第2話
仕事は九時三十分から始まる。コンクリートのビルのなか、僕の働く場所がある。一つの石を暖める。そのなかを駆け、巡り・・・決められた物を運ぶ。そうして石を暖める。
その石のなかで、運ぶべき物はまず一ケ所に集められる。溜められ集められ、蓄積したものを吐き出すのだ。僕はその手助けをする。吐き出すものが行き渡るように、書いてある場所まで運んでやる。
小さなものは、それぞれに数字と名前が書いてある。小さなものは、いろいろとある。ぺらぺらの紙だったり、封筒だったり、四角い箱だったり、なかにはとても小さなものとは呼べないものもある。でも、大体は小さくてぺらぺらしたもの、そうしてやっぱりそれには数字と名前が書いてある。
僕はそれをキャンバス地の車に入れて運ぶ。ビルのなかを行ったり来たり、間違いが無いように、行くべきものが行くようにビルを回る。二十三階もあるから、一階と上階を何回も往復しなきゃいけなくなる。
もちろん仲間もいる。二度手間にならないよう区分けもする。そこで働いているおっちゃんが「今日は上界だからな」と言う。そのビルの十六から二十三階までを上界、十五から七階までを中界、一階から六階を下界と言う。
僕の担当する界は、おっちゃんが決める。どの界がいいと言えばそうしてくれるだろう、それでもおっちゃんは「おまえは上界だぞ」と言う。そうしたら、僕はそうするしか無い。おっちゃんがそう言うからだ。
おっちゃんは随分そこで働いている。今年で十二年になる。
「おまえは俺の半端分しか無いんだ」
おっちゃんが笑いながらステンレスの灰皿に灰を落とす。
「たった二年だ。二年しかいないんだ、俺の言う事は聞いておけよ」
おっちゃんが煙を吹き上げて笑う。
「同じ事をやろうと思えば、長い事やっているやつの言う事を聞くんだ。そうすればうまくいく。」
おっちゃんはコーヒー缶を机に置く。コツンと音がする、煙草の焦げ跡がある。なるほど、こうして僕は二年ほど生きている。
「さあ、配っちまおうや。」
そうして、キャンバス地の車を押してエレベーターに乗る。
このエレベーターはとても大きい、そして古い、そしてとても遅い。業務員専用降上降下機械。そこには帽子を被った乗務員が乗っている。いつも灰色の服を着て、アルミの壁に囲まれたその人がボタンの前に座っている。
「何階?」
「二十三階です」
六十近くに見える彼は、クリップボードに会社名と時間、何階に行くかを書き込む。それが終わるまでボタンには触れない。
僕は毎日顔を合わせているから、事務的なやりとりだけで終わる。でも、今まで見た事無いような人には執拗に質問を繰り返す。「おまえ許可証あるのか?」「許可証見せろよ」「どこに用があるんだ?」「ちゃんと許可証持ってるのか?」「許可証見せろよ」「出せってんだよ」必要事項が埋まるまで、エレベーターを動かさない。
灰色の箱に、換気扇の音が響いている。エレベーターは遅くて揺れもしない。上に行っているのか、下がっているのか、そのエレベーターで「今、どこにいるのか?」は、乗務員が押すボタンでしか解らない。
灰色帽子は振り向かない、話しもしない。ずっと背中を丸めたままボタンやボードを見つめている。その間に、換気扇の音が大きくなったり小さくなったり、その音が一匹の虫になって僕の周りを回っているように思えて来る。きっと僕のなかにある何かを嗅ぎ付け、飛んでいるのだ。
波模様の壁を見つめていると、それが歪んで見えたりする。伸びたり縮んだり、まるで空間の感覚が崩れていく。灰色の箱が伸びたり、縮んだり・・・次第に冷たく乾いたはずの空間で僕は汗をかき始める。その場所の湿度が増したように感じ、壁の波模様の筋をつたって何かが流れているように思う。
僕は壁から身体を離し、手押し車を握り締める。その液は足元に溜まり始めている。それは僕を溶かし吸収しようとする液体だ。僕は怪物の胃袋にいる。僕を灰色にしようとしている。灰色帽子もこうやって怪物に飲まれたのだ。だからあいつはいつも聞くんだ「許可証はあるのか?」と、「許可証はあるのか?」「許可証はもってるのかよお?」
今、僕は・・・どこにいるのだろう?
足元でちゃぷちゃぷと液体が声をあげる。白いスニーカーは灰色だ。もうすぐちいさな物たちにも、その力が及ぶだろう。
僕は守らなくてはいけない。僕はちいさな物たちを正しく運んでやる義務がある。僕はやらなくてはいけない。
この手押し車を持ち上げればいいのだろうか?頭より上に持ち上げれば、僕が灰色になってもちいさきものを守ることはできる。僕が、持ち上げればいいのだろうか?持ち上げれば、もちあげれば、もちあげれさえ、できたなら・・・。
そうしてエレベーターが階に着く。扉が開き、新しい空気が箱を洗う。もうあの液も無い、羽虫もいない。灰色帽子がいるだけだ。エレベーターを降りる時にあいつが笑う「ごくろうさま」。あいつは灰色の歯を剥き出しにする。
午前中に全ての階を回る。それでしばらく休憩だ。おっちゃんはいつものようにコーヒーを持ち煙草をふかす。休憩室の椅子にもたれながら、机に足をのせる。
「おい、時間がある内に飯にするぞ。」と、おっちゃんが缶コーヒーを開ける。
「回収した郵便物は袋にまとめとけよ。」
ちいさいやつらの事だ。ちいさいやつらは旅をする。あちらからこちらへ、このビルからあのビルへ・・・途切れることなんて無い。
お昼に僕は外に出る。きちんと太陽にあたらないと、僕だってちゃんと仕事が出来ない。ビルの近くに公園がある。きちんと日があたり、木が生えていて、きちんとベンチさえある公園だ。
僕はその途中でお茶を買って、おにぎりを買う。鮭が入ったやつと、たらこが入ったやつ。公園についてベンチに座る。お茶の缶を開けて、おにぎりを食べる。セロファンを剥がしてぱりっとそれにかぶりつく、御飯と鮭の味がする。
そこは緑の臭いがする。ぱちぱちしていた目が安らいだ気がする。肩からふわりと力が抜けて、毛布でも被せられた気になる。
僕は何をしていたんだろう?
僕は残っていたおにぎりを見つめる。
そうだ、おにぎりを食べなくちゃ。
僕はおにぎりを食べる。しっかりと噛み、唾液を混ぜ、ゆっくり喉を通す。しっかりと噛む度、御飯がぐっぐと音をあげる。
おにぎりを食べるのだって、しっかりとやれば汗が滲むほど疲れる作業だ。単純な作業には変わり無い。でも、しっかりとやればやりがいだって生まれてくる。ちょっとした違いや見落としそうな事だって、しっかりやると違う意味に映ったりする。
ちょっとした作業の後、僕はベンチにもたれて目の前の風景を見つめる。緑のちいさな生け垣。それに囲まれ、伸びている木々。
その一本を見つめる。輪郭に沿いながら、自分のなかにスケッチする。しっかりとその形を覚えたなら、わざと視点をぼやかせ見つめてみる。木そのものよりも、それが僕に与えている印象やイメージみたいなものを見つめてみる。
そうして見ていると、目に写っていたそのイメージとはまた別に、僕のなかにもう一つのイメージが浮かんでくる。それは親しみがあるし、僕と感じ合うことができるものだ。
僕の視界はますますぼやける。葉から緑が滲み流れ、それが幹に絡み付く・・・すると、木の幹がふわふわと、硬さを失い、膨らみ膨らんだ焼餅みたいなそれに、小さな虫が歯を立てて土色の霧が吹き上がり、それが一面に拡がる。木の幹を泳ぐ緑の固まり、その表面がふつふつ沸き立って、緑がちいさいなそれぞれになる。
茶色い海に、ふつふつ弾けて別れて拡がる、緑のそれ、ふつふつと別れて、また、緑のそれ、踊るように拡がって茶色い海を被い尽くすぐらいに増えた時、ぱちりと電気があげる。緑の上で弾ける光の粒、いくつも重なってバチッと走る電流になる。青白い筋が何本も生まれては消え、生まれては消える。それが何度も重なって蜘蛛の巣のような渦になる。それが何度も何度も、生まれては消え、生まれては消える。そうして練り上げた大きな電流が時を待ち・・・そして、放電される。
その時が来たのだ。バシリという衝撃とドンという音が僕の視界を真っ白にする。
やっと、その時が来たのだ・・・。
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