音が僕を呼んでいる。森を破壊して、小屋を破壊して、全てを破壊し、呼び覚まそうとしている。解っている、現実・・・その音は確かに現実だ。


 電子音が鳴っている。二度ほど瞬きをするとぼやけた景色がひとつになった。ビルとビルとの間の公園、ベンチに座り、木を見つめている僕。電子音が鳴っている。昼間の風が吹いている、生温い感覚が僕を呼び覚ます。電子音が鳴っている。僕は目の前の景色を見つめ、それから視線を落として手首のそれ、電子音を上げていたそれを止める。一本の木、緑のちいさな生け垣、砂地の小道、青い空、渦巻いている雲、横切る黒い鳥。無音、無音、風の音がする。

「もう一時か・・・」

つぶやいた僕の声に拡がりは無かった。ただそこで響き、そして自分でも何と言ったかわからなくなる、そんな声だった。車の音がする。話声がする。誰かが僕を呼んでいる。僕は立ち上がると、仕事場に戻ることにした。


「また帰ってこないかと思ったぜ。」


眼鏡をかけて週刊誌を読んでいたおっちゃんが言う。

「大丈夫ですよ。ちゃんと買いましたから」

左腕を指差し笑う。

 昼からは仕事に集中できた。灰色帽子にも邪魔されなかったし、僕を転ばそうと廊下を水浸しにするおばさんにも会わなかった。幾つもちいさい奴らを届けたし、幾つもちいさい奴らを回収した。

 帰り際におっちゃんが話しかけてきた「おまえこれから何処に行くんだ?」と。これから僕は何処に行くのか、自分でも解らない事に答えるのは難しい「わからない」そう答えるとおっちゃんが不思議な顔をする。「わからんと言う事は無いだろう?自分のことなんだから」なるほど、自分の事なんだから、わからないはずが無い。僕は自分のこれからを見据えてみた・・・けれど、これからの自分は黒く渦巻いているだけだ。何も見えないし、何も聞こえない。「何も聞こえません」そう答えるしか無かった。笑ってみた。「まあ、いいや。気を付けて帰れよ」そうおっちゃんは僕の背中を叩いた。なるほど、僕はうまく笑えているように思う。



転換時期、スイッチON OFF・・・小休止。


 

 闇という世界で、鼓動が意識という時間を刻んでいる。とくり、音なのだろうか?それは形へと変化していく。とくり、それは角の無い形。とくり、それは色へと変化する。とくり、色の帯が歪んでいる、膨らんでいる、とくり、脈打っている。その帯は光の繊維で出来ている、とくり、それが蠢いている。とくり、光の粒子がぶつかり合っている。とくり、流れが生まれている。とくり、統計立てられた、光、とくり、蠢き、とくり、流れ、とくり、渦巻く、とくり、帯、とくり、光の粒、目指す、とくり、一筋の光、とくり、そのなかの、とくり、闇、とくり、光、とくり、闇、とくり、光、とくり、闇、とくり、光・・・とくり、闇。

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