第1話

 朝が来た。窓から光が差し込んでいる。車の音が通り過ぎる。鳥が鳴いている。木が風に揺れている。さて、起きなくてはいけない。

 部屋を見回してみる。高さ30センチの机がある。アルミパイプの洋服棚がある。棚にTシャツ、シャツ、靴下、下着。僕は、その場所を見回す。

 机の上に赤い灰皿。吸い殻は入っていない。目覚まし時計が机の上で七時十分を指している。窓が一つ、その右手にベッド。壁に取っ手の付いた扉、それを開ける。

 扉の向こうに板張りの棚。そこにはタオルや洗剤、日用品、石鹸・・・洗濯籠。僕は石鹸とタオル、下着を持って廊下を歩く。歩いた左にステンレスの引き戸、それを開ける。

 カバーも付いていない便座、湯船、半透明のシャワー・カーテン。僕はシャワーを浴びる、浴び終わる。身体を拭き、髪を乾かす。タオルを洗濯籠に放り込み・・・開けなかった石鹸を戻して時計を見ると八時十分前。

 チェックのシャツに、ジーパンを履く。布地のカバンを肩に掛けると冷蔵庫を開ける。中にあった紙パックの牛乳、セロファンで包まれたサンドイッチを手に取る。靴を履く。さあ、もう行かなくっちゃ・・・どこに?もちろん仕事に、仕事?僕は自分が、かちりと鍵を閉める音を聞いた。


 朝日が流れている道を歩きながら、手にあったサンドイッチの袋を破る。セロファンの膜の下、白くふつふつと気泡の空いた肌がある。柔らかい生地に包まれたきゅうり、緑色、薄くスライスされている。淡い肉箔にとろりと絡みつく、卵黄と食酢を混ぜ合わせたそれ、マヨネーズ。

 僕はそれらを口に含み、唾液と混ぜて喉の奥に送り込む。幾つか塊を送り込んで覚える、喉の違和感。それを牛乳で流し、癒す。ごくり、そう喉に響く音がして、牛乳に含まれた油の粒がさらりと喉を流れていく。そう、さらりと・・・。

 

ここは何処なんだろう?


 そこにはベンチがある。そこには、編み目模様のゴミ箱がある。砂場がある。木が生えている。砂地を歩く、コンクリートのベンチに座る。枝が被さるように生えていて、昼間はすずしいのだろう。きっと、ひんやりと・・・僕はそのベンチに座っている。

 僕は見下ろす。手にしている・・・きゅうりとハムのサンドイッチ、紙パックのミルク。右手を上げて口に含み噛み、左手を上げて喉を潤す。それを繰り返し、繰り返し、ふと青い空を見上げ、風に目を閉じる。手にした物が無くなるまで、繰り返す。繰り返し、繰り返し、ふと青い空を見上げて、風に目を閉じる。


僕は何をしているんだ?


 僕には行こうとした所がある、そんな気がする。やらなければいけない何かがあった、そんな気がする。そうして僕はここでベンチに座り、空になった紙パックとマヨネーズのついたセロファンを握りしめている。


僕は何処に行こうとしていたんだ?


空に聞いてみる。

太陽がまぶしい、風が甘い。

雲がかかり、ゆっくりと目を開ける。

そうだ!僕は、駅に向かっていたのだ。

規則正しく人が集まる場所。

運ばれる箱に乗り、

集まる場所で下りるのだ。

 僕は立ち上がり、歩き出す。その場所に別れを告げる。そうだった。僕は、駅に向かっていた。

 早まった歩みのなかで風景が溶けるように流れていく。苔のついたコンクリート塀が通り過ぎていく。道端に止められた黄土色のトヨタ、ねずみ色のサニー、家の前を掃除しているおばさん。そんな風景は長く映らない。僕は笑いかける、ぶれたおばさんに別れを告げる。行かなければならない。僕は行かなくてはいけない。

 集まる人が見える。何人も集まっている。男も女も、カバンを持って、スーツを着て。そこに新聞を売るブースがある。牛乳ビンの並んだショーケースがある。雑誌が積み上げられている。ちり紙を売っている。小銭の音、制服のおばさんが「はい、ありがとう」と声をあげている。そこに紙切れを売る機械がある。硬貨の音がする。ランプが幾つも灯いている。一人が抜けると、次が来る。紙を吸い込む機械がある。長細い機械が空間を区切って、向こう側に流れ、こちらに流れる人もいる。僕は列に並んだ。機械に定期を通した。僕はこちら側からあちらに移り、階段を下った所で立ち止まった。さて、僕は駅に着いた・・・それから?

 目的があるうちはいい。それが自分を突き動かし、気が付く前に歩みを進めている。自分というものに活力が漲り、辿り着く事が全てと思うことで気力のエンジンが回る。そうして辿り着いた時、そうして目的が消え失せた時、どうすればいい?気力のエンジンは止まる。幻想の霞みは晴れ上がる。

 電車が撒き上げる空気の固まりが、僕の意識を洗う。何が起こったのか?目の前の風景を見る。大きな箱が止まっている。人波が僕を洗う。まとわり付き、押し戻そうとする。僕はぐっと堪え、立ち誇る。そして波が去り、ぽっかりと空いた箱が僕を誘う。よだれで口を汚しながら「そこに乗れ」と、そうする何人かがいて、戸惑う僕がいる。

 僕を責めたてる音が響く、ジリジリジリ!わざとみんなに聞こえるように、ジリ「なんでおまえはそうなんだ?!」ジリ「はやくしろ!」ジリ「もたもたするんじゃない!!」それで僕が跳び乗り、怪物が口を閉じる。移動する事が力、新しい場所、新しい目的、新しく回り出す、僕の気力原動型動力伝導装置。そうして僕が回り、一日が進む。やるべき事はやって来る。次がやって来るんだから、考える必要なんて無い。

 多く人が乗り降りする駅、その周り、コンクリートの文明が開かれている。硬く冷たい石の文明、冷たい家を暖めるべく、人は集う。そのなかにカーペットを敷き、デスクや椅子を並べ、仕切りを立て、電話や電気の線を引く。そうやって、沢山の人が凍り付いた石を暖めようとし、いつの間にか、石になる。冷たく硬い、石になる。僕も石になろう。ころころ転がって、転がる石になろう。ころころ、ころころ、転がってころころ。

 そうして辿り着いた大きなビル、九時三十分十五分前。そうか、ここだよ。ここが場所だよ。仕事をするんだ。働くんだ。なるほど・・・僕はここに着く為、起きたんだ。シャワーを浴びて、食事を摂って、駅まで歩いて、電車に乗った。


そうか、僕にはやらなくちゃいけない事がある。

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