七話:福と禍
「そういえば、なんで天ヶ瀬さんはハワイ行かなかったんですか」
発端と言えば発端となるのが、日に日に掃除スキルが上がりつつある景のなんてことはない質問だった。その日は天ヶ瀬邸の中庭、箒でざっかざっかと木や葉を掃いて集めていた。
「特に理由はないわよ、気分じゃなかっただけ。どっちにせよ暑いじゃない」
外の掃き掃除ができるように風がない日和だったので、光は縁側に繋がる戸を開けて手紙か何かの整理をしていた。緑色の封筒から上げられた目と目が合って、景は慌てて手を動かす。
「……海……行きたいなぁ……」
「ふふふ、遊ぶことばっかり」
「い、いや貴女だって俺くらいの頃は遊びたい盛りだったでしょう?」
言ってしまってから、当時の彼女は自分ほど脳天気にはいられなかったんじゃないかと思い至る。掃きぬかったふりをして、背中を向けた。
「そんなことは……なくはない、けど……」
幸いにもそんな答えが返ってくると、通知表の中身を見たときのような一応の安堵があった。光にも、事あるごとにどこかへ連れ出してくれる誰かがいたのかもしれない。
「一緒ですね。今度どっか行きませんか」
「先週花火に行ったでしょう」
「楽しかったですねぇ」
「……あ。区役所に行かないと」
「俺も行きます!」
「いいけど、先にそこ片付けちゃってね」
紙の束をトントンと合わせながら、光は500ルクスの微笑みを向ける。小首を傾げる仕草が非常に可愛らしい。
「さ、もうちょっと頑張って。お茶持ってきてあげるから」
縁側を静かに歩く姿が見えなくなるまで、ボンヤリと見惚れていた。頑張って、の後にハートマークが聞こえた気がしていた。
天候操作系の製鉄師がなにか企んでるんじゃないか、と思わせるほどの夏は今日も青く深い。あの晴天の中を泳げたら、なんてことをつい思ってしまう。
空が水なら地上はさながら湯のようで、景と光は雑談の合間に夏への苦情を挟みながら歩いた。
不意に。
「けーくん!」
と、声が届く。景の「い」の音を完全に溶かした呼び方は、知る限りではただ一人。
振り返れば、あの完成度の高い魔女に特有の、澄んだ銀髪……では、なくなっていた。ニューヨークのベーグルみたいな鮮やかなピンク。しかしサラリと流れるショートカットの手触りを、景は知っている。
「
「うんうん! 『けーくんのボク』ですよ?」
にっこり、とマシュマロを頬張ったような顔をして彼女は応える。
ひやり、と背中に刺さる視線に温度を感じた。懐疑的な声。
「……景?」
「こっ、言葉を意図的に省くの本当にやめたほうがいいですよ。本当に」
あまりに早い冬の到来に震えながら指摘する。
透花は浮かぶように軽快な足取りで近寄ると、その銀の瞳を光のほうへ向けた。経験からよからぬ予感がしたけれど、引き留めるのが間に合わなかった。
「申し遅れました。ボクは早乙女透花! けーくんの幼馴染みで、先輩で、
両手をピースで頬に当て小顔効果のポーズを決める。ぽよんと襟ぐりの大きく開いたシャツが揺れた。申し遅れも何も、まだ彼女は何も申していない。でもって空気もあんまりピースな感じではなくなってきた。
「ご丁寧にどうも」
と光の声が耳の縁をゆっくり擦るように響く。逃避的に、あぁヨリさんなら『修羅場じゃん!』とか言うのかなと思ってから、逃避にもなっていないのに気付いて現実に抵抗を試みた。
「……あのですね天ヶ瀬さん、誤解です」
「そうですよぅ、ボクは嘘つきませんから!」
「ちょっと透花ちゃんは黙ってて……」
ほとほと困り果てかけていたところで、流れてくる涼やかな声は助け船か。あるいは渡し船だったかもしれない。どちらにせよ、景にはそれが櫂だけでなくこのピンクのじゃじゃ馬の手綱を握れる船頭のものだと分かった。
「透花」
「うきゃーっ!? なんで兄さんがいるんですかぁ!」
GPS辿ってきたんだよ、と冗談らしき台詞が続く。妹が中学生に見えるなら、この兄は実際よりも幾何か年長に見える。景より二つ、いや誕生日の関係で今は三つ上になるはずだ。成人と未成年の差なのだろうか。
「年明け以来じゃないですか、菖蒲くん!」
再開を喜んで駆け寄ると「そうだな」と乱暴に頭を撫でてくる。
どうやら理事長に知れるほどのブラコン、いや正確には幼馴染み・コンプレックスとでも言うべきか。何にせよそのオサコンは幸い今も兄妹と景を結んでくれているようだった。
やがて小突くように景を手放すと、菖蒲は光に向き直る。
「景の友達かな、愚妹がご迷惑おかけして申し訳ない」
「友達じゃないわ」
肩にかかった髪を払いながら、光はさらりと事実を伝える。紛れもなく事実なので景は何も言わなかったが、異論があるような、ないような気持ちがしていた。
そうか、と菖蒲は人当たりのいい笑顔を浮かべた。マイナスイオンとか、そういうのが出ているのだろう。何もしなくても存在感があり、不思議と人に好かれる雰囲気がある。
「まぁこいつも友達多いほうじゃないからな、よければ仲良くしてやってほしい」
「いやいや、菖蒲くんと比べたら誰でも少ないほうになっちゃいますって」
ねぇ透花ちゃん、と振れば彼女はポンと手を鳴らして思い出す。桃髪がきらきらとなびく。
「そうそう! 友達と言えばですよ。ねぇ兄さん」
「うん? あぁそうだ、知り合いから遊園地のチケット貰ったんだ、六枚。行こうぜ」
「貰ったって……相変わらずモテモテですね?」
景が茶化すと、否定せずに答える。
「その俺が電話かけたりメール送ったりしたんだけどなぁ?」
鞄のポケットから携帯端末を出して、通知を見る。確かに、二人からそれぞれ不在着信やらメッセージが入っている。
「……ほんとだ。見てなかったです。だってほら、目ぇちかちかするじゃないですか」
「まぁ俺らも最初から景が気付くと思ってなかったし大丈夫」
ひらひら手を振って菖蒲は言った。さすがに景の行動を読んでいる。
菖蒲はふと光に目をやって、一度頷く。
「そうだ、そっちの魔女さんも一緒にどうかな。透花の狼藉のお詫びだと思ってさ」
「名案です! ね、天ヶ瀬さん、ツイてると思いませんか。渡りに船ってやつですよ、多分!」
「……そうね。やぶさかではないかも」
「っし! 決まりですね!」
思わず拳を握った。
開いた手を菖蒲に向ける。景は指の隙間を抜けた風船のように浮かれていた。
「じゃあ、改めて紹介しますね。こっちが俺の幼馴染みのブラッド・スミス。一昨年の生徒会長です」
「早乙女菖蒲です。初めまして」
「で、こっちが俺の……俺の……なんだろ?」
反転、手のひらで示した彼女について言い淀む。透花が「俺のー?」と煽っても、続きは浮かばない。
見かねてか呆れてか、光は自分から名乗った。
「天ヶ瀬光。残念ながら大した肩書きはないわ」
「よろしく、光ちゃん」
こともなげに落とされたフレーズに驚いて、景は思わず頓狂なことを口走った。百万年早いと言われたのを覚えていたからだ。
「ま……まだ俺も呼んでないのに!」
「はぁ?」
「ふふっ、ごめんなさいね。ちゃんは止してもらえるかしら。見ての通り魔女体質で、これでもあなたたちよりうんと歳上なんだから」
「それは失礼なことを言ったか。こちらこそすみません。えー……『天ヶ瀬のお姉さん』」
光は少し意外そうな顔をして、それから頷いて笑う。花が綻ぶような、という表現のぴったり似合う表情だ。彼女が笑えば一足飛びに春が来る。
「ねぇけーくん、ボクの紹介はしてくれないの?」
袖をぐいぐいと引いて、透花は景を見上げた。景は先のハチャメチャな名乗りをまだ少し根に持っていたのでつっけんどんに答えた。
「透花ちゃんは勝手に自分でしたでしょ」
「むぅ……先輩って呼びなさいよぅ……」
透花はぷくぷく頬を膨らませた。なぜか先輩呼びを推奨するけれど、景が彼女を殊更に年長者だと思ったことはない。学年こそひとつ上だが、早生まれの透花は景と同じ丑年だ。
「こんなだけど悪い奴じゃないですから、透花のこともよろしく頼みます」
景と透花のやり取りで何か察してか、あるいは単純に妹の心配をして菖蒲が言った。透花は「こんなってことないでしょーよぅ」と、親の心子知らずならぬ、兄の心妹知らずらしかった。
◯
ゲートを抜ければ、そこは夢の国だった。
夏休みだけあって学生くらいの男女や家族連れが目立つ。垂れ耳のついた帽子を被り手を取りあって右往左往行き交う影を見ると、不思議とわくわくしてくる。
同じように周囲を見て、菖蒲が進路を曲げた。
「帽子忘れた。先にショップ入っていいか?」
「あ、ボクもイーファン君のぬいぐるみ欲しいです」
菖蒲の後を追って透花も右へ逸れていく。光も透花に並ぶようにしてショップへ向かう。いつもと雰囲気こそ似ているけれど、今日の服装はカジュアルさが足されて目映い。
大きく見えるリュックサックを揺らし、光は透花に尋ねた。
「お土産なら後の方がいいんじゃないの?」
「いーえ? イーファン君のぬいぐるみ抱っこして園内うろうろするの、流行りですから~! 天ヶ瀬のお姉さんもどうです? おそろっち」
両手を頭の上にウサギの、つまりイーファン君の真似をしてぴょんぴょん誘う。
「わ、私はいいわ」
「えぇー、絶対ボクより似合うのに。けーくんもそう思うでしょっ?」
黄色いロップイヤーは確かに光の向日葵色のツインテールと似ている。と思っても、ここでそうだねと答えてはいけないのを景は知っている。適当な回答くらいが当たり障りない。
「似合うと思いますよ、二人とも」
ぱちぱちぱちと手を叩き、透花はけらけら笑う。
「お上手! さ、行きましょ!」
「あ、ちょっと……っ!」
強引に光の手を引いて、透花がぬいぐるみコーナーに吸い込まれる。まだまだ帰るには早いのに、意外にも混んでいる。イーファン君のぬいぐるみ効果だろうか。そういうのは菖蒲が好んでやるので景は調べてこなかったが、もしかすると特別なイベントでもあるのかもしれない。
「よーし、気を取り直して出発進行ーぅ!」
透花が望み通りウサギを抱いて駆け出す。景と菖蒲も垂れ耳付きのキャップを被り、おー!と右手の拳を掲げた。光もぬいぐるみの右手を借り、遅れて「おー」と付き合ってくれる。
どっちに行こうかと話し合うこの時はまだ、すべて策士の掌の上だと気づけていなかった。
そう、ここは夏の遊園地だったのだ。
「……時期的に、察するんだった……!」
眼前には、おどろおどろしい建造物。和洋折衷の墓が猥雑に並び、入口には行列ができている。赤かったり緑だったりする謎の粘液が滴る看板が人々を迎え入れ、しかし出てくる者は見当たらない。あれは風物詩、お化け屋敷というやつだ。
景は顔をしかめて呻く。
「……こういうの、なんて言うんですっけ。『いいことと悪いことは五分五分で起こるよねー』みたいな……」
「……『禍福は糾える縄の如し』?」
「あぁ、多分それですよ、天ヶ瀬のお姉さん。景にとっての福が貴女という花なら、禍は俺だな」
ふ、とシニカルに答えると菖蒲は壊れた。
「ここに!! ああ!!! 住みたい!!!!!」
「あはっ、ハッキリ言ってキモいですよ兄さん」
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