十話:光景
「……天ヶ瀬さん、どこですか、あまがせさん……」
天ヶ瀬邸の門を潜ったところで、視界は灼けて燃え尽きた。白痴の世界はさながら断頭台の掛け金が外れた後の迷宮。右も左も自も他も無い。
「天ヶ瀬さん、天ヶ瀬さん、光さん……光さん……っ!」
「……景?」
「──っ! そこに、いるんですか……?」
「いるけど、なひゃっ!?」
届く。
そう思った時には動いていた。腕の中に彼女を閉じ込めて、それで自分と彼女の存在を確認しようとしていた。
「ん、ちょっと! 何よ急、に……?」
光の怪訝そうな声だけが聞こえた。
自分よりも少し高い体温も、ずっと小柄な体躯の感触も、全くもって感ぜられない。あの蜂蜜色の視線もない。
膝が折れた、気がした。揺らがぬ視界、失せた感覚の中、声の降る位置が変わった。
「景……?」
「……っ、貴女のせいだ。貴女を……
会いたい。痛い。
こんなにも近くにいるはずなのに、どうしてこんなにも遠いのだろう。
縋るように伸ばした手は、果たして光に届いているのか。意のままに体が動かせているのか分からない。
「貴女のせいだ、出会うべきじゃなかったんです。こんな、こんなの……残酷だ……!」
悲鳴じみた声が喉を切りつけながら迸った。それは砂嵐のようにザラザラと頭の中を反響しては歪ませる。
「あぁそうだ、出会わなければ……」
「……そんなことを言いに来たの」
あどけなくも凛と張った声が、滴る朝露のような響きで遮る。風が止み波が凪いでいくように、焔が呼吸を忘れるように、その澄んだ音色は慟哭を鎮めた。
「……ちがう。違うんです」
「うん」
言いたい。痛い。
そうだ、『それでいいのか』。答えはきっとすぐ側に。
狂おしく景を苦しめる、この感情は。
「──『好きです!』 俺はただ、それだけを、貴女に伝えたかった! 貴女が未通魔女だとか、俺が誰かと契約したかったとか、そんなの関係なしに、ただ、ただ貴女が貴女だから好きなんだって、気付いたから」
落ち着くような、落ち着かないような、温かいのに物足りない感覚。
純粋に、好意に満ちあふれているから。
「だから世界がこんなにも眩しい……!!」
恋慕。それは渇望。それは一面の『光』だ。
見える景色を歪めるほどの、とても一人では抱えきれない想い。
「……これじゃ貴女に見てもらえない」
皮肉なことだ。契約なんかできなくたって構わないと思った途端、行く先に魔女を求めてしまう。
「……だけど、でも俺は、貴女を道具になんかしたくない、から……」
「言わなかったかしら。ずっと、私の望みはそれだったのよ?」
ふ、と光は少し震えた声で笑う。
「ねぇ、名前を呼んで、景」
「え……あ、天ヶ瀬、さん……?」
「名前よ、なまえ」
「百万年早いんじゃ、なかったんですか。……光さん」
景は光を見上げ、まるで神前の祈り子のようにその名を口にした。敬虔に、されど未だ躊躇い混じりにことほぐ。
「光さん。……助けてください」
「えぇ、任せなさい。……だいたいね、最初から、私の負けだったのよ。あんなこと言われて、忘れられるわけないでしょ」
それはいつかの答え合わせ。長く短い夏が紡いだ確かな変化だ。
「でも勘違いしないで。私が貴方にこの血を捧げるんじゃないの。貴方が私に差し出しなさい、貴方の世界を。ぜんぶ、もらってあげるから」
「……はいっ」
変わらず感覚はないけれど、導いてくれる手は日だまりのように温かい気がした。
「……んん? あの、光さん、学園ってこっちじゃなくないですか」
「そうね。向かっているのはうちの離れ。契約魔鉄器があるのよ。近いほうがいいでしょう」
異論があるはずもなく、景は足元の砂利をぎゅむぎゅむ鳴らした。何度も訪れてすっかり見慣れた庭園でも、周りが見えないだけで距離感があやふやになってしまう。自然と歩幅が慎重になった。
砂利を抜けると切り離されたように、世界は蝉の音ばかりに侵されていく。大通りから外れていて、車や人通りが少ないからだ。
光の他愛ない解説を、景は繋ぎ止める楔のように感じた。
「うちにある契約魔鉄器はね、使用者のイメージを深くへ後押しするように、と作られた
「失敗作、ですか」
ガラガラと引き戸を開けるような音が聞こえた。
ここ、と示されたところへ立ち入り、また小さな足音について歩く。と、ものの数歩で立ち止まった。
襖、あるいは障子を開けたらしい。手を引かれ、導かれた先が終点のようだ。
「モノにもよると思うけど、契約魔鉄器には一定の精神安定効果があるの。事実、うちのこれを含む専用の魔鉄器を前に取り乱す人はほとんどいないはずだし、貴方だって、さっきよりずっと落ち着いているでしょう?」
「あぁ、それの効果だったんですか? 光さんがいてくれるからだと思った」
そんなわけないでしょ、みたいな返事を予想したけれど光は黙ったままだった。もしかして、と景は訊いた。
「……照れてる?」
「て、照れてないっ」
こほん、と光はわざとらしく咳払いをする。
「と、ともあれ! この子も契約魔鉄器としてはちゃんとしてる。でも本当にイメージの強化ができる魔鉄器はできなかったらしいわ。やっぱり他人のOWに干渉するには契約交渉を唯一例外として鉄脈術のみが有効、ってことらしいの。だからこれは失敗作ってわけ」
続く説明はしかし誤魔化すような早口だった。
「……でもまぁ、失敗作でも大丈夫よ」
光は朗らかにそう
「気付いたの、私に足りなかったもの。製鉄師は二人一組。私は、私が魔女として完成することばかりを願っていたけど、それじゃいけなかったのよ」
言葉の端には感傷が滲んでいた。もっと早くに気付けていたら、と思っていたのかもしれない。
けれど光はその過去を振り切るように、強い口調で宣誓した。
「『失敗するかもしれない』はもうやめる。私はこのイメージを、貴方のために変えましょう。──さぁ、起句を唱えて」
もはや迷いはなかった。幾度の失敗を招いたその式句を口ずさむのに、怖れはほとんど介在しない。
「
「
冬の長い夜が明けてゆくように、視界に色彩が甦っていく。春を迎えた世界に息を吐き、景は辺りを見回した。
離れだというその部屋は茶道部のような長方形の和室だった。蛍光灯は無く、畳の隅の灯体によって照らされている。ランプの色は暖かく、毛布のように穏やかだ。
「届いた、のか……?」
返る言葉はない。景に聞こえたのは甘い、あまりに甘い嬌声だった。
「ひぁ、ぁああっ……!?」
契約交渉に付きまとうのは苦痛ばかりと思っていたために、光はじくじくと疼く快楽に翻弄されて喘いだ。力の入らない手で景を求めて、震える体をその胸板に押し付ける。
そっと支えて、景はただ労るように両腕で光を包んだ。
「んん、ぁ……も、大丈、夫……」
ふらり、と不安定な足取りで離れて、光は右手で顔を隠して息を整えた。きらきらした綺麗な髪の向こうに、真っ赤な耳が見え隠れしていた。
「それより……」
光は室内を見回し、それらしい変化を探す。すなわち、契約に伴う鉄脈術の起動を。
どうやら未来が見えることも、鬼に化けることもない。天地はひっくり返らないし、すべて物体には影が付随している。
「……影」
不意に。目をやったそれが、ゆらりと縮む。見ればその源、契約魔鉄器が一回りほど小さくなっていた。
無二の頑強さを誇るその道具が歪む。それは鉄の魔法が物理法則を無視し霊質界を書き換えたから。
「……光さん、試してみてもいいですか」
「大丈夫。やってみて」
恐る恐る、今度は部屋の端、床の間に飾られた花瓶を、その影を見る。繰られるように右手を伸ばし、景はそっと包むように握りこんだ。
何もない手の内に力を込めるほどに、花瓶はその形を保ちながらも存在感を喪ってゆく。
みるみる縮小し、やがて耐えきれなくなった内側から、それはビシリと粉々になってしまった。
「……これが、俺たちの鉄脈術……」
影という存在の行方を、光をもって問う。あるいは陽の威光の存在を、影をもって知ろしめす。光と景の鉄脈術はそんなふうに顕現した。
「私、貴方の魔女に、なれたのね」
しばらくの後、光はどこか不安げに言った。そうみたいですねと、景もまた妙に落ち着かない答えをした。脳裏には鉄脈術の詠唱が自然と浮かび、まるでラブレターのような祝詞に苦笑する。
「景っ」
「は、えっ!?」
ぐるりと視界が回った。それは歪む世界でもなんでもなく、ただ大型犬のように飛び込んできた魔女を支えられなかったからだった。金糸のような髪がふわりと舞う。置いてけぼりの自分の腕をスローモーションのように見ながら、景はごぃんと頭を打った。
「ご、ごめんなさい!」
「痛っ……たくない……?」
「え? ……あ、《魔鉄の加護》……」
「そうです!……ふは、いいなぁこれ」
掲げた手のひらの向こうに、もはや天井は見えていない。視覚的に実体を得て、代わりに痛みが大きく軽減された。再構成されたみたいだと景は思った。
仰臥したままの景を馬乗りに覗きこんで、光はくしゃりと笑った。薄く涙を湛えた瞳が銀色に煌めき、景は確かにそこに自分が映っているのを見た。
「本当の本当に、貴方の魔女になれたのね」
「はい、これで俺は正真正銘、貴女のものです」
「うん……貰っておいてあげる」
「嬉しいなぁ、返品ききませんからね」
「あら、じゃ考え直そうかしら」
「いじわる」
「冗談よ、可愛い景」
光の両手が頬を挟む。至近距離で、宝石の鑑定でもするかのように見つめられ、目のやり場がわからなかった。ただ、この距離を許されているというのが嬉しかった。
「……意外と顔立ちが幼いのね」
「なんですか、また子供扱いを……っ!?」
抗議は途中で塞がれ、子供扱いしてはいないのを言外に示される。
「……ひ、かりさん……あああ貴女ってひとは……っ!」
「ふふ、甘いわね」
「貴女ってひとは……あなたってひとは……!」
「なぁに」
「……愛してるーーー!!」
晴天老陽、夏空の青は秋の高さを帯び始めていた。
ここにひとつの恋は結実し、それは次なる
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